犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

被害者参加人制度と裁判員制度

2008-11-30 19:53:30 | 言語・論理・構造
裁判員の候補者への通知が物議を醸している中、明日から被害者参加人制度が開始される。裁判員制度と被害者参加人制度を組み合わせた形での模擬裁判が初めて行われたのは、ちょうど半年前(5月26日~27日)の千葉地裁であった。その裁判は、農業の男性が飲酒運転をして対向車と衝突し、運転手を死亡させて危険運転致死罪に問われたという設定であった。候補者名簿から選ばれた6人の裁判員が参加したほか、被害者の妻役の女性が被害者参加人として検察官側に着席した。論告で検察官は懲役6年を求刑したが、被害者参加人は「仕事の憂さを晴らすために飲酒したというのは理由にならず、反省の態度は見られない」として懲役20年を求刑した。結局、判決は懲役6年となり、被害者遺族の求刑は全く通らなかった。模擬裁判員の男性は「感情と量刑とは別のものと思い、左右されないようにした」と感想を述べており、裁判長を務めた根本渉裁判官も「裁判員の方々が感情に流されず判断してくれた」と話していた。

この半年前の模擬裁判において明らかになったことは、「参加人は被害感情を吐き出す場所を与えられたのだ」という構造が非常に強固であり、これを壊すのは実に大変そうだということである。裁判所が「遺族の被害感情に流されず判断して下さい」とPRし、裁判員が「遺族の被害感情に左右されないように気をつけて聞いた」となれば、遺族が何を言っても「被害感情を叫んでいる」としか受け止められない。世の中には、被害者は冷静さを失って法律も知らずに一方的かつ感情的に厳罰を叫ぶというステレオタイプのイメージがあるが、これは単に近代刑法のパラダイムにおいて上手く説明がつくからである。実際の被害者はそんな生易しいものではないこと、感情的になる余力もなくむしろ冷静に見えてしまって誤解を受けること、この現実をありのままに裁判員に示すしかない。罪を償うに値すべき適正な罰を受けることは、法治国家の論理的な要請であって、怨恨感情ではない。

被害者参加人制度と裁判員制度は、本来何の関係もなく、たまたま時期が一致してしまっただけである。しかしながら、被害者参加人制度は、裁判員制度の中でよりその効力を発揮できるようなシステムである。司法試験の勉強や司法研修所の専門的な教育を経た後では、被害者遺族の言葉は「被害感情を叫んでいる」以外には聞こえなくなる。頭の中が条文や判例で一杯になってしまって、1人の人間として言葉を聞く能力が衰えているからである。これに対して、法律的なものの見方が固定していない裁判員に対しては、1人の人間としての言葉が伝わる。特に、被告人の反省が口先だけのものであり、一目で演技とわかるような場合には、その比較としての被害者の言葉の厳しさが際立つ。人間の言葉は、その文法的な単語を超えて、震える声のトーンや沈黙の間、抑えても抑えても全身から滲み出る怒りと悲しみ、過酷な運命に立ち向かう絶望の深さなどの総合である。被告人を責めているのではなく、自分自身を責めている。このような現実を前にすれば、裁判員も「遺族の被害感情に左右されない」などとは言っていられなくなる。

模擬裁判は、やはり所詮は模擬裁判であり、実際に人が亡くなっているわけではない。被告人役も被害者参加人役も、あくまでも演技であることがわかっている以上、絶句や行間から示される語られない言葉は弱い。この点において、実際に裁判員制度が始まった場合とは明らかに異なる。実際に裁判員の目の前に事件の当事者が登場したときの凄まじい緊張感は、模擬裁判で実現することはできない。目の前に被告人がいて、この人は飲酒運転という故意犯によって、人殺しに等しい行為を行った。他方、目の前には亡くなった被害者の奥さんがいて、想像もつかない苦しみの前でもがいている。罪とは何か。罰とは何か。生命とは何か。裁判員制度と被害者参加人制度とが融合すれば、このような深い考察も可能になる。但し、「被害者側の応報感情が前面に出過ぎて、法と証拠に基づく冷静な審理にマイナスの影響を与える」「法廷が報復の場にならないようにすることが今後の課題である」といった事前の問題設定が固定してしまうと、それ以上の考察はできなくなる。


被害者参加制度開始前にシンポ 「変革だ」歓迎の声次々(共同通信) - goo ニュース

「辞退は?」「どんな制度?」=問い合わせ800件超-通知受け裁判員候補者(時事通信) - goo ニュース

神奈川県立神田高校 入学試験不合格問題

2008-11-28 18:23:20 | 言語・論理・構造
先月の29日、神奈川県平塚市の県立神田高校の入学試験において、試験日に服装・態度に問題があった受験生を不合格にする措置が採られていたことが判明した。これを受けて神奈川県教育委員会は、同校の渕野辰雄校長を今月1日付で県立総合教育センターに異動させた。この処分に対しては、教育委員会に前校長を擁護する意見が寄せられ、復職を求める多数の署名も集まった。これに対して一昨日、不合格とされた受験生の保護者が心情を吐露した。「子どもの可能性の芽が摘まれてしまった。謝罪されても、もう時間は戻らない」。「息子もあの時入学していれば違った人生を歩んでいたはずなのに」。「(嘆願書が提出されたことについて)不合格にされた息子のことも理解してほしい。外見への偏見で22人の人生を変えたのだから」。この発言を受けて、教育現場やネット上ではさらなる賛否両論の波紋が広がっている。

不合格によって可能性の芽が摘まれた。高校に通えなかった時間は戻らない。高校に行っていれば別の人生を歩んでいた可能性があった。受験生の保護者の言うことは全てその通りである。理屈としては、全く非の打ち所がない。ところが、この言葉は人々の心をあまり掴まなかったばかりか、多くの批判を浴びている。これは、人間の直感的な違和感、倫理の針の振れるべき方向といったものに基づく。正義という概念は、万人において正義であることにおいて正義となり得る。従って、それが正義である限り、不正義を糾弾する必要はない。入学試験における合否判定の方法は、所詮は相対的なものであるが、正義の概念は不動である。高校入試の合否判定の方法における意見の表明は、単にそれに利害関係を持つ人の真実であって、万人の真実ではない。ここにおいて、戻らない時間、別の人生の可能性といった絶対的な正義を政治的主張のために援用されれば、聞く者の倫理は瞬間的に激しい拒絶を示す。

時間は絶対に戻らない。別の人生を歩んでいた可能性が奪われた。これらの文法が正当にも通用するのは、人の不条理な死の場面においてである。その代表は戦争やテロであるが、事故や自殺による不慮の死もすべて同じことである。人生の一回性、時間の不可逆性という理不尽を誰よりも知り抜いているのは、後に遺された者である。そして、この残酷さを知り抜いた者は、この絶対的な真実を他者に向かって主張することはない。なぜならば、万人にとっての真実は、自分自身を除くことができないからである。他者に向かって発せられた真実の言葉は、それが真実であることによって、すべては自分自身にも向けられる。そこでは、正義・不正義の二元論が成立する余地がなく、正義の名において他者を糾弾する余地もない。不合格になった受験生の保護者に対する違和感は、この点に関する保護者の鈍感さへの苛立ちである。

現代の自由主義社会においては、たかが髪型ではないか、ピアスを外せば済むだけの話ではないかと言えば、自己決定権の重要性に基づく反論を受けるのがいつものことである。そして、不合格は自業自得であるという保守派と、公権力による人権制約が問題なのだという進歩派が例によって対立する。そして、時間は戻らない、人生は一度きりだというところまで話が大きくなる。これは言葉の安売りである。人間は言葉によって全てを伝えることはできないが、それでも言葉を使うより他に意思を伝える方法はない。語り得ぬものによって語ること、これは政治的な要求ではなく、特定の主義主張でもない。「息子はどうして高校に行けなかったのか」という問いに対しては、「そこまでして何が何でも合格したかったならば、試験当日には髪を黒くしてピアスを外せばよかったのに」という答えがすぐに出る。これに対して、「息子はどうして命を落とさなければならなかったのか」という問いに対しては、そのような答えは出ない。言葉の安売りは、社会において使用される言葉の意味を軽くし、沈黙や絶句による意思伝達をますます困難にする。

藤井誠二著 『重罰化は悪いことなのか - 罪と罰をめぐる対話』  第Ⅰ章~第Ⅱ章 

2008-11-27 23:36:24 | 読書感想文
第Ⅰ章~第Ⅱ章  芹沢一也×藤井誠二 より


藤井: 反省なんて本人にもわからないような、空疎なものでしょう。逆に心から悔いているのに、それを言葉にできない犯罪者もいるかもしれません。「謝罪の言葉」なんて嘘でも書けます。「反省が十分ではない」という言い方も、感情の自然な発露です。「反省」の手紙が嘘だとわかっていても、被害者のなかには、文中に改心がこめられた言葉がひとつでもあるかどうかをさがす人もいます。だから、そういった複雑な感情や内面が複雑にからまりあって、たとえば「反省が十分ではない」という言葉に表出されるのだと思います。(p.68)

芹沢: 僕は、司法段階での「反省」の制度化は、「推定無罪」の原則に触れると思うのです。人は判決がくだされるまでは、あくまでも「被疑者」です。これは近代という時代が国民の権利と自由をめぐって手にした、もっとも貴重な成果のひとつだと思います。「反省」という内面に関わることを、自由刑を執行する行刑の立場を越えて全面化する。しかも、その判断が被害者に握られているとしたら、それはやはり危険なのではないでしょうか? 「反省」というロジックのもとに、社会のなかに権力を蔓延させては絶対にいけないと思います。(p.69~73)


***************************************************

生きたかったのに生きられなかった命を思うと、その人生が悲しすぎる。あるはずであった未来はどこへ消えたのか。ある日突然家族を奪われた者のこのような思いは、政治的に無色透明である。ところが、近代社会が獲得した国民の権利と自由という概念は、これを政治の文脈に押し込んでしまった。愛する人を亡くした人の思いは、左側の思想と衝突し、それによって相対的に左ではないということで、右側に分類されてしまう。藤井氏と芹沢氏の対話は、この辺のところが非常によく出ている。藤井氏がどんなに「右でも左でもない論理」を提示しても、芹沢氏はそれを「右である」と解釈した上で返答をする。会話はキャッチボールである。重い球を投げたのに軽い球が返ってくると、精神的に苦しい。藤井氏が軽い球を投げないように努力している様子がよく伝わってくる。

政治的な主義主張は、根拠や必要性を提示して、相手を説得することが必要である。そのために最も有用なのが、不安を煽ることである。これは右も左もお互い様である。街頭の監視カメラの反対論は、「推進派は犯罪が急増しているとの不安を煽っているのではないか」と述べつつ、「権力の監視による不安を国民に広く知らせなければならない」と述べており、結局は不安の中身が違うだけである。「犯罪不安社会」は右寄りであり、「刑罰不安社会」は左寄りであり、どちらをより不安と感じるのが正しいのかという多数派形成の争いである。煽りたくない不安は煽らず、煽りたい不安は煽る。これは、持って生まれたものの考え方、周囲の教育、個人的経験の違いであって、客観的真実を目指す議論は意味がない。両者の根底に共通する生死の実存不安の一致点を忘れている限り、この種の議論は打ち切るのが賢い。

藤井氏と芹沢氏の差は、哲学的センスの差でもある。なぜよりによって自分の家族が選ばれ、殺されてしまったのか。この問いに正解を導く以前に、この問い自体を正確に捉えようとすれば、自分自身の生死を抜きに考えることはできなくなる。そこでは、不可避的に哲学的な思考が要求されることになり、存在への畏れに打ちのめされる直感が必要になる。藤井氏の被害者支援の活動に対しては、単に左から右に転向したのではないかといった批判も見られる。しかしながら、藤井氏が何回も述べているように、藤井氏が懐疑の目を向けているのは、様々な社会問題を簡単に割り切ってスッキリしているイデオロギー的な思考方法である。芹沢氏は、「いずれ加害者も社会復帰する以上、加害者と被害者はどうすれば共存できるのか」という問いを外側に向かって立てる。これに対して藤井氏は、「被害者はどうしても加害者と共存したいとは思えないのだ」という問いを内側に向かって立てている。

岩田靖夫著 『いま哲学とはなにか』  第Ⅱ章「人はいかなる共同体をつくるべきか」

2008-11-26 17:47:13 | 読書感想文
p.43~

デモクラシーが成立するためには、その国家を構成している人々が、人間の倫理の原理である正義について、また、その国家の構造、運営の仕方、その進むべき理想、などについて明確な認識をもち、その認識に基づいて行為し、変革し、国家を動かしてゆく責任能力をもっていなければならないのである。アリストテレスは人間を理性的動物と規定した。そうであれば、すべての人間が理性をもっているのだから、国家の在り方にも責任をもっているはずである。

アリストテレスが評価しないデモクラシーとは、国家が少数(たとえば5パーセント)の富裕層と大多数(95パーセント)の貧困層に二極分化しているような国において起こる多数者の支配である。そのような国には、不満と怨恨と軽蔑が渦巻き、絶えず内紛内戦の危険が潜んでいる。そのような国は、富裕層が警察力によって庶民大衆を抑圧する寡頭制になるか、その逆に、貧困な大衆が富裕層を抹殺して国の経済・文化水準を低下させる悪しき意味でのデモクラシーになるか、そのどちらかなのである。

「ポリス(国制)である」とは、その共同体を構成している構成員が自治能力をもっているということであり、言い換えれば、みなが理性的存在者であるということであり、さらに言えば、みなが「ただ生きている」というのではなくて、「善く生きる」ために自覚的に存在しているということなのである。この意味で、ポリスは単なる自然的生成物ではない。なぜなら、善を目指す共同体は単なる自然的生成物ではありえないからである。

アリストテレスは、デモクラシーが現存の国制の上でもっとも安定した国制であり、そこでは人間が自由で平等であると理解されている点は正しい、と考えているが、ただし、自由とは「多数者がなんであれ自分が欲することを為す権限である」と考えている点で誤っている、と言っている。「自分のきまぐれに従うこと」をアリストテレスは奴隷的と言っているが、自由とはそういう意味で奴隷的な精神を言うのではなくて、自分と異なる他者を異なるままで是認し配慮するという精神の広さを言うのであり、そういう人々の集まりが「中間の国制」であり、そこで人々は安定するのである。


***************************************************

アリストテレスが述べる理想的な国会とは、野党議員が総理大臣に対してカップラーメンの値段を質問したり、総理が間違えると鬼の首を取ったように正義を振りかざして喜んだりしない国会である。そして、アリストテレスが述べる理想的な共同体の構成員とは、その質問に答えられなかった総理大臣を見ても、「総理は庶民の金銭感覚がない。このような総理では国が良くなるはずがない。政治家としての資質を疑う」と怒ったりしない構成員である。政治がなかなか良くならない現状には、それなりの理由がある。相手を貶めて優越感を得ることによって支持を得た野党は、与党になった途端、同じ目に遭って支持を失うことになる。このような二大政党制は単に不安定であり、「中間の国制」ではない。

理由が知りたい

2008-11-24 19:24:07 | 時間・生死・人生
元厚生事務次官宅連続殺傷事件で、逮捕された小泉毅容疑者(46)は、三十数年前に飼っていたペットの犬を保健所に処分されて腹が立ったと供述しているとのことである。このような犯行動機を聞かされて、世論が納得できるはずがない。「本当の理由は別にあるのではないか」。「そんなことで人が殺せるわけがない」。「このような理不尽がまかり通るようなことでは故人も浮かばれない」。どれもこれも、当たり前の感情である。「小泉容疑者は誰かを庇っており、共犯者がいるのではないか」という推測は、「もっとましな理由を語る共犯者がいてほしい」という願望でもある。この国民レベルでの名付けがたい感情は、これまで犯罪被害者遺族が人知れず抱え続けてきた感情である。そして、「被害感情」「厳罰感情」と名付けられて、癒しやケアの対象とされてきた感情である。

三十数年前にペットを処分された恨みをこのような形で晴らすなど、あまりにも短絡的である。いや、短絡的ですらなく、全く結びつきようがない。もし、小泉容疑者の身内や知人が「消えた年金」に苦しんでいて、社会保険庁に恨みを募らせていたのであれば、どれほど救いようがあっただろうか。もし、小泉容疑者が社会保険事務所の職員であり、市民からの苦情対応に疲れ切って元事務次官を逆恨みしていたのであれば、どれほど筋が通っていただろうか。言論の自由を脅かす者は断じて許さない、テロに対しては国民一丸となって断固とした戦いを挑まなければならないと言って振り上げた拳は、下ろすに下ろせない状態である。行き場を失った人間の名付けられない感情は、厳しい捜査による真相の解明への期待に収斂するしかない。これは、突き詰めれば「理由を知りたい」との一点である。このもどかしさは、怒りや悲しみよりも論理的に先に来る感情である。

この「知りたい」という心底からの苛立ちは、これまで無数の犯罪被害者が人知れず抱え続けてきた感情である。しかしながら、その要求は、大上段から「被害感情」「厳罰感情」と解釈され、加害者の更生・社会復帰の利益と対立し、厳罰化の賛否両論や死刑存廃論の政治的な対立に置き換えられてきた。近年はようやく、「理由を知りたい」との要求が被害者意見陳述制度や裁判参加制度に結実してきたが、それでも問いの所在は正確に捉えられていない。「知りたい」との要求をするや否や、それは判で押したように癒しやケアの対象とされてきた。今回の事件は、これまで犯罪被害者遺族が背負ってきた名付けられない感情を、かなり広範囲の国民に共有させることになった。ここでは、他人事として「被害者遺族」を観察することはできない。小泉容疑者の動機の陳述を聞いて納得できず、「これでは故人も浮かばれない」と思った者は、すべて「被害者遺族」の地位に立っている。

何をどう頑張っても、死者が還ることはない。だからこそ、そうなってしまったことの理由が知りたい。このような生命倫理を含んだ問いは、問う者と同じ視点に立たなければ問いの所在がつかめない。ところが、現実には問いと答えはなかなか一致しないことが多い。今回の事件においても、「なぜ」という問いに対する答えとして出てくるのは、「小泉容疑者は自宅アパートで苦情トラブルを起こしていた」「深夜に建設会社社長の自宅に怒鳴り込むなどクレーマーとして有名だった」「職を転々として孤立していた」といったものばかりである。「なぜ」と問えば問うほど狭いところに入り込み、真相究明とは程遠いところに引っかかるばかりで何も出てこない。この国民レベルでのイライラも、すべてはこれまで犯罪被害者遺族が向き合ってきた感情そのものである。理由を語るべき者は、恨みや憎しみをぶつける相手と一致する。しかしながら、「理由を知りたい」との真摯な思いは、厳罰を望む意思とは全く別であり、ましてや死刑を望む意思とは別物である。

「私」と「私の身体」

2008-11-23 00:08:07 | 実存・心理・宗教
栄養士: 健康診断の結果が出ました。あなたはメタボリック症候群に該当します。これから大事なことを説明しますので、しっかり聞いて下さい。

会社員: 難しいことはよくわからないんですが・・・

栄養士: いや、難しいも何も、私じゃなくてあなたの体のことですよ。ご自身の体に責任を持って下さい。まずですね、ヘモグロビンA1cの基準値は5.2%未満なんですが、あなたは6.3%もあります。規則正しい食事を心がけ、お酒を控えて、特に午後9時以降は飲食をしないように心がけて下さい。

会社員: はい。でも、やはり会社は組織ですから、それを全部実行するのはかなり難しいです。私は何より今の会社が大好きなんです。皆でより良い会社を作っていくためには、午後9時以降の飲みニケーションも大事なんですが・・・

栄養士: お気持ちはわかりますが、糖尿病になってからでは遅いんですよ。あなたの体を守るのはあなたしかいません。自己責任ですからね。次にですね、中性脂肪の基準値は150mg未満でなんですが、あなたは315mgもあります。油物や甘い物を控えて、ごはんやパンなどの炭水化物の量を減らし、肉よりも魚や野菜を摂るようにして、体重を最低でも5キロは落として下さい。

会社員: わかりますけど、そんなに年中自分のことばかり考えていられないのが正直なところです。私にはこれまで会社で積み上げてきた人脈というものがありますし、何よりも社会人としての責任があります。付き合いというものは絶対に必要ですし、外食が多くなるのはやむを得ないんですが・・・

栄養士: メタボリック症候群を甘く考えないで下さい。動脈硬化で倒れてしまっては、責任も何もないでしょう? 繰り返しますが、あなた自身の健康のことです。わかってらっしゃいますね? もう少し自覚を持って下さい。次にですね、HDLコレステロールの基準値は40mg以上なんですが、あなたは33mgしかありません。明日からは毎日カロリー計算をして、通勤の前後や休日には運動を心がけて下さい。わかりましたか?

会社員: あの、全部わかるんですけども、こちらにも一応生活設計というものはありまして、自分なりにやるべきことの優先順位というものは決まっています。休日は運動以外の趣味にも使いたいですし、そんなに急に変えられないんですが・・・

栄養士: ですからね、あなたは今日までそういう生活を続けてきたから、メタボリック症候群になってしまったんでしょう。違いますか? メタボは認知症にもなりやすいんですよ。老後のことを考えたら、今すぐにでも生活習慣を改めるべきです。健康で長生きできるかどうかもあなた次第です。そうでしょう?

会社員: そうなんですけでも、正直なところ、何だか気持ち悪いんです。失礼を承知で申し上げるのですが、赤の他人に人生設計を指導されているようで、自分はこんなものではないと・・・

栄養士: あのですね、人生設計も何も、丈夫な体が資本でしょう。あなたの体は、私が管理することなどできません。あなた自身で管理するしかないんですよ。

会社員: いや、本当にそうなんですけど、上手く言えないんですが、「自分の身体」ばかり見られて、「自分」がどこかに消えちゃったような気がするんですよ。何だかそうやって長生きしても、その代わりに自分の人生を失ってしまうような変な感じが・・・

栄養士: おっしゃってることがよくわかりませんね。

会社員: すみません、私もよくわかってません。

警視庁警視の酒酔い運転

2008-11-21 20:37:58 | 実存・心理・宗教
茨城県警は17日、酒酔い運転の現行犯で、警視庁総務部施設課警視の日高幸二容疑者(50)を逮捕した。日高警視は交通部門のベテランであり、交通安全対策担当課長として飲酒運転防止などを担当し、「飲酒運転させない宣言の店」と書かれたステッカーを飲食店などに配る職務に従事していた。日高警視は、17日午後3時すぎから3時間、総務部施設課の同僚とキャンプ場で缶ビールや缶酎ハイなどを飲んだとのことである。そして、接触事故を起こして逃走しようとしたが、2キロ走ったところで取り押さえられてしまった。同警視からは基準値の4倍を超える呼気1リットル当たり約0.6ミリグラムのアルコールが検知されたが、本人は「1時間半から2時間仮眠を取ったので大丈夫だと思った」「翌朝早く鹿児島県の実家に帰省する妻を見送るため家に帰りたかった」「田舎道なので、ゆっくり運転すれば大丈夫だと思った」などと供述しているという。

「自分が飲酒運転を取り締まる立場であるにもかかわらず、飲酒運転をするとは警察の名に恥じる言語道断の行為であり、誠に驚きを禁じえない。今回の行為によって、国民の警察への不信感はますます膨らんでしまった。飲酒運転を撲滅するために、警察官の飲酒運転の罪は一般国民のそれよりも重く罰しなければならない」。このような正義にあふれた非難を浴びせることは簡単である。このような熱い主張における「驚き」は、実際には驚いていないことが多い。飲酒運転を防止すべき立場にいる警察官は誰もが清廉潔白であり、誰一人として飲酒運転はしていないと信じていたならば、このような鬼の首でも取ったかのような喜び方はしないはずである。今回の飲酒運転の発覚は氷山の一角であり、飲酒運転をする人はどのような立場であれ安易に飲酒運転をすること、しない人はどのような立場であれ絶対に飲酒運転をしないこと、日高警視の逮捕はこの当たり前のことを明らかにしただけである。

社会とは何か。規則とは、善悪とは何か。これらは法哲学の根本問題である。そして、「なぜ人を殺してはいけないのか」という問いに絶対唯一の答えが出ないのでれば、「なぜ飲酒運転をしてはいけないのか」という問いについても同様である。このような問いは、道路交通法は自らの自由を束縛するもの、面倒臭くてうるさいものだと感じる人においてのみ問題となる。最初から、あえて法律に言われなくても飲酒運転は非常に危険な行為であり、怖くてできないと考えている人にとっては、道路交通法は束縛とは感じられない。法律がわざわざ「悪い」と言わなくても、飲酒運転とは悪い行為であるとの結論が先に出ているからである。その意味で、飲酒運転撲滅キャンペーンを目にして、「最近の世の中はうるさいから気をつけよう」と感じたのであれば、それは論理が逆である。もともと法律とはこのような逆の論理に立脚したものであり、破ろうと思わない者にとっては何の拘束にもなっていない。

この世から殺人がなくなれば死刑は不要になるのと同じように、この世から飲酒運転がなくなれば「飲酒運転させない宣言の店」のステッカーも不要になる。実際にステッカーを配っていた日高警視自身の飲酒運転は、このような論理を見事に示してしまった。飲酒運転はいけないのだと何回も言われなければわからないような人間は、実際には何回言われてもわからない。法律で決められているから仕方なく従おうと思っている限り、決して自分の頭で飲酒運転の悪質性と危険性を考えることがなく、本音のところでは捕まらなければいいと考えているからである。飲酒運転は本当に危ない行為なのだ、走る凶器なのだという直感は、他人に教えられて身につけるものではなく、本人が自分の頭で理解するしかない。近年、飲酒運転で大事故を起こし、被害者の人生が滅茶苦茶にされてしまったといったニュースは数多い。このようなニュースを目にして本来人間に湧き上がるはずの感情は、「飲酒運転などしたくない」という自発的な欲求である。これは紛れもない自由であって、束縛ではない。

元厚生事務次官宅 連続襲撃事件

2008-11-20 22:41:24 | 言語・論理・構造
この3日間、山口剛彦さん(66)と吉原健二さん(76)の厚生事務次官時代の古いVTRが各局で放映されている。新聞では山口さんと吉原さんの名前が同格に扱われ、テレビでも2人の写真が並べて画面に出ることが多い。2人の元次官は、現在の基礎年金制度をつくった「年金のプロ」と並び称されていたそうである。しかしながら、1人は紛れもなく殺されており、1人は紛れもなく生きている。この生死の境界の曖昧さに慣れることは、考えてみればなかなか恐ろしいことである。通常、数人の殺傷者が生じた事件においては、死者と負傷者の間には明確な線が引かれる。どんなに重傷であっても、殺されることに比べれば命が助かっただけでも有り難い、これがこの種の事件の常識である。しかし、今回の「2人の元厚生事務次官の連続テロ」の報道においては、うっかりするとどちらの人が殺されたのか間違えてしまいそうになる。

人間の生物学的な意味の死(心臓停止、呼吸停止、瞳孔対光反射の消失)は、厚生省のトップまで上り詰めた人間であろうが一般庶民であろうが変わることがない。異なっているのは、社会的な意味の死であり、このカテゴリーが独特の構造を作っている。「1人の死は悲劇だが数百万の死は統計である」と言われるが、「連続テロ」との捉え方は、2人であっても統計である。実際に殺害されたのは山口さんと妻の美知子さん(61)であるが、美智子さんよりも吉原さんに向けられた凶刃のほうが社会的な影響が大きい。しかも、吉原さんは物理的には犯人からの直接の襲撃を受けておらず、妻の靖子さん(72)への凶行が言語によって吉原さんへの暴力だと解釈されている。この「連続テロ」との構造は、命の重要さに段階をつけることや、男性中心社会などを裏側から追認する形となっている。言うまでもなく、悲劇としての死は重く、統計としての死は軽い。

マスコミ各社は、「理由はどうあれ、断じてこのような暴力を許すわけにはいかない」と語気を強めている。この「理由はどうあれ」という部分に、これまで厚生労働省や社会保険庁を悪として吊るし上げてきた苦しさが表れている。反体制・反権力を標榜すればするほど、その権力に向けられた暴力に対する距離が取りにくくなる。仮に犯人が年金記録問題や後期高齢者医療制度に怒りを募らせて犯行に及んでいたとすれば、そのような不満に火をつけて煽り、国民の隅々にまで増幅させたのはマスコミ自身だからである。ここでマスコミが都合の悪いことは見なかったことにし、「このような凶行は断じて許されず、暴力は我々の社会に対する挑戦である」と大声で主張すれば、相変わらず自らは正義を述べており、それに逆らう者は悪であるとの構造を守ることができる。この苦しさが、「どのような理由があっても」という微妙な言い回しに表れている。

「問答無用の暴力は自由な社会を不安に陥れるものであり、これ以上ない卑劣な犯罪である」との威勢のいい怒りは、死者の運命を悲しんではいない。実際のところ、この文脈においては、殺されたのが山口さんと吉原さんのどちらでも大して重要ではなく、山口さんの妻と吉原さんの妻どちらが一命を取り留めたのかも問題にされてはいない。ここで扱われている生命は、世界に1つしかないかけがえのない生命のことではないからである。日本人が今回の事件で目にしたのは、元厚生事務次官という肩書きに凶器は刺さらず、刃物が刺さったのは生身の人間であったということである。そして、その人間には生命があり、両親や兄妹や妻子がいたという当たり前の事実であった。「消えた年金」問題の時は民主主義の名の下に厚生行政を激しく非難し、今回は民主主義に対する挑戦であると犯人を激しく非難するならば、それは不正義の中身が入れ替わっただけである。

「男の中で膨らんだ殺意は身勝手としか言いようがない。今の日本社会に閉塞感が漂うといわれて久しい。だが、それは決して他人を攻撃する理由にはならない。この社会のどこかに犯人を暴走させるものがあるとすれば、それを探って、何とかしなければならない」。これは今年の6月、秋葉原の連続殺傷事件の翌日のある新聞の社説である。このような一般人に向けられた無差別な凶行に際しては、社会の敵を許さないという論調はなく、生命の重さを再認識すべきだとの論調が多い。これに対して、今回のような権力に向けられた凶行に対しては、生命の重さに関する論調は後ろに退き、国民全体で不正義を糾弾すべきだという論調が主流になる。これは実際のところ、反体制・反権力のイデオロギーを裏返しにしただけの全体主義的なイデオロギーである。厚生省のトップまで上り詰めた人間であろうとなかろうと、今回の事件のような死は悲劇でなければならない。


元厚生次官宅を連続襲撃 計3人死傷、連続テロか(朝日新聞) - goo ニュース

曽野綾子著 『謝罪の時代』

2008-11-18 16:36:44 | 読書感想文
p.9~

私たちの乗った列車は結局、55分遅れで出発した。これだけ遅れると、時間を取り戻すことは不可能だろう。そのせいか、車内のアナウンスは何度も、「本日は人身事故のために列車に遅れが出ましたことをお詫び申しあげます」と繰り返した。もちろん途中駅で乗り込んで来る客に、改めて列車の遅れた理由を徹底させねばならないから繰り返すのである。

私は作家として、日本人として、このアナウンスの言葉を聞いていた。そしてこの言葉にはなかなか複雑な含みのあることを感じた。字句通りにとれば、遅れた責任者のJRがお詫びしているという形を取っているが、その言葉の背後には、「遅れた責任はJRにはありません。飛び込み自殺をした人がいまして、その人のおかげで当社も迷惑を被っているのです」と訴えるニュアンスが見え見えである。


p.14~

私は今でも情報は公開されなければならないという原則と、個人情報は守られなければならないという原則を、どうすり合わせたら双方を満足させられるのかいっこうにわからない。東京地裁は、外交機密費も公開すべきだ、という判断を出したらしいが、公開したら機密にならないわけだし、こうしたことを私のように悩んでいる人というのがあまりいないので、私は孤立感を深めている。

最近の社会もまた矛盾だらけである。ライブドアのホリエモンはそれまで社内で連絡用に使っていたメールに、或る程度の証拠を残していたから、検察は非常に早く捜索の手を入れたのだ、という人もいた。かと思うと楽天の三木谷社長は、ホリエモンと違って用心深く、重大なことは決してメールなどでは連絡せず、相手と直接話すだけだという通の談話を読んだ時には思わず笑い出した。それならITなど要らないわけではないか!


***************************************************

今月上旬、インターネット上の無料地図情報サービス「グーグルマップ」において、東京都内の小学校の生徒の個人情報が誰でも閲覧できる状態になっていることが判明した。これは、教諭が個人用の地図作製時に初期設定を「非公開」にしていなかったことが原因であり、当初はその教諭の個人的な責任に止まるかとも思われた。ところが16日には、全国の小中高校などの教員らが誤って公開してしまった生徒の個人情報は、少なくとも全国37校の約980人分にも上ることが明らかになった。しかも、登録した情報は「削除」ボタンをクリックすれば一旦は消えるものの、利用者が登録した情報はグーグルの持つ複数のサーバーに複製される仕組みのため、削除したはずのデータが削除できていない状態になっていることも判明してしまった。ここまで来ると、もはや特定の個人や職業を槍玉に挙げて非難する空気も消えてしまう。最後に残るのは、人間が文明の利器に振り回されて右往左往している姿だけである。

今回の事態を受け、文部科学省は都道府県教育委員会を通じて、全国の教育機関に個人情報の扱いなどについて注意するよう指示した。もちろん日本のトップ頭脳集団である文部科学省の官僚は、アメリカのグーグル社を差し置いてこのような指示をしたところで付け焼き刃でしかないことは十分にわかっている。しかし、現在のところの最善策は、もはやこのような形だけの指示をする以外にない。高度情報化社会における最も賢い不祥事の解決策は、形だけの謝罪を繰り返し、世論がすぐに忘れるのを待つことである。また、情報流出の痛手を最小限に食い止めたいならば、さらに流出が増えて情報の希少性が下がり、人間の情報処理能力も追いつかなくなることが望ましい。建前の上に建前が重ねられれば、人間の深いところには言いようのない違和感が残される。このような違和感を閉塞感に転化しないためには、曽野綾子氏のような(斜めではなく)一歩引いた視点が有用である。また、(風刺ではなく)「言ってはいけないこと」に気がついて笑う余裕が必要である。

修復的司法の問題点 その4

2008-11-17 20:54:13 | 実存・心理・宗教
修復的司法の思想は、刑法犯のみならずDVやいじめをも射程に捉えるものであり、現行の刑罰制度にとって替わろうとするまでの壮大な体系を有している。しかしながら、この思想は現在のところ、厳罰化を食い止めようとする政治的勢力によって重宝されている反面、肝心の被害者にはほとんど支持されていない。修復的司法は、狭義においては「被害者・加害者・地域社会の3者によって犯罪を解決すること」と定義されており、被害者の支援・加害者の援助・地域社会の再生などの理念が上位概念として据えられている。そして、この究極的な理念において、被害者の応報感情や厳罰感情は発展的に解消され、一元的な解決が図られることになっている。このような捉え方は、人間の名付けられない複雑な感情を一元的な体系に押し込みすぎており、そこからこぼれ落ちているものがあまりに多い。

修復的司法の思想は、これまで犯罪被害者が刑事裁判の枠組の外に置かれてきたことを反省し、被害者と加害者との対話の重要性を指摘する。これは、実際に多くの被害者が求めているものとはテーマが全く食い違っている。被害者は何よりも全身を打ちのめされるような絶望と虚脱感、生きる希望を失った虚無感の中で、この世の不条理に否応なしに直面させられている。中でも最大の不条理とは、修復の不能である。このような救いのない状況における唯一の救いとは、その救いのなさと不条理の原因を正確に知ることである。その上で、近代法治国家においては裁判のシステムが確立されており、被害者は事件の不可欠な構成要素である以上、当事者の地位から排除されているのは本末転倒であるとして、刑事裁判の枠組の中に入ることが正常な制度であると述べているものである。

応報から修復へ、憎しみから赦しへ。このような方策を講じるために、被害者の苦しみや怒りを和らげようとする支援策の動きは多い。しかしながら、被害者支援というものの性質上、本来このような「支援の輪」というものは論理的に広がってはならない。ここが、何らかの政治的主張を通すために集まっている市民運動の集団とは本質的に異なる点である。犯罪被害というものは、本来断じてあってはならず、悪夢でなければならず、現実を受け入れてはならない。ゆえに、カウンセラーや支援者の人達とも、本来は人生の中で一度も出会ってはならないはずである。カウンセラーによって癒されれば癒されるほど、支援者によって救われれば救われるほど、本当は人生において出会うはずのない人に出会ってしまったことの論理矛盾は深くなる。心のケアの先に立ち直りというゴールがあるとの単純な捉え方は、この逆説を見落としている。

日本社会や世界経済のことなどどうでもよい。願いはただ一つだけ、愛する人を返してほしい。このような偽らざる人間の直観に対して、「広く社会を射程に捉える壮大な体系」をぶつけることは、それ自体が鈍感な暴力である。被害者にとって、人生のうちで絶対に出会ってはならなかった者とは、言うまでもなく加害者である。特に、その時が初対面であるような通り魔的な加害者とは、絶対に出会ってはならなかった。ここで、被害者と加害者、さらにはその親族や地域の人々が一堂に会してお互いの気持ちを語り合う場を提供されるならば、これは暴力が拡大するだけの話である。被害者が嫌でも加害者に向き合わなければならないことは、それ自体が新たな絶望である。どうしたら被害者の心が癒されるのか、加害者が立ち直れるのかを話し合った先に示される事実とは、時間は戻らず死者は帰らないということである。すなわち、「修復」という概念の不可能である。