犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

パロマ元社長ら2人に有罪判決 湯沸かし器中毒死事件 その2

2010-05-30 00:15:30 | 時間・生死・人生
 パロマの湯沸かし器が原因で亡くなった上嶋浩幸さん(当時18歳)の母・幸子さんが「あなたの死は無駄ではなかった」とコメントして涙を拭く姿が広く報道されていました。「無駄を省く」仕分けのニュースに日本中が覆われている中で、この言葉の意味を捉えるのは至難の業だと思います。経験者でなければ理解はほぼ不可能であり、私にも理解不可能です。
 人の生き様そのものは、何かを対象化して悩んだり、他者に何かを要求する態度とは異質のものです。少なくとも、上嶋さんの涙を同様の感受性を持って受け止められた人は、いわゆる「幸福な人生」を送っていない人だと思われます。
 このような裁判では、たとえ望んでいた通りの判決が出たとしても、心から喜べるということはないと感じられます。「正義は勝った」「今までの苦労が全部吹き飛んだ」「溜飲が下がった」ということもあり得ないようです。これは、例えば冤罪事件で無罪判決を得た被告人や支援者が、全身で喜びを表しつつ怒りを表明するのとは対照的のように思います。なぜこのように生き、このように死んだのかという問いは、裁判で解くことはできないからです。

 この事故などが設立のきっかけになった消費者庁については、情報の一元化が空回りしているとの指摘が多く見られました。省庁の縄張り意識が強く、縦割りによる対応の遅れなど簡単に改善できるものではないことは、多くの人が予想していたことであり、単にその通りの結果が生じたに過ぎないと思います。これは、企業も行政も「人命尊重第一」ではあっては運営に支障が生じるからです。
 このような消費者庁の現状に対し、困難を困難と知りつつ「人命尊重第一」を要求して済ませる論評は、やはり人命への感覚の鈍さが示されているように思われます。犠牲者の死を無駄にしないためには、消費者庁に当初の目的を実現してもらうことは当然のことです。しかしながら、親は消費者庁を誕生させるために我が子を生み育て、自分よりも先に死なれたわけではなく、この程度のところにゴールが設定されることは、絶望以外の何物でもないと思います。

 この判決から20日が経ち、他の多くの事件と同じように、人々の記憶からは急速に遠ざかっているように見えます。「社会全体で考えるべきである」「命の重さを1人ひとりが考えなければならない」という言い回しは、もはや嘘を嘘と知った上での社交辞令のようにも思われます。
 世間の常識はいつでも「暗いニュースばかりでは気が滅入る」「何か明るい話題はないのか」といったところであり、庶民が平穏に生きる上では、真実性の追求は有害となるようです。そのため、この誤魔化しの気持ちを下手に暴いてしまうと、社会の暗黙のルールに反したことになり、邪険にされて浮き上がるようです。暗いニュースは、他者の幸福を願う良心的な人々の善意を妨げない限りで存在が許されているからです。
 人は自殺せずに生きている限り死を望まず、不幸であると認識している限りにおいて幸福を求めているのだとすれば、ニュースを見る者は、上嶋幸子さんの顔に正面から向き合うことは耐えられないものと思います。息子を亡くした母親が生きている、その人生の存在自体の矛盾に一瞬でも気付いてしまえば、世間の常識が崩壊するからです。

 息子を亡くした母親に対して、周囲が立ち直りや癒しによる幸福な人生を求めることは、外形的には善意の形を採っています。しかしながら、その内実は単なる自己愛の発現であり、その心情は悪意にまみれているように思われます。幸福を求めずに真理を求める壮絶さを知りつつ、真理を誠実に生きるためには自らを偽る意味もないとの結論に至った者に対しては、世の中で語られる幸福論の99パーセント以上は無意味だからです。
 すべての偽善に対して自由なのは、死者に対する言葉のみだと思います。死者は何も返答しない以上、死者に対しては嘘をつく必要がなく、虚飾の余地もないからです。生きている者は、死者の前においてのみ正直であり得ます。そうだとすれば、生きている者同士で交わされる言葉は、死者に対して語られる言葉には敵わないはずです。
 親が我が子の骨を拾う取り返しのつかなさの前には、社会的な成功、富や名誉、夢や希望、幸福な人生などすべて些細な問題です。生活や生存を目的とする世間の常識は、この価値基準を否定しにかかりますが、これだけはいかなる幸福論でも太刀打ちできません。上嶋さんのコメントは、幸福を求めずに真理を求める壮絶さを経て、唯一の結論として絞り出されたものと感じます。経験のない私には、その深いところまでは理解不可能であり、茫然とするのみです。

『刑法 判例百選Ⅰ』

2010-05-27 23:36:19 | 読書感想文
p.61~ 「自招危難」
 自招危難に対する緊急避難は、判旨によれば社会通念に照らしやむを得ないものとしてその避難行為を是認することができる場合には肯定の余地がある。しかしその具体的な判断基準は必ずしも明確でない。緊急避難を肯定する判例の出現が待たれる。

p.95~ 「法律の不知」
 最近では、主として責任説の側からではあるが、違法性の意識の内容に検討が加えられている。違法性の意識の内容は故意説にも共通する問題であり、判例変更の動きと合わせて、今後の展開が注目されよう。

p.133~ 「不能犯」
 客観的危険説の判例への影響は今のところ明らかではない。今後、有力学説が判例の中でどのような拡がりを見せるかは注目されるところである。

p.209~ 「共犯と罪数」
 具体的事案の解決に当たって、犯罪的意思の一個性、被害法益の性質等の実質的基準を加味し定立してゆくために、今後の判例の集積を待つこととなろう。


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 法学者が何気なく使う言い回しに、「判例の集積が望まれる」というものがあります。私も、あまり深く考えずによく使っていました。
 知的好奇心や学問的野心に燃えた研究者がオリジナルな体系を確立し、学界に名を残すためにしのぎを削る場においては、サンプルとしての新判例が楽しみで仕方がないのは通常のことだと思います。その反面として、「二度と同じような思いをする人がいなくなってほしい」という犯罪被害者の言葉の意味が理解できなくなります。

 刑法学は罪と罰の学問であり、その厳格さと崇高さは哲学にも至ります。そして、現実に密着した実学を追究し、理論と実務を融合し、机上の空論にならないためには、裁判官の判決文の一言一句を穴が開くほど読んで判例評釈をしなければならなりません。学界の中では、「判例の集積が望まれる」ということについて、疑問を差し挟む人など皆無でしょう。
 しかし私は、そんなに新しい判例が待ち遠しいならば、自分でそのような犯罪を起こして実際に裁判を受けてみてはどうかと、冗談ではなく感じることがあります。

「学者とは、学問を人生とする者のことだ」 池田晶子

被害者問題に精通した弁護士が少ない

2010-05-24 23:47:34 | 国家・政治・刑罰
朝日新聞 5月23日 朝刊より

 神戸市須磨区で起きた連続児童殺傷事件で、被害者となった土師淳君(当時11)が亡くなって24日で13年になる。父親の守さん(54)が代理人の弁護士を通じ、朝日新聞などに手記を寄せた。

「この5月24日は、淳の13回目の命日になります。13年という年月がたちましたが、どれほどの時間がたとうとも子供への思いは変わることはありません。(中略)
 被害者参加制度も2008年12月から始まり、ようやく軌道に乗りつつあるように思いますが、まだまだ問題点もあります。大きな問題としては、被害者問題に精通した弁護士が少ないということが挙げられると思います。この制度への理解が不十分な弁護士が担当した場合は、せっかくの制度が十分に活用されず、被害者に失望を与える危険性さえもあります。被害者参加制度が、犯罪被害者や遺族にとってさらに意義のある制度になるように、弁護士の方々にはさらに支援をお願いしたいと思います。(後略)」


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 私の同級生でも、被害者問題のエキスパートになりたいとの信念を持って、数年前に法曹界に飛び込んだ人がかなりいました。しかし、法律・裁判の強固な仕組みの前に挫折し、目の前の多忙さに流されているというのが現状のようです。以下、被害者問題に精通した弁護士が少なく、被害者に失望を与えている理由を思いつくまま挙げてみたいと思います。

(1)地位と仕事が合わない
 弁護士という地位は、被害者問題とは全く合っていません。ちなみに、弁護士の地位にとって、最も対応関係が上手く働くのが、貸金・売掛金・賠償金などの債権回収の場です。保全→訴訟→執行というシステムを駆使して経済的利益を得て、その何割かを報酬として受け取るというのが弁護士(特に町弁)の仕事の基本になっています。
 社会的地位や仕事の内容といったものは抽象名詞にすぎませんが、それだけに人が既成概念に基づく作業を繰り返している場合、それ以外の思考パターンを自力で生み出すことは困難だと思います。

(2)費用対効果の問題
 弁護士は身分保証のない自営業であり、いつも頭のどこかで月々の売り上げを気にし、税金を気にし、経営状態に気を配っています。労力に比して高い利益を上げる仕事を獲得するのが優れた経営者です。そして、このようなことが頭のどこかにある限り、被害者参加制度への理解は不協和音をもたらしかねません。
 「どれほどの時間がたとうとも子供への思いは変わることはありません」という言葉に対して向き合うことは、効果が見えないサービスに労働力を投資することであり、人件費の削減といった視点を持っている限り、どうしても思考の基準に合いません。仕事は広く浅く、右から左にテキパキ片付けないと、現実に収入がなくなるからです。

(3)法治国家の法的安定性
 法治国家のトラブルは、和解契約書、公正証書、調停調書などで片を付けます。そして、お互いに「一切の債権債務はありません」と約束して蒸し返しを禁止し、終わったことはどんどん流して忘れます。このような場所に、「何年経っても」「一生」といった時間軸の入る余地はありません。
 法治国家の思考パターンを前提としている限り、被害者・被害者遺族の心情に寄り添ったとしても、ピントのずれた同情を与えるのが限界だと思います。そして、この限界を超えるためには、法治国家のトラブルの大多数が空しい日々の雑事であると見抜くことが必要となりますが、そうなると法的安定性は崩れます。

(4)当事者に対する代理人の優位
 専門用語が飛び交う裁判は、素人と専門家の能力の差が顕著になるところであり、弁護士のプライドの根拠にもなっています。当事者同士では感情的になってまとまらないものを、プロが冷静にまとめるということです。ですので、なぜ弁護士が当事者のところまで降りて行かなければならないのかという感覚からは逃れられません。
 裁判所においても、本人訴訟は裁判官から非常に嫌がられ、弁護士を付けるように指導されることがあります。本人訴訟は低レベルで洗練されておらず、代理人同士の論理的な議論が望まれるということです。この点も、被害者問題とはスタート地点が逆になっているように思われます。

(5)証拠で事実を立証するシステム
 裁判で勝つための証拠は、人間の良心や誠実さとは無関係です。それは、ある時には隠し撮りした写真であったり、秘密裏に録音した音声記録であったりします。慰謝料の請求においては、苦しみや哀しみを深く綴った手記よりも、医師を上手く誘導してそれらしい病名を並べてもらった診断書のほうが強力です。
 法廷とは、相手の主張や証拠に「異議あり!」という態度で臨む戦いの場です。そのため、弁護士は普段から気分を高揚させて怒りっぽくなり、些細なことにもイライラしているのが仕事の一部になります。このような思考パターンに慣れてしまうと、行間滲み出る苦しみや哀しみを察する能力は衰える一方になります。
 

 悲観的なことばかり並べてしまいましたが、それだけに被害者問題に精通した少ない弁護士には頭が下がります。基本的にはボランティアであり、そのためには他の仕事の売り上げが必要条件であり、経済的な余裕が大前提でしょう。しかしながら、人間の欲望は青天井であり、経済的な余裕ができると、その余裕がなくなった時のことが心配になるようです。私の同級生の1人も、被害者問題への関心を完全に失くし、「過払い金バブルが終わったらどうなるのか心配で夜も寝られない」と言っていました。
 被害者国選弁護の仕事は、99パーセントの従来の思考パターンの中に、異質な1パーセントが紛れ込むようなものです。例えば、「不動産登記の管財人の印鑑証明の3か月の期限が切れています」といった言葉の洪水の中で、「どれほどの時間がたとうとも子供への思いは変わることはありません」という言葉を手放さないことです。被害者問題に精通し、被害者に失望を与えないためには、弁護士のステイタスから生じるところの名誉欲、自己顕示欲、金銭欲と距離を置いていることも最低条件だと思います。

「市民感覚」について

2010-05-21 23:51:48 | 国家・政治・刑罰
 今年の5月21日で、裁判員制度の導入から1年となりました。裁判員制度の導入の契機は、専門家集団による裁判の市民感覚とのズレ、裁判への市民感覚の導入ということでしたが、「市民感覚」とは何か、その言葉の意味が観念的に争われると、議論だけが激しくなって、何も結論が出ないという状態に陥るものと思われます。
 裁判員制度の1年間を振り返る新聞記事の中で、裁判官にとっては「日常的によくある事件」が、裁判員にとっては「普通にはあり得ない事件」であり、裁判官が驚いたという記事がありました。「市民感覚」とは、このような裁判官の驚き、さらにはその裁判官の驚きを見た裁判員の驚きの中に自然と示されるものと思います。
 裁判官が個々の事件に対して市民感覚を持ち得ないのは、そもそも頻繁に人事異動を行って特定の地域との癒着を防ぎ、多数の事件を割り振って裁判官を多忙化させ、個々の事件に対する感情移入の余裕をなくすことが、システムの運営にとって合目的的であるとの経験則と関係するように思います。すなわち、法治国家の裁判官は、1つの事件を人間的に深く考察することは期待されていないということです。

 以下は私の裁判所書記官としての狭い経験ですが、刑事部に配属された書記官も、「市民感覚」を失わなければ仕事にならないような部分がありました。仕事の中で出会う人の8割以上が被疑者・被告人です。そして、半年もすれば、「また傷害致死か」「また強姦か」という具合に慣れが生じ、ほとんどの事件が「日常的によくある事件」になってきます。
 「犯罪者に対して偏見を持ってはいけない、我々と同じ人間なのだ」という要請を遵守することについては、私も同僚も、それを完全に地で行っていました。接触する人の8割以上が犯罪者であれば、その思考は犯罪者が基準となり、犯罪を犯さないことの大切さに対して価値が置かれなくなってきます。そして、いつの間にか、「人は普通に生きていれば犯罪を犯して当然だ」という価値観から逃れられなくなっていました。
 この犯罪への免疫は、被害者の軽視という点にも連動していたように思います。日々被疑者・被告人の側から事実を見ていると、被害者の心情そのものが思考の枠組みから抜けていきます。そして、被害者の側から事実を見ていたのでは仕事にならないという現実的な要請が、市民感覚とのズレを動かし難いものにしていました。

 私は、刑事部での経験を積むにつれ、他の書記官と同じように、凶悪な事件に対してさらに鈍感になり、悲惨な現場の写真を見ても心を動かされなくなりました。残酷な殺人事件を前にして気分が悪くなっているようでは、素人の裁判員と同じであり、プロの名が廃るということです。
 死体検案書の写真の顔は、安らかに眠っているものあり、苦痛に歪んでいるものもあり、すべてが日常の1コマに組み込まれて行きました。それはある時には興味を伴っており、またある時には嫌悪を伴っていましたが、赤の他人の人生を他人事として眺めている点においては共通していました。解剖によって臓器がバラバラに置かれ、並べられている写真を見ても、その人の生前の姿を知らない以上、それはその臓器でしかなく、人の人生の形をしていないということです。
 私はその日も、ある交通死亡事故の裁判の記録を整理しており、いつものように実況見分調書の内容を細かく確認していました。実況見分調書については、現場指示(刑事訴訟法321条3項)と現場供述(刑事訴訟法322条1項、321条1項2号・3号)の区別が問題となるからです。その時、私は1枚の写真から目が離せなくなりました。それは、道路に落ちた買い物袋の中から、にんじんとじゃがいもが転がっている写真でした。

 被害者は40代の女性であり、妻であり、母親でした。にんじんとじゃがいもの写真は、彼女が夫と娘の夕食のために買い物に行き、献立を考えていた姿を、まぎれもない現実として私に突きつけてきました。さらには、そのにんじんとじゃがいもを切るはずであった包丁やまな板、料理が盛られるはずの皿、そして彼女の夫と娘との夕食の光景を強制的に突きつけてきました。その前日まで丁寧に記載され、その日から真っ白になった家計簿も突きつけられました。
 死体検案書の写真には生前の姿はなく、単に40代の女性というだけであり、そこには「妻」も「母」もありませんでした。ところが、にんじんとじゃがいもの写真には「妻」があり、「母」があり、夫と娘の夕食のために買い物に行く彼女の姿がありました。夫を愛し、娘を愛し、心を込めて料理を作っていたであろう1人の女性の人生がありました。そして、これからも平穏に続いていく家庭の姿がありました。私は、瞬間的に彼女の死を否定し、このような事故があるはずがない、何かの間違いだと結論付けました。
 私は今でも、その写真のにんじんとじゃがいもの色や形を鮮明に思い出すことができます。そして、私の「市民感覚」は、にんじんとじゃがいもです。

ある交通事故裁判の打ち合わせの光景

2010-05-19 23:20:56 | 実存・心理・宗教
 彼は、自分が人間としての表情を失いつつ、それ以外に顔の筋肉の動かしようがない状態の中で、決められた場所に向かってただ歩いていた。顔どころか全身の筋肉が動かず、特に動かしたくもない。国選弁護人からの電話を受け、生まれて初めて法律事務所を訪れること対しては、僭越にも緊張感を覚えている。少なくとも、絶望からの救いを求めているのでないことは確かである。
 「取り返しがつかない」という言葉は、何度繰り返してもその通りである。それ以外に彼が適切な言葉を見つけたわけではない。しかしながら、言葉から滲み出るところの「言いたいことであるところの何か」には遠く及ばず、むしろその何かに迫ることを妨げる効果しかないのであれば、沈黙する以外に人間が採り得る行動もない。次善の策としてなしうるのは、自ら言葉を語るのではなく、「言わずにはいられない」という何かに突き動かされて、その何かに迫る言葉を語らされていることのみである。
 車社会では、誰しもが被害者になり得るのと同様に加害者になり得る。そして、自分は飲酒運転でもなく、誰もが犯しうる一瞬の不注意によって、運動神経の衰えた高齢者をはねてしまった。現代社会では最も多い事故の形態である。しかし、自分が奪った人の命が戻ることがないにもかかわらず、現にこうして自分が生きていることの不快感に対しては、そのような慰めの言葉からは何も伝わってくるものがない。人の命を奪いながらも生きている事実を厳しく責められるほうが、自己弁護の屁理屈を正当化してもらうよりも、その不快感は和らぐ気がする。

 弁護士は、自動車運転過失致死罪の起訴状を広げ、「どこか間違っているところはありませんか?」と彼に聞いた。続けて、「たまに、間違いを犯してすみません、なんて謝る人がいるんですけど、話が逆なんですよ。検察官の起訴状が間違っているのか、あなたの方が間違いを指摘するんです」と言って愛想笑いをすると、彼も釣られて表情を緩めた。彼は、自分が人間としての表情を取り戻したことに気がつき、救われたと思い、その状態に安住したいと願う自分を小市民的だと思った。
 弁護士はその後、できる限り「はねた」「轢いた」という言葉を使わず、「接触した」「衝突した」という表現を使うように指導した。彼は、何かが違うと思いながらも、両者の会話は一方的に進んだ。彼が被害者の死を知らされてから今日まで、四苦八苦して考え続けてきた言葉は、どうにも弁護士に伝わっているようには思えない。弁護士からは、「そんなに心配しなくていいですよ」「大丈夫ですよ」との答えが返ってくるのみである。
 自分の全身は、たとえ過失であったとしても、人の命を奪ったことがあるという負のオーラに包まれていたはずである。そして、人を死なせた経験のない弁護士の全身を圧倒していなければならないはずである。それが、どういうわけか、事態はそのようになっていない。彼が勾留されずに釈放されていること、交通違反の前歴がないこと、保険会社を通じて示談が済んでいることなど、弁護士が彼に有利な事情を丁寧に説明すればするほど、彼は負のオーラから自由になり、人間らしさを取り戻してくるのがわかる。そして、その心の奥底で、命の重さから逃れようとしている自分の弱さと甘えが、彼の居心地を悪くさせているのもわかる。

 弁護士は、法廷に来てもらう情状証人として、彼の会社の上司と、彼の父親に依頼するよう指示した。そして、会社の上司からは「真面目に仕事をしています」との証言を、父親からは「二度と事故を起こさないように監督します」との証言を得るべく、質問事項と模範解答のシナリオを述べ始めた。彼は、人の命を奪ったからには誰が何を言っても言い訳であり、それを言い訳であると知っているならば人はそれを言わないはずであり、そのような言葉には語る価値がないと思った。しかし、刑事裁判の場ではそのような言葉に価値があり、自分はその価値に甘えられる立場にあるのだと知った。
 さらに弁護士は、寛大な刑を求める旨の嘆願書を、会社の同僚や友人からできる限り多く集めてくるよう彼に指示した。彼は、寄ってたかって被害者の命を冒涜しているような自責の念を感じながらも、そのようなことをすれば裁判官に悪感情を持たれるのではないかという保身の気持ちもあり、内心は激しくせめぎ合っていた。しかし、弁護士は彼のいずれの気持ちにも気付いていないようであり、「しっかり反省して謝罪すれば実刑はないですよ。安心して私に任せて下さい」と繰り返すのみである。
 被告人質問の打ち合わせの段になり、弁護士からは、「真面目に仕事をすることが被害者への供養になると思います」との模範解答を示された。彼は、完全に違うと思ったが、何がどう違うのか上手く表現しようがなかった。人の死に対して、反省や謝罪などという言葉を述べてしまっては、その反省や謝罪をされるべきところの何かが逃げてしまい、その何かが人に伝わったり、人に感じられたりすることはない。しかしながら、刑事裁判の法廷で反省や謝罪をしなければ、現実には「反省が不十分で実刑」という話になってしまう。

 弁護士は、さらに被害者遺族に謝罪の手紙を出し、それを裁判所に有利な情状として主張することを提案した。彼は、遺族の方々に許してもらえるとも、許してもらいたいとも思っておらず、手紙など書きようがないと答えた。すると、弁護士は反省文の例を彼の前に提示した。そこには、名前を変えれば誰が書いても同じになるような、薄っぺらな言葉が並んでいた。「事故のことを常に忘れずに生きていきます」など、一見して嘘である。人は、自ら好んで社会生活に支障を来たす生き方を選択することはできない。
 「被害者が若い人でなかったのは不幸中の幸いでしたね」と弁護士が笑いかけたため、彼は思わず、「私はそれだけ長く生きてきた方の人生を奪ってしまったんですよね。戦争をくぐり抜け、高度成長を支えた方の人生を、一瞬で終わらせてしまったんですよね」と答えた。弁護士は相変わらず、「そんな風に考える必要はないですよ」とにこやかに笑い、量刑の相場、執行猶予期間の相場を丁寧に説明し始めた。彼は弁護士が自分のために時間を割いてくれていることが徐々に申し訳なくなり、黙ってその話を聞くことにした。
 たとえ人の命を奪ったとしても、故意の殺人でなければ、命をもって償う必要などない。これが現在の法律であり、社会常識であるが、人の命がそこまで軽くていいものか、彼にはどうにも腑に落ちないところがある。しかしながら、彼自身に命をもって償う勇気がないならば、そのようなことを言う資格もない。また、一般的な社会生活を放棄して、一生を死者を弔うために捧げる決意もできないならば、いずれにしても偽善である。彼はが人間としての表情を取り戻し、笑顔を見せると、弁護士も満足そうに笑った。

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フィクションです。

パロマ元社長ら2人に有罪判決 湯沸かし器中毒死事件 その1

2010-05-16 23:46:56 | 時間・生死・人生
 パロマ工業製湯沸かし器による一酸化炭素中毒事故で、業務上過失致死傷罪に問われた元社長・小林敏宏被告、元品質管理部長・鎌塚渉被告に対し、東京地裁は5月11日、いずれも執行猶予付きの禁錮刑を言い渡しました。有識者によるそれぞれの立場からの論考は、各紙で尽くされている感があります。
 私は、これらの論考を読んで思ったことにつき、法律・裁判の現場で働く者にあるまじき感想を書いてみたいと思います。

 有識者の論考は、当然のように「人命尊重第一」と述べ、その舌の根も乾かぬうちに人命への感覚の鈍さを示しているように思われました。
 「消費者の視点に立った判決であり意義深い」などと断言されてしまうと、死者はもはや消費者ではない以上、その現実の前に絶望させられます。生きて帰ってくるのでない限り、「意義深い」ということはあり得ないでしょう。また、「製品自体の欠陥ではないのにメーカーのトップの責任が問われた異例の裁判」などと言われてしまうと、異例かどうかは死者にとってはどうでもいい話で、「人命尊重第一」ならばこのような表現はできないはずだとの感を強くします。
 「国際的基準にかなった判断」「世界的な流れ」といった論評も同じです。死者にとっては意味がありません。

 判決は、製品に欠陥がなくても情報を集めて回収すべきことを求めたものであり、経営者にとって厳しいとの評価もありました。しかしながら、それがどんなに厳しくても、親がこのような事故で我が子を亡くすことより厳しくはないでしょう。
 また、危機管理をどこまで広げなければならないのか、今後の企業は大変だとの指摘もありました。しかし、親が我が子に先立たれるほど大変なことではないでしょう。
 このようなことは、誰もが心の奥底では知っていることですが、世間で大声で言ってはならないことだと思います。あまりに身も蓋もない真実であり、人々の平穏な生活にとって有害となるからです。従って、「人命尊重第一」と言いつつ、社会制度の維持に支障が生じないように、周囲を嘘で固める必要があります。それは、人命尊重第一では社会は回らず、そのようなことは考えないほうが上手く生きていけるという暗黙の了解です。

 記事の中には、リスク管理でコストかかりすぎ、経済界からは悲鳴が上がっているとの現状を強調するものもありました。特に昨今の不況においては綺麗事を言っている余裕はなく、とにかく会社の業績のために1円でもコストを下げ、社員の雇用も安定させなければならず、進退窮まって悲鳴を上げる経営者もいることでしょう。しかしながら、親が我が子の骨を拾う悲鳴に比べれば、全く物の数ではないと思います。
 経済社会では、「人命尊重第一」を追求した結果としてビジネスチャンスを逃したり、利益よりも人命を優先してマーケティング戦略を怠ったりする経営者は、単に才覚がないとして嘲笑の対象となるだけでしょう。
 営利を目的とする企業において、「人命尊重第一」を掲げることは偽善であり、人の命が失われた時に初めて持ち出されるものと相場が決まっています。もしも、これが最初からできていたのであれば、企業は裁判で全く争わずに原告の請求を認めていたはずだからです。そして、それは現実に「人命尊重第一」ではない企業には望めないことです。

 ある程度経済社会の現実に揉まれた者にとって、「人命尊重第一」という言葉は、どこか稚拙に聞こえるように思います。そんな理想論を実行していては怖くて何もできない、起業家が萎縮してしまう、現実に経済が混乱したらどうなるのか、あまりに無責任だと言われれば、すべてその通りです。真実とは無責任なものです。従って、やはり世間では本当のことを言ってはなりません。
 経済の混乱、会社の業績低下や倒産、リストラの先に待っているのは生活・生存の心配であり、突き詰めれば「生・老・病・死」の問題です。そうだとすれば、実際に「人命尊重第一」は、自分自身の生命においては無意識に実行されているところだと思います。
 そのような自己保存本能が、いつの間にか「面倒な仕事は端折りたい」「楽して金儲けしたい」という方向の欲望に変質するならば、他者の人命に危険を及ぼすような不正改造を行うまでのハードルは非常に低いはずです。

(続きます)

外山滋比古著 『思考の整理学』 Ⅵ章より

2010-05-15 00:01:02 | 読書感想文
p.192~

 われわれがじかに接している外界、物理的世界が現実であるが、知的活動によって、頭の中にもうひとつの現実世界をつくり上げている。はじめの物理的現実を第1次的現実と呼ぶならば、後者の頭の中の現実は第2次的現実と言ってよいであろう。
 第2次的現実は、第1次的現実についての情報、さらには第2次的現実についての情報によってつくり上げられる観念上の世界であるが、知的活動のために、いつしか、しっかりした現実感をおびるようになる。ときとしては、第1次的現実以上にリアルであるかもしれない。知識とか学問に深くかかわった人間が、しばしば第1次的現実を否定して、第2次的現実の中にのみ生きようとするのは、このことを裏付ける。

 従来の第2次的現実は、ほとんど文字と読書によって組み立てられた世界であった。ところが、この30年の間に新しい第2次的現実が大量にあらわれている。テレビである。テレビは真に迫っている。本当よりもいっそう本当らしく見える。そして、そのうちにそれが、第2次的現実であることを忘れてしまう。ブラウン管から見えてくるものはいかにもナマナマしい。第1次的現実であるかのような錯覚を与えがちだ。
 現代のように、第2次的現実が第1次的現実を圧倒しているような時代には、あえて第1次的現実に着目する必要がそれだけ大きいように思われる。人々の考えることに汗のにおいがない。したがって活力に欠ける。意識しないうちに、抽象的になって、ことばの指示する実体があいまいになる傾向がつよくなる。抽象は第2次的現実から生れる思考の性格である。
 
 もっと第1次的現実にもとづく思考、知的活動に注目する必要がある。割り切って言うならば、サラリーマンの思考は、第1次的現実に根をおろしていることが多い。それに比べて、学生の考えることには、本に根がある。第2次的現実を土壌として咲く花である。生活に根ざしたことを考えようにも、まだ生活がはっきりしていないのだから致しかたもない。
 そういう学生が社会へ出て、本から離れると、そのとたんに知的でなくなり俗物と化す。知的活動の根を第2次的現実、本の中にしかおろしていないからである。社会人も、ものを考えようとすると、たちまち、行動の世界から逃避して本の中にもぐり込む。読書をしないと、ものを考えるのが困難なのは事実だが、忙しい仕事をしている人間が、読書三昧になれる学生などのまねをしてみても本当の思索は生れにくい。行動と知的世界とをなじませることができなければ、大人の思考にはなりにくいであろう。


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 上記の文章における「現代」とは、昭和58年(1983年)のことです。今やテレビはデジタル放送から3Dにまで進歩し、ブラウン管は過去の遺物となりました。「ブラウン管から見えてくるものはいかにもナマナマしい」という記述には隔世の感があります。そして、「第2次的現実であることを忘れてしまう」「第1次的現実であるかのような錯覚を与えがちだ」との指摘には、改めて戦慄を覚えます。

 「忙しい仕事をしている人間が、読書三昧になれる学生などのまねをしてみても本当の思索は生れにくい」という指摘は非常に耳が痛いです。せめて、第2次的現実であるメディアの「ベストセラーのランキング」には惑わされないようにしたいのですが、メディアを第1次的現実であるかのよう錯覚しておかなければ世間は生きにくく、しかも世の中から取り残されたように自覚せざるを得ないのが悔しいところです。

養老静江著 『ひとりでは生きられない』

2010-05-14 00:05:02 | 読書感想文
p.177~

 33歳の若さで病に倒れた主人の言葉がいまも蘇ります。私のもとを永遠に去ったのは昭和17年11月のことですから、あれからかれこれ50年の歳月が流れたことになります。「君はわがままな人間だから、なかなか死ぬことはできないよ」という『予言』はまさに的中しました。私は94歳になりましたが、まさに『業』なのでしょう。

 先日も、ある新聞社が「こころの宝物は?」と取材に参りましたので、「宝物は、死んじゃった夫への思いなのよ」とお答えしてお若い記者の方をびっくりさせてしまいました。なんといっても、半世紀も前に遠くにいってしまった人への思いですから、いまの方たちが、まさかそんなことと疑問を抱かれても無理はありません。

 私はいまでも、毎朝、目が覚めると心のなかで「パパ、おはよう」と元気よく挨拶します。90を過ぎたおばあちゃんがってお笑いになるかもしれませんが、本当に、もう50年来の習慣なんです。もっとも、主人は33歳のままですから、こんなおばあちゃんになってしまった私の朝のあいさつをどう思っていることやら。


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 この本の題名を見て、「人はお互いに助け合って生きるべきである」という凡庸な教訓を予想していましたので、見事に騙されたという感じです。さすが養老孟司氏の母親だと思いました。上記は平成5年に書かれた文章で、養老静江氏は2年後に96歳で亡くなっています。生とは何か、死とは何か、わからないことばかりです。

土屋賢二著 『ツチヤ教授の哲学講義』

2010-05-11 23:51:31 | 読書感想文
p.~
 哲学に関することを伝えるには、どうすればいいのだろうか。哲学史上の学説を暗記してもらえばいいのだろうか。わたしは、そんなことをしても、哲学とは関係がないと思う。それはちょうど、音楽を理解してもらうために、音波の性質を説明するようなものだと思えるのである。
 哲学は実験するわけでも、観察するわけでも、調査するわけでもない。自分で考えてみて納得するかどうかが哲学のすべてである。ゼロから考えて納得するという要素がなければ、哲学とは言えないと思うのである。

p.23~
 哲学の中では、「……とは何か」ということが問題になることがよくあります。そういうことが問題になるには、何かきっかけが必要です。不合理な点とか、納得できない点とか、そういうことがないと問題意識は起こりません。時間についても同じです。もし時間のどこにも納得できないところがなかったら、「時間とは何か」ということは問題にならなかったと思います。
 過去は、かつては存在していたけれども、もはや存在していません。それから、未来も、やがては存在するけれど、まだ存在していません。そうすると、時間の中で存在している部分は現在だけです。その現在も、一瞬一瞬を細かく見れば、実際に存在しているのは、点みたいな瞬間だけです。他の部分は存在していません。点しか存在していないようなもの、これを時間と呼べるかということが疑問に思えてきます。

p.39~
 ぼくらは「痛い」ということばを使っています。痛いかどうかはどうやって判定しますか? 簡単です。本人が痛いといえば痛いことになりますね。でもかりに、これからは「痛い」ということばをそういうふうに使うのをやめようということになったとします。痛いかどうかを決めるのは、本人が決めるんじゃなくて、客観的な手続きによって痛いかどうかが決まるんですね。
 われわれの社会で使っている「痛い」ということばなら、本人が痛いかどうかを決める最終的な決め手になっています。この場合と、痛いかどうかを客観的な手続きで決まるように変えた場合を比べてみると、痛いかどうかをどうやって決めるのかということが違っているだけなんですけども、でも、「痛みとは何か」ということがまったく違うものになってしまうと思いませんか?


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 ウィトゲンシュタインの言語ゲーム理論が哲学の問題を解消しているとすれば、日常言語によって専門用語を厳密に定義する法律の問題も同時に解消されており、法律とは「部分的言語ゲーム理論」であるとの感を強くします。これは、全てをゼロから考えて納得しなければならない哲学と、全てをゼロから考えてはならない(必ず法律の条文・判例に戻って考える)法律学において、全体と部分の大小関係が示されているように思います。

 公訴時効の廃止に伴う議論に際し、「時の経過によって社会の応報や必罰感情などの社会的影響が微弱化する」との解説を展開していた法律の専門家と、「最愛の人を殺された遺族には時効はない」と語る犯罪被害者遺族との絶望的なすれ違いがありました。客観的な論証に基づく前者の思考が、後者の思考を感情論として軽視するのはいつものことですが、全体と部分の大小関係が気付かれなければ、すれ違いが収まるはずもないと思います。

困っている人の気持ちが理解できる弁護士

2010-05-09 23:38:38 | 実存・心理・宗教
 司法制度改革による法曹人口の増員に伴い、法曹界では「弁護士の質の低下」という言い回しが聞かれるようになりました。人間に対して「質」を論じつつ差別撤廃を目指す欺瞞は措くとして、何をもって質の高低を判断するかについては、それぞれの立場で言いたいことが言われているようです。
 法務省や裁判所の関係では、「与えられた現実を既知の法律構成に変換する手法で要件・効果型の法的構成に置き換える能力、その法的構成の概念の包摂範囲・相互作用等のあり方につき概念操作を規範的に統制している諸概念を運用する能力」などが質の高低の指標とされているようです。他方、増員の絶対反対を訴える弁護士会では、「弁護士の増加により個々の仕事の数が減っても横領や脱税に走らない能力」などが大前提となっているようです。
 これらに対して、「困っている人の気持ちが理解できる能力」については、司法制度改革の公式な文脈ではまず語られることがありません。このような能力については、法律の専門的な議論の場には稚拙であるとの暗黙の前提があるものと思われます。

 「質の低い弁護士」とはどのような弁護士かと問われて、私が真っ先に連想するのは、「ドラえもんが助けてくれると思った」などの主張を行った光市母子殺害事件の弁護団です。この事件の弁護団は、「困っている人の気持ちが理解できる能力」については天下一品であったと思います。弁護士にとって、世の中で何が「困っている」の極致かと言えば、「死刑になりたくないのに死刑判決を言い渡されそうで困っている」に勝るものはないからです。
 一般的にはプラスの評価を受けている「困っている人の気持ちが理解できる能力」に関して、私が光市母子殺害事件の弁護団の質が低いと感じたのは、自己の側の依頼者の気持ちのみを理解して感情移入し、周りが全く見えなくなっていたからです。もちろん、代理人という仕事は、自己の依頼者にとっての利益を追求することがその職務であり、争っている相手方の身になることは、依頼者に対する利益尊重義務にもとるものと考えられています。これが法曹倫理のパラダイムです。
 このパラダイムの偽善性は、「困っている人の気持ちを理解する」という一般的な善意につき、本来であれば自分以外の全人類に向き合う義務に直面して途方に暮れなければならないところ、特定の委任契約によってこの苦しみを簡単に飛び越えているところにあると思います。その結果として、自己の依頼者の困った局面を打開するためにはどんな理屈をも考え出す反面、相手方の困った気持ちは眼中から排除されるのも当然のことでしょう。

 困っている人の気持ちを理解しようとすることは、本来、理解しようとする者の体力をも激しく消耗させるはずです。また、傷ついた人の気持ちに共感することは、共感する者自身の気持ちをも激しく傷つけます。そして、理解しようとしても理解できない無力感、報われない挫折感などにより、心の疲労は蓄積していくのだと思います。
 人の身になって考えていると自負しつつ、上記のような疲労困憊の現実に直面していないならば、それはやはり自己の考える正義を依頼者に投影しているという意味において、偽善と言うしかないと思います。この偽善性は、徒党を組んでシュプレヒコールを上げる形態においては、怒りや憎しみを正義として声高に主張するはずです。他方、複雑で繊細に入り組み深く沈潜した人間の苦悩に対しては、「怒りや憎しみからは何も生まれない」との判断を簡単に下すはずです。
 弁護士にとって、自己の側の依頼者だけでなく、対立する相手方の困っている気持ちが理解できることは、相手方の弱点が手に取るように見えるということでもあります。すなわち、相手方が一番言われたくないことがわかり、相手の心をズタズタに打ちのめし、立ち直れなくなるまでに心を折る力のある言葉を手に入れるということです。もし、人間に対して「質」を語ることが許されるとすれば、「質の高い弁護士」とは、この言葉の恐ろしさを認識しつつ、その手加減を知っている者だと思います。