犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

夏目漱石著 『思い出す事など』より

2011-09-29 23:56:08 | 読書感想文
p.176~
 病気の時には自分が一歩現実の世を離れた気になる。他も自分を一歩社会から遠ざかったように大目に見てくれる。こちらには一人前働かなくてもすむという安心ができ、向うにも一人前として取り扱うのが気の毒だという遠慮がある。そうして健康の時にはとても望めない長閑かな春がその間から湧いて出る。この安らかな心がすなわちわが句、わが詩である。
 したがって、出来栄の如何はまず措いて、できたものを太平の記念と見る当人にはそれがどのくらい貴いか分らない。病中に得た句と詩は、退屈を紛らすため、閑に強いられた仕事ではない。実生活の圧迫を逃れたわが心が、本来の自由に跳ね返って、むっちりとした余裕を得た時、油然と漲ぎり浮かんだ天来の彩紋である。


p.186~
 平生の吾らはただ人を相手にのみ生きている。その生きるための空気については、あるのが当然だと思っていまだかつて心遣さえした事がない。その心根を糺すと、吾らが生れる以上、空気は無ければならないはずだぐらいに観じているらしい。けれども、この空気があればこそ人間が生れるのだから、実を云えば、人間のためにできた空気ではなくて、空気のためにできた人間なのである。
 今にもあれこの空気の成分に多少の変化が起るならば、――地球の歴史はすでにこの変化を予想しつつある――活溌なる酸素が地上の固形物と抱合してしだいに減却するならば、炭素が植物に吸収せられて黒い石炭層に運び去らるるならば、月球の表面に瓦斯のかからぬごとくに、吾らの世界もまた冷却し尽くすならば、吾らはことごとく死んでしまわねばならない。

p.217~
 物理学者は分子の容積を計算して蚕の卵にも及ばぬ(長さ高さともに1ミリメターの)立方体に1千万を3乗した数が這入ると断言した。1千万を3乗した数とは1の下に零を21付けた莫大なものである。想像を恣まにする権利を有する吾々もこの1の下に21の零を付けた数を思い浮べるのは容易でない。
 形而下の物質界にあってすら、――相当の学者が綿密な手続を経て発表した数字上の結果すら、吾々はただ数理的の頭脳にのみもっともと首肯くだけである。数量のあらましさえ応用の利かぬ心の現象に関しては云うまでもない。よし物理学者の分子に対するごとき明暸な知識が、吾人の内面生活を照らす機会が来たにしたところで、余の心はついに余の心である。自分に経験のできない限り、どんな綿密な学説でも吾を支配する能力は持ち得まい。

p.234~
 今の青年は、筆を執っても、口を開いても、身を動かしても、ことごとく「自我の主張」を根本義にしている。それほど世の中は切りつめられたのである。それほど世の中は今の青年を虐待しているのである。「自我の主張」を正面から承れば、小憎しい申し分が多い。けれども彼等をしてこの「自我の主張」をあえてして憚かるところなきまでに押しつめたものは今の世間である。ことに今の経済事情である。
 「自我の主張」の裏には、首を縊ったり身を投げたりすると同程度に悲惨な煩悶が含まれている。ニーチェは弱い男であった。多病な人であった。また孤独な書生であった。そうしてザラツストラはかくのごとく叫んだのである。こうは解釈するようなものの、依然として余は常に好意の干乾びた社会に存在する自分をぎごちなく感じた。自分が人に向ってぎごちなくふるまいつつあるにもかかわらず、自らぎごちなく感じた。


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 夏目漱石は『吾輩は猫である』の執筆中、ニーチェの『ツァラトゥストラはかく語りき』の英訳本と格闘しており、以降の著作にはニーチェの影響が多分に表れていると聞いたことがあります。但し、これは漱石がニーチェから何かを得たということではなく、ニーチェの「超人思想」が漱石の神経衰弱をさらに苦しめていたようです。

 漱石の前期の思想である「自己本位」と晩年の思想である「則天去私」の関係については、同じものであるとも対立するものであるとも聞いたことがあります。いずれにしても、近代的自我の確立という価値に苦しめられ、暗中を模索した結果として、漱石の著作には「ニーチェの言葉」が裏側から表れているように思います。ニーチェは弱い男であり、多病な人であり、孤独な書生であるにもかかわらず、なぜ現代社会を行き抜く実用的な言葉を語れるのか、私にはよくわかりません。

増村裕之著 『交通事故過失割合のすべて』

2011-09-26 23:53:08 | 読書感想文
p.16~

 加害者の一方的な過失のみで発生する交通事故はほとんどありません。実際には、加害者・被害者双方に過失があり、その結果として事故が起きるケースが大半なのです。こういった場合は、加害者だけに損害額を負担させるのは明らかに不公平です。「過失相殺」とはこの不公平を解消するもので、被害者と加害者の「過失割合」(過失の程度)に応じて、当事者間で損害賠償責任を負担しあうという制度です。

 たとえ加害者が酒酔い運転で交通事故を起こした場合であっても、被害者が交通規則に違反していれば、過失相殺がなされ、被害者に対する賠償額が減額されることになります。交通事故によるトラブルをスムーズに解決するためには、交通事故の発生から解決にいたるまでの流れを把握しておく必要があります。そして、「過失割合」が、どのような場面で問題になるのか、頭に入れておきましょう。

 まず、交通事故が発生してしまったら、負傷者の救護や危険防止の措置を講じるなど事故現場での対応を速やかに行うとともに、警察と保険会社に連絡しなければなりません。ここで注意しなくてはならないのが、その場での安易な示談交渉は絶対にしないということです。警察が過失割合を決めることはありませんが、警察の実況見分の結果で過失割合が左右されることになります。それ以前に不正確な割合で譲歩してしまうと、損害の公平な分担ができず、さらにはトラブルの種になってしまう場合もあるからです。


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 これも私の狭い経験からですが、「交通事故現場では先に謝ったほうが悪くなる」というトラブル回避の知恵を忠実に守ったがゆえに、問題がこじれて拡大した場面を多く見てきました。被害者にとっては、「加害者の第一声が自己弁護ではなく謝罪であったならば、感情的な対立は起きなかった」との論理が不可避的です。他方で、加害者においては、「謝罪したら謝罪していたで弱みに付け込まれていたはずだ」との不信感が心の奥底で生じます。

 言葉が抽象概念を実体化するものである限り、事故の瞬間にはあるべき過失割合が客観的に確定していなければならず、人間は後からその正しい割合を探求することを強いられます。ゆえに、この場面で公平と不公平の概念が人間を捉えることになります。「事故を起こした点につき道義的に謝罪すること」と「過失の存在を認めること」の区別は、事後的に理屈を積み重ねた結果の妥協の産物としてのみ可能であり、人間の実際の言葉はそのような区別をなし得ないものと思います。

 交通事故による加害者とは誰か、被害者とは誰かという問いに実務的に答えようとすれば、自動車安全運転センター(警察署所管の法人)が作成する交通事故証明書の「甲」が加害者であり、「乙」が被害者であるということになります。これは、「加害者と呼ばれたほうが加害者となる」という命名の問題であり、ここから命名に対する反発が生じ、「被害者のほうにも落ち度がある」という形での公平・不公平論が可能となります。紛争の早期の解決を志向する技術論が、問題を複雑にする例の1つだと思います。

神田洋司著 『交通事故の損害賠償額』

2011-09-24 00:11:29 | 読書感想文
p.1~ はしがきより

 当事者の心理は、被害者はより多くの賠償額を、加害者はより少ない支払いを望むということである。望みが強ければ強いほど対立の度合いは増す。被害者・加害者の欲望の揺れ動く谷間で当事者を説得し、早期円満解決を実現するには、公正かつ適正な賠償額を示し、公平であることを当事者に納得させなければならない。

 東京地方裁判所などを中心とする民事交通裁判官などの努力で、過失割合基準表の発表、逸失利益の算出方法、積極損害の定型化・定額化、慰謝料の基準額などが公表され、それらが解決に大きな影響を与えたが、今では、それに代わり、日弁連交通事故相談センターあるいは東京三弁護士会交通処理委員会から、それぞれ損害額算定基準が公表され、これらの小冊子が紛争の迅速・適正な解決に多大の成果をあげている。

 しかし、物価の上昇、貨幣価値の下落などの社会経済条件の変動、「人の命は地球より重い」という人権尊重の理念が、年々基準額を上昇させていて、これがまた新しい紛争の火種ともなっている。最近の世相を反映してか、示談の中に無法者が介入する傾向に強い怒りを感じる一方、示談代行保険の普及に従い、加害者の事故に対する道義的責任、モラルの欠如にも別の怒りを覚える。


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 先日、交通事故被害者遺族の救済に積極的に取り組んでいる弁護士から、次のような話を聞きました。犯罪被害者の自助団体が増えるに従い、弁護士が関わることも多くなっています。若い弁護士は、最初の頃は、「悲惨な交通事故が社会からなくなってほしい」との言葉を率直に口にします。ところが、数年の経験を積むうちに、「交通事故がなくなってしまっては自分の仕事がなくなる」との常識論が支配的となり、同じ言葉に偽善が混入することとなります。

 死亡事故は、弁護士にとって「金になる案件」です。死者の生前の年収が高ければ高いほど、賠償額は巨大となり、成功報酬の単価も莫大となります。しかも、相手が保険会社ですから、賠償金の取りはぐれの心配がありません。そして、このような「金になる案件」の奪い合いの1つの形態として、弁護士の犯罪被害者の自助団体への参加がなされている状況もあるようです。どこかで死亡事故が起きたときに、その仕事を真っ先に紹介してもらうための布石を打っておくということです。

 人の不幸で飯を食う弁護士という仕事は、世の中から離婚のトラブルがなくなっては困りますし、相続の骨肉の争いがなくなっては困ります。同じように、世の中から交通事故がなくなっては困ります。この世の中の「大人の事情」というものが、この偽善性に気が付きつつあえて責めないことを意味するのであれば、弁護士が犯罪被害者の自助団体に参画する際には、この点の欺瞞性に自覚的でなければならないと思います。そして、これは弁護士という仕事の性質上、ほとんど不可能だろうと思います。

長戸路政行著 『交通事故と示談の仕方』

2011-09-23 00:18:52 | 読書感想文
p.1~ はしがきより

 賠償金額が高くなるよりは、そもそも事故がなくなることが理想ですが、現実は、第2次交通戦争とも呼ばれるほどに交通事故による死亡者数、事故発生件数共に増加の一途をたどっています。結局、事故はなくならないものとするなら、やはり、重要なことは任意保険を十分にかけておくことでしょう。

 すべての車やドライバーは、必ず対人賠償保険(任意保険)をかけておくべきです。これがあるかないかで「示談」の話も大きく局面は変わります。現代は、生活のすみずみまで保険が浸透しており、保険の知識がないと、この世を上手に生きることが不可能とさえ言えるでしょう。本書がそのような事故の悲劇を解決することに少しでも貢献できればと念願しております。


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 先日、交通事故被害者遺族の救済に積極的に取り組んでいる弁護士から、本音の部分の話を聞く機会がありました。交通事故による死者は、ここのところ11年連続で減少しています。しかしながら、死者が戻らない限り被害者遺族が心の底から喜べることはなく、その思いは必然的に「二度と同じ思いをする人がいなくなること」、すなわち世の中から死亡事故をゼロにすることに集約されます。

 他方、弁護士のほうは、このような被害者遺族の言葉に共感を示しつつも、それは表面上の共感であることを余儀なくされます。現在の経済社会の中で生きるということは、「現代社会で死亡事故がゼロになることはあり得ない」という社会常識に従うことでもあり、この常識が理解できない者は一人前の経済人としての扱いを受けることが困難となるからです。その意味で、弁護士の被害者遺族に対する向き合い方は、上から目線であることを余儀なくされます。

 弁護士会の感覚としては、犯罪被害者保護の活動は、刑務所での講演や教誨の活動と並列されることが多いようです。どちらの活動も、不動産売買や相続争いといった弁護士本来の仕事からは外れており、利益や採算を度外視した社会奉仕活動であるとの位置づけです。ここには、経済社会の常識に至らない者への憐憫の視線があり、競争社会の論理からの脱落者への同情があるように思います。形而上の生死を法制度の中で解釈しようとすれば、どうしてもこのような結果になってしまうのだとの印象を持ちます。

内田樹・名越康文著 『14歳の子を持つ親たちへ』

2011-09-21 00:06:49 | 読書感想文
p.20~
 批評的立場の根本的矛盾なんですけど、厳しく現状を批判する人間って、どこか無意識的に事態がますます悪くなることを望んでいるんです。「もうすぐ危機が来ますよ、危機がそこまで来てますよ」って言い続けていると、「オオカミ少年」と同じで、僕の予測が正しいということが証明されるためには、本当に危機が来ないと困るわけです。だから、危機論者はいつのまに必ず無意識的に危機を待望しちゃうんですよ。これって倒錯してますよね。

p.55~
 ディベートなんて、コミュニケーション能力の育成にとっては最低の教育法だと思いますよ。そんなこと何百時間やっても、自分の中にある「いまだ言葉にならざる思い」とか「輪郭の定かならぬ感情の断片」を言葉にする力なんか育つはずがない。自分が自分について語ることは、つねに語り足りないか、語り過ぎるかどちらかで、自分の思いを過不足なく言葉にできるなんてことは起こりえない。だから、ぎりぎりのところでそれに触れそうな言葉を次々とつなげてゆくしか手がない。

p.105~
 僕たちが過去の物語を語るのは、語り終わったときに、聞き手が自分のことをどう思ってくれるか、僕を愛してくれるか、僕に敬意を抱いてくれるか、僕を承認してくれるか…… そういう語りの効果を狙って、自分の過去を物語るわけです。未来における効果を目指して語っていくわけだから、「嘘」とは言いませんけれど、原理的には「お話」なんですよ。過去の無数の記憶の中から、つじつまの合った話の材料になるものだけを選択しているわけだから、「作り話」なんです。

p.169~
 メディアって結局、基本的なフレームがあって、その中に上手くはまらない現象というのは報道しないんですよ。別に意図的に「しない」というんじゃないけど、うまく収まらないので番組にならない。プロデューサーやディレクターが理解できて説明できる現象じゃないと扱わないんです。だから、既存の説明枠組みそのものを書き換えないとうまく提示できないような出来事はマスメディアは伝えない。


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 この本の書評を見てみると、どのテーマについても「何をどうすべきか」という明確な解答を出しておらず、その点が双方向の評価につながっているようです。私自身は思考の傾向として、読者に考えさせる文章の深さに心地よさを感じるものであり、目の前の問題への対処を示す文章には押しつけがましさを感じます。しかしながら、そのような思考を持ちうるには、ある程度の精神的余裕の担保が必要であるとも思います。

 私はディベートが大嫌いであり、コミュニケーション能力の育成にとって最低であると感じています。上記の内田氏の見解には心底より共感しました。ところが、職場の研修で「明日は○○のテーマでディベートだから準備しろ」と言われてしまえば、もはや組織人は逆らうことができません。内田氏の言葉の説得力は、私の仕事の具体的な場面では、単に生きにくさを引き起こすだけです。私は、この考えさせる文章を考えることのできない妙な地点に立ち止まっています。

苫米地英人著 『テレビは見てはいけない』

2011-09-19 23:45:02 | 読書感想文
p.29~

 テレビで姿を目にする人物に対して、視聴者は自然と好意を抱くようになっているのです。その理由が「ストックホルム症候群」と呼ばれる現象にあります。
 1973年スウェーデンのストックホルムで銀行強盗が起き、複数の人質をとって犯人グループが立てこもりました。1週間後に犯人たちは人質を解放しますが、その人質たちは解放後、世間を驚かせます。彼らは自分たちを監禁した犯人をかばい、彼らを逮捕した警察に対して反感を表明したのです。

 ラポールとは「心の架け橋」という意味で、人間関係において相互に信頼し合っている感情のことを指します。犯人と人質は、支配・被支配の関係性に長時間置かれていました。人間は自分のいる臨場感空間を支配している人に対して強いラポールをもつ傾向があります。
 現代人の生活において、臨場感空間を支配する人の姿をよく目にする場所こそがテレビ番組なのです。テレビによく出ていた人が、選挙に出馬すると多数の票を獲得する理由は、視聴者がその人に対して知らず知らずのうちにハイパーラポールを抱いたからにほかなりません。


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 私が刑事部の裁判所書記官をしていたとき、交通事故の被告人側の情状証人に、怪我をした被害者が出廷したことがありました。「私は大丈夫です。どうか被告人に重い罪を与えないでください」という内容の証言を行うためです。裁判官からの処罰感情の真意を問う質問に対して、被害者は余計なお世話だとばかりに不快感を示し、「私は被告人の人生に協力したいのです」と繰り返し語っていました。私は、その無表情で断定的な様子を見て、これが被害者の立ち直りの1つの形であることが否定できないならば、問題は一筋縄では行かないのだと直感しました。

 ちなみに、裁判官も書記官も人事異動が多く、書記官と裁判官の組み合わせは1~2年で変わるのが通例です。そして、人間である以上相性の良し悪しもあり、特に被支配側である書記官は理不尽な心労を抱え込むことがままあります。それでもしばらく一緒に仕事をしていると、書記官はどんなに人遣いの荒い裁判官に対しても、「実はいいところも沢山ある」「あの人は本当はいい人なのだ」との好印象を持つようになるのが通常です。私の経験がストックホルム症候群に類似するのか、全く違うものなのかについては、どうでもいいことだと思います。

竹中平蔵著 『竹中教授のみんなの経済学』より

2011-09-15 23:31:02 | 読書感想文
p.242~ 「おわりに」より

 著名な経済学者であるJ.M.ケインズは、かつて次のように述べたことがあります。100年も経ったら、すべての経済問題は解決されている。そのときに、人生のほんとうの問題が顕在化する…。つまり人生には、生と死、愛や憎しみなど、経済問題よりはるかに重要な問題があるといいたかったのでしょう。人間の生死や愛情といった問題が重要であることは、疑う余地がありません。

 しかしながら、ケインズの予想に反して、経済の問題は一向に解決される気配はありません。いつになっても人間の生活の問題は、なかなか厄介なものなのです。どうせ生きてゆくのなら、これから先も経済という厄介な問題と徹底してつき合ってみようではありませんか。経済を知れば、人生は10倍おもしろくなるのではないでしょうか。

2000年12月 竹中平蔵


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 東日本大震災によって被災地の企業が壊滅し、食べていくためには仕事をしなければならず、そのために死者を想う時間が奪われるという経済社会の現実を前にして、かつてのベストセラーのあとがきの部分を思い出しました。経済に疎い自分が、その当時の自分なりに反発を感じた部分が強く印象に残っており、人の生死と経済問題が混然としている事態に接して、なぜか昔の記憶が蘇ってきたものです。

 「生と死、愛や憎しみなどの問題は、経済問題よりはるかに重要な問題である」という大前提が共有されていれば、未曽有の大災害に向き合う人間の心情も自ずと異なってくるものと思います。経済社会のルールにおいては、仕事はあくまでも仕事であり、個人的な事情を仕事に持ち込むのは社会人失格であり、「愛する人の死にもどこかで区切りを付けなければならない」との圧力がかかります。このような圧力に正面から抗するためには、ケインズに遡った根本的な哲学が必要になるものと思います。

 被災地の現状を伝え聞くと、そもそも「経済問題」と「人生のほんとうの問題」が分けられるのかという疑問も湧きます。少なくとも、経済は人生を10倍面白くするものではなく、苦しみを与えるものだとの印象を受けます。被災地以外で地域の経済振興のプロジェクトを企画していた立場からすれば、遠い被災地の苦しみよりも、目の前のイベントが中止になった苦しみのほうが現実的です。しかも、人はこの本音をそのままの形で言ってはならず、「自粛ムードは復興を妨げる」といった形で表明します。これが経済社会のシステムだと思います。

毎日新聞社編 『写真記録・東日本大震災』

2011-09-12 23:45:58 | 読書感想文
p.158~ 毎日新聞論説委員・青野由利『地球の時間 人間の記憶』より

 ここで改めて感じたのは、地震を起こす「地球の時間」と、そこで生活する「人間の時間」のギャップだ。
なんでこんな低地に住んでいたのかと思って目を転じると、道路わきには何事もなかったかのように家々が立ち並ぶ。ある高度を境に被害がくっきり分かれる。こうした落差の大きさは、いたるところで目にしたものだ。

 調べてみると、ここは明治三陸津波でも300戸がほぼ全滅した集落だった。村の古老が山腹への移転を提案したが、従った人は少なく、やがて元の場所に戻ってしまった。
 その37年後、再び昭和三陸津波が襲う。谷奥の1戸を残して101戸が流出倒壊、住民の半数にあたる326人が犠牲になったという。この時ばかりは住民も高台移転以外にないと考えたのだろう。国も県も後押しし、南側の山腹に宅地を造成した。移転対象は全集落。元の低地は居住が許されない地区となったはずだった。
 しかし、78年後に目にした光景は、再び人々が低地に住み始めたことを物語る。

 津波は必ず再びくる。しかし、その時期はわからない。その時間を越え、人間の記憶を保ち続けることは何とむずかしいのか。
 地震学の誤った思い込みと、高所移転の難しさ。一見無関係のようだが、どちらにも「地球の時間」と「人間の時間」の間に横たわるギャップの大きさを感じる。地震学でいえば、そもそも、将来の地震を「想定できる」と考えること自体が、地球の時間に対する甘さのように思える。


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 100年、あるいは1000年という時間軸を提示されて、なお「1日も早い復興」との価値に絶対的な価値を置く思考方法は、「復興」の概念が抱える内部の矛盾に自覚的でないのだと思います。今回の経験を教訓とした中長期的・計画的な町づくりは、明日の生活もままならない現実の人間の行動を阻害し、復興の妨げとなっているように思います。他方で、今回の経験からの教訓に無関心な復興は、再度の壊滅を前提としたものであり、復興の価値が人の生命や死を離れて自己目的化しているようです。どちらに転んでも、「1日も早い復興」の概念は矛盾を含むものだと感じます。

 私を含め、この世間の中で社会生活を送っている人々は、ある程度の年齢まで生きることを大前提に、その漠然とした老後の地点から逆算して、人生の時間を把握しているのが通常のことと思います。ある地点での重要な行動の選択においては、段階的な人生のステップの中での位置づけが図られています。そして、一度しかない人生の生き様がこのようである限り、人間の一生の時間を超えて人間がその記憶を保つことは、まず不可能なことだと感じます。人は遠い未来を理想的に語ることにより、未来とは日々の明日が集積した結果であることを忘れ、しかもどの明日にも死が迫っている事実から逃げることが可能となります。

角川歴彦編 『テロ以降を生きるための私たちのニューテキスト』

2011-09-11 00:41:25 | 読書感想文
p.8 片岡義夫「すべての人は暗雲の下に」より
 二分法のきわめつけは、テロリストたちの攻撃があった次の日、大統領が発表した声明のなかにあった言葉だ。「善と邪との途方もない戦いになるだろう」と、大統領は言った。善をつきつめていくと神につきあたる。邪ときめつけられたほうにも、つきつめるとそこには神がいる。だからいったん善と邪の戦いだと言ってしまったら、それは宗教戦争以外のなにものをも意味しない。

p.22 大塚英志「戦後民主主義のリハビリテーション」より
 ブッシュ政権が「映画のような戦争」と「現実の戦争」との間で舵取りを強いられたのに対し、この国では「ワイドショーの中の戦争論」を首相も国民も一体となって生きている。乖離と敢えて記したのはアメリカのように「仮想現実」と「現実」の間に齟齬や軋轢が生じてはおらず、前者のみがただ肥大してあり後者の水準で今回の事態を認識し、言語化するという作業が全く欠落しているのが現時点での光景だからである。

p.56 森達也「世界はもっと豊かだし人はもっと優しい」より
 9月11日の映像に関して言えば、テレビ画面は徹底して無力だった。混乱し錯綜しスタッフの怒鳴り声が聞こえ、情報を常に商品として2次3次加工するはずのテレビメディアが、痛々しいくらいの現実を為す術もなく映しだすばかりだった。昂揚も主張も諧謔も何もない。たぶん世界はあの数時間、あらゆる感情を喪失し、ただ茫然と立ち尽くしていたと思う。端的に言えば「身も蓋もない」。

p.64 養老孟司「米国文明の未来」より
 歴史とジャーナリズムは似ている。これらの分野の前提に従うと、世の中が「できごとの連続」に見えるからである。それなら「起こらなかったこと」はどうなるのか。医学では問題はもっと明瞭である。治療と予防のどちらに人気があるか。それは治療に決まっている。予防は感謝されるどころか、嫌われることも多い。そもそも「起こらなかったこと」に対して、どう感謝すればいいのか。

p.106 駒沢敏器 「9月11日 その夜、本当に目にしたもの」より
 これは自分なのだ、と繰りかえし思った。ビルに突っ込んだ民間機はそのまま自分の胸に突き刺さっており、それと同時に、ビルに突撃した者もまた、自分の分身なのだ。「突っ込んだ」とか「突っ込まれた」とか、あちらとこちらの話ではない。原因と結果ではなく、因果と応報でもない。「本当のところ、この巨大な暴力は何なのだ?」ということを自問するとき、色分けは大して役には立たない。

p.146 星野智幸「戦争を必要とする私たち」より
 要するに、戦争という巨大な文脈に、誰も彼もが乗っているだけではないか、と思う。その巨大さに寄り添うことで、自信を得るのだ。そこでは、それまで続いていて今だって確実に存在しているはずの個人の文脈、例えば私で言えば事件直前まで考え書いていた小説のリアリティが、巨大な力の奔流に飲み込まれて、見えなくなってしまう。その巨大な奔流を止めうるのは、徹底的に個人として感じ考えられた言葉のみのはずだ。

p.176 濱田順子「ローコスト、ハイリターン」より
 世界貿易センタービルが標的になったのは、明らかにこの建物が世界経済の中心であり、アメリカ資本主義の象徴だったからであった。ビルがようするにハコに過ぎず、中身こそが問題であるなら、ビル内で働く人間たちはまさに経済、資本主義そのものと言っていいだろう。ビル内の人間の死と、旅客機の乗客および消防士たちの死を区別しないで考えることは、この事件が起こされた意図に無神経になってしまうことを意味している。


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 10年前の同時多発テロの時の衝撃を、私は鮮明に思い出すことができません。その日のニュースをYoutubeなどの映像で見てみても、あの瞬間のリアルタイムの身体的感覚が蘇ることはありません。私はあの日、世界中の人々と同じように、今後の世界がどうなってしまうのか、自分の人生はどうなってしまうのかとの不安に苛まれていたように思います。しかしながら、10年後のこの世界が、10年前に言われていたところの「今後の世界」「将来の自分」であると結論することができません。

 半年前の東日本大震災の時の衝撃と比べてみたとき、私は辛うじて10年前のあの空虚な瞬間に戻されます。片や無差別テロであり、片や自然災害であり、言葉にならない言葉が異なる部分は多くあります。他方で、言葉にならない言葉が同じである部分のほうが、掴みどころがあるような気がします。それは、いずれの時にも「自分は目の前の仕事をするしかない」という結論に至るしかなく、その虚しさが周囲の人々への軽蔑の視線に転化し、その視線が自分に跳ね返っていたという共通性によるものだと思います。

 10年前の同時多発テロの瞬間と、半年前の東日本大震災の瞬間とを一連の時間軸に置いてみれば、両者の間にあるのは9年半という幅を持った時間です。そして、私はこの間に9歳と半年分だけ年を取っています。しかしながら、私が両者に接した瞬間を比較した結果として得られた空虚性が重なる部分においては、それだけの時間が経過したという感覚が全くありません。そして、自分が9歳と半年分だけ死に近づいたという感覚もありません。

藤堂志津子著 『愛犬リッキーと親バカな飼主の物語』

2011-09-09 23:28:14 | 読書感想文
p.18~
 血統書つきの犬や猫をせっせと繁殖させ、ひたすら金儲けの手段とする。やがて交配にだけ役立たせた老犬を、うんと若い年齢にいつわって、新聞の「ゆずりますペット・コーナー」に載せて、ていよくお払い箱にする……。
 こういう話を聞くと、私はムカムカする。こと人間に対しては薄情どころか非情なるろくでなし、という非難をまわりから甘んじて受けている私ではあるけれど、猫や犬、もしくは、まだ言葉もろくにしゃべれない子供たちへの非道な扱いには、おなかの底から怒りがこみあげてくるのだ。その怒りを、では、どう具体化しているのかというと、まったくなんにもしていないし、しようともしない、ろくでもない私がいるのだけれど。ただ何かの本で読んだことがある。「ブリーダーは金儲けだけの気持からはできないし、また、やったにしても長つづきはしない。犬や猫への愛情がその基本である」。
 この本を、私はあの30代後半とおぼしき夫婦者とペット店の女主人につきつけてやりたかった。しかし、やはり小心に、細心に、小市民的につつがなく暮らしていたい私は、それをしない。不快な現場から、こそこそ逃げ去るだけだ。

p.98~
 その夜、私はリッキーを胸に抱き、くり返し謝った。謝っても、謝っても、自分が許せなかった。しかし、こちらの気持だけは伝わるのか、リッキーは、まるで「いいよ、気にしないで」の返事のように、私の顔を熱心になめつづけた。リッキーが許してくれても、やはり私は自分が許せない。
 死んだバッキー、その前に飼っていた雑種犬のクロスケ、さらにそれ以前にいたダックスフントのボビー、小学生の私がはじめて親に泣いて頼んで飼った雑種犬のリュウといった、亡くなった4匹の犬たちのことが交互によみがえってもきた。4匹ともみな病気で死なせてしまったのだ。そして4匹に対する罪悪感を、私はいまだにひきずっていた。仕方のないこと、とまわりは言う。けれど私の心からは、あのときこうしていれば、こうやっておけば、という悔いが消えたことがなかった。
 多分、と思った。多分、私はこうやって後悔をかみしめつつも、悟るということはけっしてなく、おろおろ、じたばたしながら、一生、犬や猫にかまけつづけるのだろう。リッキーを、いつかあの世に見送ったときも、きっと私は二度と犬は飼わないとは言わないだろう。ふたたび飼うかもしれない自分が、すでに見えているから。


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 この本のカバーには、「無上の愛が読む者の胸を熱くする汗と涙の愛犬エッセイ」との紹介文があります。私は、自分がこのような能書きにより「読む者」の中に入れられることに対し、いつも何とも言えない違和感に苛まれます。エッセイの読み方には正しいも間違っているもなく、私の違和感はもとより孤独なものだと思います。

 私は読書感想文と評して本の一部を恣意的に引用するとき、本の全体のテーマとは全く関係なく、一般的な書評と自分の違和感との懸隔を示す部分に引かれているように思います。上の引用部分も、特に印象に残ったとか、感銘を受けたという部分ではありません。エッセイから何らかの教訓を得ることは、突き詰めれば独善に至るものと思います。