犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

森達也著 『王様は裸だと言った子供はその後どうなったか』

2011-11-30 23:53:56 | 読書感想文
p.27~

 結局のところ、事実など指の隙間から零れ落ちる砂のようなものだ。読者や視聴者に与えられる情報は、徹頭徹尾、書き手や撮り手が感知したその場の状況の主観的な再現でしかない。時おりテレビなどでヤラセ疑惑が話題になるが、被写体に演技を強要したとか金銭を払ったとか、そんなレベルのヤラセなど実は稚拙なほうだ。もっと巧妙なヤラセだっていくらでもできる。いや、端的に言えば、そもそも表現はヤラセなのだ。

 表現行為であるかぎり、ノンフィクションなどありえない。すべての表現は作者の主観が織りなすフィクションだ。ただし、ジャーナリズムは少しだけ違うと僕は考える。もちろん人の感覚が介在するのだから主観からは絶対に逃れられない。その現実は認知しつつも、できる限り中立点を模索して(到達など決してできないが)、正確で客観的な情報伝達への意欲と努力だけは失わずにいるべきだ。

 でもそもそもは主観。この原則に無自覚になったとき、ジャーナリズムは大きな間違いを起こす。絶対的な公正を体現してしかも中立であるとの錯誤から、自らは正義であり、報道することによって悪への懲罰を与えるのだと思い込む。


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 事実をめぐって争われる裁判の中でも、特に刑事裁判は誤判が許されず、客観性が強調されます。私は裁判所書記官として勤めていた当時、その客観性のため、連日の深夜残業に明け暮れたり、長引く法廷でトイレを我慢したりしていました。
 真実は1つだという検察官は、被告人の微妙な言い淀みの中に矛盾を指摘し、弁護人からはすかさず「異議あり!」の声が飛びます。他方、弁護人は供述調書の一字一句の言葉の意味を執拗に争い、検察官からは何度も「異議あり!」の声が飛びます。
 司法試験に受かるほど優秀な法律家が、すべての情報は主観であることや、それゆえに不可能な客観性が求められていることについて、理解できていないはずはないと思います。ところが、いざ法廷で検察官と弁護人が戦うとなると、両者ともその瞬間は「歴史上の唯一の真実」を主張して顔を真っ赤にします。

 私は幸いにも、弁護人から調書異議を申し立てられたことはありませんでしたが、同僚が調書異議を申し立てられる様子を見て、やり切れない思いがしたことが何回かありました。他人の話した言葉を書き取る書記官は、日本語として意味が通じるものにするため、前後の文脈から解釈を補う必要に迫られます。
 弁護人がこの部分に異議を申し立てるということは、「こちらの真意が正確に伝わっていない」ということです。ところが、国家権力に対する異議申立ての形を採る限り、それは「正確な事実の歪曲である」「客観的事実の隠蔽である」との厳しい批判となります。裁判所書記官としては、このような攻撃を名指しで受けると、さすがに心が折れます。
 私はこのような環境に身を置いていたため、他人の言葉を書き取る仕事ではなく、自分の言葉で語ることのできるジャーナリズムに一方的な羨望を抱いていた時期がありました。しかしながら、言葉の本質への考察を進めるにつれ、すべての表現は主観的なフィクションであることに気づき、私は公平中立を標榜するジャーナリズムの世界には耐えられないだろうと感じました。

 森達也氏のようなドキュメンタリー作家の稼業は、「そもそも表現はヤラセである」「ノンフィクションなどあり得ない」という認識を堂々と仕事の中心に置くことができ、私の新たな羨望の対象となっています。これも単に隣の芝生が青く見えるだけかも知れません。

復興需要を被災者雇用に生かす その3

2011-11-28 00:03:12 | 時間・生死・人生
 被災地の雇用問題を復興需要に結びつける議論は、科学的・分析的手法を大前提としているように思います。そこにおける人間は、「使用者」「労働者」「消費者」といったように一般化され、学問的な思考の構造に引き付けて理解されています。すなわち、識者が把握する雇用問題の構造に応じて、社会のあらゆる場面が一定の形で理解され、震災の現場もその中の1つに入っているということです。ここでは、主はあくまでも雇用問題であり、震災は従たる位置づけです。
 このような議論の範疇に入っている被災者は、「働きたいが仕事がない」という者のみであり、「PTSDで仕事に戻れない」「虚脱感で働く意欲も湧かない」という被災者は度外視されているように思います。一般的にはニートの増加や生活保護制度の破綻の問題として語られている問題が、ここでは除かれているということです。「家族が行方不明のままで探し続けなければならず仕事どころではない」「再就職したところで仕事が手に付かず迷惑を掛ける」という場面は、雇用問題の枠組みでは受け止めることができません。

 もともと、科学的・分析的手法は、問題を論点主義的に捉える特徴を持っているように思います。例えば、失業率を低下させるという目的においては、前月よりもその数字が減れば、目標に近づいたということで事足ります。しかしながら、雇用された者においては、新たに長時間労働・低賃金・サービス残業・賃金未払い・パワハラ・過労死・過労自殺といった問題に向き合うことを余儀なくされます。これらの問題は、失業率の問題とは理屈の上では別ですが、個人の人生においては一連のものです。
 過労死や過労自殺で命を落とすのであれば、失業していたほうが良かったことは言うまでもなく、雇用されたのが間違いの始まりであったということになります。「働く人を大切に」「命を大切に」とのスローガンが空疎な理想論ではないとするならば、失業状態を脱して仕事を見つけることが、必ずしもプラスの価値にならない関係は認めざるを得ないものと思います。そして、通常雇用問題が議論されるときには、個人の大切さが叫ばれながら、個人の人生を単位として考えられることがないように感じます。

 被災地の声を真摯に聞くということであれば、「働きたいが仕事がない」という声よりも、「言葉にならない凄絶な体験及びその後の心境の変化に耳を傾けてほしい」という声に先に気付くことが、人間として正常な感覚であると思います。但し、後者の声を聞く場面では、お金は回らず、経済は動きません。そして、後者の声を聞く者の存在は、10年後、20年後にますます必要とされ、経済や労働の問題とは常時次元を異にし、交わることがないように思われます。
 知人の友人にとって、「復興需要を被災者雇用に生かす」という言葉が聞きたくないのは、その中に被災地の外からの圧力を感じるからだとのことでした。「いつまでも落ち込んでないで復興のために働け」ということです。彼は家族全員が無事であり、自宅にも被害がないため、事態を冷静に客観視していますが、想像を絶する被害を前にして気が張っている方々は、「復興需要を被災者雇用に生かす」という言葉を真剣に受け止めがちのようです。彼は、復興した後が本当に恐ろしいと語っていました。私もそう思います。

復興需要を被災者雇用に生かす その2

2011-11-26 23:46:03 | 時間・生死・人生
 人は目の前の仕事に集中することにより、その一瞬の間は他の苦しみを忘れ、気を紛らわすことができます。但し、仕事に集中できないほどの苦しみは、組織的な作業に支障を生じさせるものであり、問題の次元を異にするように思います。

 どんなに小さな企業であっても、2人以上の人間で仕事をする際には、お互いの脳内で抽象概念としてのシステムを共有することが不可欠です。そして、仕事の見通しが立たないとき、仕事の流れが悪いとき、人はイライラします。組織的に仕事をする際には、複雑な現象をステレオタイプに押し込めて単純化することが必要です。人間の情報処理能力には限界があり、短時間で情報を処理しなければ仕事は溜まる一方だからです。
 情報化社会のビジネスの現場を生き抜くには、人はこのステレオタイプに順応する必要があり、問題を効率的に処理する必要が生じます。さらには、これに伴う苛立ちや怯えといったストレスをやり過ごし、抑うつや人格障害に陥らず、精神衛生状態を健康に保つことが必要です。これが、震災前に一般的に言われていた労働環境の問題であり、被災地以外の場所で変わらずに続いている問題だと思います。

 人間は、仕事でミスをして会社に大損害を生じさせたり、不当に責任を負わされたりすれば、「大地震が起きて会社も何もかも潰れればいい」との希望を持たざるを得ないものです。また、理不尽な恫喝をする上司や取引先に対しては、瞬間的な殺意を覚えるものです。これが「社会の中で仕事をする」ということだと思います。
 この抽象概念を脳内で共有する同僚が津波で海に流されて3月11日の午後から戻らないこと、見えないシステムを可視化する書類やパソコンのデータは一瞬で無になるとを知ってしまったこと、これらの事実を前にしては、「社会の中で仕事をする」ことの価値は無意味となります。既存の価値観の壊滅を前にしては、競争社会に参加することも無意味であり、年収格差に嫉妬することも無意味です。

 「人はなぜ働くのか」「働くとはどのようなことか」という哲学的な問いは、実際に働いている人間が棚上げしている問題だと思います。人は生きなければならない、従って食べなければならない、よってお金を稼がなければならない、ゆえにお金を稼いで食べて生きるためには働かなければならないとなれば、問題は振り出しに戻ります。「復興需要を被災者雇用に生かす」との政策論は、被災地の問いへの解答となるものではありません。
 「働きたいのに仕事がない」との平時の問題意識は、被災地の雇用の問題には的外れです。少なくとも、肉親を失うこと、家を失うこと、財産を失うこと、職を失うこと、これらを並列したうえで復興に結びつける議論は、実際に被災地で苦しんでいる方々には雑音以上の暴力であるとの印象を受けます。

(続きます。)

復興需要を被災者雇用に生かす その1

2011-11-25 23:42:38 | 時間・生死・人生
 先日、被災地の知人のそのまた友人の話を聞く機会がありました。彼は家族を失ったわけではなく、自宅を流されたわけでもありませんが、仕事を辞めました。彼が語った率直なところと、私が考えたことを合わせて書いてみたいと思います。

 彼の周囲では、5月から9月にかけて自ら命を断った方々が数人います。このようなニュースは、「復興に向けた力強い歩み」の陰で扱いが小さいですが、そもそも「せっかく助かった命がなぜ失われるのか」という問いには答える気にならないと言います。遺書を書く余裕もなければ、その動機の推定は経済的な問題に集約され、本人の反論も許されないまま震災関連死と命名され、「一刻も早い対策が求められる」で終わりです。
 彼が今最も聞きたくない言葉が、「復興需要を被災者雇用に生かす」という言い回しだとのことです。復興を雇用に結び付けるとは、がれき処理や仮設住宅に関する公共事業に伴う仕事を被災者に回すということであり、具体的には建設業者に発注する際には被災地のハローワークで求人を行い、広く情報を共有するということです。

 私が感じたことは、不況による失業がもたらす喪失感、うつ病、自殺といった従来の問題に対応する場合の理論は、震災の場合には完全に的を外すということでした。被災地における喪失感の象徴が「がれき」です。これは、「がれき」と名付けられたことによりがれきになったものであり、3月11日の午前中までは「念願のマイホーム」や「思い出の詰まった家具」などと呼ばれていたものです。復興需要を被災者雇用に生かすとなれば、この辺りの繊細な感情は問答無用で切り捨てです。
 津波で全てが流されたにも関わらず、これが1日も早く復興できるということは、流されたのはその程度のものであったということです。3月11日の午前中まで積み上げてきた仕事が重いものであればあるほど、簡単に復興してしまっては、真摯に仕事に取り組んできた者にとっては救われないはずです。「復興などできない」と言われたほうが、よっぽど救いようがあると思います。

 このようにして復興した先にある仕事は、その中に破壊の不安を含んでいます。これは、今後30年で三陸沖北部から房総沖で再度M8以上の地震が発生する確率が30%であるという具体的な数字の話ではなく、人間が平時には棚上げしている実存不安の問題です。すなわち、真面目に物事を考えれば必ず突き当たるところの、「なぜ働くのか」「なぜ生きるのか」という根本的な問題です。

(続きます。)

池井戸潤著 『下町ロケット』より

2011-11-23 16:13:20 | 読書感想文
p.65~

 三田は狡知を滲ませた笑いを唇に浮かべる。「ウチが訴え、プレス発表する。佃製作所を特許侵害で訴えましたってな。さて世間はどう思うかな? いままで佃製のエンジンを買っていた会社は、どうするだろう? 付き合っている銀行はどうだ? さてそれから、いよいよ裁判に突入だ。莫迦にならない金もかかるし、手間もかかる。その裁判が長引いたらどうなるか……。佃がどれだけ耐えられるか、見物じゃないか」。

 「なるほど、兵糧攻めってわけですか」。西森は顔の半分を引きつらせて笑った。「そうやって自滅してくれれば、裁判がどうなろうとウチの勝ちですよね、たしかに」。

 「やっとわかったか」。三田は大きく両手を上げて接待で凝った背筋を伸ばすと、いつもの説教染みた話を続ける。

 「いいかよく聞け。この世の中には2つの規律がある。それは、倫理と法律だ。俺たち人間が滅多なことで人を殺さないのは、法律で禁止されてるからじゃない。そんなことをしたらいけない、という倫理に支配されているからだ。だが、会社は違う。会社に倫理など必要ない。会社は法律さえ守っていれば、どんなことをしたって罰せられることはない。相手企業の息の根を止めることも可能だ。どうだ、ちょっとした発見だろ」。

 そのために、訴訟というツールを使う。ナカシマ工業の十八番だ。しかも相手が中小企業となれば、その得意技がもっともハマる構図といってよかった。


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 民事訴訟法を研究するだけでは、民事訴訟の実際のところはわからない。ましてや、憲法の「裁判を受ける権利」の原則から考えていては、民事訴訟の実態からますます遠ざかる。色々な小説の裁判に関する描写を読むと、法律の文献しか読まない法律家の独特の思考の偏りに気付くことがあります。

 民事訴訟をツールとして用いることは、さして珍しくないものと思います。特に、ここ数年で民事訴訟全体の半数近くを占めるに至った過払い訴訟(消費者金融への不当利得返還訴訟)は、判決に至らないどころか第1回口頭弁論すら開かれないことが多い裁判です。ここでは、できる限り早く訴えを取り下げることが当初からの目的となっており、裁判制度は手段として利用われているだけです。

 訴訟法の規定する制度が日常的にツールとして利用されていながら、なぜか法律家の視線が非常に厳しいのが、「お金が欲しいのではなく命を返してほしい」と語る原告に対してです。すなわち、「民事訴訟は復讐心を満足させるためにあるのではない」「個人の腹いせのために裁判所を使うな」といった評価が一般的だと感じます。裁判制度の限界と言われるところのものは色々ありますが、この点は最大の限界だと思います。

海音寺潮五郎著 『悪人列伝・中世篇』

2011-11-22 16:10:30 | 読書感想文
● 梶原景時 (p.84~)
 おそらく彼はインテリにありがちな神経質なところのある人物であったろうし、頼朝の信任を受けているだけに、頼朝の利害についてはよほどに気をくばって、いつも一毫も頼朝に損をさせてはならないと思っていたであろう。
 景時のような性質は官僚によくある性質だ。優秀といわれる官僚には、皆この性質がある。この性質を欠いては官僚たることをつづけることが出来ないのではないかとさえ、ぼくは見ている。思うに、景時は生まれながらにこの官僚的素質をもっていたのであろう。


● 北条政子 (p.152~)
 政子は悪人ではない。常に善意をもって婚家のためによかれと努力しつづけた人であるが、あまりにも勝気であり、賢かったために、夫の在世中にはその独占欲によって夫を苦しめ、夫の死後は子供らの圧迫者となり、ついには実家の父や弟に乗ぜられて、婚家をほろぼすに至った。これに類することは、今日でも世にめずらしくない。
 人の世は善意だけではかえって悪となることが少なくない。政子の一生は、われわれに善意が善となるためには叡智がともなわなければならないことを教えるものであろう。

● 北条高時 (p.192~)
 北条氏の組織が日本人の経済生活の進展につれて御家人層の生態に次第に不適合となり、いろいろな矛盾が発生しつつある時に、未曽有の大国難蒙古の襲来に遭遇した。見事に撃退はしたものの、不適合の度は急ピッチに進み、矛盾は一層大きくなった。時宗の次の貞時に至っては、善政をしきたいとの十分な熱情を抱きながら、どうすることも出来ず、鎌倉幕府の基礎はゆらいで来た。
 高時がたとえ相当に賢明な人物であったにしても、こうなってはどうすることも出来なかったろう。お坊ちゃん育ちの、いささか暗愚な人物であったとすればなおさらのことだ。

● 高師直 (p.238~)
 師直といい、師泰といい、怯者ではなかったはずであるのに、末期の思い切りの悪さはおどろくべきものだ。人は快楽になれると生にたいする執着が強くなるのであろうか、一旦死にはぐれるとどこまでもいのちがおしくなるのであろうか、人間研究の好題目であろう。
 師直兄弟は悪行無慚の人物であるが、当時の人間は彼らの地位におけば、10人のうち8、9人まではこうなったのではないだろうか。上は天皇から将軍・公卿・大名・一武人に至るまで、我欲旺盛の濁りかえった世の中だったようにぼくには見えるのである。

● 足利義満 (p.274~)
 義満は驕児である。祖父も父も、幕府の名はあり、征夷大将軍の名はあっても、統制力のきわめて劣弱な幕府であり、将軍であり、生涯戦争ばかりし、しかもよく負けて都落ちばかりしていなければならなかったのに、彼においてはじめて基礎が確実になり、統制力が出来て来た。彼が驕児となったのはきわめて自然なことである。
 驕児には善・悪の観念はない。無道徳である。第三者の目におのれの行為が善とうつろうと、悪とうつろうと、かまうところではない。彼は彼の欲するままに行なうのである。義満はこれだったと、ぼくは見る。


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 「歴史認識」や「歴史を見る目」という概念は、改めてそのように言われると、かえって大袈裟に構えざるを得なくなるように思います。ただ、私自身の心の構えを見てみると、例えば「邪馬台国はどこにあったのか」「幕末の激動と明治維新」「日本はなぜ太平洋戦争に突き進んだのか」といったテーマにそれぞれ向き合う場合を比べてみると、これらを全く別の話として受け止めていることも確かです。私は、その時代、その時代を点として捉えるのみであり、今現在につながる線としては捉えてはいません。

 過去の歴史から何かを学ぶという態度は、上から目線で正誤の評価を与えるか、逆に下から見上げて崇めるか、いずれか一方に陥りがちであると思います。実際のところ、歴史に名が残っている人物は、同時代の多くの人々にとっては偉人でも何でもなく、単に権力を振りかざす者に過ぎなかったはずです。現在で言えば、「俺は法廷闘争で負けたことがない。10人の最高級の弁護士を用意している」と豪語する球団社長のようなものではなかったかと思います。もちろん、現在は刀で斬られるわけではありませんが、命の軽さは程度の差にすぎないとの印象も受けます。

奥野修司著 『心にナイフをしのばせて』 (3)

2011-11-17 00:04:09 | 読書感想文
p.96~
(加賀美洋君:殺された被害者、くに子さん:洋君の母親、みゆきさん:洋君の妹です。以下はみゆきさんの独白の部分です。)

 自分ではどうにもならなくなったとき、母は別の人格を登場させ、その人格のせいにして逃げたのかもしれない。あるいは、思っていながら自分では言えないことを、他の人格を借りて吐き出したのだと思う。兄の死はそれだけ強烈だったのだ。

 ただ不思議なのは、別の人格になっても、犯人に対する怒りや憎悪の言葉がなかったことだ。兄がいなくなって、どうして自分はこんな辛い思いをしないといけないのかと口にしても、犯人を恨んだり誹謗する言葉がなかった。兄が死んだだけでも辛いのに、憎しみが膨らめばもっと辛くなるからではないだろうか。

 犯人のAには、二度でも三度でも死んでもらいたい。わたしでさえそうなのだから、兄のことが大好きだった母が、そう思わないはずがないだろう。ただ、そう願えば願うほど、皮肉にも、もっと辛くなってしまう。母も同じではなかっただろうか。

 たびたび母が倒れるのを見ると、その後の症状がなんとなくわかってきた。気を失うだけならともかく、他人には聞かれたくない言葉を吐くのだから、父にしても気が気じゃなかったはずだ。だから母が倒れると、とりあえず人気のない場所へ急いで運んだ。母の立場になれば、やはり他人に見られていい気分じゃないだろうし、なによりもそんな母を他人の目に曝すのはかわいそうで見ていられなかった。


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 被害者の裁判参加を強く反対する法律論は、近代刑法の大原則から演繹的に展開されており、理路整然としてデジタル的です。しかしながら、アナログの極致である人間の内面の苦悩の掘り下げの前に、その論理が乱されている場面をよく目にします。法律の論理は数学に近く、人工的・科学的な言語は日常用語よりも優れており、法律家は一般人よりも偉いことが前提となっています。しかし、法律は数学そのものではなく、その言葉は人間を殺します。

 刑事司法の場で被害者が長らく見落とされていた点については、従来の三極構造から演繹的に考えれば、被害者はあくまでも当事者ではありません。よって、「被告人の権利と被害者の権利は両立する」という命題が出てくることになります。しかしながら、文庫版のあとがきを読むと、この奥野氏の著作が大反響を呼んだ後、同氏に対しては、この両立を否定するような批判が多くなされたことがわかります。すなわち、「取材が被害者に偏り過ぎていている」「公平さに欠けており作品として不完全である」という批判です。

 刑法における被告人の人権論は、憲法における表現の自由論と親和性を持ちます。思想の自由市場と言うならば、書きたい人は勝手に書きたいことを書けば済む話であり、後の評価は受け取る側に任せられるはずです。本人が「これを書きたい」と思い、あるいは「これを書きたくない」と思い、苦しんで言葉を紡ぎ出し、その内容のみならず形式についても暗中模索し、執筆に人生を賭しているときに、なぜ他人がその形式や内容について指示できるのか、上記のような批判には脱力するところがあります。

 この本の出版後、奥野氏は他の犯罪被害者の方から「私たちのことも書いてほしい」と懇願されたものの、奥野氏はこの本の執筆で精魂尽き果てており、お断りするしかなかったとのことです。奥野氏は文庫版のあとがきでお詫びしており、このような言葉を読んでしまうと、「表現の自由」という単語を使うのも憚られる気がします。

奥野修司著 『心にナイフをしのばせて』 (2)

2011-11-15 23:35:37 | 読書感想文
p.89~
(加賀美洋君:殺された被害者、くに子さん:洋君の母親、みゆきさん:洋君の妹です。以下はみゆきさんの独白の部分です。)

 兄の死がわかってくるにしたがって、わたしは1人で苦しむようになった。あるときなど、これまで見たこともないお花畑が、見るも鮮やかなつつじ畑に変わったかと思うと、突然血の海となった夢を見たことがある。この苦しさを誰かに打ち明けたい。そう思いつつ、誰にも打ち明けられず、じっと堪えることで精一杯だった。

 そしてもう1つ、かろうじて崩れずにいた家族を、自分なりに守りたかったのだと思う。家では母が毎日泣き明かすような生活をしていたし、父も涙こそ見せなかったが、泣いているのはわかっていた。私は母に、「お母さん、泣けるほうが楽だよね」と言ったことがある。辛くて泣くのはわかるけど、泣かないで頑張っている父はもっと辛いんだよ、と。よく考えるとひどい言い方だ。そんなことを母に言った自分が恥ずかしかった。

 1人で堪えているそんな父の前で、もしわたしが泣いたらどうなるだろう。わたしたちは薄氷の上を歩いているような家族だった。たった一発の銃声で雪崩が起きるように、かろうじて維持していた家族関係が、わたしの流す涙でガラガラと崩れてしまうことだってある。わたしはそう思って、泣くことをやめた。

 もちろん泣くことだけではない。笑いも忘れたし、怒りもどこかへ行ってしまった。自分の中の感情を抑えつけることで、わたしはわたしなりに家族を守りたかったのだと思う。それが大人には理解できなかったのだろう。だから、「兄が死んでも平然としている恐ろしい子」に映ったんだと思う。それを説明しなかった自分も悪いが、子供であっても、悲しみは大人と変わらないことに気づいてほしかった。


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 「我が国の刑事司法は長らく被害者の存在を忘れてきた」と言っても、人は実際に目の前で見えている者の存在を忘れられるわけがなく、これは過失による見落としではないと思います。裁判官・検察官・被告人という三極構造が前提とされ、その間で職権主義と当事者主義という対立軸があるとき、被害者はその論争の構造から排除されます。例えば、野球やサッカーのテレビ中継で選手とボールを注視しているとき、観客席の人間は目に見えていても実際には見えていないような感じだと思います。

 デジタルな法律論からすれば、被害者側の意思は、「厳罰感情が強い」と「厳罰感情が強くない」の2種類しかありません。ここからどのように理論を展開しても、ステレオタイプになるのは当然だと思います。こうなると、恨みか赦しか、憎しみの克服、前向きに生きるといった議論に流れ、刑事司法は被害者の存在を渋々思い出して変形しているにすぎなくなります。怒りどころか笑いの感情もなくなった、感情というもの全てを失った、従って「厳罰感情は強くない」という流れは、法律論の手に余るはずだと思います。

奥野修司著 『心にナイフをしのばせて』 (1)

2011-11-14 00:01:18 | 読書感想文
p.59~
(加賀美洋君:殺された被害者、くに子さん:洋君の母親、みゆきさん:洋君の妹です。)

(みゆきさんの独白)「普段、あの事件のことを口に出さないようにしておいても、法事などがあるとあらためてあの事件のことを考えさせられるでしょ? 思い出しても、普段なら生活の中で紛らすこともできるでしょうが、そういう日だけはできない。思い出したくないから母は倒れてしまうんです。母は言いませんでした? 自殺未遂したこともあったんですよ」。

 それを聞いたくに子さんは、呆然とみゆきさんの顔を見つめていた。そして、「憶えていないわ」と言った。すっかり遠回りしてしまったが、洋君が殺されてからの加賀美家を、くに子さんにかわってみゆきさんに語ってもらうことにした。

 母が憶えていないのも無理はないと思う。わたしだって兄のことを考えると、いまだに身体が震えてくる。母にすれば、自分の子供が殺されたのだからなおさらだろう。わが子がいつ死んでも親は辛いが、思い出が増えたら増えた分だけ辛さも増す。これはわたしが親になってからわかったことだ。15年も思い出があれば、普通の辛さじゃなかったと思う。わたしなら衰弱死していたかもしれない。

 それに母は、壁にぶち当たったとき、立ち向かっていくタイプじゃないから余計に辛かったと思う。そう考えると、母は自分が生きていくためには記憶を消すしかなかったのだろう。もちろん母が記憶を消すことができたのも父がいたからで、記憶を消したことで起きる問題は、父がすべて引き受けてきた。母にとって、記憶がないのは幸せなのかもしれない。


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 私は個人的に、大学の法学部や大学院で犯罪被害者について学ぶ際のテキストや副読本として、この本は絶対に用いられなければならないと考えています。解説で大澤孝征弁護士が述べているように、この本は「日本の法廷を変えた画期的な書物」だからです。そして私は、この本が法学部の教育過程で容易に用いることができない現実も痛いほど知らされています。この本の言葉の力は、確実に法律家のリーガルマインドを破壊するからです。

 法律家がプロの法律家である所以は、リーガルマインドを身に付けていることであり、それは具体的な事実を抽象的な規範に適用し、再び具体的な事実に戻る往復的な思考です。従って、人間の内面を掘り下げた小説はもちろんのこと、ドキュメンタリーやノンフィクションですら遠ざける必要に迫られます。被害者の存在が法的に忘れ去られ、ステレオタイプに扱われてきたのは、このような構造によるものと思います。

窪島誠一郎著 『父への手紙』より

2011-11-09 20:40:50 | 読書感想文
p.18~

 私はそのとき、何よりも、帳面の表紙に書かれている「セイチャンニカカッタセイカツヒ」という文字に眼をあてて、息を呑んだのだった。息を呑んだといっても、9歳の子どものことだったから、正確に、いま成人になってふりかえる気持と同じだったとは言い切れない。たぶん、もっとべつのふしぎな衝撃、子どもだけがうけとめることのできる微妙なショックとでもいえるものだったのだろう。

 ともかく、少し大袈裟にいえば、「セイチャンニカカッタセイカツヒ」と記された帳面の文字に、そのとき私は、ある何ともいえない人生への懐疑というか、尋常でない心の動揺をおぼえて立ちすくんだのである。手をひかれてついてきた相手に、ふいと背をむけられたような奇妙な戸惑いだった。「誠ちゃんにかかった生活費」――たしかにそこにはそう書かれてあった。子どもの眼にも、それははっきりとそうよめた。

 何度もいう通り、私は9歳になったばかりなのだから、その頃どれほど、親の立場や心情を理解する心にめぐまれていたかは疑わしい。親の、子によせる愛情のふかみや、傷み、苦しみについても同じだった。たぶん、幼い私には何もわかっていなかったのではないかと思う。でも、あの心の底からふきあげてくるような寂寥感は何だったのだろう。あの、たとえようもない孤独な、哀しみのかたまりのようなものは何だったのだろう。

 私は正直、父や母のやさしい笑顔の向うがわに、「セイチャンニカカッタセイカツヒ」というノートの存在があったことが驚きだった。親というものが、このように子への愛情の累積を、貸借表のような帳面にのこしておくといった行為が信じられなかった。なぜなら、それまでの私にとって、親はあくまで「私自身の分身」であったからである。「私自身の分身」が、私自身への養育費をひそかにソロバンに入れておく姿がふしぎだった。そんなことがあっていいものだろうかと思った。

 後日、「セイチャンニカカッタセイカツヒ」ノートは、(私の成長につれて)だんだん厚みをましてゆくのがわかった。成長すれば、食費も衣料費も教育費もふえてゆくのは当然だった。しかし私は、それから二度と、この台所の手垢によごれた古柱にくくりつけられた黒い帳面に手をふれることはなかった。

 何だかこわかったし、その頃から私の心には、この両親の「愛情」に対する「借り」はかならず返してみせたいという、ふしぎな意地のようなものが頭をもたげはじめていた。父母の恩義への感謝といった親孝行心理でもなかった。私はただ、それから画用紙やワラ半紙を買ってもらうにも、学校の授業費をはらってもらうにも、どこかで親のはじくソロバンの音に耳をすましているような、そんな疑心暗鬼の子にそだっていった。

 つまり、他人の言葉を信じようとするまえに、その言葉ウラにひそむ打算や思惑を必死でかぎとろうとする哀しい習性は、その頃から私の身につきまといはじめていたように思う。人のいうことを容易に信じない、自分に対する善意や思いやりにもなぜか反発し、素直に応じようとしない偏狭な性格は、その頃から少しずつ、私という子の心身をむしばみつつあったように思う。


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 一昔前の本を読むと、「日本語の名文」ともいうべき一節にあふれていて驚きます。内心の感情の繊細な部分と、客観的な出来事の正確な把握が渾然一体としており、これが語彙力によって凝縮されて端的に表現されていると思います。