犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

佐野洋子著 『私はそうは思わない』より

2009-11-29 00:59:27 | 読書感想文
p.104~ 「せめてこれ以上、誰も何も考えないで」より

私は、もはや欲しいものなどない。あればいいな、などと考えたくない。もう充分である。いや充分すぎるのである。雑誌を見ても、テレビを見ても、へえーと感心する便利なものや、なるほどと深くうなずくものや仕事があるので、驚くことがある。デパートへ行っても街を歩いても、びっくりすることが沢山ある。

もう考えるな。我々は人間である。本来人間はトータルな能力があるものであった。科学や文明は人間のトータルな能力をうばったのである。それぞれの人間の中の、ある種の突出した能力を異常に発達させて、エキスパートというものを作ってしまった。ぼうっとしている凡人は、エキスパートが作ったものを、金を出してありがたく使うだけになってしまった。自らは手足を動かさないで。この現代日本で、それらを拒否して生きるのは難しい。私だって、今さら、たらいと洗たく板で洗たくするのは嫌である。

山へ行って薪を集めて来て、ごはんなどたけはしない。人間は限りなく怠惰なものである。怠惰を助長させるものがあればとびついて行く。そして、せかせかと忙しい。インディオの女たちは、毎日つれ立ってかめを持って水をくみに行き、毎日川べりですべってころんで笑うそうである。文明人は、何故滑車をつけて水をくみ上げないのかイライラするが、イライラして不機嫌なのは文明人で、彼女たちはすべってころんで笑い合う事をやめず、毎日機嫌がいいそうである。


***************************************************

これは、今から23年前の1986年(昭和61年)の文章です。現代社会の歪みが問題になるたびに、「今さら昔には戻れない」という言い回しが聞かれますが、これは単に「昔に戻りたくない」という人が多数派であるというだけの理由でしょう。時間が戻らないというならば、これは時間が前方に流れているという前提に立てば当たり前のことを述べているだけで、時間を戻せるわけがありません。これに加えて、昔はもっとゆっくり時間が流れていたと言うならば、これは時間が同じ速さで流れているという前提を破っているわけで、人間のほうで流れる速さを変えていることになります。人間のほうが時間の中を流れているならば、過去が「古き良き時代」となるのは当然のことで、懐古趣味と言って済ませられるほど安いものではないと思います。

中野孝次著 『すらすら読める方丈記』より

2009-11-27 23:51:56 | 読書感想文
p.14~

『方丈記』は昔から冒頭の名文句によって愛されて来た。事実この文章は、口中にころばして味わっていると、まことによく練り上げられた、むだのない完璧な文章であって、これだけで鴨長明の言いたいことはぴたりとこちらの胸に伝わってくる。存在するいかなるものも一つの同じ状態でいることはなく、自然も人事も万物も必ず変化し流転してゆく。無常、すなわち常なるものなしというのが、その宿命なのである。そのことを長明が心の底から真実と信じ、こちらに伝えようとしていることがわかる。

この言葉が昔も今も読む者をうつのは、それが仏典から引いただけのような空疎な観念ではなく、長明が長い時間をかけてみずから見つめ、実感して得たイメージだからである。そして彼が『方丈記』という全体の構想を得、それをどう始めるかと案じ悩んでいたとき、ちょうど音楽家の頭の中にある日とつぜんシンフォニー全体を貫く主要旋律が鳴りひびくように、この言葉が浮かんだのだ、と私は想像する。詩人が最初の一行に達するのも、そういう過程で得るものだからだ。

―― ゆく河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。
この一句を得たとき、長明は『方丈記』は成ったと確信したことだろう。長明は長い長いあいだに自分の目で賀茂川の流れを見つめてきて、この一句を得たのだ。水の流れにじっと見入っている人の横顔は、あまり仕合わせそうには見えない。むしろ孤独で、物事がうまくいかないで鬱屈している人という感じがする。人生を深く見つめようとする心は、しかしそういう状態からしか生れないものだ。物事が万事うまくいって、自信たっぷりで満足していては、人生の省察は生れない。


***************************************************

「すらすら読める方丈記」を読んで、方丈記をわかった気になるのは邪道である。その通りだと思います。そして、方丈記を専門に研究している学者の方々には怒られるでしょうが、そんなもので構わないと思います。「原典を読むか解説書を読むか」の違いは、「解説書を読むか2ちゃんねるで罵倒合戦をするか」の違いに比べれば、微々たるものでしょう。

鴨長明が『方丈記』をどう始めるかと案じ悩んでいたとき、ちょうど音楽家の頭の中にある日とつぜんシンフォニー全体を貫く主要旋律が鳴りひびくように、冒頭の言葉が浮かんだはずである。そんなことは本人に聞いてみなければわかりません。ですので、これもそんなもので構わないと思います。彼は本当は何を言いたかったのか、この段落のこの言葉はどう解釈すべきなのかといった角度の問いは、800年のゆく河の流れの前には、無意味な問いだと思います。

「※ただしイケメンに限る」

2009-11-25 20:51:31 | 実存・心理・宗教
ガジェット通信は、「ネット流行語大賞2009」を11月25日12時に発表。その結果、年間大賞金賞は「※ただしイケメンに限る」となり、銀賞は「どうしてこうなった」、銅賞は「裸になって何が悪い」となった。

「※ただしイケメンに限る」は、はてなキーワードによれば「どんな否定的な条件であろうと顔さえよければそれですべてが解決するという事実を表す言葉」と定義されており、アンサイクロペディアによれば「この世の不条理さを凝縮した名言」と解説されている。


~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

日本国憲法

第11条
 国民は、すべての基本的人権の享有を妨げられない。この憲法が国民に保障する基本的人権は、侵すことのできない永久の権利として、現在及び将来の国民に与えられる。ただしイケメンに限る。

第13条
 すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。ただしイケメンに限る。

第14条
 すべて国民は、法の下に平等であって、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない。ただしイケメンに限る。

第25条
 すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。ただしイケメンに限る。


***************************************************

近代憲法の出発点は、アメリカの1776年の独立宣言、それを受けた1789年のフランス革命での人権宣言、そして1791年のフランス革命の最初の憲法である。近代憲法は、基本的人権の尊重、国民主権、権力分立、平和主義の保障を基本原理としている。アメリカ独立宣言、フランス革命の中の諸憲法で確認されてきたように、近代憲法の制定は、人民が持つ憲法制定権力の発動としてあらわれる。それを憲法の上に人民主権として定めており、立法権よりも重く、その上位に位置づけている。それを憲法学者は「組織された憲法制定権力」と呼んでいるが、憲法制定権力は人民自身が持つもので、それによって憲法を制定するのである・・・

こんなことばかり言っている憲法学者は、憲法制定権力の担い手であるはずの国民・市民・人民から「※ただしイケメンに限る」とのツッコミを受ければ、どうしようもなくなってしまうものと思います。どんなに自由だ平等だと叫んだところで、現在の日本社会では年間3万人を超える自殺者が生まれ、うつ病などの精神を病む人々が増大しています。そして、現実の世界の不自由、不平等の残酷さは、数十年前の判例の研究に余念がない憲法学者によって語られることはありません。学者の述べる国民・市民・人民というのは、それらの人々とは別の抽象的な集団だからです。

「※ただしイケメンに限る」という言葉は下品で大嫌いですが、下品なものほどイデオロギーの欺瞞を暴き出すという現実は認めざるを得ないところです。

映画 『沈まぬ太陽』

2009-11-22 23:56:55 | その他
以前、私の乗っていた飛行機が落ちそうになったことがあります。天候不良だか何だかで着陸が上手く行かず、何度もジェットコースターのように上がったり下がったりして、前後左右の乗客からは一斉に悲鳴が上がり、それでもまさか落ちるわけがないと思っていたところに、何かのトラブルで何がどうしたという機内放送が耳に入って、しかし放送の内容は全く耳に入りませんでした。ひょっとしたらこの飛行機は落ちるのではないか、飛行機が墜落する時はこんなものなのではないか、そりゃそうだろう、落ちるとわかってたら最初から乗ってないよと思った瞬間、再び飛行機が垂直に落ちたようになり、内臓だけが浮き上がって残りの体が下にストンと落ちて気持ち悪くなり、それが数回続いて吐きそうになりました。それにしても、ここで死ぬんだったら吐こうが我慢しようが変わらないじゃないかとの考えがよぎった瞬間、そんなことを考えたら本当にそうなってしまうと思って慌てて否定してみても、もはや他の飛行機ではなくこの飛行機に乗ってしまったものはどうしようもなく、隣の席の友人と顔を見合わせて強がった引きつり笑いを浮かべながら、シートにしがみついていました。

神様、仏様、もし助けてくれるのならばどの神様でも仏様でも信じますと言ったところでどうにもならず、とりあえず機長様を信じるしかなく、何でこの飛行機に乗ってしまったのかと後悔しても、現に自分がこの飛行機に乗っている事実がどうなるわけでもない。死を覚悟するなど全くの嘘っぱちで、まさか落ちるわけがない、自分がここで死ぬわけがない、落ちても自分だけは死なないと思っても、現に自分はこの飛行機に乗ってしまっており、逃げ出すこともできず、時間的にも空間的にもこの一瞬に捕らわれており、そんなことを考えられているうちはまだ墜落していない証拠で、古今東西のどんな立派な理屈も役に立たず、現にこの飛行機が落ちるか落ちないかだけが問題であり、それまでの人生が走馬灯のように思い出される余裕などなく、ただ目をつぶってその時に備え、全身を硬くした瞬間、飛行機は激しくバウンドしながら無事着陸しました。このようにダラダラ書いてみたところで、その飛行機が実際には墜落しなかったという事実の前には、何を言っても緊張感のない結果論になります。墜落するかしないかわからない、その瞬間の心情はどう頑張っても再現不可能です。

昭和60年8月12日の日航ジャンボ機墜落事故を描いたこの映画では、「亡くなられた520名の方々のご冥福」「ご遺族の方々のお気持ち」という台詞が何回も出てきました。ある時は航空会社の幹部から、あるいは現場の最前線で対応に当たる社員から、またある時はマスコミの人々から、それぞれの文脈の中で同じ単語が語られていました。そして、その同じ単語が、ある者からは腫れ物に触るように語られ、またある者からは正義の代弁者の偽善を伴って語られ、もしくは過剰な演技による大声をもって語られ、あるいは筆舌に尽くしがたい現実を目の前にした限界点から絞り出されていました。(これを演じ分けられる俳優という職業はすごいと思います。)全く同じ言葉が、ある時には虚しく表面をすべり、この人は何もわかっていないとの印象を与えるのに対し、ある時は聞く者に深く突き刺さり、この人はわかっているかも知れないとの直観をもたらす。この違いは、つまるところ、「自分はこの事故で死んでいない」「自分の家族はこの事故で犠牲になっていない」という安心感・優越感に対して、どれだけ自覚的であるかという点より生じるのだと思います。それによって、「亡くなられた520名の方々のご冥福」「ご遺族の方々のお気持ち」という言葉が、自由(自発)にもなり、強制(義務)にもなるように思われました。

なぜあの時私が乗っていた飛行機は墜落せず、日航123便は墜落したのか。これはいくら考えてもわかりません。落ちた飛行機に乗っていた人は努力が足りなかったわけでもなく、私が努力をしていたから自分の飛行機が落ちなかったわけでもなく、単なる「運」だとしか言いようがありません。「なぜ墜落したのか」という問いは、多くの場合には科学的な事故原因究明の問いに取って代わられ、現代社会ではこの「運」の問題が正面から直視されることは少ないでしょう。しかしながら、この「運」と格闘することなしには、「亡くなられた520名の方々のご冥福」「ご遺族の方々のお気持ち」という言葉が正確に語られることもあり得ないと思います。私自身、自分が乗った飛行機が落ちるかも知れないと思った時には、財布の中に入っているお札など紙切れであり、銀行に預けているお金など屁みたいなものであり、ましてや生命保険など人間を馬鹿にしたシステムでした。この紛れもない事実を思い起こすたびに、事故で最愛の人を亡くして日々苦しみあえいでいる方々の偉大さ、自責の念と後悔の中でも死を選ばずに生き続けている方々の尊さの前には、社会におけるほとんどの問題は取るに足らないもののように思われてきます。(山崎豊子さんは、この地点から主人公に「会社とは何か」「組織とは何か」という問いを語らせており、やはりすごい作家だと思います。)

福田恒存著 『人間・この劇的なるもの』

2009-11-21 01:08:51 | 読書感想文
★ p.16~

個性などというものを信じてはいけない。もしそんなものがあるとすれば、それは自分が演じたい役割ということにすぎぬ。他はいっさい生理的なものだ。また、ひとは自由について語る。そこでもひとびとはまちがっている。私たちが真に求めているものは自由ではない。私たちが欲するのは、事が起るべくして起っているということだ。なにをしてもよく、なんでもできる状態など、私たちは欲してはいない。

感想: その通りだと思います。


★ p.35~

今日、私たちは、あまりにも全体を鳥瞰しすぎる。いや、全体が見えるという錯覚に甘えすぎている。そして、一方では、個人が社会の部分品になりさがってしまったことに不平をいっている。私たちは全体が見とおせていて、なぜ部分でしかありえないのか。じつは、全部が見とおせてしまったからこそ、私たちは部分になりさがってしまったのだ。ひとびとはそのことに気づかない。知識階級の陥っている不幸の源は、すべてそこにある。

感想: その通りだと思います。


★ p.126~

現代のヒューマニズムにおいては、死は生の断絶、もしくは生の欠如を意味するにすぎない。いいかえれば、全体は生の側にのみあり、死とはかかわらない。が、古代の宗教的秘儀においては、生と死は全体を構成する二つの要素なのであった。人間が全体感を獲得するために、その過程として、死は不可欠のものだったのである。私たちは、死に出あうことによってのみ、私たちの生を完結しうる。逆にいえば、私たちは生を完結するために、また、それを完結しうるように死ななければならない。

感想: その通りだと思います。


★ p.160~

ヒューマニストたちは、死をたんに生にたいする脅威と考える。同時に、生を楯にあらゆることを正当化しようとする。かれらにとって、単純に生は善であり、死は悪である。死は生の中絶であり、偶然の事故であるがゆえに、できうるかぎり、これを防がねばならぬと信じこんでいる。が、そうすることによって、私たちの生はどれほど強化されたか。生の終りに死を位置づけえぬいかなる思想も、人間に幸福をもたらしえぬであろう。死において生の完結を考えぬ思想は、所詮、浅薄な個人主義に終るのだ。

感想: その通りだと思います。

佐野洋子著 『私はそうは思わない』より

2009-11-17 00:04:19 | 読書感想文
p.259~ 「いやあ、わかりませんねェ ―― 小沢正著『こぶたのかくれんぼ』解説」より

私が小沢さんを偉い人だと思うのは、小沢さんは話が一段落すると、「いやあ、わかりませんねェ」という人だからである。話を「わかりませんねェ」というところまで追い込んでゆく人だからである。その時小沢さんは、実にうれしそうな顔をする。わかんないものの前で舌なめずりをしている様に見える。

私たちは「あっ、わかった」などとうれしそうな顔をする。「あっ、わかった」などとうれしそうに叫ぶのは、わかんない事だらけの中に生きている証拠で、わかった事が「事件」にひとしいことだからである。その「わかった」つもりのことも、やがてわからないものの中にまぎれこんでゆき、わからないことがふりつもってゆく。わからない事がうれしくなるというのは、やはり大きな野心を持つことだ。

たとえば、アンデルセンの人魚姫を読むとき、私たちは傷つく。人魚姫が、父と姉たちをすてるとき、美しい海の生活をすてるとき、さらに声を失い、おのれの肉体をすてるとき、愛する王子が他の女を選ぶとき、そして命さえ海の泡となって消えるとき――、私たちは十分すぎるほど傷ついて、はげしい感動を持って「愛」というものを与えられる。物語が終わった時、私たちはアンデルセンの野心を知る。その哀しく美しい童話の中で「愛」を語ろうとしたアンデルセンの野心を。

物語が終わって、私は小沢さんの野心を知る。「わたしって一体 誰なのか」。「ぼくは一体 何なのか」。この途方もない難題の前で、私は混乱する。この途方もない難題を、子供の前にさし出す小沢さんを私は尊敬する。子供をあなどっていないから。子供も哲学する。息子が5歳の時「ぼく、ぼくに始めて会ったのいつ?」ときいた。子供も大人も人であるかぎり、はかり知れない深さを生きている。


***************************************************

社会の具体的なシステムの中では、「わかりませんねェ」という言葉は、ある種の禁句だと思います。お客さんに説明を求められた際に、店員が堂々と「いやあ、わかりませんねェ」と言ってしまっては、社会人失格、プロ失格というところでしょう。学校においての勉強はもちろんのこと、社会に出てからも研修を重ね、専門知識を得て、一人前の社会人となること。そして、自信のない態度を見せてはならず、わからないものについては学習を重ね、時にはわからないものもわかったふりをすること。これが世間で求められる能力だと思います。
 
そして、社会における様々なトラブルは、この「わかっている」ことを前提として起きているようです。「あなたの言うことはわからない」、「何でわからないのか」、「わかるように説明してくれ」。はたまた「説明が違う」、「そんなことは聞いていない」、「そういうつもりで言ったのではない」。この種の争いは、根本には損得を基調とした利害関係がからんでおり、それに職業倫理による正当化が後付けされているため、キリがないと思います。そして、「わかりませんねェ」という言葉を共有している人の間では、この種の争いは起こり得ないはずですが、世間における野心というものが「社会的に成功して名声を上げる」ことの別名である限り、トラブルが絶えることはないと思われます。

ある法律事務所事務員の苦悩 その2

2009-11-13 23:14:57 | 実存・心理・宗教
法律事務所で働いている彼女には、「何となく苦手なお客さん」が数人いた。神経質に細かく質問をし、ほんの少しの失敗でも見逃さない人。口調がいつも喧嘩腰で、揚げ足を取るような質問ばかり返してくる人。異様にお金に細かく、不正な経理をしていないか定期的に調べる人。そんな顧客と弁護士との連絡係を務めるのは、彼女にとってなかなかストレスの溜まる仕事であった。そのような中でも、彼女にとって特別に苦手なお客さんが2人いた。それは、医療過誤で3歳の娘さんを亡くし、病院を訴えようとしている夫婦であった。この夫婦と連絡を取り合う時の苦痛は、他の苦手な顧客に対する時のそれとは、本質的に種類が違った。他のうるさい顧客の場合には、クレーマーという便利な単語を用いて、対象を客体化して向こう側に放り投げておけばいい。これに対して、この夫婦との連絡の際には、彼女の心が内側から責められるような居心地の悪さがあった。そして、この繊細な感情は、次から次へと事務を効率的に処理すべき事務所においては邪魔であった。

その夫婦は、彼女の勤める法律事務所のホームページを見て、「この弁護士にお願いするしかない」と直観的に悟ったとのことである。弁護士が専門の業者に制作を任せたホームページには、「親身になって…」「相談者の立場で…」「綿密にご連絡を取り…」といった言葉が見事に散りばめられていた。彼女は、弁護士がこのホームページの制作に全く関わっていないこと、その内容をろくに読んでもいないこと、現実の顧客に対する視線は全く逆であることを知っていた。事務所の経営者である弁護士は、まずは人の心ではなく、懐具合(財布の中身)を見極めなければならない。これは、弁護士という職業にとって必要不可欠なスキルであり、恐らく全世界の弁護士の99パーセントにとって至極常識的な考え方である。そして、彼女の事務所の弁護士がこの医療過誤の事件を引き受けたのは、報酬の獲得が確実に見込めるからであった。弁護士は事件の内容については全く興味を示していなかったが、病院側の過失がかなりの確率で認められる状況であると知り、先の見通しもなく契約を結んだのである。

彼女が電話を受けると、娘さんを亡くした父親は、いつものように穏やかな口調で語り始めた。契約から3か月も経ち、100万円の着手金も支払ったのに、証拠保全も始まっていない。状況はどのようになっているのか。彼女は「何となく苦手なお客さん」の相手をするうちに、咄嗟の弁解もかなり上手くなっていたが、この時には言葉に詰まってしまった。この両親には、全てを見抜かれている。両親が初めて事務所に来たとき、2人は口々に語っていた。「裁判を起こしたって、裁判に勝ったって、そんなもの何もなりません」。「人生なんて、何をしても無駄なことだと冷め切っています」。「私達は娘の死を受け入れていませんので、娘の死の責任を裁判で争うなんて、変なことをしていると思います」。「でも、何かをしていないと狂ってしまうし、娘のことを忘れて他のこともする気になれないので、今できることは裁判を起こすことだけです」。弁護士は両親の話に逐一頷いており、彼女も横で弁護士の人間としての良心に触れたように感じていた。しかし、契約書を取り交わし、最後に弁護士がポロッと述べた一言によって、両親の顔には一瞬にして暗い影が差し、彼女の心臓は凍った。「少しでも多くの賠償金を取れるように頑張りますよ。そうすれば、私の報酬も上がりますし」。

娘さんを亡くした夫婦が事務所に来所すると、弁護士はいつものように流暢に話し始めた。法律事務所では、弁護士1人あたり、常に100件以上の事件を抱えていなければ経営が回らない。そして、これだけの事件を同時並行で処理する以上、どうしても後回しにせざるを得ない事件がある。誰しも、自分の事件だけは最優先でやってほしいと要求してくるが、それは無理というものである。そして、この医療過誤事件の証拠保全は、それほど急ぐ必要はない。この辺のところは、社会一般の了解事項として、常識の範囲内でご理解を頂きたい……。両親が穏やかな顔で聞き入り、納得したように頷いているのを見て、弁護士は安心したような表情を見せた。彼女は、やはりこの両親には全てを見抜かれていると思った。人間社会の習慣や社交儀礼など、どれもこれも無意味である。ほとんどの人間は、嘘と偽りで塗り固められたこの世間において、自らの感性の鈍感さに気付こうともせず、「社会人」やら「社会常識」やらの概念の周りで言葉遊びをしている。「社会一般の了解事項として、常識の範囲内でご理解を頂きたい」と言われたら、今さら何を反論する必要があろうか。たとえ目の前の弁護士が、自分の高級車の手入れには時間と労力を惜しまず、平日の昼間からゴルフに行っていることを知ってしまったとしても。

一本の電話が入った。過去の依頼者からであり、裁判が終わったあとの弁護士への報酬が支払えず、猶予を願い出る内容のものであった。彼女がメモを手渡すと、彼女の予想どおり、弁護士は夫婦を置いて隣の部屋に行き、電話に出た。その数分後、彼女と夫婦が残された部屋に、ドアを突き抜けて弁護士の怒号が聞こえてきた。「あなた、随分と失礼だねえ」。「日本は法治国家なんですよ」。「3日以内に、耳を揃えて持ってきなさい」。「胃がん? そんなこと知らないですよ……」。彼女は、真っ青な顔をして小刻みに震えている夫婦の顔をまともに見ることができなかった。弁護士が元の部屋に戻り、夫婦のただならぬ様子に気付くと、一瞬「しまった」という顔をした。そして、その場を取り繕うように、いつもの世間話を始めた。「いやあ、先日初孫が生まれましてねえ。女の子なんですよ。まあ可愛くて可愛くて……」。彼女は居たたまれなくなって、用事を思い出したふりをして、隣の部屋に逃げた。その数分後、事務所の玄関から逃げるように出て行く夫婦の後ろ姿を確認すると、彼女は元の部屋に戻った。机の上には、弁護士の辞任届の写しと、100万円の着手金の返還を求めない旨の両親の念書が残されていた。

(フィクションです。)

小浜逸郎著 『言葉はなぜ通じないのか』

2009-11-11 23:57:23 | 読書感想文
p.112~

言語の特性の6番目としてあげられるのは、実体ではないものごと、抽象的な概念を実体であるかのように感じさせる傾向です。何かを言うこと、命題を立てることは、そこで使われている語彙を主題化して固定的に示すことを必ず含みますから、どうしても実体化傾向を免れません。これは、作用やはたらきや関係についての観念でしかないものごとを、そういうものが物理的実体としてあるかのように思わせてしまいます。

「神」や「素粒子」とか「時間」などという概念も、いったん立てられると、この実体化傾向を免れません。そこで、「神は存在するか」とか、「時間とはいったい何か」といった悩ましい哲学的問題が発生して、真剣に悩む一部の人たちが出てくるわけです。「神」という言葉をつくったのはどこかの人間ですから、それをつくった人間自身は、ある世界把握の仕方、みずからの世界感受の志向性をそう呼んだのであって、そういう世界把握をするにとって、神はある「概念」として存在するに決まっています。ある観念や把握の志向性に対して言葉を割り振っておきながら、それが存在するかしないかをあとから証明しようとするのは、考えてみればおかしな話です。

厳密な抽象的思惟、演繹を標榜する哲学にしてからがそうなので、まして私たちの日常的な言語使用では、抽象的な概念を実体であるかのようにもてあそぶ傾向から免れることは至難のワザです。これは、言語のもつ本質的な限界なのです。そんなことを言ったら何も言えなくなるじゃないか、と言われそうですが、事実、この実体化傾向から完全に免れて何かを表現しようなどということは不可能なのです。そこで、いかに免れるかと考えるより、ある抽象的な概念を実体的に用いることで、どういう効能を得られるかと考えるほうが生産的です。観念世界の概念を、物理的な世界のものごとのように説いていくことは、それがうまくいけば強い心当たり感を引き出して、すっきりとさせる、深い納得をもたらす効用があるのだと思います。


***************************************************

上記のような言語の持つ限界を語ってしまうと、世間的な会話のやりとりの中では、ほぼ間違いなく変な顔をされると思います。いったん動き始めた社会の言語システムは、あまりに抽象的な概念の実体化から逃れがたくなっているため、改めて上記のような真実を投げ込むことには勇気がいります。現に、「給料が安い」「残業が多い」「休暇が取れない」といった問題が語られている際に、「『給料』も『残業』も『休暇』も抽象的な概念であって実体ではない」との問題提起をしたところで、変人扱いされるだけでしょう。

しかしながら、この世の中に実際に起きている事実の中には、この言語の持つ本質的な限界に切り込まなければ、どうしても的を外してしまうものもあります。そのような場合には、「そんなことを言ったら何も言えなくなるじゃないか」という地点を経由すること、さらには「『そんなことを言ったら何も言えなくなるじゃないか』と言えていること」に驚くことなくして、お互いに言葉が通じることはないでしょう。上記のような「強い心当たり感」、あるいは「深い納得」というものは、これが生じない種類の言語をいくら積み重ねても生じるものではなく、逆にこれが生じる言語が語られた時には一瞬で生じるものだと思います。

生と死の自己矛盾

2009-11-08 23:27:53 | 時間・生死・人生
裁判所書記官の席は、裁判官よりも一段低く、証言台の目の前にあります。それだけに、証人や被告人の顔色や息づかいを間近で観察することができます。もちろん、他人の心の中を見ることはできませんから、すべては推測でしかありません。ほとんどの被告人は、「二度としません」「反省しています」と述べる時よりも、「寛大な刑をお願いします」「執行猶予の判決をお願いします」と述べる時のほうが、目が真剣で、言葉にも力が入っています。逆に、「法の裁きに従います」「どんな罰でも受けます」と述べる被告人のほうが、自暴自棄になって自らの犯した罪に向き合っていないような場合もあり、被告人供述調書の文字だけではわからないところがあります。前科何十犯の海千山千の被告人を見ていると、どこまでが演技なのか、どこまでが本音なのか、何が何だかわからなくなるところもあります。これに対して、「この人は全人生を賭けて一つの言葉を語っている」と感じる瞬間もありました。そのような場合には、他者の内心の状態は一方的な推測を超えて、確信にまで達することになります。それは多くの場合、犯罪被害者遺族の証言でした。

私が今でも、その言葉が発せられた瞬間の絶望的な表情や声色と合わせて、耳にこびりついて離れない一つの言葉があります。「私の息子は死んでいるのに、私の息子を殺した犯人は生きている・・・(以下絶句)」。これは端的な存在の自己矛盾です。どの犯罪被害者遺族も、法廷で被告人を怒鳴りつけたり殴りかかったりすれば、それこそ大変な問題になってしまうことを知っています。感情的に厳罰を叫んだりすれば、「遺族は法廷に出すべきではない」という理論に加担してしまうことを知り、感情を押し殺し、抑えても止まらない涙を拭いながら証言しています。その上で、「最愛の我が子を殺した犯人が今自分の目の前でこうして生きている」「この手で同じ目に遭わせてやりたい犯人が目の前にいる」という現場に向き合っています。被告人が反省して更生すること、真人間になって出直す可能性を持っていること、それ自体が我が子の死の前には絶望です。そのような状況の中で絞り出され、最後に選ばれた言葉が、「私の息子は死んでいるのに、私の息子を殺した犯人は生きている・・・」というものでした。私はこの証言を目の前で聞き、この言葉には推測の余地がなく、彼女の全人生が乗っていることを無条件で受け入れざるを得ませんでした。生と死の矛盾をそのまま生きている人のみが、その論理の限界において示すことができる存在の自己矛盾です。

生と死の矛盾といえば、これは死刑制度に対する批判の専売特許のようなものです。「国民の生命を守るべき国家が国民の生命を奪うことは自己矛盾である」。「法自体に人の命を奪ってはならないという規則があるのに、死刑制度は自らその規則を破る矛盾に陥っているのではないか」。全くそのとおりでしょう。ここには明らかな矛盾が存在しています。しかしながら、ここで語られている生と死の自己矛盾は、上に述べた息子を殺された母親が示したそれとは種類が違うもののように思われます。そして、このような寸分の隙もない論証によって示された自己矛盾は、具体的な人間の極限的な姿において示された「これが自己矛盾だ!」という瞬間的な確信を呼び起こすことはありません。それは、その矛盾が解消できることを前提としているからだと思います。生と死の矛盾は、その性質上、その矛盾をそのまま生きている人のみによって語り得る種類のものであり、社会科学的な客観性を拒むものです。科学的・客観的な視点からすれば、上の母親の証言など、「特殊な経験をした人が冷静さを失っている状態」以外のものではないでしょう。そして、「命の尊さを訴えるために新たな命を奪う自己矛盾」はあまりに理路整然としすぎて、反論することができません。それと同時に、自ら矛盾を生きていない者が語る矛盾は矛盾ではなく、明らかな矛盾を矛盾として、その解決の筋道とともに論証してしまっているがゆえに、生と死の自己矛盾を捉えていないという印象も拭えません。

最愛の我が子の命を奪われた母親が被告人の目の前で証言し、極限的な言葉を絞り出したこと。制度論としての死刑存廃に関する意思決定の場面においては、このような個々の事実は見向きもされないでしょう。条約に基づく世界の潮流や、犯罪の抑止力についての実証的なデータがグローバルに語られるのみです。また、私が書記官席でこのような証言を聞き、その後もずっと忘れられずにいるという事実も、社会的には何の価値もないでしょう。狭い世界の中で特殊な経験をした者が、その経験を強引に一般化して結論を出しているという程度のものだと思います。しかしながら、「私の息子は死んでいるのに、私の息子を殺した犯人は生きている・・・」という生と死の自己矛盾を端的に示す論理の強靭さが、殺人罪を語る際に見落とされることもまた有り得ないでしょう。この矛盾はどこまで行っても絶望であり、希望に転ずることはありません。そして、この絶望を捉える際には、どんなに立派な文献よりも、現実の法廷における人間の息づかいが有用であり、その極限を知った人間が示す個別が瞬間的に普遍に転じるような場面が不要になることはないと思います。ここにおいては、もはや「人を殺した者の命」と「何の罪もないのに殺された者の命」の等価値性の問題を殊更に強調する必要もないでしょう。自分は他人の人生を生きられず、他人は自分の人生を生きれらない以上、すべての「その人」の人生は取り替えが効かない、これが生と死の自己矛盾であるということで十分だと思います。

中島義道著 『観念的生活』より

2009-11-06 23:54:35 | 読書感想文
p.74~

『存在と無』において、サルトルは『自我の超越』における自我論に変更を加え、人間的自我を遥かに単純な構造である「対自」として呈示した。対自とは、内に「無」を取り込んだ、永遠に自らと合致しない存在者であり、そのあり方を彼は「私はあらぬところのものであり、あるところのものではあらぬ」と表現する。

だが、私とは単に「無」を内に取り込んだ存在者なのではなく、「不在」を内に取り込んだ存在者なのではないだろうか。不在とは単なる無ではない。不在には、不在を認める視点が確保されている。他者が死ぬ時、彼は自分自身にとって無となる。だが、私にとっては単なる不在なのだ。私が死ぬ時、私は自分自身にとって無となる。だが、他者にとっては不在である。ここが、他者の死と私自身の死との大きな違いである。私の死とは、私が無を無として捉える視点、すなわち反省の視点を失うことなのだ。


p.78~

不在としての私を理解することは、不在としての他者、すなわち「他の私」を理解することにも繋がる。なぜ、私は自分で体験したこともないのに、老人の肩を揉んでいて、「痛い!」と叫ぶと思わず手を離し、「ああ、気持ちいい」と言うと安心するのか。嬉しそうな表情、悲しそうな表情の裏に表情そのものではない、嬉しい気持ちや悲しい気持ちを読み取ってしまうのか。この時、私は何を理解しているのか。

言葉は初めから体験と非体験との間を越境する機能を有している。彼が「僕は苦しい!」と叫んでも私は一向に苦しくないという非体験を通じて、私は、私ではない眼前のこの者が体験に貫かれて苦しいことを理解する。その叫び声を聞いて、――私の苦しみから類推して想像上の苦しみを彼に感情移入するのではなく――不在の苦しみを彼の「私」に帰属させるのだ。私は彼の苦しみを不在として理解できる。なぜなら、不在には視点が必要であり、他ならぬ私がその視点を受け持つからである。だから、彼にとって、私は、自分の苦しみを不在の苦しみとして理解してくれる他者である。

こうして、ある者Aにとってある者Bが他者である時、BにとってもAは他者である、という交換律が成り立つ。だから、自分の苦しみを不在として受け止めてくれる他者がいない時、Aは不幸である。彼は他者に自分の苦しみ自体を体験してくれることを望んでいるのではない。それは不可能なことを彼は知っている。誰も自分の苦しみに到達できないこと、それにもかかわらずそれを不在として受け止めてほしいこと、そしてそれを尊重してほしいこと、彼はこのことを望んでいるのだ。

人間が互いに絶対的に隔絶されていること、その意味で絶対的に孤独であること、それは人間である限りすべての人の運命であること、それを他者の眼の中に確認したい。「ああ、わかるよ」という言葉の中に確認したい。その時、彼の孤独は僅かに癒される。


***************************************************

現代社会において、孤独からは一刻も早く解放されねばならないことは、疑い得ない常識のようです。他方で、癒しグッズ、癒しスポット、癒し系音楽などに対する需要も途絶えることがありません。このような社会から半隠遁し、自ら紡ぎだす一言一句にのみ執着している中島氏が「彼の孤独は僅かに癒される」と語るとき、その「僅かさ」の絶望と希望に圧倒されます。