犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

少年法改正の要綱案決定

2013-01-31 22:54:23 | 国家・政治・刑罰

朝日新聞 1月29日朝刊より

 法制審議会(法相の諮問機関)の少年法部会は28日、罪を犯した少年に対する有期刑の上限を引き上げ、下限を新設するなどの少年法改正の要綱案を決定した。少年審判に検察官が関与する範囲も広げており、厳罰化となる。2月8日に法相に答申され、法務省は通常国会に改正法案を提出する方針だ。

 2009年に大阪府富田林市で起きた少年による殺人事件で高校1年の次男を亡くした大久保巌さん(48)は「どこまで厳罰化されても無念を晴らせるわけではないが、成人の量刑との格差が少しでも縮まったことは評価できる」と話した。

 法制審の部会委員を務めた「少年犯罪被害当事者の会」の武るり子代表(58)も、暴行事件で長男を亡くした。検察官の関与が拡大することを「一歩前進」と評価した。有期刑の引き上げについても、「現行法は軽すぎる。厳罰化ではなく『適正化』と言いたい」。

 一方、前田忠弘・甲南大法学部教授(少年法)は「非行少年を保護して育て直し、再び非行に走らないようにすることで社会の安全が図られる。厳罰化でそれが達成できるのか」と疑問を投げかける。検察官の関与拡大についても、「追及されて少年が自分自身を守ろうとする傾向が強まり、本当の反省を引き出しにくくなる」と慎重な見方を示す。


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 何もない場所でゼロから現実に立ち向かうよりも、すでに「問題」となっているものについて賛成・反対論を述べることのほうが、数万倍は簡単だろうと思います。例えば政権が取れる見込みのない万年野党や、選手にスタンドから野次を飛ばしている観客や、ある出来事の断片のみから憤りや正義感を表明できるコメンテーターは幸せだと思います。好き勝手なことを言ったところで、その本筋の問題について自分が責任者として批判の矢面に立たされることがなく、身の破滅に至る危機感を生じることがないからです。

 人が世の中で生き残るということは、大小の組織の影響を受けつつその力関係に翻弄されることであり、問題を「他人事」にして生きる保身術の獲得の過程だと思います。いわゆる正論が虚しいのも、その論理が修羅場のど真ん中で精神を疲弊させつつ語られたものではなく、結果論や後知恵によって理路整然と構成されたものだからです。自分の身に危難が及ぶ立場に置かれたときに本当に役に立つのは、誰もが認めるところの正論の理屈ではなく、逃げ隠れする才覚ではないかと思います。

 私自身は現在、上記のような巧妙さの支配する論理に浸かって生きているだけに、「その人生を生きてしまっている方々」や「逃げ場のない人生を全身で生かされている方々」には絶対に頭が上がりません。人が精神の限界の限界に追い込まれ、言葉を失った先で捉えた言葉については、その行間の沈黙と絶句を捉えるしかないと思います。他方で、すでに「問題」となっている争点について客観的に近づき、当事者の声に「疑問を投げかける」「慎重な見方を示す」という形で反対論を述べる者に対しては、私は軽蔑の念を覚えます。

 刑罰論に関する報道は、現在ではほぼ形がほぼ決まっており、それが思考の形や問題の構造をも規定しているように感じます。すなわち、「自分の経験だけで語る被害者遺族」と「広く文献に精通している有識者」の対比、あるいは「知識のない素人」と「権威ある大学教授」の対比です。感情と理性の二元論と言ってもよいと思います。新聞が記事の最後の部分で大学教授などの権威の意見を紹介することは、客観性を装った新聞社の主観の表明であり、一種の印象操作であるとの話を聞いたこともあります。

 不回避的な苦悩の中で自由意思を奪われて必然的な論理を獲得することよりも、安全が保障された場から自由意思に従って意見を述べることのほうが、数万倍は簡単だろうと思います。また、「可哀想に」という上から目線や、「自分は違う」という安心感や、「自分はああはなりたくない」という希望や、「自分はそうならないだろう」という根拠のない自信などの心の奥底の感情を放置しつつ、客観的な論評をなしうる立場が保障された者は幸せだと思います。

為末大著 『走りながら考える』

2013-01-29 22:34:14 | 読書感想文

p.60~

 頑張れば夢は叶う。この言葉を突き詰めると、夢が叶ってない人は全員、頑張っていないか、あるいは頑張りが足りないということになってしまう。やればできる。頑張れば手に入る。始めのうちはその言葉を胸に頑張れるけれど、そのうちに、どんなに頑張ってもどうにもならないものに出合ってしまう。

 「やればできる」という姿勢は、結果責任が個人の努力に向かいやすい。子どもは敏感だからそのカラクリにすぐに気づき、本音で夢を語ることを嫌がるようになる。本音で夢を語った瞬間、それが叶わなかったら「お前の努力不足なんだよ」という批判が飛んでくるのを知っているからだ。


p.77~

 誤解を恐れずに言えば、世の中の人はほとんど1番にならないのだと思う。勝ちと負けという図式を冷静に見ると、金メダリスト、つまり1位以外は全員敗者とも言える。どうしてもつきまとう期待や希望、願望を思いきって排除して現実を現実のまま見つめることは、緩やかな挫折に近いと思う。人生は、その緩やかな挫折を受け入れることであり、人生、最後は「負け」で終わる。


p.174~

 自分の競技人生がいつか終わると強く意識した日から、目の前の景色が変わって見えた。特に父の死が伏線となって、命の終わりを経験したことも大きかったと思う。会社員の65歳に比べ、アスリートの引退はずっと早い。セカンドキャリアを考えれば人生を二度、三度と生きる感じだ。嫌でも早いうちに自分の「死」を迎える。


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 「夢は叶わない」「努力は報われない」という命題の説得力が、単に逆説による反作用によるものであれば、これはルサンチマンの表われに過ぎないと思います。これに対して、化け物のような体力と精神力によって勝負の世界を生き、他人を蹴落とし、自分も蹴落とされてきた人物による言葉からは、逆説ではない真実が感じられます。

 スポーツ選手の競技人生は短く、引退が第二の人生の始まりであれば、その瞬間に第一の人生は「死」となります。頭だけで考えられた理屈と異なり、全身で生きた結果として残酷に勝ち負けが分かれた者の言葉は、その嘘が自分自身に向かう分だけ第三者の解釈を拒むように思います。自分の体を限界まで追い込んだ結果として知られる限界は、「自分」と「自分の体」を分けた上での統合を強いられるものだと思います。

アルジェリア人質事件(2)

2013-01-27 23:03:37 | 国家・政治・刑罰

 いかに世界がグローバル化しようとも、人が富や名誉や幸福の無意味さを知るとき、やはり言葉を求めるしかない。これは、人生の真実を語る言葉のことである。この言葉とは、日本語や英語といった言語の種類のことではなく、世界は言葉であり、言葉が世界を創っているという意味の言葉である。そして、そうであるにもかかわらず、このような言葉を語ろうとすると、人は言葉の裏側に出てしまう。他人からその言葉を聞くことができないのみならず、自分でその言葉を語ろうとすると語れない。真実を語った傍から嘘を語っていたことに気付き、愕然とさせられる。

 人が真実を語る言葉を語ろうとして語れないとき、その語ろうとして語れないところの言葉を語ろうとする役割を担うべき学問は、本来は哲学を置いて他にない。これは、大学で習うような哲学のお勉強や、ましてや学者と学者の論争ではなく、単に「自分で考えるより確実なことはない」という学問のことである。そして、本当の意味で考えるということは、生易しいものではない。研究室内でのお勉強は、「犠牲者の遺体を乗せた政府専用機が羽田空港に到着し、家族らは無言の帰国をした犠牲者と悲しみの対面を果たした」としか言葉で表現できない現実を前にして、それ以上の言葉を語ることができない。

 人が人生の全てを懸けて何かを考えざるを得ない場合、そこには社会問題や国際問題は存在しない。全ては自分の人生の問題である。そして、この部分を嘘のないように言葉で語ろうとすると、その言葉は嘘になる。話そうとすると嘘を話しており、書こうとすると嘘を書いている。もどかしい。伝わらない。書いては消して、書いては消して、自分の気持ちを書いたと思って読み返したら嘘で、結局は書けなくなる。ここを世間の常識に訴えても、優等生の面白くない答えが返ってくるだけである。綺麗事はいくらでも言葉になり、言葉にならない言葉は綺麗事に圧倒される。

 この世の中で生活するということは、世の中の問題相互間の矛盾関係を見ずに、縦割りの論点主義で処理し、「それとこれとは別問題だ」として先に進むことである。実際の生活において、限られた時間と空間に生きる人間の頭脳は、この手法を会得しておかなければ混乱を極め、逆に思考停止する。恐らく、グローバルな国際社会における生身の人間の限界は、この部分である。世の中の大多数の人は、私も含め、適当に周りを見渡して他人の真似をし、多数派の価値観を横目で見ながら、自分で考えているつもりになっている。私は、本物の哲学者になることを強いられた犠牲者の家族に頭が上がらない。

アルジェリア人質事件(1) 

2013-01-25 23:31:40 | 国家・政治・刑罰

 アルジェリアという国について私が初めて習ったのは、確か中学校の地理の授業だった。アフリカ大陸の国境は直線的に引かれているところが多く、これはヨーロッパ諸国がアフリカを植民地化した際の名残りであることを知った。白人による土地の奪い合いの結果、アフリカの民族の文化などが一切無視され、物差しで引いたように土地が分けられたことにつき、私は単純に憤っていた。私はその時、「国」は人間が生み出した概念に過ぎないことに気付いていなかった。また、山脈や河川などに沿った曲線的な国境線であっても、やはり縄張り争いによる人為的な線であることにも気付いていなかった。

 高校の現代社会の授業では、1年間テーマを決めて自分なりの評釈を加えるという課題が出された。私はこの課題を通じ、社会的な事件から意味を見出すという姿勢を学んだ。そして、何らかの意味を見出せる視点は優れており、これを見出せない視点は劣っているという結論に至った。私はその頃、大事件の報道の際に「命を奪われた無念を思うと言葉がない」「ご家族の気持ちを想像すると胸が締め付けられる」といったコメントを聞いては、国や社会のレベルで問題を捉えないで何の意味があるのかと本気で腹を立てていた。その時私は、国や社会は人間の集まりの別名であることに気付いていなかった。

 私は大学院で刑事政策学の論文を書き、テロ犯罪についても堂々と自説を展開していた。世間知らずの学生は、この論文を書きながら脳内で世界を支配していた。私の論文には、国際捜査共助法、国際刑事警察機構(ICPO)、国際司法共助といった単語が並び、それなりの体裁を整えていた。この種の論文は、最後は「強制捜査の必要性と人権とのバランスについて国際的な議論を深めて行かなければならない」で締めるのが通常であったが、私は「テロ組織に対しても人命の重さを粘り強く訴えて行くことが大切なのである」と締めくくって、高い評価をもらった。その後、私は自分では何1つ訴えていない。

 一昨年の東日本大震災の直後、日本中から犠牲者の冥福を祈る声が聞かれた。私はこの声を聞きながら、今後数年の間に、冥福を祈っている側も、自分自身も含めて、思わぬ時に思わぬ形で冥福を祈られる側になることが確実であるという事実に気付いて悄然とした。そして、他人の冥福を祈る限りで他人の死は他人事であり、東日本大震災直後の犠牲者の冥福を祈る瞬間にはその先のことはわからないという現実をも突きつけられた。また、その現実が実際にそうなってみると、「実際にそうなった」としか言えず、現実はそうであるしかないという現実を突きつけられ、私は引き続き悄然とするしかなかった。

(続きます。)

悪質運転の厳罰化原案 法務省が公表

2013-01-20 22:41:29 | 国家・政治・刑罰

朝日新聞 1月16日朝刊より

(記事本文より)
 無免許、飲酒後のひき逃げ、病気による事故……。各地の悲惨な交通事故の被害者遺族が強く求めてきた厳罰化が、具体的な形になってきた。法制審議会は2月にも法相に答申。法務省は通常国会に改正法案を提出したい意向だ。
 栃木県鹿沼市で11年4月、クレーン車ではねられて児童6人が死亡した事故の遺族代表の大森利夫さん(48)は、中間罪の対象に病気が加えられたことに「病気の人が自己管理をしっかりできるきっかけになれば」と期待を寄せた。中間罪の刑の上限が懲役15年とされたことには、「子どもたちの命が軽く見られたような気がした」と肩を落とした。 

(解説より)
 危険運転致死傷罪が導入された際、国会で「不当に拡大、乱用されないように」という付帯決議がついた経緯があり、要件の拡大には慎重にならざるを得ない面もあった。立法に向けて困難もある。「中間の罪」の具体案をみると、危険運転致死傷罪との違いが分かりにくく、捜査や裁判では混乱が予想される。

(池田良彦・東海大教授(刑法)の話)
 新設する中間罪は、厳罰化を求める切実な被害者感情に応えようとしたものだろうが、裁判所が事実認定をめぐって混乱しないか心配だ。飲酒運転による事故の場合、現行の危険運転致死傷罪が定める「正常な運転が困難な状態」と、中間罪の原案にある「正常な運転に支障が生じるおそれがある状態」は、きちんと区別できるのか。


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 「悲惨な交通事故の被害者遺族が強く求めてきた厳罰化」、「厳罰化を求める切実な被害者感情」といった定型的な言い回しを聞くと、裁判の現場を見続けてきた私としては、直観的に「何かが違う」と感じます。ある現象を語る際に使用される単語は、その選択自体が構造を先取りしますが、「遺族」「厳罰化」「不満」「ハードル」といった用語は、どこかから借りてきたような安易さを伴うものです。これに対し、「子どもたちの命が軽く見られたような気がした」といった言葉は、人間の精神の限界を経て選び抜かれており、語られている世界が違うと感じます。

 法制度や裁判は、一方では社会の進歩・発展と歩調を合わせるべきものであり、他方では客観的・科学的でなければならず、いずれにしてもその場に死者は不在です。「死者が戻らない限り解決はあり得ない」という論理は、裁判制度の実務とは噛み合わないものと思います。その結果、当事者がいかに拒否しても「被害者遺族」という肩書きが使われ、それが主語として「不満を解消するための政治的主張をする人々」との立場を与えられ、ステレオタイプに押し込められ、圧力団体の構成員のような扱いを受けるのだと思います。

 私自身、法律実務に携わっている者として、法律は人間社会の必要最低限の枠に過ぎないと感じます。普段から法律の条文の文言を意識して行動している人は皆無であり、人は法ではなく常識に従って善悪の判断を行っており、法に頼らずに生きています。「人の命を奪うような危険な運転をしてはならない」という結論は、もともと人間の内側における善悪の基準に従って導き出されるはずだと思います。法律にわざわざ決めてもらわなければ命の重さがわからない人間で構成される社会は、あまり理性的なものではなく、品がないと感じます。

 法は道徳の最小限であるという命題は、刑法の謙抑性や自由保障機能との関連で捉えられ、「客観的かつ冷静な裁判」と「素人の厳罰感情」との対比で捉えることも一種の固定観念になっているようです。しかしながら、「法に罰せられるから止める」ということは、「危険な運転をして人の命を奪いたくない」という内的欲求ではなく、「罰せられなれば構わない」という損得勘定に基づいています。事故を絶対に起こさないという基本の部分を離れて、裁判所の混乱や乱用の懸念が主争点として論じられる世の中は、あまり良い世の中ではないと思います。

 「正常な運転が困難な状態」と「正常な運転に支障が生じるおそれがある状態」がきちんと区別できるのかと言われれば、常識的に区別は難しいと思います。しかし、いずれの状態であろうと人の生命を奪う危険性が高まり、そのような状態で車を運転してはならないという善悪の判断が論理的に先に来るべきものである以上、この区別の議論は最初から転倒していると感じます。悲惨な交通事故がなくならないことを前提としつつ、厳罰化に反対するのであれば、同時に「人命は第一ではない」との思想を表明しなければ無責任だと思います。

阪神・淡路大震災 18年

2013-01-17 00:02:58 | 時間・生死・人生

 災害の経験を人々が語り継がなければならないのは、それ自体の論理の必然性だと思います。阪神・淡路大震災で語られた体験談が、その後の災害の際に役に立ったのかという科学的な分析は、真に語るべきところの人間の心の奥底の部分を消してしまうように感じます。人は天災の発生を防ぐことができず、新たに起こった震災が以前の震災の記憶を風化させる作用を有する中で、人は共通の部分である必然的な論理を語るしかないのだと思います。

 阪神・淡路大震災の際も、中越地震の際も同じだったと記憶していますが、東日本大震災に際しても、新年を迎えると「今年は復興が進むことを願う」という言い回しが聞かれます。しかしながら、復興という概念を正確に用いるならば、年単位の区切りは不可能であり、「来年も、再来年も、それ以降も恐ろしく長い年月をかけて復興が進む途中である」と言うしかないと思います。年初の定型句からは、震災を過去のものにしたいという意味での前向きさがどうしても出てしまうように感じます。

 18年の時の経過は、一般的には、「時が悲しみを癒してくれる」「時間が一番の薬である」という社会通念で語れることが多いと思います。しかし、他の人間が代わることができない個人的な経験において、社会通念は全く無意味だと感じます。時薬が効くか効かないかは人間の感情の面の話ですが、論理の面では理不尽なものが理不尽でなくなることはあり得ないはずです。これは、例えば1+1が2であり、2×3が6であることは、18年経っても変わらないのと同じことだと思います。

森岡正博著 『生者と死者をつなぐ』

2013-01-14 22:03:45 | 読書感想文

p.182~ 「不幸になる自由」より

 私は、以前に書いた本の中で、脳を操作して完全な幸福感を生み出すことのできる薬が登場したら何が起きるのかについて考えたことがある。たとえば、子ども連れの親が道を歩いているときに、子どもがトラックにひき殺されたとする。親は狂乱のあまりパニック状態となるだろう。

 そのときに、この薬が処方される。すると、親の心からは、子どもを喪った苦しみが消え失せ、幸せな気持ちが湧いてくる。目の前でわが子をひき殺されたにもかかわらず、幸せな気持ちに満たされた親という存在を、この薬は生み出すことになるのである。「今日はわが子が殺されたけど、私はハッピーなんだよ」とにこにこしながら言う親を生み出すのである。

 直観的に言って、このような状況に置かれた親は、なにか人間としてのとても大事なものを奪われてしまっていると考えざるを得ない。すなわち、わが子が目の前で殺されたときに、それをこのうえなく悲しく苦しく受け入れがたいこととして実感する自由というものを、その親は奪われているのである。そこには、「不幸になる自由」というものが奪われているのである。

 もちろん、人間は誰しも幸福な気持ちに満たされたいと思っている。幸福になることは、人間が生きるうえでの最大の目標であるとも考えられるだろう。だがしかし、いま述べたような状況に陥ったとき、いくら薬を使って幸福感が得られたとしても、それを人生のもっとも素晴らしいひとときだと考えることはきわめて難しい。

 それはなぜかと言えば、不幸になる自由が保障されていない生は、そのもっとも深いところにおいて自分の人生が自分以外のものによって支配されているということになるのである、その状態はけっして尊厳ある生とは言えないからである。そしてここでいう「自分以外のもの」とは、薬によってただひたすら湧き上がってくる幸福感のことである。

 尊厳ある生とは、「私は幸福な気持ちに満たされていたい」というどうしようもない本性に突き動かされながらも、同時に「不幸になる自由」をみずから選択する可能性がつねに保障されているような生のことである。人をただひたすら幸福感で満たしてしまう薬は、この可能性を強制的に閉ざすがゆえに、人から尊厳ある生を奪い取ってしまうということなのだ。


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 私は裁判所の刑事部に勤めていたとき、上記の薬を処方されたような親を何人も見ました。これは、子どもが邪魔になって虐待や育児放棄をし、傷害致死罪や保護責任者遺棄致死罪で逮捕・起訴された親です。法廷では「子どもに申し訳ない」との涙の懺悔がなされ、それが「私は子どもの死を認めない」「我が子を死なせるつもりはなかった」との自己弁護に結びつけられ、「検察官は我が子の敵である」として激しく争われていました。また、「子どもを喪った哀しみのうえに何年も刑務所から出られないのは二重の苦しみである」として、ほぼ間違いなく控訴されていました。

 私はこのような裁判に自ら携わり、いつも「やり切れない」「救いようがない」との気持ちを味わっていました。そして、このような親ばかりになれば人間社会は終わりであり、人は我が子の死を哀しまなければならないとの怒りを覚えていました。しかしながら、育児の大変さに理解を示す社会の主流は、「親だけを責めても始まらない」として親にも同情を示し、より広く社会全体の問題として論じるのが通例です。私はこの議論の流れにおいて、逆縁の哀しみが人間の最大の哀しみであるならば、人類はこれを克服してしまったのではないかとの感を持ちました。

 他方で、私は裁判所の刑事部に勤めていたとき、上記の薬を処方されていない親を何人も見ました。これは、事故や事件で我が子を奪われた被害者の親です。法廷では、「一生立ち直ることはない」「乗り越えられるわけがない」との証言がなされ、私はその度に心を深く抉られていました。我が子を虐待死させたうえに自己弁護の涙を流す親が「救いようのない」ものであれば、我が子の死の苦しみに涙も出ない親の言葉は「救いのない」ものでした。私がこのような2種類の親に接するとき、人間の最大の哀しみであるはずの逆縁をめぐる思考は混乱しました。

 私は、我が子の死よりも懲役刑の長さに苦しむ親の姿を見て、このような親ばかりでは人類は終わりであり、人は我が子の死を哀しむべきだと怒っていました。我が子の死を哀しむのが人の道であり、正義であるとの確信があったからです。ところが、実際にそのような親を目の当たりにすると、私の本心は、「何とかならないものか」「人としてこの不幸を救う方法はないものか」との方向を示しました。そして、その答えは、子どもを虐待して死なせた親の功利的な生き様の中にありました。私は、究極の矛盾に直面し、答えられず、1人でうなだれていました。

大阪市立桜宮高校 体罰自殺問題 その2

2013-01-12 23:47:29 | 時間・生死・人生

 体罰の是非が論点として据えられると、論争は極端に陥りがちだと思います。そして、論敵の犯す誤りについて心底から怒り、相手を力ずくで屈服ようとして吐かれる言葉は、かなり暴力的かつ破壊的であり、語るに落ちていると感じます。私も自分の経験から語るしかありませんが、「感情が抑えきれなって思わず手が出る」「暴力の余勢を駆って言葉で畳み掛ける快感は病み付きになる」といった人間の心情はコントロールできませんし、人が他者の人格を否定し尽くした際には、もはや暴力の行使は不要になっていると思います。

 権力を伴う暴力の問題は、今や学校現場の体罰のみではなく、大人社会のパワハラや夫婦間のDVの問題が非常に厳しいと思います。言葉の暴力と身体的な暴力の組み合わせが加速度的に破壊力を増すことや、立場の強弱に伴う受動性において投げつけられる不快感の暴力性や、それを受ける人間の一瞬における精神の凝縮された限界点は、年齢によってそう変わるものではないと思います。例えば、ブラック企業における社員の過労自殺は、長時間労働による疲労と暴言による虚脱感の複合の限界点に生じるように感じます。

 人はかなり簡単に「生きたくもないが死にたくもない」という心境に達し、それが「生きていたくない」という心境にまで至るものと思います。これは、「死にたい」という積極的な意志ではなく、単に「死にたくない」が「生きていたくもない」を上回っただけという話であり、主題は本人の人生ではなく、世の中のほうに委ねられている状況だと思います。すなわち、「この世界は生きるに値する場所か」という問いに対する答えです。さらには、生身の人間にとってのこの世界は、自分の周りに広がっているしかないものだと思います。

 本来は恐怖であるはずの死が望まれる状況を捉える際には、その原因が社会的にいかなる理由によるものであっても、「生きていたくない」と思う側に視座を移さない限り、煩瑣な分析と類型化がなされるのみだと思います。「この世界は生きるに値する場所である」と言うとき、世界は単に人間の集まりの別名であり、その人間のうちの1人が自分であり、自分が消えればこの世界は消えます。ところが、自分の存在を手段として扱う他人の権力が絶対的であるときには、自分が消えても、この世界は消えないのだと思います。

(続きます。)

大阪市立桜宮高校 体罰自殺問題 その1

2013-01-11 22:53:07 | 時間・生死・人生

時事通信 1月10日 配信記事より

 大阪市立桜宮高校2年のバスケットボール部主将の男子生徒(17)が顧問の男性教諭(47)から体罰を受けた翌日に自殺した問題で、男子生徒が自殺前日、家族に対し「顧問から30~40回殴られた」と明かしていたことが10日、市教委への取材で分かった。

 市教委は体罰の具体的な回数について、家族から聞いて把握していたが、これまで「数回たたいた」とする顧問の説明だけを公表していた。市教委は今月8日以降、顧問の説明のほか、「いっぱい殴られた」と男子生徒が語ったことは明らかにしていたが、両親から聞き取った具体的な回数などについては一切言及していなかった。 


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 私が以前に担当した裁判で、体罰の件ではないですが、自殺の前日に殴られた回数が細かく問題になっていた件がありました。「二十数回殴られた」という部分は一致していましたが、それが21回なのか29回なのかが判明せず、結論を左右する大問題だとして法廷で激しい言い争いになっており、私は組織人の義務に従って粛々と職務をこなしていました。その後も、精緻な医学の知識と法律の論理は、重箱の隅にはまると抜けられず、議論はあらぬ方向に行き、政治的な立場の争いに落ちることを思い知らされています。

 死者自身がいない場所で繰り広げられる「証拠による過去の客観的事実の確定」は、生き残った者同士の争いである以上、死者の意志は徐々に無視されることになるものと思います。人は物理的暴力ではない言葉の暴力のみで死を求めるものであり、他方で物理的暴力があっても言葉によって死を求めなくなるものであり、その暴力と言葉の組み合わせによる破壊力は、その人の心の中でしか起き得ないものです。暴力の内容を細かく問題とし、他方で言葉の「言った言わない」を別に問題とすることは、死者の側から見れば無意味な作業に尽きるものと思います。

 ある人の自殺という事実を捉える際に、本人以外の者を主体に捉える限り、本来的に「死人に口なし」以外の結論には至らないだろうと思います。「死にたくない」という本能が自分の身を守ろうとし、その本能によって自分自身を殺し、その結果として死に追い込まれたという事実の解明は、その本人が存在しない以上、世間の常識における実益がありません。他方で、生きている人間であっても、その時のその気持ちはその時限りであり、「死にたいと思った」という気持ちについても、文字にして残そうとすればするほど嘘しか書けなくなるものと思います。

 行き場のない議論は、正義感の強い者によって、マスコミでもネットでも悪者探しが行われるのが通常だと思います。体罰が問題の核心であるとなれば、正義によるバッシングは鬼の首を取ったように高揚感を帯びたものとなりますが、その怒りはあまり上品なものではないと感じます。そのような怒りは、例えば電車が人身事故で遅延したとなれば、「死ぬときくらい人に迷惑を掛けないで家で勝手に首を吊ってろ」という怒りを生みがちであり、人の死がその都度恣意的に利用されていると思うからです。

(続きます。)

S・逸代著 『ある交通事故死の真実』より (5)

2013-01-08 23:35:54 | 読書感想文

名古屋地方裁判所への意見陳述より

 弁護士からの手紙などは、和解を急ぐためのものとしか受け取れませんでした。事故後8ヶ月もたってから、紙切れ一枚に何事もないように、娘の命の値段を並べていたのです。誠意のかけらもありません。切なくて苦しくて思わず、クシャクシャに丸めていました。それら、今までの行動、言動を踏まえて、私達は被告のどこに、真の誠意、謝罪を感じる事が出来るのでしょうか。全ては自分の罪を軽くするための行為なのです。

 子供を思う親の気持ちは一緒だと思います。娘を守りたいという、被告の両親の思いが理解できないわけではありません。しかし、どんな理由であれ、一人の大切な命を奪った事実は変わりません。であるならば、「青だと思った」と言う、青の部分に固執するのではなく、だと思ったという不安定な部分を掘り下げ、現実を真摯に受け止め、今もっともすべき事は何であるかを、同じ親として適切な助言、指導するべきではなかったかと思います。

 保険会社や弁護士のうがった助言により、被告が真の謝罪を述べずに来たとしたら、まったく愚かな行為と言えます。被告の大人になりきれない思考に加え、被告の周りに、的確な助言が出来る大人がいなかったと理解しなければならないことが残念です。前回の公判でも、情状酌量を求める嘆願書を提出していた驚愕の事実を知りました。虚偽を働きつづけ、月命日に線香の一本をあげることなく過ごし、何をどのように捕らえての情状酌量なのでしょうか。

 いつまでたっても、真摯に現実を受け止める事は無く、まったく人事で、運が悪かったと言う思いなのです。永久に同じことの繰り返しです。たとえ過失という言葉で片付けたとしても、ひとつの尊い命を奪った事実は罪です。罪を犯した、犯罪には変わりありません。事故に居合わせた全ての人、その人を取り巻く人々の人生を狂わせた罪もあるのです。現実から逃げるのではなく、事実を捻じ曲げるのではなく、真摯に受け止めて欲しいと思います。


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 私が裁判の現場で経験してきた「表と裏」の二元論のベクトルは、私が日々感じている「世の中の表と裏」とは全く逆であり、被害者は一貫して裏側、マイナスの側に置かれていました。「明と暗」「前進と後退」という二元論の構造において、能動的である加害者と受動的である被害者の位置づけは決定的であったと思います。

 罪を犯した後でも保身に走ってしまう人間の弱さや悲しさを前提として、謝罪して立ち直ろうしている加害者については、未来への希望が前提とされています。これに対し、被害者については、憎しみと恨みに捕らわれ、自身の心も醜くしているとの固定観念が圧倒的です。世の中の「裏」の真実が「表」の真実を力でねじ伏せる場面だと思います。

 誤判を防ぐための証拠裁判主義は、人間の「裏」の真実を前提としています。人は自己弁護と保身のためには、あらゆる手を使って証拠を隠滅し、屁理屈を考え、他人を陥れ、罰から逃れようとするものだからです。そして、人間のかような欲望と、これを取り締まらなければならない法制度が対立する限り、誤判は論理的になくならないと思います。

 人間の本性が露わになる場面では、献身的な人物は腹黒い人物に上手く利用され、心を折られて精神を病みます。そして、裁判という究極の場面は、人間の本性が最も端的に現れる以上、このような裏の真実に支配されることになるのだと思います。「裁判制度は被害者のためにあるのではない」という原則は、この人間の汚い部分を端的に体現しているように感じます。

(続きます。)