犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

池田晶子著 『勝っても負けても 41歳からの哲学』より

2009-04-30 20:39:24 | 読書感想文
週刊新潮・平成17年5月26日号 「その日あなたは何を食べた」より(p.165~)

いつものことながら、マスコミは大事故が大好きである。報道するのに張り合いが出るからであろう。とくに、今回の脱線事故の場合は、悪者となる者がはっきりしている。JR西日本である。こいつを責めている限り、自分たちは正義のような気がしていられる。事故の当日ボウリングをしていた、宴会をしていた、黙祷したあとビールを飲んだ、と見つけ出しては盛り上がっている。そうやって、盛り上がって、酒を飲んだのはあんた方も同じでしょうが。やあ今日は特ダネがとれたと、あんた方も酒を飲んだでしょうが。他人の不幸を酒肴にする、いやそれを生活の糧にしているという点では、JRよりもタチが悪い。

観る側だって、同じである。JRは怪しからんと責めるなら、なんで事故の映像などテレビで観ているものだろう。こんな映像が手に入りました、なんて映像を観る必要がなんである。自分の家族がそこで死んでいるというなら別である。しかし、大方の人はそうではない。無関係の他人である。他人の不幸は面白い。それで正義の気分が味わえるなら、なおである。もちつもたれつ両者の関係である。現代社会では当たり前のこのメディアという存在は、今さらながら、人間の品性を卑しくするものである。いや正確には、人間品性のそういう部分を、メディアが引き出して助長するのだと言うべきか。

何を間違えたのか、私のところへ、新聞社から電話がきた。事故の取材に駆けつけたという、若い女性記者である。「同僚の記者が、JR社員が当日ちゃんこ鍋を食べていたという事実を見つけて、鬼の首をとったみたいに喜んでいます。どこまで追及すればいいんでしょうか」。ああ、それはちゃんこ鍋だったからまずかったのかもしれない。大勢の人が死んでいる時に、ごはんを食べるということは、たいそう不謹慎なことですからね。ところで、その日あなたは何を食べた。こう追及されるなら、日本中のすべての人が同罪である。白状します。ごめんなさい、私も酒を飲んでいました。


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107人が亡くなったJR福知山線の脱線事故から、4月25日で4年が経った。当日、事故現場の献花台には多くの遺族らが訪れ、「全然気持ちは変わっていない」「何故なのかと問い続けてきた」「寂しいというより虚しい」と語っていた。しかし、マスコミにおけるこの事故の報道は驚くほど小さかった。4月23日に公然わいせつ罪の現行犯で逮捕された草(なぎ)剛さんの話題で一色だったからである。この4年間で、風化させてはならないと決意したものはあっという間に風化し、マスコミの報道姿勢や視聴者の盛り上がり方は全く変わっていないことがわかる。

橋本克彦著 『私は臓器を提供しない』 ・Ⅳ「人間関係を視野に入れない臓器移植はつき合いたくない」より

2009-04-27 01:23:38 | 読書感想文
p.198~
ことは相当な新次元に突入しているというのに、それらの連鎖を「人類愛」、「生命の尊さ」などといった人類史のもっともおおざっぱな理念、誰にも文句のつけようのない、逆に言えばあってもなくてもいい日めくり標語のような理念で根拠づけるほどおめでたくはなりたくない、というのが俺の考えの全部である。徹頭徹尾人体各部位の廃物利用、まるでゴミのリサイクルみたいな考え、といった基本理念が掲げられ、大多数が了解したとしたら、まいった、あげるよ、もってけよ、と俺は答えるかもしれない。人間もたいしたものだ、ついに体の使い回しを使い回しと認識して、それを納得するほどにさばけてきたと思えば、文句はない。

p.206~
俺は臓器移植にてれているのかもしれない。いや、あの臓器移植法の条文の中の「臓器が人道的精神に基づいて提供されるものであることにかんがみ」という文章にてれている。かゆいのだ。あの文章が「臓器が人体各部の廃物利用であることにかんがみ、大事に使わなければならない」というような条文であれば、かえって納得するというココロが、いまの俺の心情である。事態を冷静沈着に正確に見据えるということが前提とされずに、人道的精神に依拠しているからこの行為はおごそかで立派である、という欺瞞がかゆくてならない。臓器を与え、臓器をもらう関係などは「人道」の幕の向こうにかくすより一度しっかり現実の場へ引きだして見つめたほうがよろしい。

p.216~
俺の肝臓は非常にしばしば俺とともに悲嘆に耐え、俺が酔っぱらって馬鹿笑いをすればその笑いを支え、最悪の酒の最悪の酔いでさえさばいてくれた。俺の心臓はいい女の前では高鳴り、俺とともに恥じ入り、怒りのときには空転し、失意のときには貧血した。全部俺とともに時をすごした。ココロとともに唯一無二のもの、誰のものでもない俺である。この俺が移植され、あのときの俺の胸のときめきが誰かの胸で鳴ることが了解できない。意識と臓器が他者との不同一を知覚する。自同律の不快どころではない。こうした臓器意識までを視野に入れて、臓器移植が考えられてきたのかどうか。人間はいつだっておっちょこちょいに先走って、後知恵でなんとか了解の構造をでっちあげるのが常ではあるけれども。


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未来志向・進歩主義に対する態度の取り方という点から見てみると、死刑制度と臓器移植の賛否両論の類似点がよく見えてくる。すなわち、殺された犯罪被害者は死にゆくドナーに対応し、生きている死刑囚は生きているレシピエントに対応する。「生命の尊さ」という概念はいかようにも解釈できるが、ここに誰の生命の尊さを読み込むかが結論を分ける。目の前で生きている者だけに目を奪われれば、「死刑囚は現に生きているのにどうしてわざわざ殺すのか」、「レシピエントは現に命が救えるのにどうして命が救えないのか」という結論に至ることは疑いない。

これに対して、死者の生前の人生、すなわちかつては確実に生きていた人生にも想像を及ぼせば、「生命の尊さ」は生命の大切さだけでなく、死の大切さも含む概念となる。そして、目の前で生きている者の生命だけに注目することには違和感が生じる。この内心の深いところの微妙な違和感は、政治的な未来志向・進歩主義とは合致しない。内心の深いところの違和感を持つ者は、人の命はリレーできないことを知るため、未来志向的・進歩主義的な「命のリレー」の言い回しがどうにも気持ち悪い。

中野翠著 『私は臓器を提供しない』 ・Ⅳ「あの厭な気分にはこだわりたい」より

2009-04-26 23:28:37 | 読書感想文
p.191~
なんとも言えない、とても厭な気分が残った。人の死を待ち受けるような、ガツガツとした空気。ドナーになった主婦の脳死判定をめぐるトラブルがあったでしょう。その間のメディアの報道ぶりには、人の死をジリジリして待ち受けるようなあさましい空気があった。脳死移植が認められて、フレッシュな臓器が移植されるという可能性が開かれて来ると、それによって救われる人の人たちの心の中に生への希望とともに、当然自然の人情としてあさましい感情も生まれてくるんじゃないかと思うの。臓器をもらう人のなかでも順位の高い人は、ドナーの脳死や順位の高いレシピエントの死を望んだり羨んだりする感情を抑えがたくなるだろうし……。

人間が他人の臓器をあてにしあう世の中って、それは助け合いの精神にみちた美しい世の中なの? それとも生への妄執に取り憑かれた醜い世の中なの? それとも……、美も醜もない、人間の本性のあるがままに突き進んで行けばいいってことなの? ほんとうにほんとうに、いざその身になってみないとわからない。でも、これだけはまずはっきりさせておこうと思っている。人から臓器をもらうからには人に臓器を提供する、その意志をはっきり固めておくべきだと思っている。逆に、人から臓器をもらう気もないし、自分の臓器を提供する気もない、という考え方があってもいい。

p.195~
その「欧米では……」「先進国では……」という言い方が私は厭なのよ。半端なインテリは、その言葉を持ち出されるといきなりお尻に火がついたようになる。自分の心の奥底にあるこだわりやためらいや迷いに全然、目がいかなくなる。踏みつぶしてしまう。そして、そのうち自分が踏みつぶしたものに復讐されるのよ。ちょっとつまずくと、いきなり一転して先祖返りみたいに妙な神秘主義だのオカルトだのに走ったりするのよ。自分の心の中にある不合理な感情に人びとは、もっとこだわるべきだと思うよ。私は昨年春の脳死移植騒動の時に感じた、あの漠然とした不愉快と不安にはこだわりたいと思っているのよ。


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臓器移植の賛否両論と、死刑制度の賛否両論は、構造がよく似ている。
臓器移植の場合、何の知識もない素人が印象で語れば、専門家からは「実態も知らずに評論するな」と怒られる。その一方で、「国民レベルで臓器移植について議論し、世論を高めましょう」と言われて、何だかよくわからない。そして、知らない間に保険証の裏側がドナーカードになっており、臓器を提供するか否かの決断を迫られている。
死刑制度の場合、何の知識もない素人が印象で語れば、専門家からは「実態も知らずに評論するな」と怒られる。その一方で、「国民レベルで死刑制度について議論し、世論を高めましょう」と言われて、何だかよくわからない。そして、知らない間に裁判員の通知が送られ、死刑を言い渡すか否かの決断を迫られている。

平澤正夫著 『私は臓器を提供しない』 ・Ⅳ「悪魔としての移植医療」より

2009-04-26 21:59:51 | 読書感想文
p.175~
93年10月25日、大阪市内の病院に勤める看護婦K・Fさんは頭痛を訴え、守口市の関西医大病院に運ばれた。クモ膜下出血と診断され、翌26日手術をうけたが意識不明が続いた。人工呼吸器をつけたままのFさんの家族に対し、K主治医は術後5日目の30日、突然、「腎臓の提供を考えてください」と迫った。動転する家族は、さらにその翌日、救命救急センターのC助教授から、「どうです。家族で相談してくれましたか」と催促された。家族はFさんに臓器提供の気持ちがあったらしいことを知らされ、しぶしぶ腎臓の摘出に同意した。

その後すぐに、Fさんへの点滴の管が4本から1本に減らされた。自らも現役の看護婦である母親のNさんは、それを見て「治療から見はなされたんだ」と悟った。血圧が70に下がったところで、「腎臓を洗います」とC助教授。Fさんの大腿部にチューブをさしこみ、そこに灌流液を流して腎臓に送った。灌流液は腎臓の鮮度を保つための冷たい保存液である。Fさんがまだ生きていて、心臓が動いていても、また、脳死宣告がなくても、そんなことは関係ない。腎臓提供を家族が承諾したあと点滴が減らされたわけだが、そのため、Fさんは水分や栄養分の補給をたたれ、死がはやまる。ただし、移植につかう腎臓だけは灌流液で鮮度を保つ。要するに、臓器移植医療にとってよりよい状態の腎臓を刈りとることが至上目的で、Fさんの生命は邪魔ものだった。

p.179~
阪大病院から目と鼻のところにある千里救急救命センターでは、93年10月、臓器のすさまじい刈りとりが行われた。ぜんそく発作で倒れて頭部を強打した人が同センターに運びこまれて、脳死判定をうけたあと、家族は医師に献体をすすめられて「臓器組織提供承諾書」を書いた。といっても、動転する家族が医者や移植コーディネーターと向き合い、彼らのほうが承諾書にある臓器組織名に手ばやく印をつけていったのである。その結果、患者は腎臓、肝臓、角膜、心臓弁、血管、皮膚、耳小骨と手当たり次第にとられてしまった。遺族はわが家にもどった遺体の無残さを、「皮膚、ハガキ大で36枚分はあまりにもねえ。イナバのシロウサギのようになってしもうてます……」と表現した。


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このような実例の報告は、臓器移植反対派にとっては非常に説得力があり、賛成派にとっては全く説得力がない。賛成派にとっては、反対派の意見はすべて不快感を催すものであり、その論拠もすべて不愉快である。同じように、反対派にとっては、賛成派の意見はすべて不快感を催すものであり、その論拠もすべて不愉快である。医師は別に家族に無理強いしたわけではない、巧妙に口説いたわけでもない、動転する家族を催促したというのは事実の誇張や歪曲である、「臓器の刈り取り」という表現は先入観に基づくレトリックだ、このような争いが10年間続いたのであれば、今後10年でも20年でも同じ争いは続くはずである。「臓器組織提供承諾書」にハンコをついたら終わりだというならば、生命倫理の根本の話が、連帯保証人の契約書レベルの話にまで落ちてしまう。

山折哲雄著 『私は臓器を提供しない』 ・Ⅲ「臓器移植は仏教の精神に反する」より

2009-04-25 23:09:35 | 読書感想文
p.149~
今日、私がこうして生きのびることができたのは、ひとえに現代医学のおかげである。その恩恵を蒙らなかったら、私はとうの昔に死んでいる。数多くの医師たちによって命を助けられてきたのだ。その恩を忘れるわけにはいかない。しかし、脳死・臓器移植のことが世間で話題になったときばかりは、違った。そのとき私は、現代医学によって生命を助けられたことを一瞬亡失した。私が最初に反応したのは、生理的嫌悪だった。それは理屈を超えていた。人間のいちばん大切なところに毛むくじゃらの手がのびてくるようなイメージだった。脳死という名の観念遊戯が臓器移植の技術と並んで語られるようになったとき、その毛むくじゃらの手の正体を突然眼前につきつけられたような気分になった。

死の作法が、それによってとどめを刺されるだろうと直覚したからだ。世代をこえて継承されてきた死の作法という、それこそ人間の「尊厳」にとってもっとも欠かすことのできない伝統が、しだいに空中分解をとげていくだろうと思わないわけにはいかなかったからだ。たとえば、脳死判定などという法的・医学的手続きがある。その手続きが厳密に行われているとき、家族はどこで、なにをしているのか。なにができるのか。どのような時間を過ごし、どのような場所で死にゆく者を看取るのか。そういう重大な問題がまったく等閑にふされている。それがまるっきり闇に包まれている。それにかわって聞こえてくるのは、遺族(家族)のプライバシーとか、それを報道する側のパブリシティとかいう耳ざわりな言葉ばかりである。それらの軽薄な言葉は、死にゆく者、死者を看取る者の心中に土足で踏み入る舌足らずな観念語にしか、私には見えない。

p.152~
今日の脳死・臓器移植の現場で死の作法を再現しようとすると、いったいどういう光景が見えてくるだろうか。せいぜい、ドナーカードなるものに臓器提供の意思を書き入れるときがポイントになるくらいだろう。しかしそんな行為が果たして死の作法なのか。善意と言う美名のもと、たんにマークシート方式によってマルバツの印をつけるだけではないのか。自分の死後の遺体の後始末を、火葬にするか土葬にするか、散骨にするか献体にするかを指示するのと、いったいどれほどの違いがあるというのだろうか。財産分与の遺言が死の作法とは何の関係もないように、ドナーカード式の遺言も、また死の作法の原点からは無限にかけ離れているとしか言いようがない。


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「あなたは臓器移植法の改正に賛成ですか? 反対ですか?」

「そういう質問に反対です」

「真面目に答えて下さい!」

「はい、はい。賛成派と反対派がお互いの主張に謙虚に耳を傾け合い、相互の立場を尊重し合い、生産的な議論を重ねるべきだと思います。これでいいですか?」

宮崎哲弥著 『私は臓器を提供しない』 ・Ⅲ「推進派は『脳死体』を利用しつくしたがっている」より

2009-04-25 22:38:39 | 読書感想文
p.125~
脳死・臓器移植の実施に伴って、重篤な患者の救命医療が疎かになるのではないか、というのが私たち、脳死・臓器移植反対論者の大きな懸念の1つでした。なぜならば、論理的にいえば「脳死ギリギリの患者を救えば、その分臓器移植を必要とする患者が救われる可能性を減らす」からです。どんなに甘ったるい「善意」の糖衣で包んでみても、脳死患者の命と臓器移植を待つ患者の命は対抗関係にあるという本質を覆い隠すことはできません。臓器移植の必要な患者やその家族は、心中ひそかに脳死患者の出るのを「待たざるをえない」でしょう。脳死患者が一人でも増えることを「喜ばずにはいられない」でしょう。それが止み難き「感情」というものなのかも知れません。

ある救急医のもとにグレード5の脳疾患の患者が担ぎこまれます。この患者を救うには手術しか手立てはないのですが、仮に手術がうまくいったとしても、植物状態になるか重い後遺症が残る可能性が大です。患者はドナーカードを所持しており臓器提供の意思を明示しています。むしろこのまま脳死させて、「いまかいまかと臓器提供を首を長くして待っている」多数のレシピエントの命を救うほうが「患者の意思にも沿う」のではないか、と救急医が「決断」してしまわないという保証があるでしょうか。この場面では、瀕死で予後も良好とは考え難い患者の命の価値と、移植さえ受ければ準健康体になれる患者の命の価値とが較量されるのです。

p.138~
不透明化は、非倫理化に直結します。こうした非倫理化の策動に絶えざる批判を提示しつつ、「愛のプレゼント」だ、「命のリレー」だなどという言葉の糖衣に惑わされず、常に問題の本質を見抜くこと。これが倫理的実践でしょう。脳死患者から腎臓を採取する際に麻酔を掛けた経験を持つ麻酔医は次のように述べています。「生体からとる普通の腎移植の場合とは、全く異なる『いやな気持』がしたことを記憶している」「『これは本来私のやるべき仕事ではない』、『普通の手術や診断のための麻酔とはいちじるしく異なる仕事だ』という気持であったように思う」。彼の抱懐した「いやな気持」こそが、医師の感受性に相応しい違和感ではないでしょうか。


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「命のリレーは、人間一人ひとりが生かされていることを感じなければいけません。支え合い、勇気をもって歩んでいきましょう。命の贈り物によって、その命が別の人の中で輝いて生きている、私はそう思います」

「それでは、その人が将来凶悪犯罪を起こした場合、あなたはどう感じるでしょうか?」

「揚げ足を取らないで下さい」

「命が輝いているのは、揚げ足を取られていない間だけなんでしょうか?」

小浜逸郎著 『私は臓器を提供しない』 ・Ⅱ「子どものためというエゴイズムこそ大切にしたい」より

2009-04-24 22:30:14 | 読書感想文
p.110~
脳死はあくまでも「脳死」であって「死」ではない。純粋に医学的な意味に限定しても、「完全な死」は、従来からの「心臓死」を基準とすべきである。たとえ人工呼吸器で生かされているにせよ、家族にとって、手を握れば血の通った暖かい体温が感じられ、名を呼ぶと血圧が高くなるような状態にある身内の人間を、「死体」と見なせというのは、心情的に不自然だからである。「人の死」とは、単なる個体の生理システムの解体を意味するのではなく、その人がそれまで担っていた現実的な共同関係の解体を意味する。この場合、共同関係としてもっとも重要なものは、家族、およびそれに類する近しい関係である。

臓器移植を求める要望に対して、「いかにしても生き延びようとする人間の醜いエゴイズム」というように問題を一般化し、「この世には受け入れなければならない宿命というものもある」といったことを説く人もいる。しかし、そういうことをしたり顔に説く人たちは、明日をも知れない深刻な心臓疾患や肝臓疾患に悩んでいる人に現実に向き合っていないところで、「人間の尊厳」などを抽象的に議論しているのである。そういう人たちにしても、たとえばいま自分の子どもが同じ局面に立たされたら、やはり、できることはなんでもやってほしいと思うに違いない。

p.115~
作家の中島みちは、1992年の時点で、「健康人である大多数の国民がほとんど関心を持たない問題、なかんずくその本質までしっかり理解しようという関心を抱きがたい問題について、包括的、観念的な形で論議しても、真の社会的合意など形成されるはずがない」と述べている。私もまったくそのとおりだと思う。「脳死は死である」と法的に明文化されることによって、臓器提供の意思を持つことが正義であり、臓器提供を拒否することになんとなくうしろめたさを覚えなければならないような空気が醸成されることも疑えない。自由な自己決定というと聞こえはいいが、「決定を迫られる」ということは必ずしも「個人の自由の伸長」を意味しない。「あなたは自分の臓器を提供する意思がありますか、ありませんか」という問いには、「いらざる自己決定」を迫る脅迫的なニュアンスが含まれている。


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「もしあなたの子どもが心臓疾患でだったとき、一刻も早く手術したいとは思いませんか?」

「そりゃそうですよ。臓器移植法の改正に賛成です」

「もしあなたの子どもが脳死状態になったとき、簡単に心臓を提供できないのではありませんか?」

「そりゃそうですよ。臓器移植法の改正に反対です」

「あなたは質問によって賛成になったり反対になったり、一貫性がないのではありませんか」

「そりゃそうですよ。質問する側がそんな質問ばかりするんですから」

吉本隆明著 『私は臓器を提供しない』 ・Ⅱ「考えるべきいちばんのポイントとはなにか」より

2009-04-24 18:21:57 | 読書感想文
p.96~
たとえばオウムなら、何人かが集まってそこに住んで、町の人は「出ていけ」というふうにデモをやっています。オウムなる考え方から言えば、市民権はあるし、別にその本人が殺人をしたわけではないのだから、同じ宗教団体に属していても、なにもしないのにそれを初めから排斥するのはおかしいんじゃないか、というのが正論の理屈になると思うんです。だけど(笑)、もう少し微細に考えて、同じ職場で机を並べてみたいになったら、なんでもない人とオウムの人とで気分は同じかというと、建前上は「同じだ」と言いたいけど、心理の微妙なヒダまでたどればまったく同じとは言えないでしょう(笑)。

法律的に差別するのはおかしいと思ってますけど、では無意識の奥底ですっきりするかと言えば、個々の人たちの心の奥の問題の解決は、個人にゆだねられるべきという問題が残ります。そこの問題は自分の責任で片をつけないといけない。臓器移植の場合もそれと同じ問題が生じてくる。どっちが妥当かは、本当に個々の場合でしか決まらない。本当は、臓器移植してもあまりもたないと言われた人が、いっぱいもつかもしれないし、そんなことは個々の場合でわからない。そうするとなにか社会的な意味合いで、臓器移植というのをいまの段階でしていいとか、悪いとかいうのは、社会的な問題としてはちょっと簡単には言えない。

p.102~
臓器売買の話や一つひとつの臓器に値段がついているというのを本などで読む機会があると、「人間てなんだ?」という問題が出てきます。おそらく解決は早急にはつかないだろうけど、でもその問題は出さないで、表面だけでやってるといけねぇな、という感じがします。いま、掛け値なしに言えば、たとえばクローン人間なんていうのはすぐにでも作れますからね。それを作っちゃったらどうするの? というのが、ありますね。こういう状態は、「人間ってなんなんだい?」ということが、本当ならもうちゃんと解決できてないといけないのに、科学のほうが先へいっちゃってていけない、という状態だと思うんですよ。この臓器移植の問題も、「そういうことをやりゃできるんだよ」とか、「売り買いもできるんだよ」というふうになってるのに、それを伏せておいて、カッコいい論議だけやったってしょうがねぇな、という気がしますからね。


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「今こそ、国民全体で臓器移植法を根本から議論すべき時期に来ているのではないでしょうか」

「10年前にも同じこと言ってたでしょう。今こそ今こそって、10年間何をやってたんですか?」

和歌山毒物カレー事件 林真須美被告の上告棄却

2009-04-22 21:43:38 | 言語・論理・構造
「林真須美被告は間違いなくやっている。しかし、この程度の弱い状況証拠で死刑を言い渡すことには問題があり、無罪にすべきであった」。この矛盾した結論の存在を誤魔化し続けている限り、どのような評論も空しい。過去の動かぬ客観的事実を認定するためだけに行われた数々の人間の行為が、その究極の目的に届かないまま、そのこと自体を認めないために必死になっている姿である。特に、裁判員制度と結びつけた賛否両論など、事件が起きた10年前には裁判員制度の影も形もなかったことを考えれば、この事件を論じているつもりで全く別の話を論じているに過ぎない。それは、殺人を語らず、死刑を語らず、従って人の死を語らない。「誰も犯行の瞬間を見ていないのであれば誰が犯人かわからない」というのであれば、単に「誰かが見ていればその人が犯人であるとわかる」というだけの話である。また、「本人が犯行を否認しているのであるから実際にはやっている」というのであれば、単に「本人が犯行を自白しているのであるから実際にはやっていない」というだけの話である。

裁判において証拠を積み上げて過去に起きた事実を客観的に解明する、さらには犯人の主観的な動機を解明する、この可能性を信じることは極めて安易な方法である。否認を続ける被告人は、そもそも犯行動機を語ることはないが、自白する被告人ですら裁判で犯行動機を明らかにすることは難しい。それは、被告人が取調官に嘘をついているという側面と、被告人自身も自分の気持ちがわからないという側面がある。この世の中において、人は他人の内心に入ることが絶対にできないという現実が動かないのであれば、これを裁判によって動かすことなど不可能である。日常生活の中でできないことが、人為的に区切られた特殊な空間である裁判の場でできるはずがない。そのことがわかっていて10年も裁判をしてきたのであれば、今さら専門家・評論家が何をもっともらしく評論しても空しい道理である。客観的な世界観を認定する方法論が細かく発達すればするほど、実際の問題は全く処理できずに右往左往し、例によって「課題は山積みである」「真剣に考えて行かなければならない」と言って誤魔化すしかなくなる。

この事件で亡くなった鳥居幸さん(当時16歳)の母・百合江さんは、昨日の記者会見で、「今でも聞きたいです。何でそういうことをしたのか。それがなくて、何で娘が死ぬのか。そんな動機もなくて、あの子が亡くなったのは、とても受け入れることができません。区切りも何もありません。一生背負い続けることだと思います」と述べた。証拠による客観的な事実認定の思考方法に慣れた者において、この言葉の意味を理解するのは容易なことではない。専門用語ではない日常言語というものは、容易には語り得ぬ人々の経験において語り得ぬものを語ろうとし、語れないという事実に直面し、それにもかかわらず語ろうとする中から語られてきたものである。もしも歴史の経験から学ぶという行為形式があるとすれば、それは第一に、このような言葉そのものの存在によって学ばれるべきものである。耐えがたい苦痛に直面した者は、その経験に基づいて専門用語を発明することはない。このような記者会見の言葉の迫力を恐れつつ、次の瞬間には「被害感情」という用語に押し込めて、再び客観的な事実認定の思考方法に戻るならば、そのような理論は現実に足を着けていない。机上の空論でない真実の思想を捉えようとするならば、その倫理的直観は、被告人の言葉を無視してでも被害者遺族の言葉を聞こうとするはずである。

林真須美被告たった1人の刑罰をめぐって、10年間の長きにわたり、多くの司法関係者が証言に向き合い、証拠物件に向き合ってきた。他方で、10年間にわたり、遺された者は死者の不在と向き合ってきた。客観的な事実認定の思考方法は、過去のある一点における特定の事実の有無を人為的に問題にする。これに対して、遺された者は、「最愛の人は昨日もいなかった」「今日もいない」「明日もいないだろう」という目の前の逃れられない現実を毎日毎日問題にさせられる。証拠による合理的な事実認定、誤判の恐れの排除といった理念は、万人の望む普遍的な要請である。しかし、このような人為的な観念は、語り得ぬものを目の前にして沈黙する過程を経ていない以上、人々はそこから大いに語り始め、賛否両論の論戦を始めて収拾がつかなくなる。このようにして作られたシステムが近代刑法における刑事裁判であり、それは神の目による真実の確定ではなく単に公訴事実(訴因)の有無を決めるだけのゲームであり、林被告の弁護団もそれに従って戦略を立てていたのであれば、結論は自ずと見えてくる。裁判員が「白か黒かわからない灰色だが、無罪判決を出した時の遺族の心中が想像するに張り裂けそうで忍びない」との理由で死刑を選択したとしても、単なる法廷ゲームであれば一向に構わない道理である。

自分の死よりも悲しい死

2009-04-20 00:05:32 | 時間・生死・人生
哲学研究においては、「自分の死よりも悲しい死」はあり得ない。哲学において問題となる生死とは、あくまでも自分の生死だけだからである。もちろん、その自分とは、「この自分」だけではなく「すべての自分」である場合もあり、独我論だけを意味するわけではない。いずれにしても、哲学研究における生死の場面では、親子・夫婦・兄妹といった肉親の死が中心テーマとして重視されることは稀である。いわゆる哲学病とは、「自分はたった一人この広大な宇宙の中に生まれて来た」「自分はたった一人でこの広大な宇宙の中で死ぬ」という事実が頭から離れず、しかもそれを考えることが楽しくて仕方がない病である。哲学研究における「この自分」はいつも孤独であり、それが一旦「すべての自分」を意味すると、話は一気に地球規模の話が飛ぶことになる。そして、「絆」「縁」「愛」といった言葉で語られるところの宗教的な生死の議論は、劣ったものとして軽視されるようになる。

哲学における1人称の死は、2人称以上の死を受け付けないほどに絶対的な地位を占める。ゆえに、2人称の死は多くの場合、3人称の死とまとめて語られる。この場面において、「自分の死よりも悲しい死」とは、単なる比喩であるとしか受け止めてもらえない。他者の死を悲しむことができるのは、あくまでも悲しんでいる人が生きている限りにおいてである。先に死んだ者は、後から死んだ者の死を悲しむことができない。すべては生きていればこその喜怒哀楽であり、2人称の死は1人称の死に先立つことができない。従って、生きている者は一度も死んだことがないのであり、そうである以上は自分の死と他者の死を比較することはできないのだから、「自分の死よりも悲しい死」は強調のレトリックにすぎないということになる。「自分が代わりに死んであげたかった」という心情も同様である。純粋に論理を突き詰める哲学論においては、多くの場合、これらの心情は門前払いにされる。これは裏を返せば、哲学研究の大きな弱点である。

「自分が代わりに死んであげたかった」と語る者は誰しも、自分の死が万物の絶対的消滅であることを知っている。それにも関わらず、偽らざる心情がその方向に向くということ、人の生死が論理的な現実だというならば、実際にこれ以上の現実があるというのか。最愛の人が死んでしまった、人生これからという時に、平均寿命よりも何十歳も若くして、生きる時間を与えられず、世の中の多くの人が経験することを経験することもなく。なぜだろう? なぜなのだろう!! どうして世の中はこうなのか。どうして世の中はこうなっているのか。なぜ人は死ぬのか。この世の中には、どうして死別などというものがあるのだろうか。最愛の人が生きていない世の中など、生きていたくない。神もない、仏もない。いや、神も仏もいてもいなくてもどちらでもいい。いるいないという問題自体がどうでもいい。現に、頭だけではなく全身においてこのように感じているならば、現にそうであるという以外に、解答はないはずである。すなわち、「自分の死よりも悲しい死」を、単なる比喩や強調のレトリックだと言って済ませられるはずもない。

宇宙の絶対的な消滅である1人称の死に集中しすぎた哲学論が見落としてきたのは、1人称の生である。本来、生死は表裏一体であるから、1人称の死を考えることは1人称の生を考えることに等しい。そして、2人称の死は、1人称の生の問題そのものである。これは、人生の中でどのような死別を体験するかは人それぞれであり、取り替えがきかないということである。すなわち、最愛の人を亡くした人生は、亡くさなかった人生を生きることができない。逆もまた真である。ここにおける取り替えのきかない人生は、人は生まれた限り誰しも死ぬものだという一般論を拒むものである。また、ここにおいて正当にも、順縁と逆縁の差が顕在化してくる。一度きりの1人称の生は、1人称の死を体験できないがゆえに、その体験できないものを比較の対象に置く。そして、1人称の生は他者を2人称と3人称に分類した上、無数の他者の死の中から「自分の死よりも悲しい死」を全身で感じ取る。あまりに当たり前の現実であり、これ以上解釈のしようがない。