犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

永井均著 『これがニーチェだ』

2010-03-31 00:28:27 | 読書感想文
p.7~

 ニーチェは世の中の、とりわけそれをよくするための、役に立たない。どんな意味でも役に立たない。だから、そこにはいかなる世の中的な価値もない。そのことが彼を、稀に見るほど偉大な哲学者にしている、と私は思う。
 哲学を何らかの意味で世の中にとって有益な仕事と見なそうとする傾向は根強い。哲学ということの意味がどれほど一般に理解されないかが、そのことのうちに示されていると私は思う。ニーチェのなかには、およそ人間社会の構成原理そのものと両立しがたいような面さえある。彼は、文字通りの意味で反社会的な(=世の中を悪くする)思想家なのである。
 それにもかかわらず、いやそれだからこそ、ニーチェはすばらしい。他の誰からも決して聞けない真実の声がそこには確実にある。もしニーチェという人がいなかったなら、人類史において誰も気づかなかった――いや誰もがうすうす気づいてはいても誰もはっきりと語ることができなかった――特別な種類の真理が、そこにははっきりと語られている。だが、その真理は恐ろしい。


p.9~

 彼は、それまで誰も問わなかったひとつのことを、そしてその後もまた誰も問わなくなってしまったひとつのことを問うた。つまり、彼は余計なことをしたのだ。偉大な――と後から評される――哲学者は、少なくとも彼が生きていたその時点ではまったく余計なことをしていた人である。
 哲学は主張ではない。それは、徹頭徹尾、問いであり、問いの空間の設定であり、その空間をめぐる探究である。だから、哲学における主張は、それが切り開いた空間の内部に、必ずその主張に対する否定の可能性を宿しているし、問いの空間の設定それ自体もまた、その空間自体を位置づける更なる対立空間を暗に設定してしまっている。
 思想家として見れば、ニーチェは完全に敗北した。彼は、世界解釈の覇権を完全に奪われた思想家である。ニーチェに思想的な意義があるとすれば、それはこの敗北の完璧さにあるだろう。その敗北の完璧さによって、逆に、ニーチェは今日の時代の本質を射貫いている。マルクスにはなお復活の可能性があるが、ニーチェには、ない。もしあなたが、ニーチェに頼って元気が出るような人間であるなら、ニーチェ的批判のすべては、あなたに当てはまるのである。


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 『超訳 ニーチェの言葉』などニーチェの偽物である。ニーチェが世の中の役に立つわけがなく、いかなる世の中的な価値もない。しかし、現実には『超訳 ニーチェの言葉』が全国の書店に平積みにされ、ニーチェの言葉によって励まされた人がおり、実際に世の中の役に立っている。私はこの光景を見て、商業戦略に乗せられた偽物のブームは一瞬で去り、本物の永井氏の本が細く長く読み継がれるはずだと思う。
 この私の心情が、「売れるものが正しいとは限りない」という価値空間を捏造するルサンチマンであるならば、やはりニーチェは余計なことをした人であり、偉大な哲学者であると思います。

白取春彦編訳 『超訳 ニーチェの言葉』

2010-03-30 23:58:54 | 読書感想文
№001  初めの一歩は自分への尊敬から
「自分はたいしたことがない人間だなんて思ってはならない。それは、自分の行動や考え方をがんじがらめに縛ってしまうようなことだからだ。」

№037  人生を最高に旅せよ
「自分を常に切り開いていく姿勢を持つことが、この人生を最高に旅することになるのだ。」

№040  少しも悔いのない生き方を
「今のこの人生を、もう一度そっくりそのままくり返してもかまわないという生き方をしてみよ。」

№051  いつかは死ぬのだから
「死ぬのは決まっているのだから、ほがらかにやっていこう。いつかは終わるのだから、全力で向かっていこう。」

№118  カリスマ性の技術
「自分をカリスマ性を持った深みのある人間であるように見せたいなら、一種の暗さ、見えにくさを身につけるようにすればよい。」

№200  自分に才能を与える
「天賦の才能がないといって悲観すべきではない。才能がないと思うのならば、それを習得すればいいのだ。」


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 発売2ヶ月半で27万部突破、全国書店で続々1位。新聞・雑誌・テレビで特集続々、究極のポジティブシンキング。自分の頭で考える興奮、珠玉の金言集なのだそうです。しかしながら、この程度の言葉ならば飽きるほど世の中にあふれていますし、多分私でも言えるでしょう。ニーチェという哲学者のブランドによって説得力が上がるのは、確かにその通りであり、怖いことだとも思います。

 「人生のバイブルとなり得る1冊」との評価は、キリスト教の神を殺したニーチェの言葉に与えられるものとしては、非常に皮肉だと思います。また、私自身、毒のないニーチェは面白くも何ともないと感じます。しかし、27万部突破のベストセラーの前には、面白くないというのは(力への意志でなく)解釈への意志であり、浮世離れした哲学研究者のルサンチマンが掻き立てられるのであれば、やはりこの本は『ニーチェの言葉』に間違いないのだろうとも思います。

湯山光俊著 『はじめて読むニーチェ』

2010-03-29 23:54:14 | 読書感想文
p.108~

 ニーチェにとって概念とは、知的なパズルではなく、つねに自分の生理的な身体に起こることをもとにした賭けごとなのです。具体的にいえばあらかじめ慣習的に決められた〈良い/悪い〉で概念が構成されるのではなく、身体の〈快/不快〉から得られた具体的な事実をもとにして概念は試作されるのです。
 病から得るものに自らが耐え得ることができるかどうかをいつも自覚的にニーチェは検証しています。つまり「永遠回帰の体験」だけが特殊な形式なのではなく、ほとんどのニーチェの概念が、彼の身体で起きることをもとにして、堅固な定義づけもないまま、自らを材料に「実験」されるものなのです。

 永遠回帰とは苦しみの回帰でもあります。「同じきものの回帰」を原則とすれば、苦しみはまったく等しく永遠に反復されるはずなのです。だから永遠回帰についての最も誤解した考えは「何度繰り返されたとしてもこの〈今〉が充実するような生き方をしよう」という人生教訓めいたものです。自分が〈今〉にあたえる価値は、生とは無縁のものです。
 傷つき、病むことは回避できないからこそ、どんな現実も肯定し、ニーチェはこれを「実験」すると言ったのでした。努力のご褒美として〈今〉が価値あるものになるのではなく、繰り返される〈今〉に耐えることのできる〈意欲〉と〈強さ〉のほうに価値があるのだとニーチェは訴えたかったのでしょう。


p.120~

 あなたがもし、驚くべき体験をしたら、あなたはどうするでしょうか。心の内に秘めて一生それを語ろうとはしないかもしれないし、あるいは持てる限りの言葉を使って、その体験を誰かに伝えようとするかもしれません。少なくとも、誰かにこの体験を理解してもらいたいと願うとき、どんなやり方で伝えるでしょうか。
 たとえば恐怖体験。少しでも人に語ることで、その恐怖を和らげようとする意志も手伝ってか、できるかぎり自分の体験に臨場感をあたえリアルな恐怖を相手に再体験させるために語り方に工夫を凝らします。しかしこの方法の弱点は、たしかに恐怖を与えることはできても、この体験のもっともらしさが、逆に体験を空々しい作り話に変えてしまう可能性をもっているということです。同時に自分の体感した認識に言葉をひきつけるほど、その言葉は主観的なものになってしまい、聞く人が自分とは関わりがないことであると感じさせる要因ともなります。

 では、その逆に自らの認識をできるかぎり主観から引き剥がすことで、体験そのもののもっている真実味をそのまま取り出すことはできないでしょうか。フリードリッヒ・ニーチェが、自らの特殊な体験にたいしてまず最初に試みようと思ったのは、後者のほうでした。つまり彼がいう「科学的な証明」によって、自らの認識の主観性を拭い去って、体験を証明しようとしました。
 その後『ツァラトゥストラ』を書くことで、今度は永遠回帰という概念を説明するのではなく、人々がそれぞれ永遠回帰を発見できるようなきっかけを作り出そうとしました。そしてその発見の過程こそが永遠回帰を体現することになるように目論んだのです。


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 ニーチェの思想は、21世紀の神なきニヒリズムの時代において、その価値が見直されているといった言説を聞くことがあります。しかし、永遠回帰を説く哲学に対して、「時代の先を行く」「時代が追いついた」「今は○○の時代だ」という評価を与えるのは、いかにも不自然であると感じます。そもそも、ニーチェを正しく解釈しようとすると、正しい解釈など不可能になり、それを読む者が勝手に読み込みたいものを読み込むことによって、結果論としてニーチェの正しい解釈が可能になるという形にならざるを得ないと思います。

 21世紀の神なきニヒリズムの日本において、『超訳 ニーチェの言葉』が確かに広く受けているのは、弱者の奴隷精神がもたらす価値観の反転(ルサンチマン)の視角の鋭さによるものだと思います。情報化社会に基づく多元的な価値観の並存の中で、強制的に生かされる混乱を強いられている人々は、もはや価値観の反転を選び取っているというよりは、倒錯した価値観を押し付けられても気がつかないのかも知れません。こうなると、ニヒリズムから力への意志を飛ばして永遠回帰に直行し、「何度繰り返されたとしてもこの〈今〉が充実するような生き方をしよう」という人生訓が導き出されるのも当然のこと思います。

言葉にしたとたんにウソになる

2010-03-27 23:55:57 | 時間・生死・人生
 「1本前の電車か1本後の電車に乗っていれば被害に遭わなかったのに、なぜその電車に乗ってしまったのか」。地下鉄サリン事件のような被害において、避けがたく湧き上がってくるのがこの問いだと思います。3月8日に発生から10年を迎えた日比谷線脱線事故や、3月26に強制起訴が決まったJR福知山線脱線事故も同じです。この問いを解こうとすると、時間を遡って考えることにならざるを得ないと思います。
 毎日、この時間の電車に乗っていたのは、この会社に通勤するためである。そして、この会社に就職したのは、学生時代にある転機があったからである。そして、なぜそのような転機があったのかと言えば…… という具合に、誕生の日に向かって時間はどんどん遡っていきます。そうなると、事件につながる因果関係を正確に捉えようとすればするほど、過去のすべての場面に登場する多数の他者とのつながりが網の目のように出現し、変えようのない過去と唯一の現在を再確認するだけで、どうしても答えが出なくなるように思います。

 唯一の現在があり、それは唯一の過去につながっている。ゆえに、唯一の過去はその過去の時点では唯一の現在であり、この唯一の現在もすぐに唯一の過去となる。時間は、いつもこのような在り方をしている。よって、歴史に「タラ・レバ」はなく、すべては起こるべくして起きたのであり、人間の自由意思の入る余地がない。このような直観を強制されることは、存在と時間の前に全身を押さえつけられ、窒息するような感じにならざるを得ないとも感じます。
 人間は恐らく、この先を考えることはできないでしょう。それは、人間が他方で、この先に待っているのは狂気であることを直観する能力を持っているからではないかと思います。但し、人間の思考の密度が濃くなり、狂気に近づけば近づくほど、自由意思の有無は判然としなくなることも確かだと思われます。学者が机上の空論において自由意思の有無を論じている間に、苦悩に直面する者は現にそれを生きてしまっているように感じられます。

 「事故に遭ったのはなぜ『他でもないその人』だったのか」と第三者が問う分には余裕がありますが、「なぜうちの娘が事故に遭わなければならなかったのか」という問いは、そのように問う者が『他でもないその人』であるという意味において、自らの存在を痛めつける過酷な問いにならざるを得ないと思います。そして、この問いの周辺には、あらゆる種類の誤解が生じており、さらに問いの所在を見えにくくしているようです。
 「なぜうちの娘が」という問いに対して、「それなら赤の他人の娘なら事故に遭ってもいいのか」と問い返すことは、その赤の他人の娘が事故に遭わずに生きている限り、唯一の現在への問いに対する反問としては的を外しています。また、「助けてあげられなかった自責の念」を語る言葉に対し、責任を感じる必要性がないことを指摘して慰めることも、助けられたという選択肢が人間の自由意思を証明するものである限り、やはり完全に的を外しています。

 裁判の場における最も多い誤解は、「死者は無念さを語ることができない」という絶望的な真実の指摘に対して、「遺族は死者の無念を晴らそうとしている」との解釈が与えられることでしょう。このような解釈をされてしまえば、問いの主題は死者から遺族に移り、生きている側の都合だけで物事が考えられることになります。
 法律実務家においては、死者に権利能力がないことは常識であるため、「死者の無念」という表現は稚拙は比喩であるとして、一段低く見られることが多いようです。そして、その先には、「遺族の厳罰感情は十分に考慮しなければならない」という同情や、「厳罰にすればそれで済むのか」「厳罰では根本的な解決にならない」という苛立ちが示されます。これらは、解決不可能なものを解決可能であると思い込み、間違って立てられた前提から間違って立てられた問いであるため、当初の繊細な問いの視点からは遠く隔たっているように思われます。

 「1本前の電車か1本後の電車に乗っていれば被害に遭わなかった」という事実は、動かしがたい事実として問いの大前提になっています。ところが、犯罪を起こした側にスポットを当ててみれば、ここには紛れもない人間の自由意思と主体性が現れています。すなわち、能動態の側においては、歴史に「タラ・レバ」はあります。
 地下鉄サリン事件においては、教祖が「この電車にする」と決め、弟子がそれを忠実に実行する間の無数の過程において、自由意思において引き返す可能性がありました。洗脳されていようが、マインドコントロールを受けていようが、犯行に至る一挙手一投足が自由意思の結果であること想定することがなお可能です。
 これは、被害者側においては「タラ・レバ」がなく、すべては起きるべくして起きたという絶望と比較してみると、実に対照的だと思います。犯行の瞬間に至るまでの弟子の葛藤・逡巡などは、被害者側の問いに比べれば遥かに甘く、いつでも逃げられる保険がついた問いに過ぎないでしょう。
 
 他方で、被害者側が全人生を賭けて求めている解答への鍵は、この加害者側の自由意思の分析によって全面的に左右されます。そして、近代法治国家においては、この鍵が明かされる場は裁判しかありません。被害者が辛くても裁判の傍聴を続け、あるいは敢えて裁判から眼を逸らそうとするのは、この社会制度によってもたらされるものです。
 しかも、近代法治国家における刑事裁判は、この鍵を明かす場として設けられているのではありません。ゆえに、被告人には自己負罪拒否特権が保障されており、自分の記憶に反したウソをつくことも認められ、全面的な黙秘権が保障されています。現に松本智津夫被告の裁判は、10年を費やした挙句に周知の経過を辿りましたが、これは憲法の精神を体現した理想的な裁判であったと言えなくもありません。
 裁判が終わった後に残されるのは、やはり「なぜその電車に乗ってしまったのか」という問いです。この問いに答えようとすれば、ウソをつくことを意図するわけではないのに、どうしても語られたことはウソにならざるを得ないと思います。また、黙秘権が保障されているわけでもないのに、口を閉ざして語ることができなくなるように思います。

大谷哲夫著 『日本人のこころの言葉 道元』

2010-03-25 00:02:28 | 読書感想文
p.30~

 「たき木、灰となる、さらにかえりてたき木となるべきにあらず。しかあるを、灰はのち、薪はさきと見取すべからず。しるべし、薪は薪の法位に住して、さきあり、のちあり。前後ありといえども、前後際断せり」。(『正法眼蔵』「現成公案」巻)

 道元は現実のありよう(現成)を、薪と灰の関係で説明しているのです。私たちは、常識的には、樹木が薪になり、それが燃えつきると灰になると思います。が、それは違うと道元は言います。目の前に灰があれば、それは灰でしかない、目の前に薪があればそれは薪でしかない。灰は灰として、薪は薪として、そのあるがままのすがたをみるのだ、と言うのです。

 道元は、仏法でいう不生・不滅も、生死も同様であることを、さらに次のように説き進めています。「薪が燃えて灰になったのちに、もう一度薪にもどることはありません。同様に、人が死んだ後に再び生き返ることもありません。だからといって、生が死になると言わないのが仏法の定まったならわしです。また、死が生にならないというのも仏法の定まったならわしなのです。すなわち、生は生、死は死で、断絶しながら連続しています」。


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 ある人の考えが広く後世まで伝えられるのは、その人を離れた「考え」の普遍性ゆえであり、人物のほうに傾倒しすぎるのは本末転倒だと思います。特に、ある人の経歴をマニアックに追いかけることは、個人崇拝による贔屓の引き倒しになる危険が大きいと思われます。しかしながら、やはりどうにも「考え」と切り離せないその人の人格があり、その個別性ゆえに普遍性が生じざるを得ないとも感じます。

 道元は8歳の時に母親を亡くし、世の無常から仏門への帰投という感慨を持ち、9歳にして『倶舎論』を読み、14歳の時に出家して天台僧となりました。しかし、加持祈祷が中心で形骸化し、名利を好み営利・闘争に明け暮れる当時の比叡山の実態に疑問を抱き、わずか1年で次の計画に向けて動き出します。時代背景は、承久の乱に至る公卿勢力の興亡の真っ只中で、朝廷軍の処刑の模様は道元に大きな影響を与えたようです。
 日々の雑事に振り回されている私にとって、800年前の死者である道元の「考え」だけを捉えることは難しいです。

宮地尚子著 『傷を愛せるか』

2010-03-24 23:55:22 | 読書感想文
p.104~

 日本にも強く波及しつつある米国のネオリベラリズム(新自由主義)が危険なのは、弱みにつけ込むことがビジネスの秘訣として称賛されることで、弱さをそのまま尊重する文化を壊してしまうからだとわたしは思う。そして医療をビジネスモデルで捉えるのが危険なのは、病いや傷を負った人の弱みにつけ込むことほど簡単なことはないからである。

 では「悪貨は良貨を駆逐」してしまうのだろうか? 弱肉強食のルールに従って生きていくしかないのだろうか? そうではないと思う。弱さを抱えたまま生きていける世界を求めている人も多い。弱さそのものを尊いと思う人、愛しいと感じる人も多い。それもまた人間のもつ本性の1つだと思う。そうでなければ、弱き者はすでにすべて淘汰されていたはずだ。


p.161~

 「ポスト・トラウマティック・グロース(外傷後成長)」という言葉がある。心に傷を負ったあとの人間としての成長という意味である。人は傷によって弱められるだけではない。それによって学び、成長することもある。直感的には、おそらくだれもが理解し大切だと思い、そこに希望を見いだすだろう。わたしもそうだった。

 けれども研究の俎上に載ったとたん、その概念は測定や評価可能な「因子」となってしまう。「外傷後成長」の定義が決められ、「成長」の指標となる項目が選ばれ、「外傷後成長」度を測る質問票が作成される。そして「病前性格」やPTSD症状の重さ、抑うつ度や社会的活動度などとの比較がなされ、相関関係が調べられる。そういった研究プロセスを学会のシンポジウムで紹介していた発表者の1人が、「自分がなにをしているのか、わからなくなってきた」とポロッとこぼしていたが、わたしもまったく同感だった。

 同じようなことが「レジリエンス」という言葉にもいえる。「レジリエンス」とは、傷への抵抗力、回復力、復元力といった意味で、最近トラウマ研究でも注目されている。これも研究が進むにつれ、たとえばその個人差が明らかになってくれば、「トラウマを負ったあと、なかなか回復しないのは、その個人のレジリエンスが低いからだ」といった自己責任・被害者非難の論調に簡単に転化しかねない。


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 一橋大学大学院教授・医学博士の宮地氏は、あとがきで次のようにも述べています。「傷を抱えながら生きるということについて、学術論文ではこぼれおちてしまうようなものを、すくい取ってみよう。だれもが言葉にならない痛みを抱えている時代だからこそ、旅での些細な出来事や、映画やアートなどから見えてくるものがあるのではないか」。自分の拠って立つ思考の枠組みや、自らの学術論文の功績を打ち壊すことのできる学者は誠実だと思います。

 法律学の世界においても同様のことが言えるはずですが、宮地氏のように「こぼれおちてしまうようなものをすくい取る」視点を持っている学者にはあまりお目にかかったことがありません。刑事法学者の大多数は、「厳罰よりも心のケアこそが真に必要なのである」と述べて、あとは精神科医にお任せだという印象を受けます。
 社会科学のほうが科学的客観性を信じ込み、間主観的な交換可能性をもって客観性とみなし、被害者を証拠物件の1つとしか見られないのであれば、「こぼれおちてしまったもの」は増える一方だと思います。

フジテレビドラマ 『 地下鉄サリン事件から15年』 (2) ドラマを見て考えたこと

2010-03-22 00:05:41 | その他
 ドラマの感想については、私には上手く語る言葉が見つかりません。ただただ想像を絶する現実に圧倒され、涙が止まらず、やり切れない思いがしました。また、15年間は2時間に収まるわけがなく、それでも2時間に収まっていたことに驚きましたが、ここもやはり上手く言葉にできません。
 これに対して、法律家としてのもう1人の自分は非常に能弁です。「法律のプロは冷静な判断ができなければならない。安易に感情移入して泣くようではプロとして恥ずかしい」。私が悩まされている自分自身の余計な声は、法律実務の現場の正論であり、「心情刑法」を揶揄する刑法学者の平均的思考であり、あるいは裁判員制度反対の論拠であるように思います。

 原田美枝子さんは、高橋シズヱさんご本人に見えました。人間の表情は、文字では伝えられない言葉を伝えるものである以上、これは当然のことかも知れないと思います。
 直接の加害者である林郁夫被告に対しては死刑を望むか否かで逡巡し、松本智津夫被告に対しては一貫して死刑以外はあり得ないと語る原田さん(高橋さん)の一瞬の表情は、死刑という刑罰の本質に触れているように見えました。
 もちろん、刑法の共謀共同正犯と実行正犯の区別から入る構成要件的思考や、永山基準から入る量刑相場的思考は、原田さん(高橋さん)がいかなる表情を見せたとしても、「被害感情をどのように量刑に反映するか」という問題に変換して終わりだと思います。さらには、死刑廃止条約から入るイデオロギーは、人間の複雑で語り尽くせない心情に対して大鉈を振るって終わりでしょう。

 このような犯罪と刑罰のドラマについては、法律家からの評価は概して低いのが通常のことだと思います(私の周囲ではそうでした)。厳罰化反対論からは、「マスコミは感情的になって被害者の味方ばかりし、お涙頂戴のドラマを作っている」との不満が起きていたことでしょう。また、死刑廃止論の方々にとっては、不愉快で見るに耐えず、最初から見ていなかったことと思います。
 他方で、この事件のフラッシュバックで苦しんでいる方々、あるいは他の事件の記憶によって被害者の心痛が思い起こされて息苦しくなる方々にとっても、ドラマは見るに耐えなかかったことと思います。厳罰化反対論の方々も、事件の後遺症で苦しんでいる方々も、どちらも文字にしてしまえば「見るに耐えない」ですが、この正反対の方向性を持つ心情は、捉えている地点の深さと繊細さにおいて恐ろしい差があると感じられます。
 厳罰化反対論からは、「マスコミは人々の厳罰感情を煽っている」との批判がよく聞かれます。ところが、被害者のほうは「マスコミは表面的なことしか伝えてくれない」という苦悩に直面しているのであれば、問題点が見事に食い違っており、平行線にすらなっていません。

 私がいつも拝見している高橋シズヱさんのブログに、あるコメントが寄せられており、非常に納得しました。今の日本には、地下鉄サリン事件に関与した人々の言葉と似たものがあふれている。一見すれば正論であるが、相手を欺き、自分が優越感を得て、勝ちたいがための会話である。オウム真理教の狂信と同種のものが、サリン事件を知らない子ども達の携帯での悪口にまで現れている。
 全くその通りだと思います。人間の本能の中に渦巻くドロドロとした感情は、たった15年で変わるはずもなく、その意味では風化することはないでしょう。被害者の苦しみは日本人の苦しみそのものであるという現実は、殊更に事件を思い出して悼むという遠回りではあり得ないとも感じられます。私の力は微々たるものですが、日々の仕事においてはテクニックに走る理論武装を拒み、相手の心に届くような言葉を語ることができればと思います。

フジテレビドラマ 『地下鉄サリン事件から15年』 (1) 事件について考えていたこと

2010-03-21 23:57:18 | その他
 15歳の中学生に「地下鉄サリン事件なんて知らない」と言われてしまえば、私には返す言葉もありません。風化とは時間の別名のようにも感じられます。そして、人間の外側の時間が過去から未来に流れているように感じられる限り、風化させまいとする意志は、自然の流れに逆らう苦しい戦いになるのだと思います。
 死刑判決確定後も再審請求や死刑執行停止で闘っている元被告人や弁護団にとっては、地下鉄サリン事件は風化どころではないでしょう。しかし、この程度の戦いであるならば、死刑が執行されてしまえば終わりです。また、未だに逃亡している3人の指名手配犯にとっても、事件は風化どころではないでしょう。しかし、やはりこの程度の戦いならば、素直に自首すれば簡単に終わります。

 人が風化との戦いによって、人間が人間であり続けるための証しを示しているのであれば、それは「あの日から時間が止まっている」という感覚と表裏一体なのだと思います。世間的な価値観からすれば、恐らく苦しい記憶は忘れてしまった方が楽ですし、損得勘定からすれば、過去を捨てて新しい人生を歩みだしたほうが得なのでしょう。しかし、現に人間存在のあり方は、はるかに複雑かつ深遠な様相を呈しているように思います。
 私は、地下鉄サリン事件を昨日のことのように思い出しますが、それはテレビや新聞を見て驚いている記憶であり、事件のフラッシュバックで苦しむ記憶ではありません。また、事件当日で時間が止まった記憶でもありません。従って、私には風化を阻止する資格はないのですが、それでも、風化を絶対に阻止しなければならないという直感のようなものがあります。

 私は法学部を出てすぐに裁判所に就職したこともあり、地下鉄サリン事件についても、 法律的な捉え方から自由になれませんでした。法律の専門家は、「無知な一般庶民の感情」を無意識のうちに一段低いものとして見積もっていました。
 林郁夫被告の裁判の第1審で無期懲役が求刑され、そのまま無期懲役判決が出て確定したのは平成10年のことでした。井上嘉浩被告に第1審で無期懲役判決が出たのが平成12年、第2審で死刑判決となったのは平成16年でした。そして、法律の専門家による判例評論は、例によって非常に盛り上がりました。論点の中心は、永山基準(犯罪の性質・動機・殺害方法・被害者数・遺族の被害感情)の正しい解釈のあり方、今後の判例の展開などです。また、オウムの裁判は、ある意味で死刑廃止論の試金石にもなっていました。

 専門家同士の議論は、いつも賛否両論という形で、自分の意見を他人に認めさせるための論証という形態を採っていました。すなわち、一見論理的でありながら、すべては自分の感情を正当化するための理屈の組み立てに過ぎないということです。ゆえに、最後は神学論争に陥って勝負がつくことがありませんでした。これは、自分の感情を俯瞰した上で、それを客体的に説明するという意味での論理ではないということです。
 そして、専門家によって提示されるのは、単に思考の技術であり、事後的な解釈であり、生きることと考えることが別々になった上での解説でした。それは理論武装であり、論破の勝負であり、客観的であり、ゆえに他人事でした。このパラダイムに拠る限り、主観的な全人生を語る以外には語れない被害者や遺族は、「感情的で冷静さを欠き正しい裁判の障害となる存在」として捉えられざるを得なくなります。その結果、「厳罰感情」「被害感情」をいかに扱うかという問題だけが残されました。

 刑事政策は社会政策であり、「なぜ人は犯罪を犯すのか」「犯罪を犯さないためにはどうすればよいのか」という問いの入口が固定しています。そのため、自由意思と決定論の原理的な対立があり、それが折衷説で妥協されるなどして、ますます理論と実務の乖離を招いてきました。改めて「実務と理論の融合」が図られなければならないということは、生きることと考えることが別物になっているということです。
 こうなると、自由意思も何も議論の余地のない受動態の被害者の側から問いを立てられると、答えに詰まることになります。生きることと考えることが完全に一致せざるを得なくなっている場合には、それを何かの説明や解釈にすり替えて誤魔化すことができません。加害者の側は、「私が犯罪に追い込まれざるを得なかったのは社会の責任である」という最強の答えがありますが、被害者側には答えがないからです。

 その当時のいかなる法律専門家も、「二度と地下鉄サリン事件のような悲劇を起こしてはならない」「この事件を風化させてはならない」という大義名分を有しつつ、この犯罪と裁判を論じていたように記憶しています。ところが、15年経った今、次々と起きる新たな問題に追い立てられて、その議論も風化して見る影もありません。
 事件を風化させまいとする意志は、世間一般の時間の観念に逆らう苦しい戦いにならざるを得ないと思います。それは、「失われた10年」「昭和30年代ブーム」「100年に一度の不況」「20年後の日本」「幕末ブーム」などの時間の流れの前には、多勢に無勢でしょう。しかしながら、この事件を被害者として語る資格のない私には、せめてリアルタイムで事件の報道に居合わせ、何の縁か某幹部の裁判に立ち合っていた記憶を言語化しておかなければならないという強い直感のようなものがあります。

ある無罪判決の後の検察庁の光景 その2

2010-03-19 00:03:09 | 実存・心理・宗教
(その1から続きます)

 被害者や遺族に控訴断念の納得を求めるとき、彼(検察事務官)の個人的な良心と職業倫理とは、いつも激しくぶつかり合っていた。そして、国家公務員・組織人という肩書きによって、個人の快・不快の感情が方向付けられているのもこの部分であった。
 妻を殺された夫、母を殺された娘を目の前にして、「控訴できないものはできないんだから黙って従ってください」と言い渡すことは、一人の人間としては間違った行いのように思う。しかし、検事ではない事務官が、「控訴しましょう。高裁では有罪判決を取ることをお約束します」と言ってしまっては、明らかな嘘である。
 人の世には数え切れないほどの間違いがあり、その無数の間違いを秩序立てて囲い込まなければ、社会のルールは破壊される。そして、その秩序やルールの裏側には、無罪判決の陰で沈黙を強いられてきた無数の被害者や遺族が存在する。

 恐らく、今回の強盗殺人事件の無罪判決は間違いである。常識的には、どう見ても、あの被告人は真犯人である。しかしながら、被告人本人ではない彼には、本当のところはわからない。決定的な証拠がない以上、本当に被告人が犯人だとわかるのかという問いを突きつけられれば、答えは「No」に決まっている。被告人が自白から否認に転じた原因もわからない。仮に、真犯人と名乗る者が自首して来たとしても、その者が真犯人かどうかもまたわからない。
 そもそも、決定的な物証と自白が揃っている事件ですら、逮捕・起訴された者が真犯人であると言い切ることはできない。被告人が真犯人と合意の上で身代わりとなり、すべての遺留品について精密な工作がなされていたならば、これを見破ることはまず不可能だからである。身代わり犯人がそのまま服役を終え、本当のことを語らなければ、この世で2人以外に真実を知る者はいない。
 そして、法治国家は、無実の者に有罪判決が下されることを「誤判」と呼び、真犯人に無罪判決が下されることは「誤判」とは呼ばない。後者は、人間の行うことに100パーセントはあり得ないとの命題により、「誤り」の範疇から除外されているからである。

 彼が沈黙を保っていると、被害者の娘がゆっくりと口を開いた。「何をやっても母は帰ってきません。そんなことは言われなくてもわかっています。頭ではわかっています。しかし、正直な気持ちを言えば、私は今でも母が家にいないことを、現実として受け入れていません。ですから、私は生きていられるんです」。
 夫が補足するように語った。「被告人が有罪であろうと無罪であろうと、妻が帰ってこないのは同じことなんです。ですので、控訴して有罪になったとしても、妻が家に帰ってこない限り、本当のところは、何の解決にもなりません。死刑判決が出て、『遺族は心から喜んで気が晴れた』などと思われるのは反吐が出ます……」。
 さらに娘は訴えた。「ネットで、『死刑にすればそれで済むのか』という書き込みを見てしまいました。済むと言っても嘘ですし、済まないと言っても嘘です。何だか、考えていることのレベルが違いすぎて、疲れてしまって、まともに相手にする気力もなくなりました」。
 続いて夫も述べた。「逆に、親身に裁判の応援してくれる方もいたのですが、その善意はプレッシャーでもありました。厳罰という目的が達成されたのに、私達がいつまでも浮かない顔をしていたら、恩を仇で返したと思われるのが怖かったからです。まあ、無罪判決ならば、元気に立ち直って生きる演技はしなくてよくなりましたけどね……」。

 彼は、ただただ2人の言葉に交互に聞き入り、頷くだけであった。その視線は、尊敬や憐れみでもなく、単に焦点を失っていた。自分の母親や妻を殺されたわけではない以上、彼は2人の遺族の気持ちも正確にはわからないと思った。さらには、自分の母親や妻を殺されたとしても、やはり2人の遺族の気持ちも正確にはわからないと思った。
 彼は、「お気持ちはわかります」と言ってしまえば偽善となり、「お気持ちがわかりません」と言ってしまえば悪となる現実の前に、何も語る言葉がなかった。少なくとも、余計な合いの手を入れて、2人の言わずにはいられない思いを妨害することだけは避けたいと思った。
 被害者の夫は、厳しい表情を崩さないまま、「私達はもうこれ以上傷つきたくないので、控訴しないでください」と述べた。娘も、全てを悟ったような表情のまま、「今回の結果を母にどう報告するか、あとは自分達で考えます」と静かに述べて、2人は帰り支度を始めた。
 目的は無事に達せられた。彼は、検事に、「被害者遺族は地検の意向に納得して帰りました」と報告することになる。しかし、これでは何も伝わっていない。そうかと言って、彼には、今回のやり取りを言葉にして他人に伝えるだけの力量はない。しかも、検察事務官の職務としては、2人の言葉にならない行間の沈黙を伝えることなどは求められていない。
 2人の姿が地検の玄関から消える頃には、国家公務員・組織人という肩書きの力によって、彼は再び日常の仕事の世界に戻っていた。

(その3に続きます)

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フィクションです。

ある無罪判決の後の検察庁の光景 その1

2010-03-18 23:49:08 | 実存・心理・宗教
 殺人事件で無罪判決が言い渡された直後の検察官の顔は、とても見られたものではない。被害者遺族が傍聴席で絶句し、立ち上がれないでいるのを横目に、声も掛けられずに戻ってきた公判検事の表情は、驚きと絶望と後悔と怒りをすべて1か所に寄せ集めたようでもある。
 ところが、地検の控訴審査で吊るし上げられ、針のムシロに座らされ、起訴検事と公判検事が相互に「下手クソ」と罵り合ううちに、その苦悩は対象を変える。それは、有罪率99%を誇る精密司法の担い手としての出世レースからの脱落、自らの経歴に取り返しのつかない傷が残ったことに対する自尊感情の葛藤である。

 彼(検察事務官)が被害者遺族に対する説明の役割を命じられたのは、地検の控訴断念の意向が正式に決まった2日後、控訴期限の前日のことであった。すでに庁の方針として決まったことに対して、あくまでも控訴を求める遺族に説明を尽くすことは、職務の優先順位として上位に来るものではない。しかも、すでに検事が電話で直接説明しており、これ以上多忙な職務の合間を縫って時間を割く合理性もない。
 彼は、検察官がこれ以上遺族に会う必要もなく、会ってはならないとの理屈はその通りだと思った。また、出世レースからの脱落に打ちひしがれている検察官よりも、自分のほうが適任であるとも思った。

 彼は、地検を訪れた2人を前に、高裁でも勝ち目がない理由を繰り返した。2人とは、妻を殺された夫、母親を殺された娘である。
 犯人は強盗目的で侵入し、被害者に騒がれたため、とっさに彼女の首を絞め、顔面を数十回殴りつけて殺害した。その後、犯人は現場に放火して証拠隠滅を図ったため、指紋もDNAも全く残らなかった。被告人は、逮捕された当初は全身を震わせて反省の言葉を述べたが、公判段階で否認に転じた。裁判では通行人の目撃証言や、被告人が金に困っていたことなどの情況証拠の積み上げにより、捜査段階での自白調書を裏付けようとした。しかし、裁判長は「被告人の犯行とするには合理的な疑いが残る」と判示し、いわゆる灰色無罪となった。これ以上、有力な証拠の出現は期待できない……。

 被害者の夫は、彼に向かって言った。「やっぱり、私が外出した時に、外から鍵をかけなかったのがすべての原因なんですね。本当に申し訳なくて……」。彼には返す言葉がなかった。娘も彼に向かって述べた。「私も遊んでないで、早く帰ればよかったんです。毎日後悔しています。私のせいです。自分を責めるなというほうが無理です……」。彼には、やはり返す言葉がなかった。
 彼はこれまで何百人もの被疑者・被告人と接し、自らの欲望を満たすために犯罪を犯しては、その原因を世の中や他人に求める理屈を強制的に聞かされ、人間の言葉に対する免疫を養ってきた。しかしながら、本来責任を負う筋合いのないものに責任を感じる人間の言葉には、彼は何も対応できなかった。ただただ、2人の偉大な人生と、人間の尊厳に押し潰されていた。

 数分の沈黙の後、彼は言葉を選んで語り出した。「常識的にはどう見ても、あの被告人が犯人です。でも、裁判の有罪・無罪は、『疑わしきは被告人の利益に』というルールで決まるんです。証拠を隠滅しなかった者が有罪になり、証拠を隠滅した者が無罪になるんです。おかしいですけど、そうなんです」。彼の言葉は、徐々に苛立ちを含んだものになっていた。理解して下さい。わかって下さい。私にもどうしようもないんです。彼の真意は、確実に2人に伝わった。
 今度は、2人のほうが沈黙してしまった。2人の目が「わからないけどわかる」と語っていたのであれば、彼にも救いはあった。しかし、2人の目は、「わかるけどわからない」と語っていた。彼には、これ以上新たに言うことは何もなく、これでは話が永遠に終わらないと直感した。物わかりの悪い人達だと思った。そして、数分前の尊敬の視線が、正反対の憐れみの視線に変わっていることに自分自身で気がついた。

(その2に続きます)

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フィクションです。