犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

光市母子殺害事件差戻審 43・ 死刑判決は後味の悪いものである

2008-04-22 13:12:28 | 時間・生死・人生
判決の後の喜びと怒りには、2種類のものがある。伝統的な喜びと怒りは、一市民が当事者として闘った後の判決である。例えば、民事裁判によって巨大な社会悪に立ち向かう。行政訴訟によって公権力の横暴に抵抗する。そして、刑事裁判において冤罪を主張し、無罪判決を求めて闘う。これが伝統的な判決の光景であった。そのような刑事裁判においては、無罪判決が出れば大騒ぎして喜び、有罪判決が出れば大声を上げて怒る。これは純粋に政治的な争いである。このような形式に収まるのは、裁判の当事者として判決に参加しているからである。

これに対して、犯罪被害者の遺族は、刑事裁判ではこのような形で判決に参加することはない。裁判所に対して闘う、加害者に対して闘うと言っても、これは法律を離れた比喩的表現であり、被害者はあくまで刑事裁判の当事者ではない。従って、政治的な争いを繰り広げることはなく、判決の後の喜びと怒りの内容も、伝統的な光景とは全く異質である。死刑判決が出なければ、悔しいよりも虚しい。そして、死刑判決が出ても、嬉しいと同時に虚しい。これが被害者遺族の遺族たる地位である。この哲学的難題を容易に扱えると思うのは、修復的司法の愚である。

当事者でない本村氏の闘いは、ようやく9年目にして死刑判決の形をとって結実した。本村氏も激しく悩んでいたとおり、死刑を望むとは、人の死を望むことである。にもかかわらず、この世には死が正義となり、生が不正義となることもある、この信念は決して揺らがなかった。そして、死刑判決によって初めて、新たに残酷な事実に直面する。元少年が死刑になっても、殺された被害者は永久に戻らない。伝統的な裁判所の前で垂れ幕を掲げて万歳三唱をする思考方法においては、この絶望は決してわからない。ところが、実証主義的な人権論は、この哲学的難題の問いすら矮小化しようとする。

死刑判決は、確かに後味が悪い。しかし、この後味の悪さこそが被害者遺族の遺族たる地位であり、その苦しみである。これは、仮に無期懲役刑が言い渡された場合のやり場のない怒り、悔しさ、虚しさを想像してみればわかる。本村氏は判決を前にして、亡くなった2人の墓を訪れ、「一つのけじめがつきそうだよ」と語り掛けたという。生きて死ぬべき存在である我々は、心の中で死者に語りかける。この行動形式は、いかなる政治的な争いをも超えて普遍である。本村氏の墓前での語りかけは、弁護団の数千数万の理屈を一瞬で吹き飛ばす。この裁判は、死刑しかあり得ない。


光母子殺害、元少年に死刑判決(gooニュース) - goo ニュース

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