犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

茂木健一郎・田中洋著 『欲望解剖』

2010-06-30 23:49:16 | 読書感想文
p.129~

 フランスの哲学者であるドゥルーズ/ガタリは「欲望はなにものも欠如してはいない」という意味のことを言っていますね。「欲望する機械」という概念です。人間以前に欲望の原型のようなものがあり、人間の器官と連結することによって初めて欲望として機能するのだ、ということでしょう。

 こうした立場に立てば、いろいろな形で繁茂して来た欲望がたまたま肉体に宿ったのが人間で、むしろ欲望を抑制するところに「人間」が現れる。それは今まで出されてきた欲望論とはちょっと違っています。これまでの欲望論は「人間はおなかが空いたから、食物を欲望するのだ」という「欠如」としての欲望論でしたから。ドゥルーズたちの欲望論がどういう意味を持っているのかと考えていたんです。何かを欲する、というのが我々の想定する欲望なんですが、むしろ欲望を抑制するという逆転した欲望を対置できるんじゃないかと思うんです。


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 茂木氏は、死を目前にした人間の欲望は計り知れないと述べています。これは、「自身が死にたくない」という場合と、「死者にもう一度だけ会いたい」という場合に分けられています。そして、人は死という不可能や断絶に向き合ったとき、人間は宗教や健康ビジネスにお金を使うのだと分析しています。
 これは、恐ろしいほど正しいことを指摘しており、「自身が死にたくない」のは欲望そのものだと感じます。これに対し、「死者にもう一度だけ会いたい」という心情に欲望の語を当てるのには違和感があります。
 
 「楽して金儲けして遊んで暮らしたい」という種類の欲望から人間が解放されるには、その欲望を抑制するという逆転した欲望を対置するしかないでしょう。しかし、これではビジネスとして成立しないため、経済社会では成立しません。
 他方で、「もう一度だけでも死者に会いたい」という願いには、不可能や断絶があるため、やはり経済社会では成立しません。もし、「死者の霊と交信すること」にお金を支払ってしまえば、それはビジネスの網の目の中に取り込まれ、欲望の名に相応しい心情となるのだと思います。

マツダ本社工場 社員12人死傷事件

2010-06-28 00:32:08 | 時間・生死・人生
 6月22日にマツダ本社工場に乗用車で突入した引寺利明容疑者(42)は、取り調べに素直に応じ、「大変なことをしてしまった」と供述しているそうです。「秋葉原のような事件を起こそうと思った」と語る引寺容疑者は、秋葉原の犠牲者の理不尽な死、遺族の絶望的な人生、そして加藤智大被告の惨めな姿を熟知していたはずです。「大変なことをしてしまった」のは当然のことであり、この言葉を周囲が掘り下げたところで、何も得るものはないと思います。

 秋葉原の事件も、加藤被告本人は罪状認否で罪を認めましたが、弁護側が責任能力を争い、証拠の多くを不同意にしたため、例によって裁判が長引いています。今回の事件は裁判員裁判となるため、法廷の光景は大きく変わるでしょうが、弁護側の争う姿勢が被害者や遺族を苦しめることになるのは同じだと予想されます。
 弁護側にとって、この種の裁判において有効に争い得るのは、責任能力(心神喪失・心神耗弱)の点だけです。そして、この主張が被害者や遺族をさらに絶望に陥れ、死者の生命を軽視するであろうことは、人間であれば簡単にわかります。しかしながら、刑事裁判の既成概念の枠内で仕事をする弁護人にとって、この業界の常識に従わないことは、非常に勇気が要る行動のようです。

 過去には、被害者や遺族の心情に配慮し過ぎた結果、被告人の利益を損なったとして、弁護士会から懲戒処分を受けた弁護士もいました。依頼者に対する義務に背馳するのは、医師の医療過誤と同じく、弁護士の弁護過誤だということです。もちろん、人間の倫理は、その上位概念として、死者の生命の重さに気がつきます。しかし、社会において責任ある仕事に従事し、その対価を得て生活するということは、この先を考えないということです。そして、この先を真剣に考えようとする者は、多くの場合、世間知らずだとして一笑に付されます。
 弁護活動の過程で死者や遺族を冒涜したとしても、弁護士会はその弁護人を懲戒することはありません(光市母子殺害事件で実際にそのような場面がありました)。他方で、被告人の責任能力を争うべき事件で争わないことは、弁護人にとって懲戒処分を受ける危険性があります。ゆえに、自分の身を危険に晒さず、家族を路頭に迷わせたくない弁護士は、この種の事件では必ず責任能力(心神喪失・心神耗弱)を争うことになります。

 殺人犯の精神鑑定というシステムにおいて、多くの人が感じているのが、殺人を犯した後に鑑定をすることの虚しさだと思います。今回の事件にしても、すでに犯行が終わってしまった容疑者の言葉をあれこれと詮索するしかありません。しかしながら、「大変なことをしてしまった」との他人事のような言葉は、事件の前と後では人格が別であると認めなければ正確に説明できないのではないかとも感じます。
 裁判での有罪・無罪を分けるものは、犯行の真っ最中の責任能力の有無です。しかしながら、犯行の真っ最中に医師が精神鑑定をすることはできません(当然です)。そこで、「犯行後に『犯行当時の精神状態』を判定する」という方法が採られることになります。そして、これも不可能です(当然です)。科学の力でなし得るのは、「犯行後に『犯行後の精神状態』を判定する」ことだけであり、犯行当時に時間を戻すことはできないからです。
 
 無差別殺人犯における、溜まりに溜まったマグマが一気に噴出している真っ只中の精神状態は、犯人と他人との間に深淵が開かれているのみならず、過去の犯人と現在の犯人においても隔絶しています。ゆえに、犯人自身であってもその精神状態に迫ることはできません。精神鑑定において導かれる責任能力は、あくまでも「現在の過去」のそれであり、「過去自体」のそれではないからです。
 そして、客観的世界を前提とする科学は、この時間のあり方を全く説明していないように思います。過去に起きた事件というものは、すべて後からそのように考えているだけのことだからです。人間は、この時間性の把握から逃れることが不可能です。客観的世界を実在とみなす錯覚は、「私」がその世界の中にいることが条件となります。そして、殺された人にとっての「私」は、その世界の中にはいません。これは、殺人事件を語る場合にのみ浮き上がる矛盾です。

 過去に起きた殺人事件とは、殺された被害者が見た最後の世界のことです。何が何だか解らないが自分はどうやら今ここで死ななければならない、この思いに「死者の無念」との表題を与えるのは、完全に嘘を語ることです。生きている者の過去の思いですら宇宙から消滅しているのであれば、死者の思いが完全に消滅しているのは当然のことだからです。
 ところが、裁判のシステムは、その殺された被害者が見た最後の世界のことを、犯人の側から語ることを可能とします。犯人についてだけは、「犯行後に『犯行当時の精神状態』を判定する」ことが可能だということです。このようなパラダイムに安住し、犯行当時の責任能力の有無で争うことは、被害者が見た最後の世界に直面することに比べれば、実に気楽な争いではないかと思います。

 法律の条文の定義を離れてみれば、「心神喪失」という単語が正確に示している状態は、被害者遺族の側であると感じられます。私はこれまで、被害者遺族の方々が自分自身の状態を表す言葉として、「外側は人間の形をした人間の抜け殻」「生ける屍」「死ぬに死ねずに生かされている廃人」といった表現に触れ、打ちのめされてきました。そして、まさにこれが「心神喪失」であると感じるとともに、そのような状態にありながら報復もせず、八つ当たりの犯罪にも走らず、自ら命も絶たずに生きるそのことに人間の尊厳が示されているのだと知りました。
 これに対して、社会への恨みでマグマが充満している精神状態をもって「心神喪失」であるとして争うことは、法律的な定義はともかくとして、やはり気楽な争いだという感が拭えません。そして、この場面において人間の尊厳という言葉も使いたくない気がします。

内田樹著 『日本辺境論』

2010-06-25 23:12:08 | 読書感想文
p.119~

 人が妙に断定的で、すっきりした政治的意見を言い出したら、眉に唾をつけて聞いた方がいい。これは私の経験的確信です。というのは、人間が過剰に断定的になるのは、たいていの場合、他人の意見を受け売りしているときだからです。

 自分の固有の意見を言おうとするとき、それが固有の経験的厚みや実感を伴う限り、それはめったなことでは「すっきり」したものにはなりません。途中まで言ってから言い淀んだり、一度言っておいてから、「なんか違う」と撤回してみたり、同じところをちょっとずつ言葉を変えてぐるぐる回ったり……そういう語り方は「ほんとうに自分が思っていること」と言おうとしてじたばたしている人の特徴です。すらすらと立て板に水を流すように語られる意見は、まず「他人の受け売り」と判じて過ちません。
 
 ある論点について、「賛成」にせよ「反対」にせよ、どうして「そういう判断」に立ち至ったのか、自説を形成するに至った自己史的経緯を語れる人とだけしか私たちはネゴシエーションできません。「ネゴシエーションできない人」というのは、自説に確信を持っているから「譲らない」のではありません。自説を形成するに至った経緯を言うことができないので「譲れない」のです。「自分はどうしてこのような意見を持つに至ったか」、その自己史的閲歴を言えない。自説が今あるようなかたちになるまでの経時的変化を言うことができない。


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 私自身の法律学の習得の過程を振り返ってみると、他人の意見の受け売りばかりであったように思います。法律学の数々の論点には、それぞれ学説が対立しています。多数説・少数説・通説・有力説などが乱立しており、どれを自説とすべきなのか、私もよく悩みました。
 そして、自分にとっては「どの説でも構わない」というものが多く、切迫感がなく、答案の書きやすさを考えて選んでいました。予備校のテキストには、それぞれの説からの理由付け・反対説批判などが箇条書きにされており、やはり「どの説でもいいのだ」と感じたことを覚えています。

 ところが、基本書を一冊決めて、著者である学者の理論を体系的に理解する段になると、本当に自分の説が譲れなくなり、反対説を徹底的に論駁しなければ気が済まなくなったことも確かです。ゼミは、A説とB説の格闘で熱くなり、本気で議論が盛り上がっていました。別に、A説の支持者がA教授から恩を売られたわけでもなく、B教授に個人的な恨みがあったわけでもありません。
 ある学説を選択するに至った自己史的閲歴がなく、ゆえにその選択には客観的正当性を有するというのが、法律学の習得の際の基本的姿勢であったように思います。そして、現在の実務家も、「断定的に」「すっきりと」「確信を持って」語らなければ受からない試験に通っている限り、このような思考方法が中心的になっているはずです。

 刑事裁判の場において、被害者や被害者遺族が単なる証拠としての扱いしか受けられなかったのは、このような構造の影響が大だと思います。刑事裁判の構造に精通している方々からは、「被害者の気持ちは痛いほどわかる」が、「それでも近代刑事司法の鉄則は変えられない」との見解がよく聞かれます。これはまさに、自説に確信を持っているから「譲らない」のではなく、自説を形成するに至った経緯を言うことができないので「譲れない」という状態なのだと思います。
 被害者の言葉は、固有の経験的厚みや実感を必然的に伴っており、それはめったなことでは「すっきり」したものにはなりません。本当に自分が思っていることと言おうとしてじたばたするしかないのだと感じます。これに対して、罪刑法定主義からの見解は、「理性的であるべき法廷に被害感情が持ち込まれると公正な判断ができなくなる」というものであり、いつも非常に「すっきり」しているという印象を受けます。

加島祥造著 『求めない』

2010-06-23 00:01:55 | 読書感想文
p.15
求めない―― すると 改めて 人間は求めるものだと知る。

p.39
求めない―― すると 冷静に見る目となる。

p.41
求めない―― すると 自分を客観できるんだ。

p.60
求めない―― すると 人の心が分かりはじめる。
だって、利害損得ではない目で見るからだ。

p.90
求めない―― すると 自分の心がどこへ行きたいのか分かる。

p.112
求めない―― すると 命の求めているのは別のものだと知る。


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amazonのレビュー「星1つ」より

(その1)
 著者の加島氏に言いたいのですが、あなたが極端なワーキング・プアであったり、生活保護家庭であったりして、日々の生活すらままならぬ状態でも同じ言葉を吐けますか?
 今更云うまでも無く、今の日本には日々の最低限の必要“物”にすら事欠き、行政からも見捨てられている人々が数限りなくいます。そのような人達に「求めるな」などと面と向かって言おうものなら、マジしばかれますよ。

(その2)
 自分を責めがちで、甘え下手で、十分謙虚で内省的、過労死予備軍、人に利用されちゃうようなタイプしか、こういう本手に取らないと思う。
 傲慢で被害者意識が高くて人を利用するタイプ、本当に読むべき人達はそもそも手にしないし、してもスルーすると思う。そういう人はどうやったら人を操作できるか、損せず得できるか、みたいな本みると思うので。ヤクザ式説得術、とか、悪の底知恵、とか。


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 amazonのレビューは、「星5つ」はどれも似通っていますが、「星1つ」はまさに千差万別であり、色々な発見があって面白いです。

 (その1)のような低評価は、単に自分の見解を述べるものであり、凡庸だと感じます。読みたくないなら読まなければいいのにと思います。
 これに対して、(その2)のような低評価は非常に恐ろしいです。ルサンチマンからの脱却の道筋を探っているところを、上空から鳥瞰されて冷笑されている感がします。

重松清著 『十字架』より

2010-06-21 00:03:28 | 読書感想文
p.278~

「苦しむことで伝える愛情って、あるんじゃないですかね」
「どういうこと?」
「兄貴のために、親父もおふくろもずーっと苦しんできて、ほんとに苦しい思いをしてきて、2人ともキツかったんだと思うんですけど……その代わり、苦しんでる間は、ずっと兄貴がそばにいたんじゃないかな、って……お父さんもお母さんもおまえのためにこんなに苦しんでるんだぞ、って思うことが、親として、救いみたいなものになってたんじゃないか、って」
 だってね、と健介くんはつづけた。
「兄貴が苦しんでるときに気づいてやれなかったんだから、せめて兄貴がいなくなってから思いっきり苦しんでやらないと、親の務めをなにも果たせないじゃないですか」
 告別式の日に僕の胸ぐらをつかんできた、あのひとの姿が浮かんだ。卒業式の日にフジシュンの遺影を高々と掲げた、あのひとの姿も浮かぶ。
 でも、それも遠い昔の日々のできごとになってしまった。
「なんかね、親父もおふくろも、傷口のかさぶたが乾きかけたら爪でひっかいて剥がして、また固まってきたら剥がして、っていうのも繰り返してきたような気がするんですよ」
 そうかもしれない。忘れていたつらい思い出がふとよみがえるのは、自分でも気づかないうちに、心が勝手にかさぶたを剥がしている、ということなのかもしれない。
「2人とも、ほんとうは立ち直りたくなかったんじゃないかなあ……」


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 人が言語の限界を突き詰めて、語るに語れないことを語ろうとするときに用いられるのが比喩だと思います。他方で、人が深く物事を考えず、自分の言葉に酔っているときに用いられるのも比喩だと思います。

 私はこれまで、新聞や本、ブログなどで心の傷口に対する「かさぶた」の表現を目にして、いつも同じように言語の限界を内側から見てきました。私は、「かさぶた」の比喩を語れる人を無条件に尊敬すると決めているわけではないのですが、結果的にそうなっています。

重松清著 『十字架』より

2010-06-20 00:23:16 | 読書感想文
p.62~

 ひとを責める言葉には二種類ある、と教えてくれたのは本多さんだった。
 ナイフの言葉。十字架の言葉。
「その違い、真田くんにはわかる?」
 大学進学で上京する少し前に訊かれた。僕は18歳になっていて、本多さんは30歳だった。答えられずにいる僕に、本多さんは「言葉で説明できないだけで、ほんとうはもう身に染みてわかっていると思うけどね」と言って、話をつづけた。
「ナイフの言葉は、胸に突き刺さるよ」
「……はい」
「痛いよね、すごく。なかなか立ち直れなかったり、そのまま致命傷になることだってあるかもしれない」
 でも、と本多さんは言う。「ナイフで刺されたときにいちばん痛いのは、刺された瞬間なの」
 十字架の言葉は違う。
「十字架の言葉は、背負わなくちゃいけないの。それを背負ったまま、ずうっと歩くの。どんどん重くなってきても、降ろすことなんてできないし、足を止めることもできない。歩いてるかぎり、ってことは、生きてるかぎり、その言葉を背負いつづけなきゃいけないわけ」
 どっちがいい? とは訊かれなかった。
 訊かれたとしても、それは僕が選べるものではないはずだから。
 代わりに、本多さんは「どっちだと思う?」と訊いてきた。「あなたはナイフで刺された? それとも、十字架を背負った?」
 僕は黙ったままだった。
 しばらく間をおいて、本多さんは「そう、正解」と言った。


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 過ちを犯した者には社会復帰、立ち直り、更生、再出発の権利がある。しかし、それを阻害しているのが社会の偏見、無理解、差別意識である……。
 私は、刑事政策学を専門として学びながら、その主流の理論が描く上記の単純な図式に対し、根本的な疑問を抱き続けてきました。あまりに手応えがないからです。
 ナイフの言葉と十字架の言葉の違いが聞き分けられる者は、「被害者の厳罰感情を和らげるために被害者支援策を進めるべきである」という思考に流れるはずがないとも思います。

森口朗著 『いじめの構造』

2010-06-19 23:38:33 | 読書感想文

p.41~

 スクールカーストとは、クラス内のステイタスを表す言葉として、近年若者たちの間で定着しつつある言葉です。従来と異なるのは、ステイタスの決定要因が、人気やモテるか否かという点であることです。上位から「1軍・2軍・3軍」「A・B・C」などと呼ばれます。

 子ども達は、中学や高校に入学した際やクラス分けがあった際に、各人のコミュニケーション能力、運動能力、容姿等を測りながら、最初の1~2ヶ月は自分のクラスでのポジションを探ります。

 この時に高いポジション取りに成功した者は、1年間「いじめ」被害に遭うリスクから免れます。逆に低いポジションしか獲得できなかった者は、ハイリスクな1年を過ごすことを余儀なくされます。私は、ここでのコミュニケーション能力とは、「自己主張力」「共感力」「同調力」の3次元マトリクスで決定されると考えています。


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 教育評論家の森口氏の分析は、非常に鋭いと思います。社会科学的な手法の生命線は、分析の正確さと切り口の斬新さ、そして新語の発明によって従来見えなかったものを浮かび上がらせる点にあるとすれば、森口氏の試みは成功しているように思います。
 
 現に、多くの中学・高校生は何よりも孤独を恐れ、大人と同じような空気読み力を身につけることを強いられている点も、「スクールカースト」という概念を使えば上手く説明できます。また、いじめに遭っている者は、自らが「いじめられている」と認めた途端に最下位のカーストに転落してしまうため、自分はいじめられていないのだと言い張ることによって、親も教師もいじめの存在に気付かなくなるという構造も見事に暴き出されています。

 しかし、「これが『いじめの構造』です」と言って教育評論家から示された理論が、世の中の問題を一刀両断に解決する救世主となったところを見たことがありません。そして、私がいつも引っかかるのは、社会科学的な仮説と検証のシステムが人間をサンプル化している点です。
 
 いじめ問題に取り組んでいる方々は、誰しも、この社会からいじめをなくしたいと望んでいると思います。しかしながら、多くの教育評論家の語り口から感じるのは、「自分の理論の正しさによっていじめはなくせる」ということであり、他の誰かの理論ではなく自分の理論がいじめをなくさなければならないのであって、結局は「いじめ問題を解決する自分」が好きなだけではないかということです。
 
 この本と合わせて、川上未映子氏と重松清氏のいじめに関する小説を読み、そのような感想を持ちました。

川上未映子著 『ヘヴン』

2010-06-17 23:48:50 | 読書感想文
p.75~
 でもなぜ僕はこわいんだろう。傷つくことが、こわいということなんだろうか。もしそれが僕にとってこわいことなんだとしたら、恐怖なんだとしたら、なぜ僕はそれを僕のちからで変えることができないんだろう。そもそも傷つくとはなんだろう。苛められて、暴力をふるわれて、なぜ僕はそのままにそれに従うことしかできないのだろう。従うとはなんだろう。僕はなぜこわいのだろう。こわいとはいったいなんだろう。そんなことをいくら考えてみても、答えはでるはずもなかった。

p.153~
 最初に僕をとらえた死にたい気持ちというものは、ここから消えてしまいたいというそんな感情だった。じゃあ僕が自殺をして死んでいなくなったとして、これだけはよかったと思えるようなことは起きないのだろうか。様々な考えが目をとじたときにうかんでは消える模様のように漂って、かき消されていった。けれど、どんなことが起きたところで人はそれを必ず忘れてしまうし、僕というひとりの人間が苛めを苦にして死んだぐらいではたぶんきっと、なにも、変らないのだろうと思った。

p.234~
 なにかに意味があるなら、物事の全部に意味はあるし、ないなら全部に意味はない。だから言ってるだろう、けっきょくおなじなんだって。僕も、君も、自分の都合で世界を解釈してるだけなんだって。その組み合わせでしかないんだって。こんな単純な話もないじゃないか。だからちからを身につけるしかないんだよ。相手の考えかたやルールや価値観をまるごとのみこんで有無を言わせない圧倒的なちからをさ。僕はそんなちからなんてほしくないんだと叫んだ。


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 いじめをテーマに善悪を問うこの小説において示されているのは、善悪とは善悪という形式のことであり、その内容を考えると誤るということだと思います。また、すべての価値を転倒したニーチェの思想(ニヒリズム、ルサンチマン、解釈への意志、力への意志、神の死)が具体的に説明されているように感じます。

 いじめについて、川上氏がダメ出しをした議論とは以下のようなものだと思います。人は、自分に善いと思うことしかできない以上、善悪の内容に決着がつくはずもないからです。

・ いじめる側、いじめられる側のどちらに原因・責任があるのか。
  (お互いに絶対に譲れなくなる)
・ いじめで自殺するくらいなら相手を殺せばいい。
  (実行に移せば、人を殺すくらいなら自殺すべきだと言われる)
・ 生きたくても生きられない人がいるのに、いじめぐらいで命を粗末にするな。
  (善意の残酷さと逆効果に気付かないならば自己満足である) 
・ 学校側としては、いじめは確認できなかった。
  (いじめのない学校が目標である以上、いじめが確認できては困る)
・ 生徒に命の大切さを教えなければならない。
  (死者が帰らないならば二重の侮辱である)
 
 今や、大人の世界にもパワハラ、モラハラなどのいじめがあり、年間3万人以上の自殺者を生んでいる現代社会において、解決への道筋が色々と模索されています。人間や生死について根本から考え抜かれた川上氏の小説は、一見するとわかりにくいですが、単なる技術やテクニックよりも、実用性という点においても優れていると思います。

示談交渉の打ち合わせの光景  その2・弁護士の事情

2010-06-14 23:34:07 | 言語・論理・構造
 弁護士にとって何よりも困るのが、「お金の問題ではない」と言う依頼者である。弁護士という仕事は、すべての問題に無理矢理お金で片を付けて終わらせることしかできない。これは弁護士の力不足のせいではなく、金銭的な損害賠償しか認めない法律のせいである。
 「お金などいらない」と綺麗事を言っていても、心底ではお金が欲しいのだという依頼者は、まだ説得がしやすい。このような依頼者は、単に私怨を晴らすために弁護士を使っているからであり、札束を見ればやはり目尻が下がるからである。この種の依頼者に対しては、「お金などいらない」という言葉を信じて安い金額で和解し、後になって職務怠慢を責められることだけに注意を払っておけばよい。
 これに対して、本当にお金に価値を認めない依頼者は、弁護士としては本当に困ってしまう。請求すべき賠償額が決まらないのでは、交渉の相手方に対して条件が提示できず、相手方の弁護士にも迷惑がかかるからである。さらには、依頼者を説得できない代理人だとして嘲笑の対象となるからであり、ひいては訳のわからない主張をする事務所だと言われて信用が下がるからである。

 依頼者の女性は、打ち合わせの際に、まずは加害者側の謝罪文を読みたいと希望した。そして、謝罪の意志が込められていない示談金など断じて受け取りたくないと言った。 弁護士としては、この言葉をそのまま加害者側の弁護士に伝えるわけにはいかない。法律的に洗練されていない主張を、そのままの形で交渉の場に出してしまっては、プロとして恥ずかしいからである。
 弁護士としても、お金の額ではなく誠意が問題なのだという依頼者の気持ちは、人間としては当然わかる。しかし、物事には相場というものがある。この事件の示談金の相場は、過去の判例からすれば、300万円程度である。そうであれば、依頼者にはこの金額を受け取ってもらわないと、弁護士としては立場がない。
 もちろん、この依頼者の女性は、本来300万円の賠償金が取れるところを、弁護士が真剣に交渉しなかったために取り損なったと文句を言うことはない。問題はその先である。いかに依頼者がお金はいらないと望んだところで、この業界には、300万円の事件は300万円の事件らしく解決しなければならないという暗黙のルールがある。
 ここで、相場よりも明らかに安い額での示談に応じることは、相手方の弁護士の値切り交渉に簡単に屈したということであり、力不足で自分の側の依頼者を値切ったということである。この抗い難い構造は、実際は違うのだといかに説明したところで、壊すことができない。従って、依頼者にはどうしても300万円を受け取ってもらわなければならない。

 示談交渉とは、勝負事である。しかも、あくまでも代理戦争である以上、代理人に対して相互に礼儀を尽くさなければならない。代理人同士が真剣に喧嘩をするのは恥すべきことであり、喧嘩腰は依頼者への表面上のポーズである。
 もしも300万円の賠償が相場なのであれば、被害者側としては、最初は400万円程度の数字を吹っかけておくのが常識である。そうすれば、加害者側からも200万円程度しか払えないという主張が出てくる。こうなれば、話は単純である。先方の金額とこちらの金額の差を徐々にすり合わせて、折衷案でまとめればよい。
 ほとんどの事件では、賠償金を請求する依頼者の不満は、「賠償金が安い」という点に集約される。そして、このような依頼者の説得は簡単である。お金に価値を認めるという根本の部分において、お金を支払う側と一致しているからである。「お金が欲しい」という者は「お金を払いたくない」という者を理解し、「お金を払いたくない」という者は「お金が欲しい」という者を理解する。
 これに対して、「お金の問題ではない」という依頼者は、どうにも説得ができない。よって、その説得は、「お金の問題である」という方向に強引に引きずり込むものとなる。

 弁護士は、300万円の札束を彼女の前に置いた。彼女の顔の筋肉はピクリとも動かなかった。あからさまに汚い物を見るようでもなく、苦痛に歪むわけでもなく、全くの無表情であった。お金に価値を認めないというのは、まさにこのようなことである。そして、弁護士にドッと疲れが押し寄せるのはこのような瞬間である。
 彼女は、この世にはお金以外に誠意を表す方法はないのかと訊いた。弁護士は言葉に詰まり、その場の空気を和ませるため、「金はいらないから一発殴りたいという方もいらっしゃいますが、そういうのは違法ですね」と言って笑った。彼女の顔には明らかな軽蔑の色が浮かび、弁護士の笑い顔は引きつった。
 お金ではない、言葉だけが信用できるのだと彼女は言った。弁護士は、「300万円払います」という言葉がどうして信用できるのかと聞き返した。口先の約束など、いくらでも破られる。実印を押した念書であっても、踏み倒された上に自己破産されてしまえば、ただの紙切れに等しい。信用してよいのは、目の前の現金か預金通帳の数字だけである。言葉での誠意ほど信用できないものはない。言葉はタダである。
 彼女は笑いながら、「やはり、誠意はお金以外にないんですね」と言った。弁護士が安心したように頷くと、彼女は続けて言った。「この300万円に誠意が感じられない理由がよくわかりました」。


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フィクションです。

示談交渉の打ち合わせの光景  その1・被害者の事情

2010-06-13 00:58:50 | 言語・論理・構造
 彼女は、弁護士との打ち合わせの際に、まずは加害者側の謝罪文を読みたいと希望した。その文字から最低限の誠意が表れているか、何度も推敲して行間から滲み出てくる苦悩が表れているのか、これを確認しなければ先に進めないと思ったからである。そして、謝罪の意志が込められていない示談金など断じて受け取りたくないと弁護士に伝えた。それ以外に彼女が弁護士を訪れた目的はない。
 しかし、弁護士は、彼女の言っている意味が完全にわからないという顔をした。そして、お金を払うことが誠意なのだと丁寧に説明した。誠意があれば賠償額は高くなり、誠意がなければ賠償額は安くなる。せっかく働いて稼いだお金を、みすみす持って行かれる苦しみに耐えることが、人間の誠意を測る最善の指標である。弁護士の説明は、他に考えようがないだろうという自信に満ちていた。今度は、彼女のほうが、弁護士の言っている意味が完全にわからないという顔をした。

 彼女は、自分が言わんとしているところを粘り強く説明し、あくまで加害者側に手紙を書くよう請求してほしいと訴えた。そして、賠償額については、それを見てから決めたいと言った。しかし、弁護士は、そんなことはできないと答えるのみであった。謝罪の意志が込められていようがいまいが、「賠償金を受け取りたくない」と言うことは、加害者に弱点を晒し、揚げ足を取られる要素を与えることになる。交渉とは、あくまでも強気に、1円でも高い賠償金を吹っかけるものでなければならない。弁護士は、まるで大人が子供に教え諭すように、彼女に解説した。
 彼女が受けた被害の示談金の相場は、過去の判例からすれば、300万円程度である。加害者側の弁護士も、そのことが十分にわかっている。従って、これが200万円で済まされたのであれば、一瞬にして100万円を稼いだに等しい。そうであれば、加害者は、どんな手を使ってでも、感動的な謝罪文を書いて誠意を見せてくる。従って、手書きの謝罪文などに意味はなく、300万円の示談書の条項に「心から謝罪する」との一文を加えることに意味がある。弁護士の強い視線と口調に、彼女は根負けしてしまった。
 一番大事なところを譲ってしまったと彼女は思った。判例の相場、示談の相場が不満なのではない。200万円であろうが300万円であろうが、謝罪の言葉がお金で買われることに譲歩してしまったのである。彼女は、お金を受け取った瞬間に、お金に買われたことになる。

 現在の「年収300万円時代」に300万円を稼ぐのがどれだけ大変なことか、そんなことは誰に言われなくてもわかっている。示談金の300万円を1日で手にしておきながら、お金の問題ではないとの本音を言えば、世間の常識はこれを理解しない。浮世離れしている、生活感がないとの非難を浴びるのみである。弁護士が言うとおり、示談とは、所詮はお金の問題である。しかも、誠意や謝罪を科学的に数値化することはできず、現在の法律が金銭的な負担額の比例によって数値化できるとしているならば、お金以外の解決方法はない。
 「謝罪の意志が込められていない示談金は受け取りたくない」というのは、現にお金に困っている人にとっては、贅沢な悩みである。お金の問題ではないと言っていられるのは、今現在お金に苦労していない人の甘えであると言われてしまえば、彼女は容易に反論することができない。失業したとき、病気になったとき、お金がなければどうするのか。この構造の中で問いと答えが繰り返される限り、どのように答えても、絶対に勝てない仕組みになっている。貨幣経済は相対的なルールであっても、その相対的なルールの土俵の上で戦う限り、その外に出た者は負けであるという仕組みになっている。

 300万円を無事に回収した弁護士の顔は誇らしげであった。当初は「50万円しか払えません」と言っていた加害者を執拗に追及し、何とかかんとか300万円をかき集めさせたのである。彼女の前で、弁護士は悪戦苦闘の交渉の経緯を能弁に説明した。彼女は、弁護士が心からの感謝の念を待ち詫びていることを察して、角が立たないように、感謝の言葉を述べた。彼女は、謝罪の意志はなかなか偽装できないのに対し、感謝の意志は簡単に偽装できるのだと思った。
 お金など1円も欲しくない。元の生活に戻りたい。しかし、世間の常識の中では、そのような本音は大声では言えない。小声でもなかなか言えない。大金をもらって、何がどう不満なのか。お金が欲しくないなら、お金を請求するのは嘘ではないか。被害者はどこまで強欲なのか。このような中傷を浴びないためには、黙ってお金を受け取っておくしかない。もしも弁護士がその繊細な部分を察してくれていれば、彼女は演技で感謝の言葉を述べる必要もなかったであろう。
 この弁護士は何もわかっていない。私が喜んであげないと、この人のプライドが傷つく。そして、これ以上私がこの人に対して言うことは何もない。彼女は、深く頭を下げて弁護士の前を去った。


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フィクションです。