犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

余命3ヶ月の連帯保証人の話 (27)

2014-02-26 23:58:42 | 時間・生死・人生

 私は、依頼人とその妻のことを弱者だとして同情し、心のどこかで見くびっていたのかも知れない。法律事務所という場所で、嘘を嘘で塗り固める理屈に囲まれてばかりいるうちに、人が運命を受け止めたときに生ずる洞察力への謙虚さを失っていたのだろうと思う。私は、依頼人の妻の声を耳にし、ふと我に返った。言葉は必ず人間に嘘をつかせるという意味を悟ることと、私が普段の仕事の中で切り回している嘘とは全く違う。

 この仕事のゴールは決まっている。すなわち依頼人の死である。また、依頼人が亡くなるまでの間、私は事故や事件で死なないことになっている。そして、依頼人があまり長く生きられると、業務が迅速に流れない。所定の作業が進捗しないことは、経済社会のルールからは最も非難に値することである。そして私は、事務所に債権回収会社からの催促の電話が続くことを嫌がっている。依頼人の妻には、この辺りは全てお見通しである。

 私は依頼人を前にして一緒に覚悟を決め、人が自らの人生を1分1秒生きることの意味に立ち戻り、この金銭的な些事の一切を私が引き受けると約束したはずであった。自分で責任を負っておいて、その責任を負うことが責任逃れであるとの理屈を用いることは、生死を考えずに生死を論じるという根本的な矛盾に対する妥協である。私は面倒な思考に頭がパンクしそうになっているが、その実体は案外単純なことなのだろうと思う。

 私は、法律家としての責任よりも、人間としての責任を負うことを瞬間的に選択した。私は電話口で、「奥様の体調がご心配だったので、はい、こちらは特に問題ありませんので、どうかご無理をなさらない下さい」などと語っていた。ひとたび世の中に出れば、個人の思想を肩書きに優先させることは許されない。しかし私は、この依頼人に親身になって仕事をしないことが、人間のなすべき仕事であるとはどうしても思えなかった。

(フィクションです。続きます。)

余命3ヶ月の連帯保証人の話 (26)

2014-02-26 22:43:01 | 時間・生死・人生

 最初の日から4ヶ月半が経過した。依頼人の妻からの連絡はない。所長が示す不快感はますます強くなり、私の焦燥感も、所長が有しているそれに引き付けられてきた。すなわち、「依頼者が1年も2年も生きてしまうことのリスク」である。社会人である以上、自分の意見のみを押し進め、リスク回避を考えず、対案や次善の策を提示しないというのでは、そのことに対する責任を負わされる。善意が空手形を切る不祥事となって苦しむのは自分だ。

 私が進めている仕事は、哲学的な探究ではなく、「債権管理回収業に関する特別措置法」第18号8項に基づく法的事務である。ここでは、あくまで「債務整理をしようと思っていたら途中で死んでしまった」という話でなければならない。所長は、当初より、引き延ばし工作が長くなることの法曹倫理上の問題を懸念していた。私は、俗世間の交通整理に「倫理」の語が用いられることを憂えていたが、向こうから襲い掛かってくるものは拒めない。

 所長からの圧力に耐えられず、私は初めて自分から依頼人の妻に電話をすることになった。形の上だけでも自己破産の申立てをするのが本筋であること、「人生の最後が破産者で終わる」などと堅苦しく考える必要はないこと、医師の診断書があれば依頼人が裁判所に呼ばれる可能性はないこと、何もしないままでは依頼人の自宅に債権回収会社からの訴状が送りつけられる可能性があることなどについて、私は不本意ながら事前に伝達事項を確認する。

 私の予想では、依頼人の妻は疲れ果てているか、溜まっているものを吐き出して来るかであり、私は本題を切り出すタイミングに苦慮するはずであった。しかし、電話口で長い沈黙を保つ依頼人の妻は、全く別の世界にいた。それは、私の限られた語彙では、神々しさや気高さとしか表現しようがない。私は、自分が語り始める前から、本題を察知されていることを直観した。こちらから電話をしたということは、現状報告を求める催促に決まっている。

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余命3ヶ月の連帯保証人の話 (25)

2014-02-25 22:40:17 | 時間・生死・人生

 人がこの世に生まれてくるということは、余命が長くても80年か100年だと宣告されることである。この依頼人の連帯保証債務の問題においても、余命が3ヶ月か半年か1年かということは、現に大きな違いをもたらしているわけではない。最大の違いは、ある人が余命という概念そのものに捕らえられているか否かである。ここでの問題は、医学的な余命の判断の正当性ではなく、ましてや余命を宣告することができる医師の権威でもない。

 私は確かに、「依頼人には債務の心配など忘れてもらって、どうか心穏やかに生きてほしい」と考えている。しかし、このような同情の視線は、自分を自分であると信じ、生死の外側から他人事の死を眺めているにすぎない。私も所長も、債権回収会社の担当者も、自分が死ぬべき存在であることを忘れたいがため、日々の忙しさにかまけている点は共通である。人生の形式を内容とすり替え、どうせ死ぬなら人生は楽しんだほうが得だと考えている。

 依頼人が見ている世界と、私が見ている世界は違う。依頼人に対しては真実の言葉しか通用せず、価値のないものは見抜かれる。日常生活の中で最重要だと思われている事柄、例えばビジネスマナー、5年後の自分のためのスキルアップ、長いものに巻かれる処世術などは、真実の言葉のみを洞察する者からは全て切り捨てられる。私が生きている緩い世界は、依頼人が生きている厳しい世界に対して、論理的に上位に立つことは絶対にできない。

 私がこの依頼人のために誠実に仕事をしなければならないのは、このような畏怖と敬意によるものである。しかし、債権回収会社との電話で安っぽい理屈を連発した後は、現に自分が行っている事実がひたすら惨めで情けない。正義の戦いのために熱くなる心情とは程遠く、かといって哲学を形而下に持ち込んで理解されない苛立たしさとも異なる。単に、勝手に思い込み、勝手に苦労して悩んでいるだけであり、傍迷惑となることを恐れるばかりである。

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余命3ヶ月の連帯保証人の話 (24)

2014-02-24 23:15:11 | 時間・生死・人生

 仮に債権回収会社が訴訟を起こしてきたとしても、依頼人には差し押さえられる給与がない。預金口座も空っぽである。ゆえに、私が電話で愚にもつかない言い争いをして恨みを買ったところで、実害が生じることはない。法律家は、「プロの法律家として恥ずかしい屁理屈」と、そうでない屁理屈との差異に敏感であり、正義を暴走させているときほど予防線を張っているものである。これは、私も環境の中で自然と身につけてしまったものだ。

 回収会社の担当者は、「うちが銀行でないからバカにしてるんでしょう? あなたも銀行さんには態度を変えるんでしょう?」と怒りを見せる。これには虚を突かれた。私にその発想はなかった。法律家であれば、普通はこの辺りの複雑な事情に思い至るのが当然のはずであり、私はやはり未熟で純粋な人間である。自分では1円もお金を借りていない保証人が、署名と押印をしただけで人生の全てが狂ってしまうという事実に心を痛めているだけだ。

 依頼人は、愚直で平凡なサラリーマンであった。そして、肉親の会社の危機に直面し、人助けであると思い、連帯保証人を引き受けたのであった。「真面目に働いていればいつか必ずいいことがある」という道理は、世知辛い社会におけるせめてもの希望である。逆に、「他人の借金まで払っても少しもいいことがない」という道理なのであれば、人は「そのような世の中には生きていたくない」と思う。この絶望は非常に深く、誤魔化しがきかない。

 私の目の前にある現実は、さらにここから一回転している。依頼人は、脳内の思考による「死にたい」という抽象的な死ではなく、脳内の腫瘍による「死にたくない」という具体的な死を前にして生きている。法律論はここでも、「契約が守られなければ社会は滅茶苦茶になる」という原則論から離れることができない。しかし、これだけで済ませられるのは、世間を知り過ぎた守銭奴か、逆にお金の苦労をしたことがない恵まれた者だけだと思う。

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余命3ヶ月の連帯保証人の話 (23)

2014-02-24 21:34:20 | 時間・生死・人生

 私が調子に乗って屁理屈の演説をしているとき、依頼人の存在はどこかに飛んでいる。正確に言えば、依頼人の存在を利用し、代理人という肩書きを最大限に使いながら、献身的な姿勢をほのめかしているということである。「正義」という観念は、改めて怖いものだと思う。正義が正義として主張されるのであれば、それは無条件に絶対的正義であり、その内容については既に主張が終わってしまっている。内省の契機を経ることがない。

 「3ヶ月前には3ヶ月後のことはわかりませんから、3ヶ月で結論が出るか出ないかという結論がわかっていたら話が変ですから、お宅の質問にどう答えたら納得して頂けるのか、こちらのほうが教えてほしいんですが」と、私は溜め息を交えた声を出す。担当者の非常識ぶりにうんざりしている自分を装っているうちに、本当に担当者の非常識ぶりにうんざりしてくるのが不思議である。言葉は世界を作り、存在しないものを存在させる。

 ベラベラと屁理屈を述べて相手を困らせ、疲れさせるのはいい気分である。葛藤を経ていない安い言葉である分、論理は明快であり、迷いがない。ここで自分の言葉に責任を持つということは、自分が責任を問われないように注意することであり、相手に責任を負わせることである。相手から言葉尻を捉えられたり、揚げ足を取られることは、言葉を大事にしていないことの証拠だとして非難される。この思考停止から抜け出すことは難しい。

 私は、「債務者の味方」といった正義を標榜し、悪と闘い、暴走する罠には落ちたくない。ある正義は、逆から見れば不正義であり、相互に正義が暴走しているだけである。債権回収会社の担当者も、忠実に社会人の義務を果たしているに過ぎない。ここの表向きの論理によって見えなくなる部分、すなわち社会の裏側や汚い部分を知らないまま、世間知らずの学生の延長で「社会を変えたい」と熱くならないよう戒めるのみである。

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余命3ヶ月の連帯保証人の話 (22)

2014-02-22 23:27:35 | 時間・生死・人生

 「何で3ヶ月でないのに3ヶ月だと言われたんですか」と、債権回収会社の担当者が電話口で食い下がる。私は、「失礼ですが、お宅の事情だけで話が進むわけではないですから、そう言われても困るんですが」と呆れてみせる。担当者は私の言葉を聞かずに、「あなたのせいで事務が進捗せず支障を来たしてるんですよ」と怒る。私は担当者の言葉を受けて、「進捗はお宅の内部の話ですから、こちらには何かを言う権利がないんですが」と呆れる。

 担当者の言葉が途切れたところに付け込んで、私は屁理屈を続ける。「結局、お宅は思い通りにならないから、何で思い通りにならないのかと言っているようにしか聞こえないんですが、それはそういうものだとしか言えないですよね」。「お宅がそのような言い方をされるなら、こちらはもう返事のしようがないですし、この辺は当然わかって頂けないと困ることですし、そんなこともわからないのでは話を続けても意味がないでしょう」と、大袈裟に憤慨する。

 回収会社の担当者は、「3ヶ月とにかく待ってくれと、理由は後でわかるからと、そうあなたに言われたから、今電話で聞いてるんですよ。おかしいですか」。「私も答えを聞かないと上席に報告できませんから」と粘る。「上席に報告」という部分に力が入っている。この担当者が、今回の粗相を上席から怒鳴りつけられ、人格否定のパワハラまで受けたとすれば、その原因を作ったのは間違いなく私である。しかし、ここを掘り下げると私の精神が潰れる。

 担当者の言い分は、社会人として尤もである。ゆえに、担当者の口調が敵対的である点の不快感に、私の世界の中心は移動する。正義と悪の二元論である。「結局は、お宅の危機管理が甘いとか、そういう問題ですよね」。「なぜ3ヶ月かという質問に答えること自体が、こちらの依頼人に対する守秘義務違反になることを理解しておられますか。質問自体がおかしい質問には答えようがないんですが」。議論のための議論にはまると抜け出せない。

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余命3ヶ月の連帯保証人の話 (21)

2014-02-22 21:24:39 | 時間・生死・人生

 3ヶ月を過ぎると、債権回収会社からの催促の電話の頻度が増えてきた。1週間に数回かかってくることもある。恐らく担当者は、社内において、上司に「3ヶ月で見通しがつきます」と言って守れなかったことの責任の矢面に立たされているはずである。ここの点を想像すると、私は少し心がざわつく。しかし、電話口からの担当者の喧嘩腰の声を聞くと、そのような繊細なものは吹き飛んでしまう。世の中、物事が予定通り行かないのは当たり前だ。

 人間は、それぞれの思惑が交錯する交渉事に揉まれていると、いつの間にか性格が図太くなり、面の皮が厚くなってしまう。他者への想像力や共感力なるものは、それを働かせたいときには働かせ、それを働かせたくないときには働かせず、要するに他者ではなく自分の好き嫌いであると思う。そして、この矛盾を覆い隠すものは「正義」である。純粋な観念として身につけられた正義は、世の中の厳しさを経ると、なぜか権力性を帯びる。

 人が人生を誠実に生きることの難しさは、それ自体に内在する論理の限界ではなく、組織における他者への責任との関連性であると思う。人は組織の中で社会性を身につけ、ある時はペコペコし、ある時は毅然とし、この技術の会得は公共的な利益に転化する。「人は1人で生きているのではない」という命題は、他者の人生を尊重することではなく、相手の立場やメンツを察知することである。すなわち、相手の足元を見て態度を変えることである。

 法律家は、屁理屈と屁理屈の戦いの中で、他人の屁理屈を心底から嫌いつつ、自分の屁理屈を愛する。人の職業は、仕事上の演技に止めているはずが、思考の型まで規定することを免れないものだと思う。公務員は公務員、実業家は実業家、学者は学者である。これは肩書きではなく、私生活全般の人格である。ここで、法律家の職業病とは、もともと理屈っぽい人間が法律理論を身につけ、さらに法律実務で理屈っぽくなる過程である。

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余命3ヶ月の連帯保証人の話 (20)

2014-02-21 22:49:57 | 時間・生死・人生

 医師からの余命宣告は、往々にして外れるものである。見通しよりも早く病状が進むこともあれば、何年も元気で生きているという話を聞くこともあり、所詮は統計学的なものだと思う。今回、私が3ヶ月を一応の目安として話を進めたことについては、明らかに間違っていたとは思わない。しかし、その選択が結果としてベストであったと言えるのは、本当に依頼人が3ヶ月前後で亡くなった場合のみである。

 「理想の世の中の実現に寄与したい」という青雲の志の困難性については、私はとうの昔に悟っていたはずであった。しかし、「社会の片隅で僅かでも世の中に貢献したい」という願望の挫折ですら、思い描いていた挫折の道筋とはまた違っていたとなれば、思考は混乱の独り相撲に陥る。私は、単に依頼人の人生を利用して自己満足に浸り、自己実現を図ろうとする偽善者に過ぎなかったのではないか。

 法律家の職責は、何よりも依頼人のためにベストを尽くすことであると思う。しかし、貸金業者を悪の側に置き、債務者の味方である自分を善の側に置いて事足れりとするのは、あまりに稚拙であることも確かである。いくつもの修羅場をくぐって来た所長から見れば、青二才の私の危機管理能力などゼロに等しいはずだ。双方の立場に立って状況を俯瞰できなければ、経済社会では通用しないということである。

 「お前は仕事をなめてるんじゃないのか? 世の中をなめてるんだろう?」と、所長が決定的な一言を言う。その通りである。私は、人の生死ほど大きな問題はなく、その問題の前にはお金の話など俗世間の些事だと思っている。しかし、私は心の中ですら所長に反論することができない。確固とした自信がなく、激しく揺れて倒れそうである。「はい、申し訳ありません」と適当に謝り、その場を取り繕うしかない。

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余命3ヶ月の連帯保証人の話 (19)

2014-02-19 23:24:07 | 時間・生死・人生

 私は所長の前で硬直しながら、内心の複雑な思いを押し殺している。この心の操作は、思いを複雑なまま保存するのではなく、単純化して終わらせてしまうことである。およそ「実務と理論の融合」など無理な注文だとつくづく思う。目の回るような実務の現場では、複雑な理論は単純にして済ませなければ、人間はパニックに陥って頭がパンクしてしまう。高邁な理論が高邁であるのは、それが現場の悲鳴と無縁だからである。

 「町弁」の仕事は、暮らしの中の相談事を通じて、依頼人の人生の一部を預かることである。今回の仕事は、法理論として難問を含むわけではなく、債権回収会社との交渉も一辺倒であり、弁護士としての専門知識や手腕が必要な種類のものでもない。依頼人の希望に沿うよう力を尽くすことが可能である。費用対効果が極めて悪いわけでもなく、「もう少し事務所全体で親身になってもいいではないか」というのが私の本音である。

 所長が私に不快感を示す理由はよくわかる。私の行動の中に、「誰がやっても同じ仕事はしたくない」「自分だけの仕事がしたい」という虚栄心が垣間見え、それがイソ弁以下のノキ弁の忠誠心を明らかに疑わせるからである。しかしながら、私はいずれ死すべき人間として、どうしてもこの仕事への熱意を失うことができない。そして、この仕事に限らず、「なぜ人は苦しい仕事を続けるのか」という問いを失うことができない。

 他方で、社会人・組織人であることの絶望によって、私のこの熱意は完全に空回りしている。法律実務家にとって「期間」は命である。期日や期限に1日遅れただけで、強制執行を受けて会社が倒産することもある。私が「3ヶ月」という数字を出せば、私はこの数字に対して責任を負う。従って、債権回収会社から厳しく問い詰められることは当然である。この点の軽率さや緊張感の欠如を叱責されれば、私には返す言葉がない。

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余命3ヶ月の連帯保証人の話 (18)

2014-02-17 22:39:44 | 時間・生死・人生

 人が怒りを感じるポイントはまちまちであり、議論して噛み合う種類のものではない。私は、ある出来事が法制度の矛盾や社会の矛盾だと感じられるときに、そのこと自体に怒りを覚えることが多い人間である。これに対し、ビジネスに精通し、朝から日経の隅々まで目を通せるような弁護士は、その部分にはあまり怒りを感じないようだ。そして、私が全く怒りを覚えないような部分が、その弁護士の激しい怒りのポイントであったりする。

 民法改正案により、ようやく連帯保証人制度の廃止が現実のものとなってきた。経済に造詣の深い専門家は、金融機関の貸し渋りによる中小企業の影響を懸念し、大局的な見地からの議論を繰り広げる。この議論の側から見れば、私のような感情論は素人のそれであり、法律家としては失格だということになる。そして、私にとって壁だと感じられているのは、目の前に座っている所長ではなく、もっと大きな法制度・社会常識である。

 「余命3ヶ月」という具体的な死までの時間を目の前にして、私は所長の人間的な部分に期待してしまった。そして、これは愚かなことだった。グローバルな視点から日経平均株価の動向を注視し、為替市場を常時チェックしている所長にとって、この案件はあくまで「債権回収」「焦げ付き」の問題である。我が国の1000兆円超えの累積国債赤字を現実問題として捉えている頭脳は、500万円の債務の実体をそのように把握する。

 債権債務で構成される経済の流れを見るためには、自分をその外側に置かなければならない。いわゆる評論家目線である。ここには、労働力を売って対価を得ることの直感的な惨めさはない。また、この対価を債務の返済に充てなければならないときの独特の切なさはない。債権と債務は、実際には同じ抽象概念の両面である。そして、複雑な法制度の構築は、金融業者側の「債権回収」「不良債権」の概念の実体化に拠っている。

(フィクションです。続きます。)