犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

五木寛之著 『人生の目的』

2008-05-31 14:25:54 | 読書感想文
p.59より

近代の文明は、その出発点において明るい未来を予想したので、近代人はひとつの不遜な思いあがりを心に抱くようになった。すなわち、「意志の自由」によって、私たちは人生を自由に切りひらき、大胆に変えることができると考えたのである。だが、人間は決して無制限に「自由」ではない。社会制度が近代化され、改革されても、人間にはどうにもならない運命がある。私たちが人間として生まれ、この地球上に「生きている」こと、それ自体が、ひとつの逆らえない私たちの運命ではないのか。


p.79より

私たちは、ある親や家族のもとに、特定の血液型因子と個性をあたえられて生まれた。それは宿命である。私たちはそれを否定することができない。しかし近代という時代は、常にその宿命に挑戦しつづけてきた。人間に不可能はない、と確信したいからだろう。老いや容貌を整形医学によって変え、遺伝子組み換えによって個人の肉体の記憶も変えようとする。しかし、それで宿命をのりこえることが、はたして可能だろうか。それをこえることは、<唯我独尊>の唯我の尊厳を放棄することではないのか。宿命を平等化することは、個の命の重さを失わせることでしかないのではないか。


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「諸行無常」「万物流転」と、「改革推進」「社会変革」。これらの単語は、一見すれば非常に似ている。しかし、その内容は正反対である。前者においては、人間は何もしなくても社会は変わるし、人間が変えようとしたのとは違う方向に社会は変わる。これに対して、後者では、社会は人間が変えたいように変わる。民主主義や選挙のシステムは、後者の考え方を採用しなければ維持できない。前者の考え方を述べるようでは、まず選挙に当選しないからである。今やオバマ候補もクリントン候補も、福田首相も小沢代表も、誰もが「改革」「変革」と叫んでいる。しかし、選挙のたびに前任者の悪口とネガティブキャンペーンが繰り広げられ、自ら多数決で選んだはずの総理大臣の支持率がいつも低いのはどうしたことか。

論理的で体系的な思想は、細部を全体の一部に組み込むことにより構築される。その乱暴に括られた細部のほうは、全体の中に埋没する。法律は、論理学のように理路整然としていなければならず、私情が入ってはならない。このようにして、法律の条文と近代司法の民事・刑事のシステムは、人間の人生を飲み込んできた。社会的に生産性のない犯罪被害者の声は、歴史の発展法則に反し、時代に逆行するものであった。しかしながら、人生の流れは、その部分が全体である。人生の一回性の前には、時代に逆行しようとしまいと、本人には何の関係もないはずである。おそらくこの世の真理とは、真理を目指して構築された完璧な体系の中にあるのではない。多くの場合、その真理の体系からこぼれ落ちたところに、逆説的に真理が示される(p.332)。

ふじみ野プール事故 市職員有罪判決

2008-05-28 22:17:56 | 国家・政治・刑罰
埼玉県ふじみ野市の市営プールで2006年7月に起きた戸丸瑛梨香さん(当時7歳)の死亡事故で、さいたま地裁は昨日、業務上過失致死罪に問われた市職員2人に有罪判決を言い渡した。元市教委体育課長・高見輝雄被告(61歳)が禁錮1年6カ月・執行猶予3年、元同課係長・河原孝史被告(47歳)が禁錮1年6カ月・執行猶予3年である。この判決が確定すれば、地方公務員法の規定に基づき、現職の河原被告は失職し、退職金も支給されない。また、ふじみ野市によると、保留されている高見被告の退職金も支給されないとのことである。

瑛梨香さんの家族は、判決の数日前、代理人の弁護士に「今でも瑛梨香の命が奪われたことが納得できない。瑛梨香も納得できるような判決であってほしい」と話したという。これに対し、ふじみ野市は事故後、業務委託業者との契約内容の確認・履行状況の監視などを担当するポストを新設したが、市職員からは「業者の過失責任まで負わされてはたまらない」との声が漏れたとのことである。そして、公判には市職員有志が集めた減軽を求める約7000人の署名が提出された。

この判決は、裁判所が罰金刑ではなく禁錮刑を選択したものであり、極めて厳しい姿勢を示したと評価されている。また、このような事故は一次的には業者の責任であり、自治体職員は頻繁に異動することからしても、この判決は非常に厳しいものである。しかし、何かが違う。人間が人間として論じたいのは、こんな話ではない。市職員から約7000人の署名が集まった点についても、公務員としての気持ちはわかるが、なぜか強烈な違和感がある。もっと重い刑にすればいいのか、実刑にすればいいのかと言えば、そうでもない。この違和感を突き詰めていけば、やはり最後は形而上的な問題に突き当たる。裁判が扱えるのは、あくまでも犯罪の有無であり、人間の生死ではない。すなわち、人間の一生は、「業務上過失致死罪」という条文には入り切らない。

純粋に形而上的に述べてみれば、事態は次のようになる。確かに、失職と退職金の不支給は重い処分である。しかし、人間の生命と比べれば、どれもこれも大したことではない。もちろん近代の実証的な理論は、生命と退職金の比較などは苦手であり、ここで問われている問題の意味がわからない。遺族は感情的だ、厳罰化すれば済むのか。亡くなってしまった人は生き返らないのに、退職金を支給しないことに何の意味があるのか。近代の実証的な理論は、様々な問いを発生させる。しかしながら、その中核のところは動かない。純粋な論理の要請によって、「退職金は生命より重い」という命題は誤りとなるからである。すなわち、「退職金は生命より重い」と言えば、端的に嘘になるからである。これは誰のせいでもない。

自治体職員が頻繁に異動しようとしまいと、河原被告は47歳まで生きている。すなわち、7歳で死亡していない。これに対して、瑛梨香さんは、47歳まで生きられなかった。すなわち、7歳で死亡している。退職金がもらえなかったり、失職をしたりするのは、その人が生きているからである。死んでいる人は、失職もできないし、退職金が不支給になることもない。近代の実証的な理論は、このような事実を改めて突きつけられると、嫌がらせあるいは屁理屈だと受け取ることが多い。しかし、これらは偽らざる真実である。誰のせいでもない。この世に生きて死ぬ人間において、誰にでも等しくあてはまる論理の要請である。人間の生死の前では、他の問題はすべて負けであり、失職も退職金も降参である。これ以上の当たり前はない。この当たり前の話を転倒させて難しくしているのが、現在の裁判である。

罰金刑か禁錮刑か。執行猶予か実刑か。法治国家においては非常に重要な判断である。しかし、どのような厳しい判決であろうとも、それが最終的にすべての人間の疑問を納得させることは稀である。このような疑問は、近代の実証的な理論では手に負えず、形而上学に委ねられるしかない。形而上の論理は、突き詰めれば突き詰めるほど言葉を失い、言葉にならずに叫びに似てくる。これが純粋な論理の形式である。これが論理ではない感情に聞こえるのは、聞くほうが論理的ではないからである。遺族が感情的であるとして近代の法治国家から排除されているのは、正しい論理・事実・真実・理性を突き詰めた先に生じる叫びを聞いてしまうと、形而下のシステムが壊れるからである。従って、「退職金は生命より重い」と主張するよりほかない。

中嶋博行著 『この国が忘れていた正義』 あとがき

2008-05-28 12:24:22 | 読書感想文
中嶋氏は弁護士かつ作家であり、専門知識を生かした作風が魅力である。専門知識を身に付けるとは、それを盲信することではない。どんなに弁護士法1条に「基本的人権の擁護」と書いてあったところで、人間は肩書きである以前に人間である。「犯罪被害者は暴力的な凶行で生身の不可分一体な被害を受けているのに、法的な場面になると、民刑分離の大原則で刑事被害者と民事被害者のふたつの身分に引き裂かれてしまう」(p.103)、この記述は中嶋氏ならではのものである。法律の専門知識がなければ、このような事実を指摘することはできない。逆に、専門知識がある多くの法律家にとっては、その知識ゆえにこのような事実をゼロから疑ってかかることができない。

民刑分離の大原則は、副次的にマニアックな論点を生んでいる。例えば、「不法原因給付と横領」という論点である。ある会社の上司が部下に対して、政治家に賄賂を渡すように命じ、大金を託した。ところが、その部下はそのお金を自分で使ってしまった。さて、部下に業務上横領罪(刑法253条)は成立するか。ここで、賄賂を託すような行為は不法原因給付にあたるので(民法708条)、上司は部下からお金を取り返す権利がない。従って、部下には上司に対する横領罪が成立すると考えると、民法と刑法がずれてしまう。そうかといって、このような部下が無罪放免というのも許しがたい。さあ困った、という問題である。民刑分離の大原則を立ててしまった以上、これは論理的に答えが出ない。犯罪者の思惑とは全く関係ないところで、民法学会と刑法学会の争いが続いている。

法律学は分析の学問である。民法の内部においても、私権はまずは物権と債権に分けられている。その上で、物権と債権は常に一緒に考えなければならないとされる。ここで、「買主は不可分一体の物を買っているのに、法的な場面になると、物権法による所有権移転と、債権法による代金債務・引渡債権の発生という2つの出来事に引き裂かれてしまう」という視点で問題意識を持つ人は少ない。物権と債権、2つのものが別々に「在る」と信じるのが法治国家だからである。従って、2つのものを別々に作って後からくっ付けようとして大騒ぎしているのならば、最初から分けなければいいといった突っ込みは聞かれない。かくして、単なる法技術であるはずのパンデクテンが実体化し、体系の維持が自己目的化し、人間は頭を悩ませる。

犯罪被害者にとって附帯私訴は非常に便利であるが、その実現にはまだまだ障害が多い。その障害が、民刑分離という近代法の大原則である。そこでは、民事裁判では犯人とされて賠償が命じられ、他方で刑事裁判では無罪放免となっても、両者は手続きが違うのだから不思議でも何でもないとの理屈が述べられる。しかしながら、これで終わりというのでは、体系の維持を自己目的化させた結果として、ゼロから自分の頭で考えることを放棄してしまったに等しい。中嶋氏からごく当たり前のことを指摘されると、あまりに当たり前すぎて虚を突かれる所以である。抽象的な近代法の大原則を取るか、現に目の前で涙を流している犯罪被害者を取るか、これは1人の人間としての倫理の問題である。専門家がその肩書きによって結論を先取りし、自らが正義であると喧伝している限り、それ以外の正義は逃げてゆく。

池田晶子著 『考える日々』 第Ⅰ章より

2008-05-27 11:48:09 | 読書感想文
第Ⅰ章「考える日々」・「少年Aとは何者か」より


ちょうど11年前の今日、兵庫県神戸市の中学校の正門前に男児の頭部が置かれていた。そこには犯行声明文が添えられており、犯人は「酒鬼薔薇聖斗」と名乗り警察を挑発していた。情報化社会においては、犯罪のニュースは世間を騒がせ、あっという間に消えて行く。騒ぐだけ騒いで、「国民全体で考えましょう」と言いながら、議論は全く深まらずにすぐ風化する。酒鬼薔薇聖斗こと少年Aによる連続殺傷事件も、11年経って振り返ってみると、風化した虚しさだけが残されている。日本人はあの事件から、何を教訓として学んだのか。最初から何も学べるわけがないと思っていれば脱力もしないが、下手に何かを学ぼうとして喧々諤々の議論をした事実だけは覚えているから、振り返ってみるとやはり脱力する。

加害者本人を差し置いて、専門家が加害者の内心をあれこれと勘繰る。考えてみれば、これは妙な話である。加害者本人の内心のことである以上、本人に聞けばいいだけの話である。そして、専門家がどんな分析をしても、本人が「それは違う」と言えば終わりである。加害者本人も自分がわからないのであれば、例によって「心の闇」でおしまいである。加害者の内心は専門知識が解明できる、そしてこの問題が解明できれば自動的に犯罪被害の問題も解消する。この加害者中心の視点が、どれだけ被害者側からの視点を奪ってきたことか。

この事件をめぐる争いは、事件そのものよりも、新潮社の写真週刊誌『FOCUS』が少年法に反して少年Aの顔写真や氏名を掲載したことが問題となった。犯罪被害者保護の問題は扱いにくいこと、扱いにくい問題は扱いやすい問題に変えられること、政治的な問題は世論を二分して盛り上がること、これは11年前も今も変わらない。池田晶子氏は11年前にこの事件について色々と書いているが、その当時には特に何の反響もなかった。その当時の国民の関心に沿っていなかったからである。しかしながら、11年経って見てみると、あの当時のどの評論家よりも池田氏の述べていることがポイントを突いている。すなわち、少しも古くなっていない。古くなりようがない。


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p.54~ 抜粋

4月号の『文芸春秋』で、各界の方が、少年の供述調書の読後感を述べておられるのを読んだけれども、ああいうことは違うのである。ああいうふうな感じ方、解釈の仕方自体に、すでに私は違和感を覚える。社会に原因する、教育や家庭に原因する、あるいは特異な精神構造すなわち「脳」に原因する。そういう理解の仕方で、いったい「何を」理解したことになるのか、それを理解しかねるのである。

論者の方々に一貫しているのは、あまりに理解できないことなので、どう理解していいのかわからない、したがって、どうにかして理解してしまいたいという切なる思いなのだが、しかし、なぜわれわれは、理解できないものを理解しなければならないのだろうか。理解できないものを理解するために、それぞれの仕方によって理解する。しかし、その理解とは、要するにそう理解する「その人の」理解の仕方であって、理解されるべき当のものを理解したことには、じつはなっていないのではないか。

「同じ人間」なのだから、わからないはずがない。そう思うのだろう。それなら問題は、同じであるところのその「人間」とは何か、これのはずである。私には、あの少年は、「とても同じ人間とは思えない」。あれは、われわれと同じ「人間」ではない。それで私は、あの子供がいかに奇怪なことをやってのけても、いまや驚かない。あれは「人間」ではないからである。

「人間」ではないならなんだというのだ。当然こうくるであろう。そんなの、私は「わからない」。そして、わからなくてもかまわない。少年自身は、自ら「魔物」と名のっているではないか。

自分がこの世に存在したことの証明

2008-05-25 14:34:34 | 実存・心理・宗教
人間が老齢やガンなどによって自らの死を意識した際に、抑えられない実存的な欲求として湧き上がってくるのが、自己確認の証しを立てておくことである。他の誰でもない自分がこの世に存在したこと、そして一生を全うしたこと、この証しを残しておかなければ死ぬに死ねない。これは、時には後世に名を残したいという現世的な野心の形を取ることもあるが、多くの場合には現世的なものを超えている。それは、単に自己目的であり自己完結であるが、生死の存在形式を前にすれば、それ以外の方法はない。その手記、自分史、闘病記などは、最後に「自分はなぜ死ななければならないのか」という永遠の問いを問いかける。この問いには答えがない。その自分史や闘病記を書くこと自体が答えである。

突然の事故や通り魔で命を奪われた人には、このような自分史や手記を書く時間がない。しかしながら、論理としては、このような理不尽な死に直面した者こそが、最も強く「自分はなぜ死ななければならなかったのか」という永遠の問いを問うはずである。天寿を全うした人、平均寿命を超えて生きた人、ある程度の身辺整理を終えた人に比べてみれば、この問いの発生は明らかである。これは、子どもであっても赤ちゃんであっても同じである。ところが、実際に被害に遭った本人は、この問いを問うことができない。論理としては存在するが、そのことによって同時に主体が消えている。従って、この問いは、遺された者において問われることになる。それは、死に意味を見出すことにより、それに至る人生全体に意味を見出すことである。また、遺された者自身の人生全体に意味を見出すことでもある。これも実存的に不可避の欲求である。

このような抑えられない実存的な行為の遂行に対して、最も障害となるのが、やはり近代社会の実証的な理論である。このような問いは、裁判においてはすべて「被害感情の強さ」として、文芸評論的に受け止められる。人間の実存の問題として血や涙を伴うものとして捉えられるのではなく、特定の基準によって批評される。こうなると、死に意味を見出さければならない遺族は、嫌でもその戦いに巻き込まれざるを得ない。愛する者の死が物理的世界の中に押し込められれば、その人生全体が、社会の全体主義の中に押し込められるからである。そして、愛する者の死体写真が証拠物として裁判記録に登場し、殺意の有無や死因うんぬんを論じるための材料とされ、挙句の果てに加害者の更生と社会復帰だけが目的だということになれば、人間の実存は耐え切れなくなって叫びを上げる。「遺族の感情的な厳罰の要求は裁判を誤らせる」といった水準で物事を見ている限り、この叫びの存在は気付かれない。

どのような人生にも意味がある。どんな人間でも存在する意味がある。これが人権論の中核的な思想であった。それにもかかわらず、この人権論は、被疑者・被告人の側において独占され、死者や遺族を軽視する形で用いられてきた。近年、国家権力の濫用から市民を守るという従来の語義を意識的に逸脱させ、被害者の側にも人権という概念が使用されていることは、この偽らざる生死の実感に基づいた叫びの効果の1つである。どのような人生であっても、社会的には何の功績も残していない人生であっても、その一生はそれだけで尊い。死によって初めて人生の全体が輪郭を持って固定され、生の長さが確定するというならば、その時点において初めて人生の意味が明らかになるはずである。その意味で、人権論の思想がそのまま妥当するのは、生きている者ではなく、むしろ死者である。これは、人間の実存において不可避的な欲求である。

内館牧子著 『お帰りなさい朝青龍』

2008-05-24 20:00:06 | 読書感想文
大相撲夏場所では、大関の琴欧洲がヨーロッパ出身力士として史上初の優勝を決めた。来場所は、横綱昇進を賭ける場所になる。もし横綱に昇進すれば、横綱は朝青龍(モンゴル)、白鵬(モンゴル)、琴欧洲(ブルガリア)の3人になり、日本人の横綱は貴乃花の引退以来ずっとゼロ、これも大相撲史上初めてのこととなる。朝青龍のモンゴル帰国・サッカー問題以来、何かと「国技」のパラダイムと国際問題が衝突して難しい状況にあるが、理屈が現実に付いていかない感じである。国技か国際技か、神事かスポーツか、制度設計がしっかりしていなければ、まだまだ問題は起こりそうである。

横綱審議委員の内館牧子氏は、朝青龍が大嫌いなようである。外国人力士一般が嫌いなのかと言えば、そうでもないらしい。白鵬、琴欧洲、安馬(モンゴル)は好きで、朝青龍、露鵬(ロシア)、把瑠都(エストニア)は嫌いなようである。日本の相撲道の精神を理解し、神事に派生する所作をしっかりと身につけている力士のことは高く評価している。これは横綱審議委員という立場もあるのだろうが、なかなか難しい問題である。あまり日本の「国技」を持ち出しすぎると、人種差別ではないかという面倒くさい議論になる。いずれにしても、現在の相撲界をめぐる正論は何だか奥歯に物が挟まったようで、余計なツッコミを入れたくなる。


以下、◎が正論、→が余計なツッコミ

◎ 国籍を意識せずに、純粋に相撲内容を見るべきである。
→ その前に、「琴欧洲」「把瑠都」「黒海」という名前を何とかして頂きたい。

◎ 今や大相撲は国際的な競技になったのだ。
→ チョンマゲやチャンコ鍋は国際的でないと思いますが。

◎ 外国人力士の制限枠を撤廃すれば、切磋琢磨して日本人力士も強くなる。
→ たぶん幕内も十両も全員が外国人力士になると思う。

◎ 日本の心を持っている外国人力士ならば大歓迎である。
→ 区別する方法がないと思いますが・・・

◎ 外国人力士は日本語を上手に話しているので排斥すべきではない。
→ 日本語の習得を強制していることは問題ではないのか?

◎ 日本人力士が弱いのが真の問題点なのである。
→ 外国人力士と日本人力士は対概念、強いと弱いは対概念。

◎ アメリカ人はイチローや松井を応援しているのに、日本人は偏狭だ。
→ 阪神ファンは、ウィリアムスが高橋由伸から三振を取れば喜んでおります。

◎ 国際競技においては、応援に国籍差別があってはならない。
→ オリンピックやワールドカップのときに困ってしまいそうですが・・・

◎ 琴欧洲の表彰式ではブルガリア国歌を歌うべきだ。
→ Горда Стара планина, до ней Дунава синей (すみません、読めません)

◎ 琴欧洲は表彰式で、しっかりと口を開けて君が代を歌うべきだ。
→ いったいどっちなんだ??

池田晶子著 『知ることより考えること』 第3章 「楽しいお祭り」より

2008-05-22 20:37:47 | 読書感想文
(裁判員制度と裁判官のストーカーについて)


p.115~ 改変

まあ本当に、裁判員に選ばれる方々は大変である。始まる前から、ここまで問題山積の制度も珍しい。裁判員制度に反対するグループは、「思想信条を理由とする辞退を認めず、市民の基本的人権を否定する制度だ」気勢を上げ、この制度は憲法違反だとして廃止を求めている。お疲れ様なことである。最高裁は、法廷で残忍な犯行場面の再現で精神に変調をきたしたり、評決に悩む裁判員に対しては、「心のケア」を考えるとの方針を発表した。見事な付け焼き刃である。先日は、法務省が庁舎に設置した「裁判員参上!」という広報看板について、鳩山法務大臣から「センスが悪い」との苦言が呈され、「裁判員誕生!」への書き直しが行われたそうである。笑ってはいけないが、これは笑うしかない。

裁判所なるものは、鉄筋コンクリートの建物である。コンクリートには目も口も鼻も耳もない。従って、裁判所が証拠調べをしたり、判決を言い渡したりすることはできない。これらの行為をしているのは、あくまでも裁判官である。そして、裁判官は人間である。同じように、裁判員も人間である。いったいどこが違うのかと言われれば、人間としてはどこも違わない。人間であれば、ストーカーもする。これまでは法律によって、「司法試験に合格して司法研修所を卒業して任官した者だけが裁判をすることができる」と決められていた。その法律が、今度は「国民の中から裁判員として選ばれた者も裁判に参加する」と決めたのだから、これからの裁判はそうなるというだけの話である。鉄筋コンクリートの建物のほうは何も変わらない。裁判官のことを裁判所と呼んで違和感を覚えないのであれば、裁判員のことを裁判所と呼んでも違和感はないはずである。

現在でも、裁判官の価値観によって判決にバラつきが出たり、その日の機嫌によって判決が重くなったりすることは周知の事実である。自動車事故の裁判は、車を運転しない裁判官に当たると量刑が厳しくなるという話も有名である。裁判官も人間であるならば、これは実に正常なことである。鉄筋コンクリートという点で他のビルと変わらない建物において、裁判所という看板を掲げて儀式をすることに意味があるのであれば、裁判官による量刑の違いなどあまり問題ではない。そして、どんなに偉そうな肩書きをつけたところで、人間が人間を裁くという構造は変わらない。そうであれば、その人間が裁判官と呼ばれようと、裁判員と呼ばれようと、世の中で騒がれているほどの違いはないはずである。裁判所法もしょせんは法律であり、近代になってから整備されたものである。法律など、その時になって適当に変えればよい。

国民が判決において関心を寄せるのは、「東京地方裁判所がいかなる判決を出したか」であり、「最高裁判所がどのような判決を出したか」である。裁判長や裁判官の氏名や経歴まで気にしているのは、一部の関係者やマニアックな人達だけである。その意味で、裁判所とは人格的なものではない。裁判所に人格は存在しない。同じように、裁判官という肩書きにも人格は存在せず、裁判員という肩書きにも人格は存在しない。現に、裁判所の中では偉そうにしている裁判官も、法服を脱いで一歩裁判所の外に出て電車に乗れば、疲れ切った中年のおじさんにしか見えない。そして、魔が差せばストーカーもする。これは紛れもない事実である。裁判官も裁判員も、その場の役割、ロールプレイをしていればすべての話は済む。裁判員に選ばれた方々は、裁判員としてロールプレイを楽しむ、それくらいのお気楽な気持ちでよろしいのではないでしょうか。

修復的司法の問題点 その1

2008-05-21 21:38:19 | 実存・心理・宗教
修復的司法の推進論、消極論にかかわらず、犯罪被害者について論じる最初の大前提として、疑われていない命題がある。それが、「被害者は犯罪によって身体的・心理的・財産的な損害を被っている」との言い回しである。一見すれば、この命題には非の打ち所がない。ところが、この主語の採り方こそが視点を逆転させ、問題の入口を逆立ちさせている。上記の命題を正確に述べたいならば、次のように言い直さなければならない。すなわち、「人間は犯罪被害を受けた場合、身体的・心理的・財産的な損害を被る」。これは、「被害者」という特称命題を採るか、「人間」という全称命題を採るかの違いである。最初は微妙な違いであっても、その視点の採り方が、後に大きな差となって現れる。

「人間は…」という全称命題で語られた論理は、万人にとって普遍である。従って、それ自体の論理の要請によって、万人において反転する。ここでは、わざわざ「皆さん、被害者の身になって考えましょう」と主張する必要がない。他人の身になる以前に、自分のことについて語られているからである。これに対し、「被害者は…」という特称命題で語られた論理は、その意に反して、政治的な主張として受け止められる。そして、犯罪被害者というグループが、厳罰推進派という1つの党派に分類されてしまう。被害者の裁判参加の是非についても、この賛成反対論で問題が捉えられる限り、「被害者」という肩書きだけが跋扈し、人間が不在となる。そして、どのような人間の言葉も、「被害感情」という枠に押し込められる。

事実を肩書きにおいて捉えるか、それとも人間において捉えるか。この差が典型的に表れたのが、先月の光市母子殺害事件の死刑判決後における本村洋氏の記者会見に対する様々な反応であった。人間において本村氏の声を聞いた人は、そこに理性と論理によって研ぎ澄まされた思考の到達点と限界点を見た。これに対し、肩書きにおいて本村氏の声を聞いた人は、そこに「殺せ! 殺せ!」という感情的な叫びを聞いた。この差は、本村氏の側に存在するのではなく、聞く側に存在する。人間として聞けばそのように聞こえ、肩書きにおいて聞けばそのように聞こえる。他者に対する政治的な主張は、それによって他者ではなく自己を示すという逆説である。この世には、犯罪被害者という厳罰推進派の党派的なグループなど論理的に存在しない。

理不尽な犯罪被害を受けて、身体的・心理的・財産的に苦しみ、藁にもすがる思いで修復的司法の本を読んでみる。するとそこには、「被害者は犯罪によって身体的・心理的・財産的な損害を被るのです」と書いてあった。これでは救われるわけがない。この視点は、一緒に苦しんでいる人間の目ではなく、対岸から火事を観察している研究者の目である。人間が犯罪被害を受ければ苦しいことなど、人間であれば言われなくてもわかる話であって、改めて「被害者」という特称命題によって語られる種類の話ではない。この話にならない話を最初の命題に置く限り、その後の視点もすべて逆転する。あらゆる社会制度は、常に善意から出発している。修復的司法の思想も同様である。しかしながら、いったん制度という型をはめたがゆえに、その善意が悪意に変わることがしばしばある。

柳田邦男著 『「犠牲(サクリファイス)」への手紙』

2008-05-19 20:23:14 | 読書感想文
下記は、柳田邦男氏と河合隼雄氏(元文化庁長官・故人)の対談からの抜粋であり、自然科学万能論の弊害を指摘した箇所である。この内容は、そのまま社会科学である法律学、およびその実践である刑事司法制度にも妥当する。法律学は、社会的諸事象の1つである法について、科学的方法による観察・分析・考察を基にして、客観的法則性を把握する学問である。それゆえに、被害者の悲しみや不条理感は、この客観性と実証性を損なう要素であると位置づけられてきた。そして、決められた社会のルールの下で、遺族は黙って耐えなければならなかった。下記の科学主義への警告は、人間の一生を科学的方法によって扱うことの不可能を端的に示している。


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p.155

柳田: たとえば、若者が目の前で事故で死ぬ。そうすると自然科学はそれに対して実に明快に説明ができる。「この人は脳が挫傷して死にました」と。これは厳然たる科学的な事実ですね。しかし恋人は、「なんで死んだのよ」って泣き叫んでいる。それに対して医師が、「この人は脳が壊れて死にました」といって、それで答になるのだろうか。泣き叫んでいる彼女が、「あ、そうですか。わかりました」って納得するのだろうか。やっぱり、彼女は「なんで死んだのよ」と問いつづけるでしょう。これに対する答を、科学は出してくれないわけです。そうなると、人生の文脈というものを考えなければならなくなる。


p.192~

柳田: 第三者的に、つまり「3人称」の立場で、死とか脳死について論じるのであれば、冷静に科学の論理だけで論じることができると思うんですけれど、人生・生活を分かち合った相手だと、違う。今までの脳死論には、この「2人称」の視点が欠けていたのです。他人事ですませることのできる「3人称」の視点より、死にゆく人とかけがえのない関係性を持っている「2人称」の視点のほうが、はるかに重要であるにもかかわらず、脳死論の中で「2人称」の立場の人は無視されていたんですね。

河合: そうですね。自然科学というのは、対象を自分と切り離して研究しているわけで、そういう1つの研究方法があるということであって、それは非常に有効なんだけれども、限界がある。「2人称の死」とか「1人称の死」になってくると、科学では答えられないわけですよね。そうであるのに、科学的に正しいというだけで、われわれのいのちとか人生に踏み込でいいのか、それは、ものすごく大きな問題だと思いますね。

柳田: やはり科学でわかるところはこういうところですと。だけどそれは全体ではありません、断片です、というね。その認識の仕方は、科学者や医学者こそきちんと論じるべきなんですけれど、そういう人たちは、えてして科学はオールマイティーというか……。

河合: そうです。それは科学じゃなくて、科学主義になっているんです。つまり科学は全部正しくて、科学によって人間のことを全部考えられるというのは、1つの宗教みたいになってしまっているわけですね。だからそこのところを分けて考えないといけない。

島伸一編 『たのしい刑法』

2008-05-18 19:57:12 | 読書感想文
刑法学者や司法関係者には、なぜ犯罪被害者の言葉が通じないのか。それどころか、犯罪被害者の立ち直りを阻害するようなことがあるのか。これを正確に説明しようとすれば、非常に長くなる。しかし、この本の題名は、その理由を見事に一言で語っている。ズバリ、『たのしい刑法』である。これは、純粋な論理の世界において、論争によって反対説を言い負かす楽しさである。「有罪判決が確定するまでは被告人に無罪が推定され、その人が犯人かどうかはわからないのです」と言っていた刑法学者が、道端で引ったくりに遭い、思わず「その人犯人です! 捕まえてください!」と大声で叫んでしまったというようなブラックユーモアではない。

今日は新司法試験の最終日であり、刑事系(刑法・刑事訴訟法)の論文試験が行われた。犯罪とは俗悪であり、悲惨なものであるが、どういうわけか刑法学は非常に楽しい学問である。目的的行為論や人格的責任論といった高尚な理論が理解できるのは、自らがエリートである証拠である。厳格故意説と制限故意説、はたまた厳格責任説と制限責任説を完全に理解したときの爽快感は、何物にも替えがたい。因果関係における折衷的相当因果関係説と客観的相当因果関係説の違いと、不能犯における具体的危険説と客観的危険説の違いは非常に似ているが、実は処罰範囲の方向性が正反対である点も面白い。素人の裁判員に何がわかるかといったところである。

たのしい殺人罪、たのしい放火罪、たのしい住居侵入罪、これも冗談ではなく非常に楽しい研究である。ピストル殺人における具体的事実の錯誤の法定的符合説の数故意犯説と一故意犯説の論争など、理屈っぽい人にとっては面白くてたまらない。放火罪の独立燃焼説と効用喪失説、さらには燃え上がり説などの中間的見解の対立も面白く、新たな理論で一旗上げようという野心を持った研究者も多い。「火を消そうと思って小便をかければ、その小便のほうだけが器物損壊罪になってしまう」という内輪ネタの笑い話もある。家を焼かれた悲しみなどを想像していては研究にならない。住居侵入罪の住居権説と平穏説、さらには新住居権説の対立も盛り上がっている。これだけで1冊の本を書いてしまう人もいる。

現在の法治国家において、新司法試験で合格答案が書ける人は、『たのしい刑法』という題名に違和感を持たない人である。違和感を持たずに刑法学の魅力に取りつかれ、その数学のような論理性の世界にすんなりと入れる人は、法曹としての適性がある。これに対して、刑法を楽しんでは被害者に対して不謹慎だろうと思ってしまう人は、おそらく刑法の勉強が続かず、法曹には向いていない。こう考えると、法曹の適格と被害者支援者の適格とは、真っ向から相反するところがある。『たのしい刑法』を読んで受かった法律家は、一度被害者の存在を完全に眼中から追いやり、その上で遠回りして被害者の存在を思い出しているようなところがある。すなわち、被害者の言葉の行間の沈黙を読む適性のほうはなさそうである。これが、刑法学者や司法関係者に犯罪被害者の言葉が通じない理由である。