犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

大津市いじめ自殺問題(5)

2012-07-22 22:44:15 | 時間・生死・人生

 いじめを主語として「いじめは存在したのか否か」と問うことと、人間を主語として「いじめを認識していたのか否か」と問うことは、似て非なるものです。これを哲学的に問い詰めれば存在論と認識論にまで至りますが、世間的に論じられるのは別のところだと思います。現代社会では科学的客観性への信頼が前提とされており、通常の思考の中で登場する問いは、「いじめは存在したのか否か」のみです。ここにおいて、あえて認識のほうを問題にすることは、俗世間を渡るための1つの能力の表明だと思います。

 人が社会常識に従って日常生活を送り、平均的な推論を働かせて行動を選択しているのであれば、今回の自殺の原因についての認識は明白だと思います。いじめは全国の学校に蔓延しており、その中でも死を選ばなければならない程のいじめは執拗かつ陰湿であり、人間の生きる希望を奪うものです。そして、自殺の練習までさせられ、命の軽さを心底まで認識させられた者が、その強制させられた認識に従って当然の如く死を選んだ場合、人間の言語は「彼はいじめを受けて自殺した」「彼はいじめによって自殺した」と語ります。

 利害関係のない第三者としては事実を認識していても、組織の一員としては事実を認識していないという状態は、いわゆる二重思考の技術だと思います。責任を負う側の組織としては、とりあえず「自殺といじめの因果関係がわからない」ということにしておくのが唯一の正解であり、これに従うことが組織人の能力だということです。これは、あらゆる階層的な組織における病理として飽きるほど指摘され、分析されていますが、人命よりも形式的な規則が重視され、人命よりも上意下達の指揮命令系統が大切にされます。

 官僚的な組織におけて最も重要な約束事は、自由主義でもなく、民主主義でもなく、事なかれ主義だと思います。ここでは、いじめは存在していると同時に存在しておらず、自殺との因果関係は存在していると同時に存在しておらず、これらの事実は矛盾しておらず、しかも矛盾していないことを信じなければならないはずです。ここに個人レベルでの自己保身と責任回避が絡んで来れば、事態はより複雑になってくるものと思います。死者はそれぞれの思惑によって利用されるだけです。

 この病理を解きうる論理を保有するのは、哲学のみ(講壇哲学ではない)だと思います。私自身は、食べて寝て生きる身体性の制約のもと、給料を得て生活するために組織人の義務を忠実に果たしており、「自殺といじめの因果関係がわからない」と主張する仕事に浸かり切っています。

大津市いじめ自殺問題(4)

2012-07-21 23:57:41 | 時間・生死・人生

 人は日常生活において単語を定義しながら使用しているわけではない以上、いじめの定義から問題に入ることは、観念論の知的遊戯に堕するものと思います。縦割りの論点主義によっていじめが主題となる場合、そこでは責任の所在が問われ、定義から問題に入ることによる利益が生じます。これに対し、例えば「原発事故で福島県から避難した子供がいじめに遭っている」、「あまりに珍奇な名前(キラキラネーム)を付けると将来いじめに遭う」と語られるとき、いじめの定義は自明だと思います。

 「いじめは朝起きた瞬間から始まっている」という表現を聞き、深く納得したことがあります。「いじめは家でご飯を食べている間も続いている」という表現も同様です。これらは、いじめられている側のみに成立している論理であり、いじめている側には無関係であることによって、「いじめとは何か」という残酷な真実を示しているように思います。人はなぜいじめを受けると自分で自分の命を絶たなければならなくなるのかという問いに対する解答の入口は、ここにあると感じます。

 ところが、このような表現は、得てして文学的です。強制的であれ、限界まで突き詰められてしまった言葉は、文学的にならざるを得ないということだと思います。「学校でいじめられていない間もいじめは続いているのだ」という文学的な表現が、いじめと自殺の因果関係を示す論理として把握されるためには、かなりの読解力の発動を要するはずです。ところが、実務的にいじめと自殺の因果関係を議論する場では、このような論理の入る余地はありません。単なる比喩として捨て置かれるものと思います。

 生徒の人生を預かっている教育現場において、その生徒が死を選んだということは、教育者としては何よりも先ず敗北感に打ちひしがれるはずです。ここにおいて、いじめの定義を論じ、いじめの存在の有無を論じ、いじめの確認の有無を論じ、自殺との因果関係の有無を論じることは、閉塞感の打開という意義を与えられるものと思います。「有る・無し」の究極は生と死であり、いじめの有無ではない以上、人の死を前にした実務的な議論は、当初から的を外すことが前提になっているのだと思います。

適菜収著 『ニーチェの警鐘』

2012-07-18 23:56:15 | 読書感想文

p.66~

 B層は民主主義が大好きです。それどころか、絶対的な正義だと思い込んでいる。学校でそう教わったからです。B層は民主主義を否定すると憤慨します。彼らは《民主教》の信者だからです。骨の髄まで洗脳されているからです。

 小泉自民党政権から民主党政権に至るまで、近年繰り広げられてきたのは「民主化運動」と言っていいでしょう。「官から民へ」「民意を問う」「国民の審判をあおぐ」「民主主義の原点に戻る」といった言葉が政界に氾濫してきました。革命を牽引してきたのは小沢一郎です。

 ニーチェなら、政治家が《民意》を尊重し《民主主義の原点》に戻ろうとしたことが、政治、経済、社会の混迷を招いた最大の原因であると言うでしょう。政治家がやるべきことは《民意》から距離を置き、《民主主義の原点》から国家・社会・共同体を守ることです。まともな哲学者・思想家は、例外なく民主主義を否定しています。


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 憲法学者の関心と、有権者である一般庶民の関心なり感覚が大きく食い違っているのが、議員定数不均衡の問題だと思います。一票の格差を是正すべきという社会運動については、新聞で意見広告を目にすることがありますが、世論が高まったという話を聞いたことがありません。意見広告を見ると、不均衡の状態は民主主義社会において人間の価値に差がつけられている状態であり、これは大変な事態なのだという危機感だけは伝わります。そして、これによって国民が啓発されないのは、考えない人は元々何も考えず、考える人は元々その先を考えているからだと思います。

 一票の格差があろうとなかろうと、選挙で棄権する人は必ず棄権し、組織票で当選が決まり、浮動票はタレント候補に流れ、政治は政策でなく政局で盛り上がります。また、一票の格差が是正されようとされまいと、「次の世代を考えずに次の選挙ばかり考える政治家」に対する失望が恒常化し、マニフェストは守られず、権謀渦巻く永田町では狐と狸が化かし合います。議員定数不均衡の問題を解決した先にある問題は、「民主主義国家ではその国民のレベルに合った政治家しか選挙で選ばれない」ということであり、ここで一票の格差に関する啓発を受けても、ピンと来ないものと思います。

 議員定数不均衡訴訟を最高裁まで争うという活動は、国民のために、国民の代表として闘っているという自負に基づくものと思います。そして、同時に、その活動は国民の広い支持を集めることはないだろうと思います。それは、選挙を無効にして議員を失職させ、問題山積の国家に政治空白を作り、しかも成立した法律を無効にするという思想が、日々の生活に追われている一般庶民の感覚と完全にずれているからです。「違憲状態での法律は国民のものではない」という憲法論と、「国民の生活が一番」という政治家の腹黒さの次元の違いが解消されることはないと思います。

吉田熈生編 『中原中也詩集』

2012-07-17 23:51:20 | 読書感想文

p.324~ 吉田熈生氏の解説

 中原中也の詩には、ある「遠さの感覚」があって、それが彼の詩の1つの源泉をなしている。誰でも子供の頃、星空を仰いで、宇宙についての知識とは別に、言葉にならない不思議な感じにうたれた記憶があるはずだが、中原の詩にはそういう子供の記憶を一生持ち続けたようなところがある。

 有名な「一つのメルヘン」にしても、そこに表現されているのは、日光と水と小石しかない原初的な世界であり、人間はいない。詩人もまた、1つの蝶と化してこれに生命の息吹を与えるだけである。こういう情景は、「自然」の風物に自己の日常的な情緒を託し、「自然」に包まれて生きる詩人からは決して生まれないだろう。

 世界と自己について、このような感覚をもった詩人が、現実の社会の中に生きるということは困難なことにちがいない。なぜなら近代は自己主張の時代であり、知識を重んじる合理主義の時代であり、科学文明の時代だからである。言葉もまた時代の動向に沿って、意味の伝達を機能的に、効率よく果たす役割を背負わされる。ところが詩人中原中也の言葉は、このような近代の言葉とは相容れないものであった。

 しかし詩人も現実の中で、ということは他者との関係の中で生きなければならない。そして中原の言葉は、他者に向けられた鋭利な批評であり、その批評は反転して自己に突き刺さる性質のものであった。中原は、はやくから、詩人とは神に代わって歌う「天才」だと考えていたし、それに対して「名辞」の世界に生きる人間は言葉を便利な「物」として使う「俗人」だと考えていた。

 しかし神は人々に仰がれるであろうが、詩人はその善意にもかかわらず、「悪達者」な世人の「憎悪」によって陥れられる。「名辞以前」の世界という考えは、それが自己の生に向けられた時、言葉を発する自己を否定し、死へと誘う考えでもある。詩人としての中原の自負は、現実から「無」の世界へ墜落することと背中合わせであった。

 死者との交信も中原の詩の特徴の1つである。昭和6年、弟の恰三が病死した。「死別の翌日」が書かれ、ここでも中原は、死者の「清純さ」と生き残った者の「づうづうしさ」を対比させて、自らを責めている。このような死者との関係は、昭和11年、中原が2歳の長男文也を失った時に最も濃密となった。

 人間関係における「間」――距離意識を失い、亡児に憑き過ぎた中原は精神異常を疑われて入院させられた。この前後、中原は「また来ん春」「夏の夜の博覧会はかなしからずや」などの哀切な追悼歌を書き、「春日狂想」で亡児への贖罪意識を歌った。詩人は自分の想いが常識から見れば「狂想」であることを知っていたが、それでも死児への愛と、死者から引き離されて生きる生活の空しさを歌わずにはいられなかったのであった。


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 私が裁判所に勤めていたとき、自動車運転過失致死罪の裁判で、詩のような陳述書を持参した女性がいました。それは、亡くなった夫に対する愛情や、やり切れない心の空洞、寂寥感、孤独感などを書き綴ったものであり、被告人に対する処罰については一言も書かれていませんでした。裁判官は困惑し、検察官は苦笑し、弁護人は不快感を示しました。結局、それは証拠として採用されず、事実上書記官室で預かることになりました。

 書記官室の空気は一方向に固まっていました。法廷という場に詩はそぐわず、そのような詩の朗読はどこか別の場所でやってほしいということです。そして、私もそのように考えていました。それは、法廷の権威を保つことに寄与する公務員としての誇りと自負であり、場違いな言葉に対する見下しの念でした。すなわち、法律の言語は、詩の言語よりも合理的であり、レベルが高いということです。

 その後私は、自分が書く尋問調書などの公文書の内容の空疎さと、被害者が書く詩のような言葉の濃密さの比較に心を痛め続けることになりました。私は言葉の仕事に従事する者として、「名辞」の世界に生きる人間は言葉を便利な「物」として使う「俗人」だとの確信を強めていきましたが、それは言葉のプロとしての職務倫理に反していました。私は、詩人が現実の社会の中に生きることの困難さを知ることになりました。

齋藤孝著 『なぜ日本人は学ばなくなったのか』

2012-07-16 23:42:23 | 読書感想文

p.20~

 今や「情報はタダ」という認識が一般化しています。碩学と呼ばれる学問の大家が心血を注いで書いた言葉も、アイドルの言葉も、一般の人による“街の声”も、あるいはショップや商品の宣伝文句も、すべて並列的に同じ情報として扱われています。世の中全体が水平化、フラット化した社会になりつつあるといえるでしょう。

 バラエティ番組では、いかに教養がないか、バカであるかを競い合うようなものが放映されています。視聴者はそれを見て楽しんだり安心したり。いわば知性のないこと、あるいはそれを逆手にとって開き直る姿が“強さ”として映るような時代になっているわけです。

 その感覚は教育現場にも及んでいます。もちろん、今でも一生懸命に勉強する生徒・学生はいますが、勉強しない学生のほうが圧倒的に多い。その割合は1対9といったところでしょう。前者は知性や教養を求め、非常に野心に燃えていますが、後者はやる気自体を完全にダウンさせている状態です。


p.85~

 今の親世代には、自分の親の世代に比べ、子どもの世界の邪魔をしてはいけないという自己規制に近い意識が大きく働いています。「性の解放」の潮流が正当性を持って社会に是認されたため、親自身も禁止することを「古くさい」「リベラルではない」と思うようになっている。

 日本でその影響が顕著に現れたのが、「援助交際」です。簡単にいえば10代の売春ですが、昭和時代には考えられないことでした。その世代が、今はもう親になっています。これからの日本では、自己を完全に商品化してしまった人たちも子育てをしていくわけです。教育の新しい局面に向かうことになります。

 自分にとっての快適な空間を第一に考える昨今の若者と、従来の「学ぶ」ことを主軸に自己形成してきた時代の若者とを比べると、まさに隔世の感があります。「遊ぶ」と「学ぶ」を天秤にのせると、かつては後者のほうが重かったはずなのに、今では前者のほうがずっと重い。そういう大きな転換が起きました。


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 教育現場からいじめをなくそうと本気で考えるのであれば、学校とは何か、教育とは何かについて、現代の歪みを是正するための幅広い議論を尽くす必要があります。また、年間3万人を超える自殺者をゼロに近付けようと本気で考えるのであれば、同じく途方もない国民的議論が必要となります。そして、このような議論は1週間も続かないのが通常だと思います。

 大津市のいじめ問題を議論する番組の内容よりも、その合間のコマーシャルや番組予告とのギャップの方が、いじめ問題の深さを表しているような気がしました。報道番組ではそろそろこの話題も賞味期限が切れてきたようであり、「国民全体で幅広い議論を尽くすべき問題」が一体いくつ存在するのか、考えると気が遠くなります。

大津市いじめ自殺問題(3)

2012-07-12 23:42:06 | 時間・生死・人生

 人生は一度きりであり、命は1つしかない以上、生死の力関係においては、殺した者が強者であり、殺された者が弱者です。殺した者は生きており、殺された者は生きていない現実が動かぬものであれば、法は、法を守らない者を守ることになります。死者は帰らず、失われた人生は戻りません。ここでの復讐や報復という価値は、人が法を守れないことを示しているのではなく、法が人を守れないことを示しているものと思います。

 そして、このような法治国家において、殺人者よりもさらに強い地位を得るのが、他者を自殺に追い込む者だと思います。死者の行為の外形は、あくまでも自分の命を粗末にしたものであるのに対し、他者を死に追い込んだ者は、法の裁きを免れます。そして、死者の生きられなかった時間を生きる者には、その倫理的な罪の十字架を背負って苦しむ人生を送るのか、あるいは過去を忘れ去ってのうのうと笑って生きていくかの選択が可能であり、いずれにしてもその後の人生が保障されています。

 主役であるべき死者を置き去りにした議論の盛り上がりは、生き残った者の優越感に覆われ、死者の立つべき地位を奪い取るように思います。マンションから飛び降りないよりも飛び降りることのほうが望まれる心理状態を察しようとすれば、それは全身の痛み及び死の絶望を人生の最上の価値とすることであり、現に生きている人間にこの先の思考は不可能と思います。従って、人間になし得ることは絶句と沈黙のみであり、本来であれば議論の余地はないと思います。

 学校や教育委員会の初期対応の拙さについては、「なぜ昨年10月の出来事が今頃になって問題になるのか」という疑問とともに、組織内で揉まれた者においては、かなり腹黒い意味を与えられるものと思います。すなわち、なぜ上手く揉み消せなかったのか、どこで根回しや裏工作が失敗したのかという点の拙さです。このような老獪さを示す秀逸な言い回しに、「子供じゃないんだから」「ここは学校ではなく会社だ」というものがあります。学校という場で子供が死を選んだ事実の前では、手の打ちようがないと思います。

 いじめと自殺の因果関係の有無を大真面目に議論して争うのは、悪い冗談であるとの印象を受けます。この種の議論の大義名分として、二度と同じようなことが起きないようにするための生産的な活動であることが求められますが、これが実現したためしはないと思います。因果関係の有無は、あくまでも生き残った者の後知恵です。そして、我が子を救えなかった親の絶望は、怒りや悲しみを通り越して感情を失くすものである以上、因果関係の解明によって怒りや悲しみが癒されたり、乗り越えられることはないと思います。

大津市いじめ自殺問題(2)

2012-07-10 00:02:21 | 時間・生死・人生

 いじめ問題について、以前にはかなりの力を持っていたのが、「子どもの人権」から演繹的に考える理論であったと思います。すなわち、体罰や校則による管理教育がストレスを生み、生徒間での人権を守る意識を低下させているのであり、この点を改めればいじめは改善されるとの主張です。私は個人的に、いわゆる山形マット死事件を機にこの種の理論に幻滅を覚え、恐怖すら感じるようになりました。ここでのいじめ問題は、学校の民主化という総論に対する各論に過ぎず、より大きな正義の前に死者の命は容赦なく踏みにじられるとの印象を持ったからです。

 今となっては、いじめ問題への有効策と思われたゆとり教育が大失敗の烙印を押され、学校裏サイトには手の打ちようがなく、大人の職場でのパワハラ・モラハラも蔓延し、かつてのいじめ論議が遠い昔のことのように思われます。試行錯誤を重ねた結果、想定外の状況の対応に追われ、万策尽きて真面目に議論に疲れ果てれば、多くの人間はそこで思考を断ちます。そして、「同級生の名前がテレビで透けて見えた」などの叩きやすい失策を非難することにより、その空気に乗って、正義の側に立っているとの安心感を得るしかないのだと思います。

 学校や教育委員会による事実の隠蔽、あるいは教師による生徒への口止めという事実を捉えて、今回の問題の元凶のように非難するのは、あまり上品な姿勢ではないと思います。いかなる組織であっても、いわゆる「現場の悲鳴」を肌で感じている者は、桁違いの修羅場がもたらす精神の疲弊を知り抜いており、かつその苦悩は外部からは理解されないことを悟っています。そして、人は危機が大きければ大きいほど「自分の身は自分で守るべきだ」という自己責任論を投げつけられるのであり、組織の論理に逆らって自己の良心に従う余地は皆無に等しいと思います。

 亡くなった生徒は、マンションの14階から飛び降りたとのことですが、すでに全身を完膚なきまでに打ち付けられている状態では、改めて飛び降りて物理的に全身を打ち付けることに対する解釈は行き止まりだと思います。これは言い古されたことであり、誰もが解っていて解らなくなっていることだと思いますが、他者の痛みを理解する感覚の欠如は、情報や欲望の増大による個人の自意識の肥大と比例しています。この点につき、現代社会の多くの大人は、人生の先輩として中学生に語り掛けられる言葉を持っていないものと思います。

大津市いじめ自殺問題(1)

2012-07-09 23:35:07 | 時間・生死・人生

 少子化問題の議論においては、「産み育てた我が子はいじめを受けて自殺しない」という安全神話があるものと思います。人が親になるということは、1人の人間を肉体的にも精神的にも一人前に育て上げるという大仕事であり、この世で最も難しい仕事だと感じます。その我が子が、他の「我が子」からいじめを受けて親よりも先にこの世を去る可能性があるという事実は、多くの人が気付きながらも避けている部分だと思います。しかしながら、少子化の大きな原因は、このような教育環境がもたらす命の軽さの感覚であり、あらゆる社会環境が「生きにくい」と感じられる点にあるのではないかと思います。

 この世の中では起こったことしか起こらず、起きていないことは起きていません。防げたことは最初から存在せず、何の賞賛も浴びませんが、防げなかったことに対しては容赦ない非難が浴びせられます。数年前、いじめを苦にした自殺予告により期末試験や体育祭を中止した出来事が相次いだことがありましたが、その時には、毅然たる対応が取れなかった学校に対する非難の論調が主流だったと記憶しています。自殺が起こらなかったという圧倒的な事実の前には、「人命最優先」の理屈の説得性は落ちます。そして、逆に自殺という圧倒的な事実が起これば、この論理は簡単にひっくり返ります。

 「生きていれば必ずいいことがある」というのは大嘘だと思います。これに対して、いじめ自殺で我が子を失った親が、「一生引きこもりであろうと不幸であろうと単に生きていてほしかった」と語る言葉に嘘が入る余地はないと思います。自殺のSOSは、自殺した後に初めてそれとして把握できるものです。自殺という事実が存在しなければ、何回も学校を訪問して訴える親は、単なるモンスターペアレントに過ぎません。これは、過酷な学校現場で疲弊した教師の側の過労やうつ病の問題であり、この場所に生徒のSOSが存在する余地はないと思います。部外者の非難はすべて結果論であり、後知恵です。

 いじめ自殺と言えば、「鹿川裕史君」「大河内清輝君」という名前が、顔写真や遺書とともに思い出されます。25年前の中学生は、今回の件では生徒の親の年代に当たるものと思います。社会科学的な問題解決の手法は、中学生なら中学生と対象を固定化したうえで、その理論を実践に移すのが通常です。しかし、その間に社会が先を行ってしまい、後を追い掛けても理論が追い付かず、気が付いたら自分が歳を取っていたという事態が生じがちだと思います。25年前の「生きジゴク」「葬式ごっこ」に衝撃を受けた者ほど、25年後の「自殺の練習」を前にしてなす術がなく、生じるのは虚脱感ばかりだと思います。

冷泉彰彦著 『関係の空気・場の空気』

2012-07-08 23:37:16 | 読書感想文

p.60~

 考えてみると、誰もが「話が通じなかった」とか「会話が途切れて気まずい思いをした」という経験をしているのではないだろうか。そして、ここ十数年、そんな経験が少しずつ増えているのではないか。

 問題を前にして、何も言葉が出ない。明らかな対立があるのに、歩み寄れない。いや、その前の対立そのものを浮き彫りにすることもできない。明らかに傷ついている人がいるのに、慰めることができない。気まずい雰囲気が濃くなっていても、その場を救う言葉が出ない。世代が違うだけで、全く共通言語がない。男と女、教師と生徒の間で自然な会話が成り立たない。

 そんな中、空気が欠乏し会話が破綻する。やがて沈黙が支配する「日本語の窒息」の瞬間がやってくる。そんな事態が増えてきているのではないだろうか。それは、かつて日本語のコミュニケーションの中に色濃くあった「腹芸」とか「あうんの呼吸」といわれる雄弁な沈黙ではない。


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 初対面の人との会話における三大タブーは「政治」「宗教」「野球」の話題だと聞いたことがありますが、言い得て妙だと思います。これらは、「共通の話題」として飛びつかれやすく、しかも簡単に会話が弾んで盛り上がるものと思います。ところが、議論が白熱するや否や対立が避け難くなり、平行線が交わることはあり得ず、最後は予想外の破綻と沈黙を招くという落とし穴を持っています。私もこれまで何回も落ちました。

 昨年から日本社会に加わった最大のタブーは、原発に関する話題だと思います。私自身、それまで気が合うと思っていた友人や、人柄を尊敬していた先輩との間に微妙な空気が生じ、ギクシャクしてきた状況があります。原発に関する議論に端を発した夫婦の別居や家庭崩壊の話も聞きました。この問題に関する国民的な議論を推し進めれば、日本社会はますます会話が成り立たない社会になるものと思います。

稲盛和夫・五木寛之著 『何のために生きるのか』 その2

2012-07-06 00:02:35 | 読書感想文

p.160~

 “坂の上の雲”という言い方がありますね。司馬遼太郎さんと話していて、僕は面白いなあと思ったのだけれども、『坂の上の雲』が高度成長の応援歌のように思われた時期がある。それを司馬さんは苦々しく不愉快に思っていましたよね。「違うんだよなあ」と言っていたんですよ。

 『坂の上の雲』というのは、希望の象徴のように言われているけれども、そうではない。脱亜入欧のなかで、ヨーロッパに学んでアジア諸国をゴボウ抜きにして坂を駆けのぼっていく。峠のてっぺんに立って雲はつかめるか。坂の上の花とか果実だったらつかめるけれども、峠のてっぺんに立ったとき、雲は山のかなたの空遠く、向こうを流れているだけです。

 つまり、“坂の上の雲”は、永遠に到達することのできない目標という意味なんですね。永遠につかむことのできない夢、ということなのです。ある意味ではニヒルな、クールな視点です。雲は永遠につかめないだろうという、深いアイロニーが背後にあるすばらしい題名ですよね。われわれ日本人は、明治以降、そうした背景にある部分を故意に見てこなかったんじゃないかと思うんですよ。


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 司馬遼太郎の一連の作品に現れている歴史観を表して、「司馬史観」と呼ばれているそうです。これは、合理主義を重んじることを前提として、具体的には明治時代と昭和時代を対置し、封建制国家を合理的な近代国家に作り替えた明治維新を高く評価する一方で、昭和期の敗戦までの日本を暗黒時代として否定する捉え方とのことです。ところが、司馬遼太郎自身は「史観」という考え方自体にそもそも否定的であり、本人を差し置いた解釈論争の側面が大きいようです。

 司馬史観の特徴は、右からも左からも叩かれる点にあるようですが、司馬遼太郎の座右の銘が「中庸の徳」であったことを考えると、むべなるかなと思います。右からも左からも叩かれないのは単なる凡庸ですが、右から見れば左、左から見れば右という恐れられ方は、中庸かつ合理的でなければあり得ないことだと思います。歴史の捏造や歪曲という概念を有するか否かにより、歴史観はその入口から器の大きさが異なってくるように感じます。