犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

湯川秀樹著 『旅人』より その2

2014-10-10 23:20:09 | 読書感想文

p.131~

 物理学をやるようになってからも、私は仕事が順調にゆかない時など、しばしば絶望的な厭世観におそわれたことがある。ヨーロッパの理論物理学者で、自殺した人が何人もいることを知った。その気持はよく分るような気がした。しかし、私は自分が自殺したいとまで、思ったことはない。

 私の中には、人類に対する、社会に対する、あるいはその社会の構成分子であるところの家族や、知人や、若い研究者たちに対する、責任感がある。この責任感は、人間の空しさとか、社会が必然的に持っている矛盾に対する嫌悪とは、一応別個に存在するらしい。それは「ギブ・アンド・テイク」ではなしに、たとえ受け取るものはなくとも、与えなければならないという義務感のようなものである。

 科学に対する信頼によっても、しかし私の厭世観はとり除けなかったばかりか、むしろ反対に、科学的な自然観の中に、厭世観を裏づける、新しい要素さえ見出すことになった。けれども、そんな心理的な状況下でも私を支えて来たものは、自分の創造的活動の継続の可能性であった。もし、その源泉が枯渇したらどうなるか。私の手の内は、もう切り札を持たないカードの群れである。


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 「事故で亡くなった犠牲者にはどんな夢があった」というお涙頂戴のストーリーは、暗くて湿っぽい現実の行き止まりを打開する一番安易な方法ですが、この虚構の限界は簡単に見抜かれます。多くの犠牲者について、次々とストーリーが連発されると、その生命と死はただの情報となり、中身は軽くなるものと思います。

 この世の中の常として、光が当たるところは誰にも見えやすく、光が当たらないところは見えないものですが、今回の「明るいニュース」によって空気が一変したことは、人間の軽さを見るようで釈然としません。そろそろ悲惨なニュースには飽きてきた頃だったと、そこまで露骨に態度に表すのは下品なことだと思います。

 御嶽山の過酷な状況の中、行方不明者の捜索にあたっている方々は、地位も名誉も求めず使命感だけで現場に向かっているものと思います。この精神はノーベル賞よりも立派である等と言えば、小学生の道徳かと笑われるでしょうが、この逆説的な道徳の基礎が脆弱な社会の精神は、安っぽいものにならざるを得ないと思います。

湯川秀樹著 『旅人』より その1

2014-10-09 23:15:41 | 読書感想文

p.122~

 少年が、当然一度はつき当たるべき暗礁――人生とは何か? という問題を、私に向って提起した者は、たしかにトルストイだった。今では「人生論」の中に、何が書かれていたか、具体的には思い出すことも出来ない。改めて、読んで見ようとの思わない。が、私もまた考え始めたのである。「人生とは何か?」と。

 少年期のこのような思考の第一の段階は、人間には悩みがあると、気づくことである。次には、自分の心の中から、悩みをとりあげて見るようになる。意識的に自分の悩みをとりあげて見る時、その少年は自分の内部だけでなく、この世の中に、この世の中のありとあらゆる人の内部に、悩みのあることに気づいているのである。


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 今回の日本人3氏のノーベル物理学賞受賞について、文系人間の私には青色発光ダイオードの何たるかはチンプンカンプンですが、同じ日本人として誇らしく思います。また、例によって受賞者の謙虚なコメントにも唸らされますし、中村氏だけは歴代の受賞者と雰囲気が異なるのも面白いです。

 しかしながら、今回の「日本列島が歓喜に沸く」「お祭りムード」については、私はとにかく割り切れない思いが強いです。それは、前日までどのマスコミも御嶽山の噴火のニュースに多くの時間を割いていたのが、突如として消えてしまい、まるで犠牲者や行方不明者まで一挙に消えたような感じを受けたからです。

 テレビに映るコメンテーターの表情を見ると、御嶽山のニュースの時には厳しい表情を意図的に作っていたことや、「本当は明るいニュースのほうが楽でいい」という本音が垣間見えて、マスコミが作る世の中の空気は本当に軽くて残酷だと思います。暗いニュースは、今回はちょうど賞味期限切れだったという話です。

(続きます。)

『ひまわりの おか』

2014-03-16 22:53:43 | 読書感想文

※ 東日本大震災の津波により、石巻市立大川小学校に通わせていた子どもを亡くした母親の手紙をもとに作られた絵本です。

p.33~ 葉方丹氏の「あとがきにかえて」より

 ひまわりの丘をたずねるたびに、お母さんたちは、子どものことを聞かせてくれました。涙を流し、時には笑いながら話してくれました。お母さんたちの話は、子どもへの深い深い愛に溢れていました。そして、そのぶん、深い深い悲しみに満ちていました。子を想う母親の心は、果てがないと思いました。そのことを、できるだけ多くの人たちに伝えたいと思いました。そして、お母さんたちが書いてくれた、子どもたちについての手紙をもとに、この絵本をつくることになったのです。

 ひまわりは、日々、大きくなっていきます。お母さんたちは、ひまわりの世話をしながら、ひまわりに語りかけています。きっと、子どもと話しているのです。ネイティブ・アメリカンの人たちは、「この世の中、誰ひとり私のことを思わなくなったら、私の姿は消えてしまう」と信じていました。人は、人を想うこと、人に想われることで、生きていけるのです。お母さんたちは、いつもどこでも、子どもたちのことを想っています。子どもたちは、お母さんといっしょに生きています。


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 「事実が正確に表現されていない」「言葉が不正確である」などと評される場合の問題には、大きく分けて、2つの状況があると思います。その1つは、「客観的事実と言語とが対応していない」という場合であり、実際に体験していない者の議論は伝聞からの想像に陥らざるを得ない結果として、事実の歪曲や隠蔽の有無が争われることになる状況です。恐らく、言葉の不正確性が問題とされて争われる場合の99パーセント以上が、この部分から生じているのだろうと思います。

 ここでの客観的事実とは、紛れもない主観的事実のことであり、本当に我が身に起きた歴史的な出来事であればこそ事実が正確に記せるのであって、ここで客観的事実と言語とが初めて対応するのだと思います。実際に自身に生じた歴史的事実については認識や解釈を巡る議論も起こり得ず、単に体験の有無が決定的な差異を生ずるからです。東日本大震災においても、体験の有無による言葉の温度差は如何ともし難く、温度の低い側はひたすら謙虚になるしかないと感じます。

 他方、上記の問題のもう1つの場合、すなわち言葉の不正確性が問題となる1パーセント未満の場面とは、本当に自身に起きた出来事であるがゆえに正確に書き残すことができず、本当のところは言葉にならないという状況です。人は自分の心の中を言葉にしなければ自分の心の中はわかりませんが、その自分の心の中を正確に言葉にしようとすればするほど嘘を語ってしまうという逆説があります。そして、この沈黙に苦しむ者は、安い言葉の嘘を必ず見抜くはずだと思います。

 人間がこの沈黙の言葉を語ろうとするときには、「詩」「物語」「絵画」といった高度に抽象的な伝達手段を選択せざるを得ないものと思います。言語の限界を知り抜いた者は、広い意味での論理を適切に用いて、正確な嘘を語らなければならないからです。もっとも、これはもとより言葉の不正確性が問題となる1パーセント未満の場合であり、実際に世の中で交わされている膨大な言葉の中で、絶句の深さを伴った言葉はごく僅かだと思います。容易に見つからないと思います。

 以下は、大川小学校の裁判の部外者である私の勝手な願望ですが、原告側の弁護士も被告側も弁護士も、この絵本の言葉を念頭に置きつつ話を進めてほしいと感じます。法律家にとって、絵本など六法全書よりもかなり下に位置づけられ、感傷的な空想と決め込むのが通常のことと思います。しかしながら、この裁判が「安全確保義務」「危険調査義務」といった抽象概念の切り回しの頭脳労働で終わるのであれば、法律というものはあまりに惨めで虚しい言葉の羅列だと思います。

横尾俊成著 『「社会を変える」のはじめかた』より

2014-01-20 22:13:57 | 読書感想文

p.3~

 身近に政治家がおらず、みんなが政治や政治家と少し距離を置いているといういまの状態では、いったいどんなことが起きるのでしょうか。発生する問題の1つは、僕らの「声なき声」、あるいは社会的弱者の意見が、さまざまな決定のプロセスから漏れてしまうということです。届くのは組織力のある各種団体に属している人たちの「大きな声」だけなのです。

 さまざまな環境の変化により、政治が果たすべき機能の一部が発揮されなくなってしまったのに、いまだ多くの政治家は従来型の組織や政治システムの維持に大半の時間を割いています。そして、「声なき声」を聞くことはムリだとあきらめてしまっているように感じます。結果的に社会的弱者の声はどんどん埋もれていきます。そうして、僕らのなかに、一向に「社会が変わらない」もどかしさが蓄積されていくのです。


p.57~

 いちばん問題だと思うのは、政治家の多数派は、「強いビジョンを持った人」ではないということです。ビジョンや理念など持たない政治家のほうが成功するといってもいいかもしれません。国を治めるのに、国民一人ひとりの意見をすべて聞くことなど不可能です。だから、投票で選ばれた“国民の代表”としての政治家が利害関係を調整し、統治を行う。これが「代議制民主主義」の本質です。

 ですが、多くの場合、政治家が代表しているのは、影響力の大きい組織や人、つまり、全国組織を持つ業界団体や労働組合、地元の町内会、自治会長などの声です。高邁なビジョンや理念を掲げるより、この人たちの意見をそのまま汲めば、票がたくさん集まる。そのほうが効率的なわけです。このように、ほんの一部の意見を代表しているのが、現実の政治家という存在なのです。


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 国政選挙は一般庶民から遠いのに対し、地方選挙はより身近であり、この距離関係が動くことはないと思われます。それだけに、国政選挙が「風頼み」「風向き」の選挙であり、その風の影響が地方選挙の結果まで左右していることは、社会的弱者の「声なき声」など届きようがないという状況を示していると感じます。庶民の目の前の問題が切実になればなるほど、身近なはずの地方選挙は無意味になり、切実感を失わざるを得なくなるようにも思います。

 恐らく年金は今後も減額されるでしょうし、医療費の自己負担額も上がっていくでしょうし、少子高齢化の状況では消費税増税もやむを得ず、社会的弱者の「声なき声」は膨らみ続ける一方だと思います。このような状況において、庶民が何とか声を出そうとすれば、地方選挙は飛ばされて国政選挙に向かうしかありません。一番身近なはずの市町村の施策に対しては、特に不満もなければ要望もなくなり、自分の生活とあまり関連しなくなってくるからです。

 私自身、自分の住む市町村から電車で通勤し、その組織でノルマに追われて朝から晩まで働いて疲労困憊し、あるいは別々の市町村から集まってきた同僚との人間関係でストレスを溜め、仕事のトラブルで頭も胃も痛いというときに、「街づくり」「地域コミュニティ」「夢が持てる街」などと駅前で演説されても腹が立つだけです。身近なはずの市町村の選挙が全く身近に感じられず、国政選挙のほうが身近に感じられるというのが、私の偽らざる感覚です。

天野篤著 『一途一心、命をつなぐ』より その2

2014-01-16 22:42:43 | 読書感想文

p.37~

 大げさに聞こえるかもしれないが、困難な手術に立ち向かっているとき、僕の中では患者さんを助けるという一点を通して、自分自身が“世界”と対峙しているような気持ちになっている。できることはやった。やり尽くした。自分と引き換えでもいいから、とにかく命を助けてくれ。世界を相手に、そんな取引をしているような感覚なのだ。

 そもそも、自分がきちんと力をこめて手術をすれば、結果は裏切らないと信じている。これまでの多くの経験を通して、そのことを身をもって知っている。だから、もしここまでやって命を助けられないとしたら、今までやってきたことはいったい何だったのか、自分自身の存在まで否定せざるを得なくなるではないか……。


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(その1からの続きです。)

 同じ頃、私は仕事で医療事故裁判の原告側についていましたが、病院側の激しい主張には胸をえぐられ続けていました。特に、「患者の命を救うことができなかった良心の呵責から事実の隠蔽が生じているのではないか」と原告が述べたのに対し、医師から「良心の呵責なるものは全く存在しない」との自信に満ちた反論を受けたときには、私は自分の考えの甘さや人生経験の浅さを思い知らされるしかありませんでした。

 病院側からは、このような訴訟こそが医療の崩壊を招いているのだとの意見が繰り返され、医療現場の疲弊について原告は勉強不足であるとも指摘されました。これらは、原告を激しい混乱に陥れるものでした。原告は、なお医師という職業に対して尊敬の念を有しており、実際に病院でお世話になった看護師などの方々にも心苦しい思いを有していただけに、訴訟の意義や目的について確信を奪われざるを得なかったからです。

 私はこの状況に直面し、ここで問題とされているのは具体的な過失の有無の一点であり、「本当のことを知りたい」という悲痛な思いのみであることを知りました。そして、これを語ろうとする言葉は必ず筋を曲げられることになり、故に私自身の人生ではこれを受け止められず、客観的に捉えざるを得なくなる絶望にも気がつきました。

天野篤著 『一途一心、命をつなぐ』より その1

2014-01-15 22:40:05 | 読書感想文

p.30~

 手術を通してかかわった患者さんは、大半は元気になった。だが、なかには自分の力が及ばず、助けられなかった患者さんもいる。正直なところ、元気になった患者さんのことはすぐに忘れてしまうが、助けられなかった患者さんのことはいつまでたっても忘れられない。今も亡くなった患者さんの顔が、事あるごとに浮かんでくる。病室や手術前の表情、交わした言葉、残された家族の方々……。

 何をしても、どうやっても防げなかった死もある。当時の医療の限界もあった。しかし、もう少し自分に力があれば防げたかもしれないと思う死もある。もちろん、全力は尽くした。懸命に閻魔さまと闘った。しかし、それでも助けられなかったのは事実だ。敗北の原因を必ず分析して、その経験を今後に生かすようにしている。二度と同じ結果は招かない。絶対に無駄にしないぞと心に決めている。亡くなった患者さんたちのことは、そうやって死ぬまでずっと引きずっていく覚悟でいる。


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 知人の医師が医療事故で訴えられたとき、その心情を詳しく聞いたことがあります。今まで積み上げてきたものが全て崩され、座り込みたくなったとのことです。そして、訴状に綴られた厳しい文字は、彼が最初に医師を志した時にまで遡って全人生を否定し、職業人の誇りを傷つけるものであったと言います。過酷な勤務条件でも患者さんのために尽くしてきたのは何だったのか、もう気力が湧かなくなったとの話でした。

 その訴訟の原告は、「これを機に医療過誤がなくなってほしい」「過ちを認めて信頼される病院や医師になってほしい」との意志でやむなく訴訟を起こしたとのことです。彼は、そうであるならばすぐに訴訟を取り下げるのが筋ではないかと語っていました。ただでさえ多忙な状況の中で、裁判の対応に医師が体力も気力も奪われ、何もかも投げ出したくなる状態を作られれば、むしろ次の医療事故につながってしまうからです。

 私はその話を聞き、ここで真に問題とされているのは具体的な過失の有無ではなく、真相なるものは最初から決まり切っていることを知りました。そして、知人の語る言葉は筋が通りすぎており、彼の全人生や誇りが乗っているが故に私自身の人生とは無関係であり、これを他人事として捉えている自分の薄情な視線にも気がつきました。

(続きます。)

村上隆著 『創造力なき日本』より

2014-01-06 22:01:06 | 読書感想文

p.137~

 世界中、アメリカが唱えた「夢はいつか叶う」を傍受してしまい、ぬるいこと甚だしい。夢なんて叶わない。それが現実です。だから人は念じ、宗教を発足し、祈るんです。芸術は、金持ちの慰みでありつつも、困った人の救済です。

 思い返してみてください。ぼくらが映画館に行くときにどういう気持ちになっているか。すかっとしたい、泣いてみたい、感動してみたい、などと思っているはずです。美術館に行くときは違います。「このアーティストの人生ってどんなものだったのか?」と想像したり、この作品は見たことないけど、「どれくらいの大きさなのかな」などと考えていたりするわけです。

 それで、実際に行ってよかったと思えるいい展覧会は、サラウンディングに作家や作品のことがわかった気になれるものです。みんな、作家の人生、伴侶、時代、そして何より、作家の不幸に期待しているのです。

 不幸にもかかわらず、とてつもない集中力でつくられた美しい作品、荒々しい作品、細かい作品が、その作家の人生の枠をはみ出しているときに感動するわけです。つまりアーティストは不幸と美をエンターテインメント化する道化なのです。


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 精神的にも時間的にも余裕のある者が、他人からの称賛を受けることを前提として造り上げた作品は、恵まれた者の道楽の所産という雰囲気を免れないものと思います。自己満足と自己顕示欲とは、他人の目との関連性においては正反対を向いているようですが、道楽である作品の中には両者が共存しているのだろうと思います。

 一般的には、人間が生存すること自体で窮している環境では文化は生まれず、一流の道を極めるにはそれなりの条件が整うことが必要だと考えられているように思います。しかしながら、芸術作品よりも先に芸術家という職業があり、平凡な人生への嫌悪感があり、その結果として生じる苦労や不幸というものは、方向が逆だと感じます。

 幸福で満ち足りている人には芸術作品などを創る動機がなく、従って、本物の心の闇や狂気が必然的に現れるのが本筋だと思います。そして、ここに逆説的に救済が生じるはずです。ゆえに、芸術家という職業が商品化し、私生活を切り売りすることに価値と羨望の視線が生じるのであれば、これもやはり方向性が反対だと感じます。

 『創造力なき日本』という題名に照らして言えば、現在の日本社会の環境は、創作者の生き様を洞察するには不向きだと思います。すなわち、不幸のエネルギーは心の闇や狂気ではなく、これは芸術の問題ではあり得ず、社会保障などの政策の守備範囲です。そして、この社会で求められているのは癒しであり、「ゆるキャラ」という創作です。

池田晶子著 『暮らしの哲学』より

2014-01-05 22:21:14 | 読書感想文

「不可能な『今年』」  p.185~187より

 「今年の目標」という不思議な観念について、ふと思いました。大人になっても、そういう目標を立てる人はいます。「来年は飛躍の年にしたい」「今年こそは」と、人は言う。ちょうどこの暮れ頃からそれは始まって、年賀状でもそのように宣言し、正月3日間くらいは、自分でもそんなふうに唱えていたりする。「今年こそは飛躍の年にするぞ」。

 しかし、可笑しいじゃないですか。正月3日もすると、そんなの見事に忘れちゃうんですよ。松がとれて、会社が始まって、日常の暮らしが再開されると、いつものように何となく続いていっちゃうんですよ。今年の目標? そんなこと言ったっけ。三日坊主。

 人が「今年の目標」を持ちこたえたためしがないのは、「目標」が立派すぎるためではなくて、「今年」というのが不可能だからだと私は考えます。「今年」というのは、いったいどこに存在しますか。今存在しているどこに今年なんてものが存在しますかね。「今年」もしくは「1年」というのは、明らかに観念だということがわかります。そんなものは、観念の中にしか存在しないものであって、存在しているのは、やっぱり今もしくはせいぜい今日だけなんですね。

 それでも人は、現実が現実のままズルズルと過ぎてゆくのにも耐えられない。それで、1年のうちの最初と最後の1週間以外は完全に忘れているような「今年」「来年」という観念を、性懲りもなく持ち出してくる。そうして、暮れになれば「来年は」と盛り上がり、お正月には「今年こそ」と決意する。そしてまたすぐに忘れる。


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 自分自身でも訳のわからないこのブログですが、いつの間にか7年目に入ったようです。このような駄文を以前からお読み頂いている方には、お礼とお詫びを申し上げる以外にありません。私はこの間、何も成長しておりませんし、世の中の足を引っ張る力すらなく、ただ厭世観と虚栄心の間を動いているように思います。

 無私の精神とは、非常に簡単で、非常に難しいものだと思います。自分の立ち位置を消し去り、普遍的なことや万人に当てはまることを語れば、それはただの他人事です。すなわち、物事の実態を知らない部外者の戯言です。人間の精神の真に迫らず、表面的で浅く、誰の心にも響かない言葉を語るしかないことになります。

 他方で、自分の立ち位置をしっかり持ち、その心の奥底の本音を語れば、その言葉はすぐに普遍性を失ってしまうものと思います。単に個人の狭い経験から語られた言説であり、ごく限られた範囲内でのみ通じる話に過ぎず、無関係の人にとってはどうでもいいということです。「そんな話には興味がない」と言われて終わりです。

 自分を主観的に見ることは至極簡単であり、精神的に余裕がある者の大局観からは人間の息遣いが聞こえず、他人を他人事のように扱って平然としているのだろうと思います。同じように、「木を見て森を見ず」にならないように上空から森を鳥瞰してみれば、地に足が着かず、目線が高くなるだけなのだろうと思います。

内田樹著 『昭和のエートス』より

2013-06-08 00:01:38 | 読書感想文

p.181~ 「記号的な殺人と喪の儀礼について―秋葉原連続殺傷事件を読む」より
(事件の2日後、平成20年6月11日の文章です。)

 個人的経験が人間をどう変えるか、その決定因は、出来事そのもののうちにあるではなく、出来事をどういう「文脈」に置いて読むかという「物語」のレベルにある。例えば、無差別殺人の犯人は、勤務先の工場の更衣室で自分の作業着が見当たらなかったことを「解雇」のシグナルだと解釈した。同じことを自分の勘違いだと思う人もいるだろうし、同僚のいたずらだと思う人もいるだろう。けれども、この人物は選ぶことのできる解釈のうちの「最悪のもの」を選択した。

 「被害者」はどのようなコメントであれ、それが自分にとってもっとも不愉快な含意を持つレベルにおいて解釈する権利をもっている。「現に私はその言葉で傷ついた」というひとことで「言った側」のどのような言い訳もリジェクトされる。これが私たちの時代の「政治的に正しい」ルールである。その結果、私たちの社会は、誰が何を言っても、そのメッセージを自分のつくりあげた「鋳型」に落とし込んで、「その言葉は私を不快にした」と金切り声を上げる「被害者」たちを組織的に生産することになった。

 今回の秋葉原の事件に私が感じたのは、犯人が採用した「物語」の恐るべきシンプルさと、同じく恐るべき堅牢性である。人を殴ろうとしたことのある人なら、他人の顔を殴るということがどれくらいの生理的抵抗を克服する必要があるかを知っているはずである。人間の身体の厚みや奥行きや手触りや温度を「感じて」しまうと、人間は他人の身体を毀損することができない。他人の人体を破壊できるのは、それが物質的な持ち重りのしない、「記号」に見えるときだけである。

 だから、人間は他者の身体を破壊しようとするとき、必ずそれを「記号化」する。そこにあるのが具体的な長い時間をかけて造り上げられた「人間の身体」だと思っていたら、人間の身体を短時間に、「効率的に」破壊することはできない。今回の犯人の目にもおそらく人間は「記号」に見えていたのだろう思う。「無差別」とはそういうことである。ひとりひとりの人間の個別性には「何の意味もない」ということを前件にしないと、「無差別」ということは成り立たない。

 私たちの社会は現実の厚みを捨象して、すべてを記号として扱う術に習熟することを現にその成員たちに向かって日々要求している。それどころか、この事件そのものが私たちに「すべてを記号として扱うこと」を要求している。というのは、私たちは殺された人々のひとりひとりの肖像をいくら詳細に描き出されても、犯行の手順の詳細を知っても、それによっては事件について「何も理解できない」からである。

 この事件について、メディアは被害者の個人史のようなものを紹介し、それがいかに「かけがえのないもの」であるかをパセティック(悲劇的)な筆致で描き出している。けれども、そんなことをいくら知らされても私たちは「この事件について」は何一つ知ることができない。この事件について理解したいと思えば、私たちは「死者たちのことはとりあえず脇に置いて」という情報の操作を強いられる。私たちは記号的に殺された死者たちをもう一度記号的に殺すことに「加担」させられることなしには、この事件について語ることができない。


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 内田氏はこの本の別のところで、メディアの用いる語法の欺瞞性について指摘しています(p.203~)。テレビで社会問題を批判的に論じる全ての人々が共有する、「先取りされた責任放棄」のことです。すなわち、「私はこの事件の発生に何の責任もありません」、そして「この事件が解決しないことにも何の責任もありません」というメッセージです。自分に責任の一端も存在しないことを確認して初めて、問題への厳しい非難が可能となるということです。

 メディアの用いる語法の流布によって、「被害者」という単語は二種類の意味を背負わされるようになったと感じることがあります。内田氏が加藤被告をカギ括弧のついた「被害者」と称し、殺された者をカギ括弧の付かない被害者と称しているのも、その表れだと思います。カギ括弧がつく「被害者」のほうは、被害者であることによって政治的な発言力を増し、弱者であることの特権を振りかざし、望んでその地位に留まるのが通常と思われます。

 カギ括弧のつく「被害者」は、一方では「加害者もまた被害者なのだ」と主張し、他方では被害者意識、被害者特権、被害者面、被害者気取りといった単語で批判を浴びるのが通常です。また、このはね返りによって、カギ括弧のない被害者の絶句と沈黙に対して安易な解釈が与えられることは、恐るべき知性の退廃だと思います。メディアの用いる語法によって、「遺族の恨みの暴走」「行き過ぎた報復感情」といった解釈の枠組みが与えられることは、喪の儀礼を遂行する能力の欠如を示すものだと思います。

 この事件直後の報道は、5年前も5年後も同じように、「将来の夢を奪われた被害者」のお涙頂戴の物語ばかりだったと記憶しています。加害者側の物語に支配されまいと抵抗し、あえて加害者の言い分を語らず、死者側の物語を取り戻すという目的自体は間違っていないと確信しますが、美化された物語はいつも軽薄です。そして、「死者たちのことは『とりあえず』脇に置く」という情報の操作を行い、脇に置いた後は取りに戻るという本来の喪の儀礼は、例によって実現されることがありません。

 内田氏はこの本のあとがきで、今や他罰的な言説は様々なメディアで蔓延し、人性を荒廃させていると述べています。5年前の「将来の夢を奪われた被害者」のお涙頂戴の報道は、当然ながら一過性のものであり、5年経てば見る影もありません。5年前から解り切っていたことだと言えばそれまでですが、5年前に「将来の夢を奪われた」ことに心を痛めた者は、その5年後の将来である現在において「将来の夢を奪われ続けている」ことについて、僅かでも心を痛める義務があるのだと思います。

角川文庫『いまを生きるための教室 死を想え』第1巻 より (4)

2013-06-04 22:28:56 | 読書感想文

養老孟司編 「理科」より

p.144~

 科学のはじまりになるような「簡単な疑問」が、なぜふつうは頭に浮かばないのか。じつは世の中を楽に生きていくには、世の中のきまりを「そういうものだ」と早く思っていたほうが得だからである。野球はなぜ1塁から回っていくのか。3塁から回ったら、なぜいけないのか。そんなことを考えていると、野球は上手にならない。なにごとであれ、「そういうことになっている」と早く思ったほうが、世の中では生きやすい。

p.158~

 化学の実験室では、たしかに物質、つまり「もの」を扱っている。しかしその「もの」は、いわば個性がないのである。水はお湯だったり、雲だったり、お茶の大部分だったり、ご飯の一部だったりする。でも化学はそれが全部H2Oになってしまう。極端にというか、はっきりというか、明確にいうなら、じつは化学で扱われる物質は、記号化されている。ところが解剖は違う。解剖されている遺体には、どうしても個性が残っているのである。

p.160~

 人間をことばで表現すれば、「人間」の一言になってしまう。でも世界中にはたぶん70億の人がいて、それぞれがみな「違っている」のである。そんなややこしいことを考えたら、科学はできない。そう思う人と、そう思わない人がいる。どちらが「正しい」ではない。これこそ人による違い、つまり多様性なのである。だから「一般的、普遍的な原則」を追求するのも科学だが、個別性を追求するのも科学である。


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 科学において、主観と客観は対立するものとして捉えられます。主観はあくまでも人間の頭の中にしかなく、単なる思い込みであるのに対し、客観とは個人とは独立に存在するものであり、誰もが認め得るような一般性を有するものとされます。そして、社会科学においては、個人性・具体性を捨象した客観性を有していなければ、議論の俎上に乗せてもらえないことが多いと思います。

 主観と客観の二項対立においては、「この私」の主観と「他の私」の主観はいずれも主観であるとしてまとめられる以上、間主観性という視点は不要です。従って、主観は単なる思い込みに過ぎないというそのことによって、その思い込みが客観的であることを要請され、そのための策が練られるという陥穽があるように思います。社会科学では自然科学と異なり「正義」が争われる以上、この頭の中の世界同士の衝突はややこしいと思います。