犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

光市母子殺害事件差戻審 6・ 本村洋氏は素人だからいい

2008-04-04 22:58:35 | 時間・生死・人生
いったん出来上がったシステムは、それ自体においてどんどん肥大し、細分化し、専門家を必要とするようになる。こうなると、専門家は素人の意見に耳を貸さない。別に意地悪しているわけではなくても、話が全く噛み合わないので、耳を貸せない状況になってしまうからである。このような状況は、今日では至るところで見られる。素人が専門家に疑義を表明しても、「もう少し勉強して下さい」と言われ、専門用語を羅列されて追い返されてしまう。無理に食い下がれば、「せめてこの程度の基礎知識を得てからにして下さい」などと言われて、大量の文献を示されるのがオチである。もちろん研究者でない一般人は自分の生活で忙しく、そのような文献を読む暇はない。かくして、専門家は素人を見下して、ますます独善的になる。専門家にとっては、その世界だけが現実となり、その現実はますます狭く深くなり、その専門外の人との折り合いが悪くなる。

死刑論議についても同じである。素人が専門家に意見をしたいのであれば、せめて永山則夫被告の連続射殺事件において、昭和58年に最高裁から示された「永山基準」を覚えなければ土俵に乗せてもらえない。すなわち、①犯罪の性質、②犯行の動機、③犯行態様(特に殺害方法の執拗性・残虐性)、④結果の重大性(特に殺害された被害者の数)、⑤遺族の被害感情、⑥社会的影響、⑦犯人の年齢、⑧前科、⑨犯行後の情状の9項目である。この9項目がスラスラと言えないような素人の戯言は聞くに値せず、アカデミズムからは門前払いになる。光市事件の裁判の中で主に議論されているのも、今回の事件はこの前例にあてはめてどうなるかということである。専門家にとっては、裁判所が死刑の適用基準や少年法の精神についてどのような判断を示すのか、非常に興味ある素材である。専門家はそのような意味で、裁判所の判断を心待ちにしている。

細分化した学問は、学力自慢で勉強好きな秀才の手で、どこまでも無駄に複雑なものになってゆく。ここでは、常に業界の外からの全くの素人の直観を持ち込まなければ、ただひたすら技術的になる。その意味で、本村洋氏が素人であることは、法曹界にとっては本来非常に好ましいことである。社会科学は、世界から自分自身を除くことによって、客観的な世界を確立してきた。このような客観的な世界像は、自分のところに戻ってくると、非常に困ってしまうという性質を持っている。「もしあなたの家族が殺されたときにはどうするのですか」という質問は、いつでも専門家を脅かす。普遍を説くためには客観的でなければならず、そのために主観性を排除したところが、自分のことを別にしている限りは普遍ではないからである。すなわち、万人に普遍であるならば、自分だけを除くことができない。

素人の恣意的な感情論と法律家の客観的で冷静な理論、専門家は物事をこのような二元論の構図に押し込みたがる。しかし、事態はそんなに簡単なものではない。特に殺人罪や死刑は人間の生死の問題であり、死とは主観の消滅による客観の消滅であるから、主観と客観の二元論そのものを無効にする。死刑の適用基準からは、殺害された被害者の数が1人か2人か3人かが客観的に問題とされるが、殺された側の論理としては、この区別には何の意味もない。たまたま一緒に殺されたというだけの話で、人生の一回性の前には些細なことだからである。1回限りの出来事に普遍性が現れる、これが人間の倫理である。主観的であり、その時々の固有の判断であるがゆえに、それは人間の普遍を問う形になる。もちろん、法律の世界が現実になっている専門家には、この普遍性は見えない。永山基準の9項目が存在するのみである。

光市母子殺害事件差戻審 5・ 殺される前日に予兆はあるか

2008-04-04 20:55:09 | 時間・生死・人生
人間は、突然の事件や事故で命を落とす場合、前日に何かの予兆を感じるものであろうか。これは、まずあり得ない。「あなたは明日自動車にひかれて死ぬでしょう」とのお告げなり何なりがあれば、人間は何があってもそれを避けようとし、一歩も外に出ないようにするからである。被害者の本村弥生さんが命を落としたのは、平成11年4月14日であった。その前日である4月13日、弥生さんは「自分は明日殺される」という予兆を感じていたのか。これもあり得ない話である。通り魔的な犯罪は、いつも人間の日常の幸福を突然奪う形で訪れる。

今や、事件や事故は日常茶飯事である。昨年は銃や刃物を使った殺人にとどまらず、ガス爆発やジェットコースターの事故などもあった。今年もタクシー運転手が刃物で刺されたり、少年によってホームから突き落とされたり、あまりに突然で防ぎようのない事件が連日起きている。交通事故による死者は減少傾向にあるとは言え、平均して1日に20人もの人が天寿を全うすることなく命を落としている。明日の平成20年4月5日にも、明後日の4月6日にも、確実に突然の事件や事故で命を落とす人がいる。それは、この文章を書いている私かも知れないし、この文章を読んで下さっているあなたかも知れない。とにかく、この現在である4月4日においては、その人は確実に生きている。そしてそのことは、今の時点では、その人自身にとっては絶対にわからない。

もちろん人間は、このようなことを気にしていれば日常生活を送ることはできないため、完全に忘れて暮らしている。これは実に正常なことである。そして、「他の人はともかく、自分だけは明日死ぬことはないだろう」という妙な自信を持っている。これも根拠のない自信であるが、実に正常なことである。これに対して、「人間はいつ犯罪の被害に遭うかわかりません」という警告は本質的に不愉快なものであり、下手をすると嫌がらせになってしまう。しかし、ここである事実に気付けば、人間は慄然とせざるを得ない。「自分だけは明日死ぬことはないだろう」という妙な自信は、平成11年4月13日当時の本村弥生さんの認識と全く同じではないか。

殺された被害者の身になることは原理的に不可能であり、殺される直前の恐怖を追体験することも難しい。しかしながら、殺される前日の平和な状態、日常の平穏無事な状態を追体験することは簡単である。人間は現に生きているだけで、否応なくそれを追体験しているからである。それゆえに、人間の日常の幸福を突然奪う犯罪というものが、リアリティをもってすべての人間に迫ってくる。生き生きとした、しかし恐るべき現実である。この言語道断の現実の前に慄然とするならば、人間の取るべき行動は自ずから収斂されてくる。少なくとも、元少年の弁護団の行動がここから大きく外れていることだけは間違いない。