犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

1年間ありがとうございました。

2007-12-31 13:39:39 | その他
犯罪被害者の問題に関して、数年前から自分の考えを書き溜めておりました。今年の1月の末に、何を思い立ったか、これをブログという形で残しておきたくなりました。もちろん、私の文章はどこまでも自己流であり、しかるべき文献の引用やソースの引用もなく、権威あるアカデミズムからは形式的に門前払いです。内容的にも人様にお見せするような代物ではありません。自分自身の試行錯誤の過程として、あえて矛盾を恐れず、その都度考えたことを自分の確認のために書いてきたのですが、その結果として、ほぼ連日何らかの駄文を書いてしまいました。

ブログという手段がこれだけメジャーになったのは、やはり人間には他者に認められたいという根源的な欲求があることの証左でしょう。「表現の自由」などと言えば安っぽくなりますが、これは文章を書き残したいと思う者にとっては、避けられない実存的な欲求であるようです。他の方に読んで頂くことを想定して文章を書くことにより、私自身、かなり考えがまとまったところもありました。その反面、頂いたコメントに一喜一憂したり、業者のトラックバックに立腹したり、アクセス数の変動が気になったり、何とかランキングに参加してみたいと思ったり、当初の純粋な目的とずれてしまったことも事実です。

1つだけ、誘惑に抗し切れずに、「ブログ意見の読み比べ評価!Good↑or Bad↓」というランキングの、「死刑廃止論と被害者遺族の間」というところにエントリーしてしまいました。「Good↑」に投票して下さった皆様、本当にありがとうございます。
http://blog.blog-headline.jp/themes/0001/000003/

連日何かを書き残すことは、継続性が身につく反面、その内容が空疎になることでもありました。来年は、本当に書きたいと思って書いたとき、そして書きたい文章が書けたと思ったときだけ、数を絞って書いてみたいと思っています。このブログに「犯罪被害者」の検索からいらして下さった方には、私の拙い文章のワンセンテンス・ワンフレーズから何かのヒントを得たり、何らかの考えるきっかけを得て頂ければ望外の喜びです。また、「法哲学」の検索でいらして下さった方には、世の中にはこんな変わった法哲学をしている人もいることを知って頂き、笑って頂ければ幸いです。今後ともよろしくお願い致します。

中島義道著 『「時間」を哲学する』

2007-12-30 20:45:50 | 読書感想文
子どもの頃、初めて年賀状というものを書くときに、誰しも疑問に思うことがある。年末に書いているのに、なぜ「今年もよろしくお願いします」なのか。まだ年が明けていないのに、なぜ「明けましておめでとうございます」なのか。大人になってもこの疑問から抜けられないのが哲学者という人種である。これは非常に生きにくい。いい年してこの種の疑問を周りの人々に語ろうものなら、間違いなく変人扱いされる。そこで、哲学者は哲学者だけで集まって、バートランド・ラッセルの「世界五分前仮説」について論文を書き、ますます世間からは何をやっているのかわからないと言われるようになる。

子どもが親に、なぜ「『来年もよろしくお願いします』と書いてはいけないのか」と問えば、恐らくは「配達されるのが来年だから」という答えが返ってくる。そして、多くの子どもはそれで納得して、社会のルールを覚える。これが、大人になるということである。しかし、哲学者という人種はいつまでも子どもである。お正月が来るたびに、一応この世の風習として「今年もよろしくお願いします」と書くが、やっぱり納得できていない。配達されるのが来年であるというならば、それはどこまでも「来年の今年」であって、やっぱり「今年の今年」ではないではないか。こんな問題が頭から離れなければ、やっぱり日常生活がしにくい。

哲学者が生活しにくいのは、このような問題が、非常に面白いものと感じられてしまうことである。哲学的には大問題でも、世間的にはどうでもいい問題である。従って、立派な大人がこのような疑問を公の場で語ろうものなら、呆れられるか、真面目にやれと怒られる。そして、そんな下らない問題を考えているなら、国際的な紛争・飢餓・人権問題を考えたらどうか、ボランティアでも参加したらどうか、骨髄バンクへの登録や臓器提供でもして他人の役に立ったらどうかとお説教される。そこまで行かなくても、格差社会の解消やワーキングプア対策などの緊急の問題に比べれば、子どものような問題に関わっていられるのは贅沢だと言われる。さっさと年賀状を書いて大掃除を手伝えと言われる。こう言われてしまえば、返す言葉もない。全くその通りだからである。

こうして、現代社会では、哲学は役に立たない学問の典型であるとされている。時間とは何かについて考えているのであれば、時間を上手く節約し、細切れの時間を有効に使うことを考えたほうがいい。社会人は、待ち合わせの時間に遅れないことが大切である。全くもってその通りである。やはり哲学的な疑問というのは、社会に向けて問題意識を共有させるような種類のものではない。この世で適当に生活するには、毎年大晦日が来るたびに、「今年は良くない年でしたが、来年は良い年になりますように」と言っているのが無難である。資本主義社会の中で給料を得ながら深く考えるということは非常に難しい。

経験者にまさる専門家はいない

2007-12-29 21:05:23 | 時間・生死・人生
法律学では、条文の一言一句をめぐる解釈論争が起きると、必ず言われる台詞がある。いわく、「立法趣旨に遡れ」。「立法者意思に立ち返って考えよ」。ここのところ解釈論争が起きているのが危険運転致死傷罪の条文であるが、この立法の契機となったのが、平成11年11月の東名高速道路での追突事故である。酒酔い運転の大型トラックが井上保孝さん・郁美さん夫妻の乗用車に追突し、2人の幼い娘さんが焼死した。立法趣旨に遡り、立法者意思に立ち返るというならば、法律家がこの事件を忘れては本末転倒である。国民主権、民主主義と言いながら、都合のいい時だけ「素人大衆の無知」を持ち出されても困る。

何事も、物事は経験した者にしかわからない。犯罪被害は特にそうである。周囲の人に「お気持ちはわかります」と言われたところで、正確に返答しようとするならば、「アンタにわかってたまるか」と言うしかない。それでは、犯罪被害という現象を扱う法律家の役割は何か。それは、自分自身は犯罪被害を経験していないことを謙虚に受け止め、最大の専門家は被害者本人であることを認め、その絶望の地点を共有することである。被害者を1つのグループとして客体化し、専門用語だらけの理論を組み立て、それに被害者を当てはめて立ち直らせようとするのは、かなり傲慢な態度である。修復的司法の理論が支持を得ないのも、この無神経さが被害者の倫理観を逆撫でするからである。

井上保孝さん・郁美さん夫妻には、その後に3人の子どもが産まれ、周囲からは「2人の生まれ変わりだね」との祝福の声が寄せられている。しかし、郁美さんはそのような声を聞くたびに、「そうじゃない。私たちにとっては、いつまでたっても2人足りない」と心の中で繰り返しているそうである。専門用語も何もない。それにもかかわらず、どのような刑法学の大家、刑事政策学者や犯罪学者といった専門家よりも、物事の本質を捉えている。経験者であるから当然と言えば当然であるが、現代社会はこの簡単なことをなかなか認めようとしない。法律学のみならず、哲学も同様である。しかしながら、哲学とは、人間が生きて死ぬこと以外の何物でもない。

犯罪被害者を客体化すれば、それは「特殊で異常な体験に直面したかわいそうな人達」として括られる。そして、被害者らの主観や感情とは別の世界で、客観的な法理論が動いているものと考えられている。しかし、主観的に異常な体験を経てこそ自然に客観性が浮かび上がるのであって、特殊を恐れる普遍は偽物である。極端を知ってこそ自動的に中庸が定まるのであり、最初から中庸を目指してもピントがぼけてしまう。難解な哲学用語を物知り顔で振り回す人間よりも、最愛の娘を亡くした母親の一言にすべてが集約されていることは不思議ではない。

悲惨な事件や事故が起きるたびに語られる「命の重さ」という単語も、何となく地に足が着いておらず、使い古されている印象である。小学校の校長先生のお説教の域を出ない。「命の重さ」という単語で伝えたいことをもう少し正確に述べるならば、「生死の大切さ」と言うのが適切であろう。生死の大切さには、「生の大切さ」と「死の大切さ」が含まれ、特に後者が重要である。現代人の多くが「死の大切さ」と聞いて自殺を連想するようでは、「命の重さ」と聞いても心に響くわけがない。死の問題を遠ざけたまま命の重さを論じることの不毛である。この意味でも、専門家と言われる人たちは、実際に2人の最愛の娘を一度に亡くした母親の言葉の前には降参するしかない。

中嶋博行著 『この国が忘れていた正義』 第8章

2007-12-28 22:59:21 | 読書感想文
第8章 性犯罪者対策・去勢と監視

新たな概念の誕生が問題を必要以上に面倒臭くしてしまうことがある。個人情報保護法は「プライバシー」の概念を処理できず、多くの無用な混乱を引き起こしてきた。犯罪者の前科前歴の取り扱いも同様である。性犯罪者の性癖はなかなか治らず、再犯率も高い。実証的なデータは十分に揃っているが、それでも問題はスッキリと収まらない。性犯罪者のプライバシー、情報コントロール権、名誉権、偏見による社会復帰の困難、周囲の無理解による更生への障害といった単語を並べられれば、論点は無限に拡散する。

性犯罪者は、なぜ他の前科者にもまして前科前歴を秘匿しようとするのか。それは、単に恥ずかしいからである。恥を恥と知る、これは疑いようのない真理である。他方、性犯罪の被害者のほうも、恥ずかしさのあまり誰にも相談できずに被害を拡大させてしまうことが多い。これも人間の恥に関する倫理を示している。この2つの恥の概念は、見事に正反対を向いている。性犯罪者が感じる恥の概念は、恥ずかしいことを恥ずかしげもなく行ったところが、やっぱり恥ずかしかったのだから、恥じなければならないという話である。他方、性犯罪被害者が感じる恥の概念は、自分は何も恥ずかしいことなどしていないのだから、恥ずかしいことをされて恥ずかしいと感じても、やはり恥じる必要はないという話である。

性犯罪者は多くの場合、被害者に謝罪文を書き、それを裁判で有利な情状として主張する。ところが、強制わいせつ罪で刑務所に入った者が出所後1年未満で再び刑務所に戻る割合は、43パーセントにも上っている。ここで何とも間抜けなのは、最初の犯罪における謝罪文である。再犯者が「今度こそ本当に最後にします」と決意するならば、遡って歴代の被害者に改めて謝罪して回らなければならない道理である。この謝罪ができないならば、目的刑は応報刑に対してその正当性を証明できない。加害者の更生が被害者の立ち直りにもつながるというならば、再犯によって何よりも馬鹿にされているのは、過去の被害者である。被害者の「思い出したくない」という心情を逆手に取って謝罪を免れるのは、「また犯罪を繰り返します」と宣言しているようなものである。

犯罪者の権利の象徴が「ミランダ」ならば、被害者の権利の象徴は「ミーガン」である。1994年の夏、米ニュージャージー州に住む7歳の少女ミーガン・カンカが、35歳の性犯罪の前科がある男性に乱暴された上で殺害された。これが性犯罪者を監視するミーガン法に制定に結びつき、今では米全州で性犯罪者の通知システムが完成している。もちろん、伝統的な人権論からすれば、ミーガン法は天下の悪法であり、「大事件は悪法を作る」の例だとされる。しかし、伝統的な人権論がアーネスト・ミランダを担ぎ上げていた構造は、性犯罪者監視論がミーガン・カンカを担ぎ上げた構造と全く同じである。現に世論の支持を得られなければ、その時点では確実に負けである。

命の線引き

2007-12-27 22:08:21 | 時間・生死・人生
12月19日の神戸地裁尼崎支部判決においては、飲酒運転により3人を死亡させた被告人に対し、懲役23年の刑が言い渡された。危険運転致死罪の量刑としては過去最長であるものの、求刑は懲役30年であったことから、裁判所は前例踏襲から抜けていないとの批判も起きた。遺族からは、「3人を死亡させてこの判決にはがっかりだ」、「3人の命が23年の刑で償えるのかと思うと、法廷にいることさえ耐えられなかった」との声が上がった。裁判長は量刑について、2件の事故の併合罪を認めつつ、「危険運転の原因となった飲酒が同一のものであることを考えると、犯行が完全に独立しているとはいえない」と説明している。

12月25日の名古屋高裁の判決においては、飲酒運転により6人を死傷させた被告人に対し、懲役18年の刑が言い渡された。この裁判は、第一審の名古屋地裁では危険運転致死罪の認定がなされず、業務上過失致死傷罪と道交法違反の併合罪によって懲役6年の刑が言い渡されていたものである。裁判の中で争われていたのは、被告人が赤信号を見落としていたのか、それても故意に無視していたのかという点である。刑務所にいる期間が12年間も長くなるか否かという選択肢をぶら下げられれば、被告人としては敏腕弁護士を雇って徹底的に戦い抜くのが当然の行動となり、第一審ではそれが功を奏した。しかし、やはり嘘はどこまでも嘘である。

従来の刑法学は、ある特定の視点で固まっていた。すなわち、「峻厳な国家刑罰権の発動」である。この視点からは、上記の裁判も次のように捉えられる。併合罪の判定をどうするかによって、懲役の長さが7年も変わってしまう。条文の適用をどうするかによって、懲役の長さが12年も変わってしまう。法の解釈一つで、裁判官の判断一つで、被告人の人生が変わってしまう。従って、刑法は峻厳である。法律は重い。刑罰は正義でなければならない。そのためには客観的なルールでなければならず、法的安定性が必要である。何しろ、人間の人生を決めてしまうのだから。個々の事件に目を奪われれば、前例踏襲との批判が起きるが、それは近視眼的で的外れな意見である。前例踏襲こそが法の正義であり、罪刑法定主義の根幹である。刑法学のテキストを見てみれば、本格的な基本書から大学1年生向けの入門書まで、多くはこのようなことが書いてある。

しかし、この世の現実は、実際にこのような理念で回っているわけではない。大阪高裁での薬害C型肝炎訴訟をめぐる和解協議において、原告団はどのような言葉を語り、国民はそれにどのように納得したのか。「命の線引きは許さない」。「命を返してください」。「人の命より組織が大事なのですか?」。「命のリストの管理があまりにずさんである」。「厚生労働省は国民の命を放置した」。「残された命をかけたい」。「命の切り捨ては許さない」。「命より法規が重いのですか?」。福田首相も、議員立法による全員一律救済を決めた理由につき、「人の命にかかわることだから、無視して通るわけにはいかない」と述べている。後から理屈をつけようとすれば、色々と説明できることは確かである。しかし、大前提として、この世では常にこのような言葉が語られており、尽きることがない。

被害者遺族が、「犯人が逮捕されたよ」と霊前に報告する。「懲役○年の判決が出たよ」と仏壇に手を合わせる。「こんな判決では墓前に報告できない」と涙を流す。これも尽きることのないこの世の真実の光景である。一方で、司法権の独立が保障された裁判所における判決の言い渡しは、客観的で合理的な近代法治国家の象徴である。他方、死者に語りかけるという行為は、近代国家が最も軽視する非合理的な態様の行動である。この両者がどういうわけか同居していること、ミスマッチでありながらも人間はこのようにしか生きていないこと、この現実がもう少し注目されてよい。形而上と形而下の奇妙な接点は大きなポイントである。薬害C型肝炎訴訟で語られた「命の線引き」の違和感の言語は、「峻厳な国家刑罰権の発動」の前に、そんなに簡単に引き下がれるものなのか。

飛鳥井 望著 『PTSDとトラウマのすべてがわかる本』

2007-12-26 20:31:53 | 読書感想文
PTSDのチェックリストというものがある。例えば、「今の自分が情けない」「自分を責めてしまう」「人が信じられなくなった」といった項目が沢山あり、それに対して3段階や5段階で回答する方法である。近年は「心の傷」というメタファーは自然に用いられるようになったが、これを肉体の傷と同じように測ろうとすると、あっという間に限界に直面する。痛みや痒みはどう頑張っても自己申告であり、ウィトゲンシュタインが述べるところの歯痛の例を待つまでもない。もともと我慢強い性格の人であれば、その自己申告の結果、「心の傷は軽い」との結果は出やすい。また、多額の保険金を得ようとすれば、ばれない範囲でオーバーに自己申告をすればよい。

民事裁判においてこの「心の傷」を主張しようとすると、これまた大変な壁が待ち受けている。損害賠償のカテゴリーは、肉体的な傷を前提に考案されているため、これを心の傷にそのまま当てはめると、かなり変なことになる。第1の問題は「相当因果関係」である。肉体的な傷であれば、事件と疾患との時間的間隔が短ければ短いほど相当因果関係が肯定されやすく、時間的間隔が長くなるほど相当因果関係は肯定されにくい。これは、関節が曲がらなくなった、臓器の数値が異常になったといった症状を見てみればわかる。これに対して、精神的苦痛は客観的な時間の経過を数字では割り切れない。被害者が事件を忘れようと必死に努力して、鬱状態に陥ることを何とか抑えてきたのに、ようやく社会復帰したところが「浦島太郎状態」である。そこで、初めて逃れられない現実が迫ってくることは容易に想定できる。これを、「事件から時間が経過しているので相当因果関係がない。鬱状態は認められるが、事件との関連はない」と結論付けるのは悪い冗談である。

第2の問題は「症状固定」である。法律的に損失を計算するためには、その損害を確定しなければならない。そこで、これ以上は良くならないであろうという症状固定状態を仮構して、そこを基準に休業損害と逸失利益、及び傷害慰謝料と後遺症慰謝料を区別して計算することになる。これも肉体的な傷の場合には、関節が以前の状態には戻らない、臓器の数値の回復は望めないといった判断がつきやすい。これに対して、精神的苦痛の症状固定については、このような基準が用いにくい。仮に、鬱状態の改善の見込みが少しでもある限り症状固定ではないと言うならば、これは永久に症状固定との評価がなされないことになる。逆に、一生涯にわたって鬱状態を抱えて自殺の不安を持ち続けている状態を症状固定であるとすれば、これは自殺を強いるに等しい。このごくごく当然の帰結は、頭の良い人が論理的に抽象概念を切り回すことによって、かえって見落とされやすくなる。

「相当因果関係」や「症状固定」、このような合理的で実用的な概念は、その実用性ゆえに逆に人間を苦しめることがある。人間はそれによって他の考え方が見えなくなり、瞬間的な違和感を捉え損なうからである。心の傷を体の傷と同じように少しでも数値化し、一義的で客観的な基準を得ようとするならば、その判定のための技術はますます精緻になる。こうなって来ると、判定基準さえ確立すれば、個々の人間はそれにあてはめるための材料に過ぎないといったカテゴリーができ上がってしまう。判定基準は客観的で一義的であるが、主観的なものは個人差があって不明確であるとして、できる限り主観的なものは排除しなければならなくなるからである。「心の傷」という概念は、それを体の傷に並列するための手段であったはずだが、この手段が精緻になって万能になると、そもそも人間に心があることなど必要なくなってくる。これも恐るべき逆説である。

科学的世界観

2007-12-25 22:28:35 | 時間・生死・人生
科学的世界観は、社会科学を志す人間にとっては非常に魅力的である。この世のあらゆる事象を客観的に数字に直すことができるという理論は、人間を誘惑する。数字でない文字も、社会科学の実証性を取り入れれば、すべて論理式に直すことができそうである。日常言語は無理でも、法律の条文だけは完璧な美しい体系が作れそうである。このような人間のあくなき欲望は、論理実証主義から法実証主義を生み、果ては概念法学に至った。

科学的世界観に立つならば、すべての現象は法則に従って生起しているものとされ、人間も同様であるとされる。すべては脳内の神経細胞の動きによって説明し尽くされる。自然法則は我々の思惑とは無関係に存在するものであり、我々は自然法則に抵抗したり、人間の思惑で自然法則をねじ曲げたりすることはできない。従って、凶悪犯人が事件を起こしても、それはそのようなことが起こったというだけの話になる。被害者が悲しんでいることも、脳内の神経細胞の動きによるものであって、単にそれだけの話となる。

科学的世界観を取り入れた法律学は、人間の主観を扱うことをしない。人間の主観的経験などは数字にできず、科学的には問題外だからである。法律学は科学的世界観にならって、この人間の主観を、客観に付随するものして位置づけた。それは刑法の条文における「故意」「過失」である。これは、純粋な人間の主観ではない。「主観的構成要件」とは、「客観的構成要件を認識していること」である。論理的な順番としては、どこまでも客観が先であり、主観が後である。被告人側の主観面は、かくして実証的な論理式に取り込むことに成功する。これに対して、被害者側の悲しみといった主観面は、相変わらず論外とされる。

犯罪被害者の見落としの原因を1つ1つ挙げて行くならば、実証性重視の経験主義科学は避けては通れない。犯罪被害者の問題は、科学的世界観による客観的モデルを採用する一歩手前で立ち止まることによって、初めて見えてくる種類のものである。科学的法則、統計的真理によっても被害者の問題を表面的には捉えることができるが、それがこの世の全てではない。法律の条文によって完璧な美しい体系を作ろうとする法律家の野望は、同じ刑法を扱っていながら、犯罪被害者の関心とは全く接点がない。

科学的世界観は、相変わらず「心の傷」というメタファーを使って、問題を処理できる形に変形しようとする。しかしながら、体の切り傷や刺し傷は目に見えるものであり、数学的に大きさや長さを計測できるが、心の傷はそのようなことができない。心の傷といった比喩的表現は、安易に乱用されれば、体の傷と同等に治療しうるような錯覚を生じさせてしまう。ここは現代人の弱いところである。

池田晶子著 『41歳からの哲学』 第2章 「やっぱり欲しい ―― 年金」より

2007-12-24 14:54:44 | 読書感想文
今年の後半も色々な事件が相次いだが、情報化社会における風化のスピードは速く、すぐに忘れられる。「一人一人が自分のこととして考えましょう」と言われても、自分のことではないのだから、当然すぐに忘れる。そんな中で、年金の話題は1年間ずっと中心にあった。一人一人が自分のこととして考える前に、国民である限り最初から自分のことだからである。特に年金生活だけを楽しみに人生を生きてきた人にとっては死活問題である。

犯罪被害、いじめ自殺といった問題は、多くの人間にとっては対岸の火事であるがゆえに、世論を高めることは難しい。盛り上がってもすぐに消えてしまう。これは、哲学的な論点を含む諸問題を、年金問題と同じ政治的な土俵で論じることの不可能性を意味している。犯罪被害の問題と年金の問題では、あまりに抽象度が違いすぎる。毎日年金のことで頭が一杯の人々に対して、犯罪被害に関する世論を高めるように働きかけても、まず話は噛み合わない。

佐世保の銃乱射事件で、36歳で殺された男性について、「16年間も年金保険料を払い続けたのに年金が1円ももらえないのは残酷であり、犯人に対する怒りが禁じえない」といった形で意見が述べられることはない。レベルが違いすぎるからである。また、「何十年間も保険料を納めたのに年金がもらえないのは不当であり、国民は社会保険庁に怒るべきである」という主張と、「何十年間も大切に育てた息子が殺された悲しみはわかるが、両親は犯人を赦すべきである」という主張とが、なぜか党派的に同じグループだったりする。これでは説得力がない。犯罪被害の問題は、年金問題と同じ政治の土俵には乗らない。


p.78~ 抜粋 (平成16年6月、閣僚の年金未納問題が噴出する中で、年金改革関連法が成立した時の文章である)

私が、公に決められた年金だ税金だ、詮じつめれば共同体の法律規則というものに抵抗しないのは、要するに面倒くさいからである。そういうこの世的なあれこれが、基本的に、どうでもいい。どうでもいいから抵抗しない。抵抗するのは、そういった事柄を何らかの価値だと認めるからだが、私には、そういった事柄が人生の価値だとは、どうしても認められないのである。

それにしても、25年後の年金ねえ。みんな本気で25年後の自分の生活なんてもの、想像しているのだろうか。私にはそんなもの、あの世の生活を想像するくらい不可能に近い。死んでいるならいないのだし、生きているならわからないからである。これって、恐るべき当たり前だと思いませんか。

池田晶子著 『知ることより考えること』 第2章 「思わせ人生」より

2007-12-23 20:17:42 | 読書感想文
石屋製菓の「白い恋人」が大売れらしい。新千歳空港の売店では開店前から行列ができ、30分で品切れ状態だそうである。賞味期限の改ざんによる3ヶ月の業務停止明けという話題性、入手困難のレア感、忘年会の景品用としての受け狙いによる買い占めなどが作用したものと言われている。しかし、あれほど大騒ぎした「食の信頼」が、そんなに簡単に回復していいものなのか。国民は偽装に激怒し、もう信用できないと憤慨し、今後は買わないと怒っていたのではなかったのか。今年の漢字は「偽」と決まり、食の安全への信頼が揺らいだ1年という位置づけがなされていたにもかかわらず、これでは「偽」への怒りそのものが「偽」である。石屋製菓は時間をかけて信頼の回復に努めなければならないというシナリオそのものが「偽」であったことになる。これでは、赤福も船場吉兆も信頼回復に努力する必要などなくなる。

会社ぐるみの偽装といっても、会社の建物が偽装をするわけではない。企業の社会的責任といっても、コンクリートの建物が責任を取るわけではない。突き詰めれば、すべては人間の自己顕示欲に還元される。「偽」の根源は人間の自己顕示欲である。企業の「偽」を怒っている国民のほうも、増毛やら美容整形やらをしているというのでは、その怒りは本物ではない。自分の頭や顔が「偽」だからである。増毛や美容整形によって「本当の自分を取り戻したのだ」と主張し、整形手術ではなく「プチ整形」であると言い張るならば、それは自己顕示欲の暴露を恥じ、「偽」を「偽」と知ることによる後ろめたさの表れである。偽装だらけの人間が、他の人間の偽装を正当に激怒できるわけもない。忘年会の景品として「白い恋人」を買ってきた幹事は大人気となる。やはり、今年の漢字「偽」そのものが「偽」である。


p.55~ 抜粋

本当にそうであるのではなくて、そうである「ふりをする」、そういう「見せかけ」でよしとする。なんで本当ではなく見せかけでよしとするかというと、本当の人生をよしとしていないからである。自分の人生を生きていないからである。自分の人生を生きていないとは、裏返し、他人の人生を生きている。他人にどう思われるかということで生きているということである。他人にどう思われるか、他人にどう思わせるかということが、人生にとっての最重要事であると疑ったこともないのである。人生とは、人間とは、他人にどう思われるかということ以外の何ものでもないと。

なるほど人間には、誰も多少は人目を気にするところがある。しかし、現代社会はとくにこの傾向が顕著なのではなかろうか。ざっと見渡してみるだけでも、世の中その手のことばかりである。いや、そういう考え方こそが、人々を動かしている原動力のようにも見える。互いに互いの目を気にし合い、いかに自分をよく見せようか。今さらながら、「装う」とは、「見せかける」ということなのだった。こういう人の人生は、想像しようとしても何も想像できないのである。いかなる表象も浮かんでこない。空しい。何もない。その人というのが存在しない。

死から逆照射されない思想 その3

2007-12-22 17:03:56 | 時間・生死・人生
近代刑法が想定する人間のモデルは、「合理的で理性的な人間」であった。自立した個人が理性と主体性をもって社会を形成してゆくとの理想的なモデルである。そこでは現在を見ずに未来を先取りし、無意識よりも意識を優位に置く。このような近代の理想的人間像に隠された欺瞞と弊害については、さまざまな哲学者によって徹底的に暴かれてきた。その急先鋒がハイデガーである。しかしながら、憲法を頂点とする現実の法治国家は、この近代の理想的人間像を大前提としている。そして、犯罪被害の問題についても、無理にそのパラダイムに閉じ込めようとして、数々の歪みを生んできた。犯罪被害者の声はその歪みの効果であるから、それを更に同じパラダイムに閉じ込めようとしても、同じ苦しみが繰り返されるだけである。

客観的な刑法理論からすれば、福岡市の飲酒運転追突事故の今林大被告の行った行為は、刑法208条の2(危険運転致死罪)に該当するか否かだけが問題である。以上、終わり。法治国家に生きる合理的で理性的な人間は、この真実を理解しなければならない。自立した個人が理性と主体性をもって社会を形成してゆく近代社会では、遺族の感情に流されて条文を拡大解釈することは許されない。かくして、今林被告とその弁護人の防御活動は、完璧なロジックによって正当化される。しかし、一歩外に出て、無意識よりも意識を優位に置く近代の理想的人間像を疑ってみれば、このロジックも簡単に崩れてゆく。この素材を提供するのがハイデガーであり、具体的な哲学者の名など知らなくても自然にその哲学を実行してしまっている被害者遺族の声である。

人間の無意識の根底には、死への恐怖がある。従って、ハイデガーの言葉を借りれば、死から逆照射されない思想は地に足が着いていない。このような存在者である人間が、48歳での出所と30歳での出所との選択肢を提示されれば、ほぼ間違いなく30歳での出所を選ぶ。その意味では、飲酒運転とその後の証拠隠滅行為を除けば、今林被告だけが特別に非倫理的だというわけでもない。裁判システム全体が、人間に非倫理的な行動を採るような誘惑を提供しているということである。近代刑法の理論は、理屈を丹念に積み重ねて、刑事被告人の人権を正当化する。しかし、どんなに理屈を積み重ねても、人間は1分1秒死に近づく存在であり、理性や意識の根底には無意識の恐怖がある。

今林被告や弁護人の言動の1つ1つが人間の倫理観を逆撫でするのは、この恐るべき存在の構造によるものである。どんなに崇高な理論も、その元を正せば、「刑務所から1日でも早く出たい」、さらには「死ぬのが怖い」という1点につながっているからである。そして、それを客観的な法理論によって隠そうとするからである。今林被告には、幼い兄妹3人の時間と将来を奪った以上、せめて7年半ではなく、25年は刑務所に入ってほしい。これは倫理的な直観である。長く刑務所に閉じ込めればそれでいいのか。それで問題は解決するのか。もちろん解決などしない。しかしながら、人間の倫理的な直観は、3人の死の前には、なぜか7年半を短いと感じる。これも理由を付けようとすればするだけ野暮である。その意味で、国家権力の発動の謙抑性のみを根拠に厳罰化に反対する人権論は、死すべき人間の繊細な生命倫理の存在に気付いていない。

人間が内的倫理によって完結しているのであれば、そもそも外的強制である法律など要らない。にもかかわらず、この世に厳しい法律が必要であるのは、危険だとわかっていながら飲酒運転をし、さらには水を飲んで証拠隠滅を図ろうとし、友人に身代わり出頭を頼むような人間がいるからである。このような犯罪者が目の前にいる限り、この世の倫理は次善の策として厳罰化を要求する。従って、この倫理の問題を措いたまま、厳罰化だけに反対したところで人間の割り切れなさは消えない。これは人間が倫理を突き詰めれば必ず突き当たる地点である。法律を知らない素人の戯言ではなく、生きて死ぬ人間の中核である。その意味では、「厳罰化の是非」というテーマを設定し、賛成論と反対論を対立させているのは、問題をわざわざ難しくしているようなものである。