犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

下村湖人著 『次郎物語・下巻』

2010-04-29 00:05:16 | 読書感想文
p.142~
 現在の日本の指導層の大多数は、正面からは全く反対のできないようなことを理由にして、自分たちの立場を正当化したがるきらいがあるが、そうしたずるさは、ひとり指導層だけに限られたことではないようだ。たいていの日本人は、何かというと、表面堂々とした理由で自分の行動を弁護したり、飾ったりする。しかも、それで他人をごまかすだけでなく、自分自身の良心をごまかしている。

p.153~
 君らのそうした非良心的態度は、君ら自身をますます非良心的にするばかりではない。それがある限度をこすと、ついには、愛情と忍耐とをもって、君らの良心を力づけようと努力している人の心までをきずつけ、その愛情を忍耐とを、憎しみと怒りに代えてしまうものだ。私は、むろん、怒りに対しては怒りをもって立ち向かえ、と君らにすすめているのではない。ただ私は、愛情に対しては、つけあがり、怒りに対しては、ただちに膝を屈するような君らの奴隷根性が、なさけなくて、じっとしてはいられない気持ちがするのだ。

p.224~
 かれは、ただ、自分の本心をだれにも見すかされないために、みんなと調子をあわせていたにすぎなかった。そして、そうした虚偽がさらに新たな苦汁となってかれの胸の中を流れ、つぎからつぎに不快な気持ちをますばかりだったのである。虚偽をにくむ心は尊い。しかし、人間が徹底して虚偽から自由であることは、ほとんど不可能に近い。この故に、虚偽をにくめばにくむほど、人間の苦しみは深まるものである。

P.337~
 ぼくは、しかし、あなたのとった態度が不自然だったと言っているのではありませんよ。あなたにはそれよりほかに行き道がなかったとすれば、それがおそらくあなたにとっては自然だったでしょう。ぼくは、人間の心の自然さというものは、そのひとのつきつめた誠意の中にあると思うんです。


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 「考える文章」というものは、作者が読者に「考えさせる文章」ではなく、作者が自分自身で考えていることによって、文章そのものが考えているような独特の形を採るように思われます。それは、幸せになりたい、得したい、明るい人生を送りたいという欲求の束縛から自由であることが最低条件であるように感じられます。また、地位や名誉を求める心を無理に抑えているうちは、単に「暗い文章」というだけで、「深い文章」だとは捉えられないのかも知れません。
 
 古典文学がますます隅に追いやられ、「自分探し」「自分を変える」「金持ちになる」といった本のコーナーが拡大している書店に行くと、私はいつも実存不安に苛まれます。複雑化・殺伐化した社会の中で、人が生きる指針に迷っているのであれば、じっくりと「考える文章」に向かう余裕などないことでしょう。それがために、人が「自分探し」や「自分を変える」本にお説教してもらい、安心を買っているならば、商品としての本の売上げのために犠牲者となっている側面は免れないように思います。

塩野七生著 『再び男たちへ』より

2010-04-28 00:05:52 | 読書感想文
p.266~ 「善と悪」より

 破壊は善人には最も不適な行為である。善人は、自己の利益を考えないで他者の利を重んずるのが特質だから、改革のための破壊とわかっていても、ついつい不徹底になりやすい。しかも、残念なことに善人は、時代を先取りする大改革に参加しないだけではなく、しばしばそれをはばむほうにまわったという歴史上の事実までつきつけられると、私などはまたまた頭をかかえるしかないのだが、なぜそうなってしまうのか。もしかしたらそれは、善意というものが、眼前のものに向けられることによってこそ発揮されやすいという性質をもつゆえではないかと思いはじめている。

 これに反して悪は、自己の野望達成を目標とする以上、いきおい視線ははるか彼方にそそがれる。眼前に向けられる悪では、小悪にすぎない。そして、眼前にあるものを壊さないことにはなしとげられないのが大改革であるならば、善がそれをはばむ側にまわってしまうのも当然ではないか。それなのに現状では、大改革をするに絶好な激動期には社会主義が叫ばれて大悪をつぶし、それが一段落して世の中が落ちつくや、小悪がはびこるのだから絶望させられる。望ましいのは、変革期には大悪が活躍し、平穏な時期には善が支配することではないだろうか。

 しかし、世の中はなかなかこのようには進んでくれない。なぜなら、改革期に必要な「悪」を「善」が許さないからである。この場合の善を知識人やマスコミとするのは、歴史では常に、この種の悪を糾弾してきたのが彼らであったからだ。その理由がなんとも小市民的であるのも、これらの人びとの体質を示しているような気がする。いわく、私利私欲によるがゆえに許せない。いわく、周囲に集まる人間が劣悪だ。良質の人びとはその善意ゆえに、協力するどころか彼を糾弾してやまない。


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 小悪に対して善をもって対処する場合に頼られるのが、「人間の尊厳」という単語だと思います。人は誰しも平等であり、いかなる悪人であっても人間として存在するだけで尊いという理念です。しかしながら、この理屈は、善が小悪に対処する場合の偽善においてのみ通用し、大善に通じる大悪には太刀打ちできないように思われます。少なくとも、「人間の尊厳」を失っていることを本人自身の言葉において示される場合、この小悪に対して善をもって対処するのは徒労であり、善は世の中への絶望を導くに過ぎないでしょう。

 私は、「人間の尊厳」の理念を何の疑問もなく語る人々を、少々おめでたいと感じています。これは、本人自身によって「人間の尊厳」を失っている者への軽蔑の念でもあり、その者に対して「人間の尊厳」を付与して恥じない者への軽蔑の念でもあります。もちろん私は小心者ですので、堂々と大悪をもって対抗することはできませんが、自分は善人ではなく、偽善者であることは忘れたくないと思っています。それは、眼前のものに対する善意によって自己を縛り付けることが、自分の良心を何かに売り渡し、結果として小悪に加担しているように思われるからです。

ある日の家庭裁判所のカウンターの光景

2010-04-27 00:03:07 | 国家・政治・刑罰
 人間が限界まで思い詰めたうえで言葉を語っているかどうかは、その手や唇の震えによって直観的にわかることがある。彼(家庭裁判所事務官)は、自分の意見を能弁に語る人を前にすれば、一刻も早く帰ってもらうために様々な手を使う。しかし、目の前の男性にはそのような対応ができない。人間としての倫理と、社会人・組織人としての倫理が一瞬でぶつかり合って逃げ場を失う。
 非公開の少年審判での供述調書や、加害少年の精神鑑定書は、不開示情報の最たるものである。17歳の息子を殺害された父親であっても、これを見ることはできない。「加害少年の保護更生・健全育成」という法の趣旨は、ある種の冷笑と皮肉を伴って語られることが多い。それは、誰にも逆らえない大原則の前には、考えても無駄なので従っておくという処世術でもある。

 「あなたが人生を賭けて見たいと思っている書類は、あなたから2メートルの所にあります。そのすぐ横のロッカーの中です」。彼の頭の中には確かにこのような単語が駆け巡っており、それは明らかに顔にも出ていた。しかし、目の前の父親には伝わらない。父親は少年法の厚い壁にはね返されており、彼は壁の中にいる。むしろ彼自身が壁である。
 父親である以上、息子の死に関することは、どんな細かいことでも知っておかなければならない。「なぜ殺されなければならなかったのか」という問いには答えがなく、堂々巡りとなるのは必定である。但し、その堂々巡りは、事件全体の真相を知りたいという動機に貫かれ、正確な情報も不正確な情報もできる限り取り込んで、解釈が与えられるものでなければならない。そうでなければ、たった2メートルの壁が、人間を見当違いの方向に導く。

 ロッカーの中にあるA4の紙の束と、それにプリンターで印刷されたインクの染みの羅列は、恐らく父親が読むには耐えない。加害少年の言葉は、息子を亡くした父親に更なる悲しみや苦しみを与える内容である。しかしながら、実際に父親がそのようになるかどうかは、当事者ではない彼にはわからない。決まっているのは、「遺族にとって良いか悪いかは実際に開示してみなければわからない」という疑問を持ってはならないことだけである。他方、「開示すれば加害少年の更生に悪影響が及ぶ」という意見に対して疑問を述べるのには勇気がいる。
 「息子を17年間慈しみ育ててある日突然殺されるとはどのようなことか」という問いには答えがない。ゆえに、人はその答えを探し続けることをもって、取りあえずの答えとする。そして、いかに読むに耐えないと思われる資料であっても、それが国家の法制度によって読めないことは、人間にとって理不尽である。これは人間の採る態度としては矛盾しており、科学的な客観性はない。しかし、個人的な極限状況に無関心な理屈は、口当たりのよい単語を簡単に連発してこの矛盾を覆い隠す。

 彼の人間としての良心は、ロッカーを開けてその父親の前に書類を出すことが正義であるとの答えを出していた。人間の誠意による一瞬の善悪の判定は、専門家の細かい理屈を許容する猶予を与えない。息子がこの世にいない悲しみに集中したい父親にとって、そのずっと手前の些細な法制度に引っかかって先に進めない現実を前にすれば、常識的な人間であれば、良心が何らかの声なき叫びを上げるはずである。
 彼がその場で自分の良心に従わなかったのは、現に背後で上司や同僚がことの成り行きを見守っていたからである。しかし、もしも彼が1人だけであっても、彼は自分の良心に従うことはできなかった。「息子の死に関することはすべて知っておくのが自分の責任である」という父親の言葉に本気で向き合っていては、仕事にならないからである。「規則だから」という理由ですべてを片付ける人間は、彼が最も嫌悪するタイプであったが、いざ自分がその立場に立たされるとどうしようもない。自分の本心を殺し、職業的良心・職業倫理を正当化する理屈だけが脳内を巡る。

 父親の願いを合法的に叶える奥の手がないわけではない。誰か父親の知り合いに裁判所に就職してもらい、この裁判所に人事異動の願いを出してもらい、記録を見てもらうという手段がある。確定記録は廃棄処分となるまで数年間は保管されており、その間に調査の名目で記録を使用することは認められているからである。このような方法は、家庭裁判所事務官の誰もが思いつき、しかも誰もが口に出さない。
 父親がいかに手や唇を震わせて開示を求めようとも、答えは1つだけである。もし彼が自分の良心に従った行為を選択したとしても、社会は恐らくそれを好意的に受け取らない。情報漏洩、公務員の不祥事、再発防止に向けた教育といった単語が飛び交い、彼は社会人として失格との烙印を押されるだけである。かくして、父親の人生においてなくてはならない書類は、彼の適切な当事者対応により、父親の手に渡ることはなかった。彼は、17歳で殺された生命への冒涜に加担した罪悪感を持ち続けていては身が持たないが、これを忘れ去った人生は人生の名に値しないとも思った。


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フィクションです。

塩野七生著 『男たちへ』より

2010-04-25 23:12:20 | 読書感想文
p.14~
 ここで言いたい「頭の良い男」とは、なにごとも自分の頭で考え、それにもとづいて判断をくだし、ために偏見にとらわれず、なにかの主義主張にこり固まった人々に比べて柔軟性に富み、それでいて鋭く深い洞察力を持つ男、ということになる。
 なんのことはない、よく言われる自分自身の「哲学」を持っている人ということだが、哲学と言ったってなにもむずかしい学問を指すわけではなく、ものごとに対処する「姿勢」を持っているかいないかの問題なのだ。

p.100~
 私にもひとつ、それさえ思えば泣けることがあった。それは数年前のことだったが、神経性胃炎を病んだ時期があって、さてはガンかと疑ったのである。問題は、9歳で残していかねばならない息子のことだった。少しでも暇になると、息子に告げる「永の別れ」を考えては、泣くのである。私の想像力による「永の別れ」は、それこそドラマティックでセンティメンタルで、それでいて押さえがきいていて、当の私自身を誰よりも酔わせる「傑作」だった。
 仮にあの時の胃炎が手遅れのガンであったとしても、実際に展開されたであろうシーンは、断然、非ドラマティックでセンティメンタルであったと確信している。おそらく涙の量も、ずっと控えめに流されたことだろう。そして、なによりも確実なのは、悲劇であっても、それは酔えない悲劇であったであろうことだ。厳たる現実ではないから、人は悲しみにも酔うことができるのである。

p.214~
 世の中の種々相は、全部とはいわないがその大半は、ツマラナイ現象であることが多い。これは趣味の問題で、好きか嫌いかしかないと思うのだ。だから、こういう現象を、いかにももっともらしい存在理由を探し出して「解説」した論文を読むと、ゾッとするのである。解説屋の仕事は、そのどこを斬っても、赤い血は出ない。彼ら自身の肉体も、どこを斬っても赤い血は出ないのではないかとさえ思われる。
 この種の男たちの特徴は、修羅場をくぐっていない弱みではないだろうか。常に頭の中だけで処理することに慣れたインテリは、体験をもとにした考えを突きつけられると、意外と簡単にボロを出してしまう。修羅場をくぐった体験をもつ者は、背水の陣でことにのぞむ苦しさも、また快感も知っている。
 こうなると、同じ一行の書き文字も、同じ一句の話し言葉も、そこに凝縮された「力」がちがってくる。要するに、迫力が断じてちがってくる。だから、それを読む人や聴く者の胸に、訴えかけてくるものが強いのだ。結果として、読んだり聴いたりした人は、みずからの血が騒ぐのを感ずるのである。


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 私は法律学を学び、殺人罪、強盗殺人罪、傷害致死罪といった数多くの判例を研究し、紙の上で「修羅場」をくぐり、判例の基準や言い回しを学んできました。その一方で、事実は客観的に捉えなければならず、具体的な現場のイメージを持って気持ちが悪くなるようでは法律家として失格だとも言われてきました。ですので、上記の塩野氏のような文章を読むと、冷水を浴びせられたような気になります。

 修羅場をくぐった者、修羅場の渦中にいる者の言葉は、そこに凝縮された「力」が違うというのは全くその通りだと思います。残る問題は、それを言葉にすることの困難さでしょう。
 それは第1に、言語の限界として、修羅場の瞬間はなかなか言葉で上手く表現できないという点に現れると思います。第2に、まとまった文章を集中して書くには大変な気力が必要であり、赤い血が出るような殺人罪の文章を書くには、書く側が命を削らなければ書けないという点に現れると思います。そして、ここではある程度の継続的な時間が必要であり、目の前の生活が最大の障害とならざるを得ません。
 インテリの判例評釈で血が騒いだことのない私の感想です。

ある過労死の裁判の裏表

2010-04-23 21:59:46 | 実存・心理・宗教
某団体の機関紙より

 29歳の未来ある青年が急性心筋梗塞で亡くなってから早くも2年が経った。その間にも、日本の労働環境は改善の兆しを見せない。企業が今なおグローバリゼーションの流れに便乗し、リストラを断行しているのが全ての元凶である。人件費は削減しても業績は落とすな、というのが企業の立場である。彼の勤めていた会社は、リストラの成果もあって今期200億円の黒字が見込まれると報じられている。このようなことが到底許されるはずがない。

 青年の母親は、彼の名誉を賭けて会社を提訴した。企業の役員は、投資家への評価を何よりも重要視するため、労働者に対する配慮は二の次となる。そして、仕事に真面目に取り組もうとした彼にとっては、長時間の残業は当たり前となっていた。会社のために尽くした者が、会社のために犠牲者となるのである。このような不正義が許されてよいはずがない。過労死の絶滅、そして労働者および労働組合の地位向上をめざす闘いに、大きな火の手が上がった。

 第3回口頭弁論期日には、あいにく母親は体調不良で傍聴することができなかったが、我々は彼女の意志を熱く受け止めて戦いに臨んだ。この闘いがいかに大切であるかを再認識し、勝利を勝ち取るまで戦い抜く覚悟である。


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その母親から聞いたこと

 過労死の何よりの防止は、周囲の者が危機を察知したときには、何がどうあろうとも力ずくで仕事を休ませることだと聞かされます。これは結果論であり、命を落としてからでは手遅れです。息子の危機を察知していながら仕事を休ませなかった私は、一生涯かかっても償い切れない罪を背負いました。私の裁判を支援して下さる方々からは、自分を責める必要などない、責められるべきは会社なのだと口を酸っぱくして言われます。しかし、私にはその言葉がピンと来ません。面倒なので、最近は黙って頷いています。

 あの電話を受けた日のあの瞬間が、今も凝縮されたまま私の全身に染み付いており、ふとしたきっかけで怒りと悲しみが込み上げてきます。死にたくなかったでしょう。私はその後、世間が華やかな雰囲気で盛り上がっている時、どうでもいいという気持ちで顔を背けています。何を見ても白けています。最初の1年くらいは、過労死の絶滅のための活動に打ち込むことで気が紛れていました。しかし、徐々に悲しみが深く静かに沈んでいるような感覚になり、最近は、何かのために戦うということ自体が虚しくなってきました。

 裁判は会社に損害賠償を求めるものであり、私は息子の命に値段をつけて戦っています。金額が安いといって争っているのは、私が息子の死を受け入れていることに他なりません。しかし、私は息子の死を受け入れていないことに気がつきましたので、これからは裁判には行きません。


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どうしたものでしょうか。

村上政博著 『法律家のためのキャリア論』

2010-04-21 22:58:07 | 読書感想文
p.42~

 弁護士は、自力で生活の糧を稼がなくてはならない。弁護士資格自体は一銭の収入も保証しないためである。仮に、イソ弁・事務員各1名態勢で、都心のビルに個人法律事務所を構えるとした場合、月当たり経費が最低限200万円はかかる。年間1200万円のうち、交際費は税法上、経費と認められるからその分を差し引くと、年間所得は1000万円にも満たなくなる。この所得レベル・生活水準を確保するために、仮に事務所経費月200万円、生活費など月100万円としても、事務所売上は年間3600万円が必要になる。

 このような事務所経費の収支計算から、弁護士は訴訟物価格数百万円程度の事件、ましてや少額事件を受任したがらなくなる。そのうえ、弁護士報酬・年間総収入はかなり不安定なものである。たとえば、今年度は高額の年間収入を得たとしても、それが次年度以降も続くという保証はない。検事を退職して弁護士になったいわゆるヤメ検が時折問題を起こすことがあるのも、実は稼ぐことの困難さを物語っている。稼ぎ方を体得していないヤメ検は、事件処理において依頼者の意向を受けて無理を重ねる可能性が高いといわれる。


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 ある方のブログで次のような話を読みました。息子さんの死の真実を求めて裁判を起こした。弁護士は、「弁護を任せてほしい」と言った(成功報酬が確実に見込めるため)。その過程で、加害者側の企業から「話し合いのテーブルを設けます」と言ってきたので、両親は弁護士任せにせず自分達が話し合いたいとの意思を示した。しかし、弁護士からは、「素人にできるはずがない」と言われて拒否された(成功報酬が下がるため)。その後、警察への対応を弁護士に求めたところ、「多分無理でしょう」と言われて断られた(成功報酬が全く見込めないため)。母親は、「この世に正義はない」と心に刻んだ。

 村上氏の述べるところが現実の弁護士の経営実態であり、このような感覚の中で日々生きている法律実務家からすれば、上記の母親のような指摘は非常に困るはずです。話し合いのテーブルに当事者本人をつかせず、警察相手の無理な裁判を受任しないことは、事務所を構える経営者としては正しい判断だからです。そして、この資本主義の暗黙の了解の偽善性を突いてくる者は、扱いにくいクライアントであり、いくら話し合っても通じないという評価を受けるものと思います。

 他方、弁護士という肩書きや金銭的な利害関係を離れて、1人の人間として見てみれば、これほど筋の通らない話もありません。息子さんの死の真実を求める裁判であれば、その当事者としての加害者側の企業との話し合いをする資格があるのは、世界中に両親をおいて他にはいないからです。もちろん、単にお金の問題であれば、交渉技術に長けたプロに任せるべきだという筋も通りますが、当人がお金の問題でないと言っているのであれば、これは代理人による交渉に任せられないのは当然です。そして、この結論が経営判断の正しさと衝突するならば、やはり「この世に正義はない」というのが正解だと思います。

ある児童虐待事件の裁判員裁判の光景

2010-04-18 23:57:46 | 実存・心理・宗教
 検察官は、被告人の供述調書を淡々と朗読していた。彼女は、児童虐待事件の裁判員にだけはなりたくないと思っていた。母親が3歳の息子を虐待して死なせた事件など、人の罪を裁くことの重さ以前に、とても人間として直視できるものではない。しかし、検察官の声に合わせて供述調書を目で追ううちに、彼女は目を覆いたくなりながらも、1つ1つの文字に目が釘付けになっていた。
 「夫が○○(息子の名)の髪の毛を後ろから掴んで振り回し、頭を浴槽にぶつけると、ゴーンという鈍い音がしたのです。私はそれを後から見て、無理に笑い声を上げていました。○○は大声で泣き叫んで仰向けになったので、夫が左手で口をふさぎ、右手で顔を何発か拳で殴りつけました。すると、○○が暴れたので、夫はもう一度○○の頭を浴槽にぶつけたのです。○○は頭から勢いよくぶつかり、床に倒れ込みました・・・」
 彼女は、夢中で供述調書の文字を追いながらも、何の感情も沸かなかった。わからない。理解できないのではなく、全くわからない。3歳の男の子は、最愛の両親に殴られ、浴槽に頭をぶつけられ、どんなに痛かったことか、悲しかったことかと想像したい。しかし、両親に愛されて育った自分には、その痛みが実感と理解できない。目は必死に文字を追いながら、心は茫然としている。

 彼女は、何かにせき立てられるようにメモ用紙を取り出し、供述調書の文字を書き写し始めた。ただただ必死に書き写した。何にせき立てられているのか、彼女自身にもわからない。許されるのであれば、そのページを抜き取って持って帰り、コピーしたかった。それが許されないのであれば、その時の彼女にできたことは、被告人である母親の言葉を一言一句メモすることだけである。
 彼女は、被告人の罪を裁くということの重さを全く感じなかった。裁判員の人選によって懲役の長さが2~3年変わろうとも、それほど大した問題とは思えなかった。3歳の男の子の命が失われた事実を前にして、母親の懲役の長さの問題で盛り上がれるなど、正気の沙汰とは思えない。いや、人間は正気を失っているからこそ、傷害致死罪という法律用語の枠内に逃げ込み、過去の判例から量刑を検索し、人の罪を裁くことに熱中できるのかも知れないとも思う。
 この法廷にいる人々は、誰一人として3歳で殺されてはおらず、無事に育てられてこの場にいる。だから、3歳で殺された男の子には絶対に敵わない。男の子が可哀想だ、その絶望はいかばかりか。3歳で殺されなかった大人が何を言ったところで、すべての言葉は表面を滑る。ただ、供述調書の文字だけが現実のものとして彼女に刺さる。

 彼女は家に帰ると、すぐにメモを取り出し、パソコンで本物の供述調書のように復元してみた。すると、その行間には、血が凍るような取調室の空間が再び現れた。この供述調書の行間には、心の闇も何もない。ここに過剰な意味づけをすることによって、人間は何事かを錯覚する。
 「床に倒れた○○は、浴槽の縁に捕まり、渾身の力で立ち上がり、ギャーと叫びなら私の顔を睨みつけてきたのです。そして、前のめりに倒れると、そのまま動かなくなりました。夫が○○の顔を何回か平手で叩きましたが、○○は動きませんでした。私は、大変なことをしてしまったと思い、夫に救急車を呼ぼうと言いましたが、夫はしばらく待てと言いました・・・」
 彼女の中には、この供述調書の行間から母性愛を読み取りたいという気持ちが避け難く存在していた。そうでなければ、この狂気には救いがなかったからである。しかし、彼女はすぐにその試みを放棄した。現に、自分の命よりも大切な我が子を失い、狂気と正気の間で生きている母親の母性愛を想像すると、この被告人の人間性はあまりに安っぽかったからである。ところが、そう切り捨ててしまうと、今度は3歳で命を落とした男の子の存在に押し潰されそうになる。

 この世の最大の悲しみは、最愛の我が子の死である。子供を持つ全ての親は、今日明日にも、事故や災害、急病や犯罪によって、この悲しみに直面する可能性の中で毎日生きている。ただ、ほとんどの人は、その現実に気がつかない。気がついた時には、解決しようのない苦しみを一生抱えて、正気の狂気の混濁した場所で強制的に生かされているしかない。
 このような人間存在の現実に比べると、この被告人は、何たる妙な地位で生きているのかと思う。誰がどう死の原因を作ろうとも、逆縁は逆縁に変わりがない。ところが、この母親が法廷で述べていたのは、子育てが大変だったとか、周囲の協力がなくて孤立したとか、ストレスが溜まって歯止めが効かなくなったとか、自己保身ばかりである。他の裁判員は、熱心に聞き入って一定の同情を寄せている様子であったが、彼女は全く心を動かされなかった。被告人は自己を正当化し、自分を責めることもない。何という恵まれた、幸福な逆縁であろうか。
 この母親は、息子の死を知らされても、死にたいという感情すら持たなかった。それは、その現実が最愛の我が子の死ではなく、自分自身の罪の問題に他ならないからである。母親は我が子を殺すとは、一般的には狂気の沙汰である。しかし、我が子を喪った哀しみがこの世の狂気の限界であるならば、その状況において自らが狂気を認識してない狂気など、果たして狂気の名に値するものか。
 
 彼女は、虐待中の被告人の苦しみを切々と訴える弁護人と、それに応じて意味不明の涙を流す被告人と、それを量刑判断の争点として評議する他の裁判員によって、3歳の男の子の母親がこの世から存在しなくなることが我慢ならなかった。この世の誰かが、あの供述調書の行間を伝えなければならない。自分は、このことを広く社会に知らしめる使命がある。
 判決の前日、彼女は復元した被告人の供述調書を数十部印刷して郵便で送る準備をし、さらにホームページを開設して、供述調書の内容を公開する準備を整えた。もちろん、裁判員の秘密漏洩に対して6ヶ月以下の懲役刑が科されることは、事前に説明を受けていた。しかし、3歳で失われた命を前にして、守秘義務に何の意味があるというのか。幸福な逆縁がもたらす狂気の正気を裁判所の狭い空間に閉じ込めたまま児童虐待の防止を論じるなど、何たる偽善だろう。
 判決は懲役10年となった。彼女は家に戻ると、早速計画を実行に移そうとした。しかし、最後のところで勇気が出ない。別に守秘義務を果たそうという意志が生じてきたわけではない。刑罰が怖いわけでもない。一言で言えば、臆病である。守秘義務と裁判員の倫理が問題とされることによって、虐待事件そのものが忘れ去られ、3歳の男の子の命が踏みつけられるのが怖い。彼女は数日考えた後、すべての書類を処分した。こうして、司法制度改革の根幹を揺るがす大事件は未然に防がれた。


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フィクションです。

筒井康隆著 『アホの壁』

2010-04-16 23:51:01 | 読書感想文
p.43~

 バラエティ番組がこんなに多いということは、多くの人が見ているからであろう。しかしここからさまざまなアホが生まれ、アホの言説が一般社会に拡がっている。時代に影響を受けたアホと言えようが、こうしたアホが後世に何らかの影響を、ほぼ確実に与えるだろうことが懸念される。

 彼らのやりとりを聞いていると実につまらない。お笑いも個個の芸ではそれぞれいいところを見せるが、こうした番組ではギャグもナンセンスも皆無である。何を言うかというと自分のアホさ加減を言ったり、相手のアホな日常を暴露したり、タレントの誰それのアホなエピソードを喋ったり、頓珍漢な返事や答えで自分の無能を示したりするのだが、そこにはほとんど笑いはない。

 知的な筈の科学者、医師、作家、ジャーナリスト、弁護士といった連中でさえ、こうした番組に何度も出ているうちには次第に慣れてきて、似たようなつまらぬことを言い、同じような反応をする。大声で笑う人などは特に重宝がられる。バラエティ番組でそのような教育を受けたこの連中が、一般社会にそうしたつまらない会話を持ちこむものだから、会話の知的レベルがどんどん低下していくことになる。

 居酒屋などへ行き、何人かが集って飲みながら話しているのを近くの席で聞かされることがある。たいていはまるっきりバラエティ番組を模倣したつまらない会話で盛りあがっていて、それは即ち身内の悪口、同僚の失敗談、その話をしている者の言葉尻や言い間違いを捉えた冷かし、その他その他である。そのつまらない話に爆笑で返すというのもバラエティ番組そのままだ。しかしいずれの技術においてもバラエティ番組には劣っていて、つまらなさ、アホさ加減にはどんどん拍車がかかる。

 こうした傾向が一般社会に拡がっていくと恐ろしいことになるだろう。最も危険なのは会社などにおけるブレーン・ストーミングである。そもそもが何を言ってもいい会議なのだから、これがバラエティ番組の模倣になったのでは、何かの着想に到るという本来の目的を達せられる筈がない。


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 その通りだと思います。裁判員制度は大丈夫でしょうか。

某団体の犯罪被害者支援研修会

2010-04-14 23:05:37 | 国家・政治・刑罰
報告記事より

 暴力団等排除対策委員会は、暴力団等の排除とともに、警察と連携し、犯罪被害者の支援活動に協力している。当日は、会長の挨拶で始まり、暴力団等排除対策委員会の副委員長が司会を務めた。前半は、犯罪被害者支援官が「警察による犯罪被害者支援」というパンフレットを使って警察によるさまざまな支援制度・支援活動を紹介した。

 後半は、犯罪被害者である女性が講師となってその体験を語った。この女性は、当時25歳の息子をその知人女性に殺害されたのである。事件の経緯もさることながら、被害者が後日直接の加害者以外の者から受けるいわゆる二次被害というものが被害者をさらに苦しめるということに心が痛んだ。マスコミ、相手方の関係者等によるものは想像できるが、周囲の安易な慰めや励まし等が被害者を苦しめるのは、残念なことである。

 平成16年に犯罪被害者等基本法が成立した。これまで、どちらかというと後回しにされてきた被害者あるいはその遺族の支援に目が向けられ、今後さらに拡充していくことを希望する次第である。


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 正気が狂気を語るのは恐ろしく難しいと思います。私は、以前にこの団体の関連団体の犯罪被害者保護分科会に出席したことがあるのですが、「被害者は二次的被害に苦しみます」というテキストのお勉強に続き、相続・告訴・告発・損害賠償への顧客獲得のノウハウに話が移ったため、それ以降は出席しなくなりました。

私の大学時代の「刑事政策」の答案

2010-04-13 23:34:11 | 国家・政治・刑罰
問:死刑について述べよ

 死刑とは、受刑者の生命を何らかの方法によって奪う刑罰であり、その社会的存在を抹殺する刑罰である。我が国の刑法では殺人罪をはじめとして11の罪に規定があるほか、5つの特別法にも死刑の定めがある。
 20世紀後半になり、欧州諸国が死刑制度を廃止し、1989年には国連総会が死刑廃止条約を採択し、現在の国際社会は死刑廃止の潮流にある。先進国と呼称される国の多くは死刑制度を廃止し、または執行停止をしているが、日本は現在でも死刑制度を維持しており、国際世論の風当たりは強まっている。

 死刑存置論と死刑廃止論をめぐっては、激しい対立が続いている。この点については、日本国憲法の原則から考えなければならず、ひいては近代憲法の人権尊重主義から考える必要がある。
 思うに、近代立憲主義の人権尊重は、その対象から犯罪者を除くものではなく、更生の可能性を否定するものではない。また、誤判の中でも死刑は取り返しがつかないものであり、他の刑罰とは本質を異にしている。さらに、死刑制度による威嚇力・犯罪抑止力は、科学的な因果関係が論証されていない。しかも、死刑を執行する職員の精神的負担は大きく、死刑は終身刑に比べ経費が安く済むともいえない。従って、死刑は廃止すべきである。

 それでは、死刑に替わる刑罰として、いかなる刑罰を創設すべきであろうか。思うに、仮釈放を厳格にした無期懲役刑を採用すべきものと解する。この点、仮釈放のない終身刑制度は、死ぬまで釈放されない絶望感を受刑者に与えるものであり、憲法の禁止する残虐なる刑罰であり許されない。
 他方、被害者遺族は、家族を殺害されたという直接的被害にとどまらず、報道機関や司法関係者などから心ない干渉を受けるなど二次的被害を受けることが多い。よって、カウンセリングなどの施策を充実させるべきことも我々は決して忘れてはならないであろう。


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 これは、中間試験の前に出回っていた「模範答案」の骨格です。先輩から後輩へ、同級生相互間で、脈々と受け継がれていました。私を含め多数の同級生は、自分の本音としては死刑は必要であると考えていても、答案では死刑廃止が妥当であると書いていました。なぜなら、刑事政策学においては死刑廃止論が「正解」であり、それを前提として代替刑の内容が論じられており、終身刑の可否という論点に大きな配点があったからです。

 法律学を学ぶとは、その実証主義のパラダイムを学ぶことです。そして、刑事政策学では7段階の定式(定義・意義・現状・特徴・原因・問題点・対策)が決まっており、そのルールを守らない答案は、法律論になっていない素人の作文として酷評されていました。そもそも刑事政策学とは、犯罪者の更生・社会復帰を論じる学問ですので、死刑の肯定は学問の存在意義において背理を生じます。実務家や学者になるための試験も、この動かし難いパラダイムの延長線上にあるように思われます。