犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

映画 『西の魔女が死んだ』

2008-06-29 19:13:05 | その他
原作 梨木香歩著『西の魔女が死んだ』(新潮文庫) p.116~より

「おばあちゃんは、人には魂っていうものがあると思っています。人は身体と魂が合わさってできています。魂がどこからやって来たのか、おばあちゃんにもよく分かりません。いろいろな説がありますけど。ただ、身体は生まれてから死ぬまでのお付き合いですけれど、魂のほうはもっと長い旅を続けなければなりません。赤ちゃんとして生まれた新品の身体に宿る、ずっと以前から魂はあり、歳をとって使い古した身体から離れた後も、まだ魂は旅を続けなければなりません。死ぬ、ということはずっと身体に縛られていた魂が、身体から離れて自由になることだと、おばんちゃんは思っています。きっとどんなにか楽になれてうれしいんじゃないかしら」


***************************************************

現代社会の都市に生きる人間は、自分自身の人生を見つめ直す時間がないほど忙しい。心のどこかでは、根本的な問題を置き去りにしている不安に気づいている。しかし、実際のところは、人工的な食品や電気製品、人工的な制度やシステム、そして表面的な人間関係について行くだけで精一杯である。その結果、日本では10年連続で自殺者が3万人(1日100人のペース)を超えたことが明らかとなった。2年前には自殺対策基本法が制定され、「自殺対策は、自殺が個人的な問題としてのみとらえられるべきものではなく、その背景に様々な社会的な要因があることを踏まえ、社会的な取組として実施されなければならない」と定め、職場や学校、地域における心の健康を保つ体制の整備を要求しているが、あまり効果を上げていないようである。

敏感な感性を持つ子どもを、このような現代社会の混沌から救い出すことは容易ではない。主人公の13歳の少女のまいは、人間関係に疲れて学校に行けなくなり、自然の中で祖母との生活を始めることになった。これが彼女の「魔女修業」である。そこには、リアルな現実以外には何もなく、ハリー・ポッターのホグワーツ魔法魔術学校とは対照的である。魔女修行といっても、予知や透視、テレパシーや念力、呪文や瞬間移動などは何も出てこない。大切なことは、「何でも自分で決めること」、そして「正しい方向をきちんとキャッチするアンテナをしっかりと立てて、身体と心がそれをしっかりと受け止めること」である。「この世には悪魔がうようよしており、精神力の弱い人間を乗っ取ろうとして、いつでも目を光らせている」からである。

この物語の大きなテーマは「死生観」である。まいは、「人は死んだらどうなるのか」という最大の問いを処理できないでいる。そこで祖母は、魔女修行という課題を出した。ただし、そもそも魔女とは何か、どうすれば魔女になれるかをハッキリと指示することはしない。都会を離れて自然に触れ、全身で体感し、具体的に行動することによって、「人は死んだらどうなるのか」という最大の問いが、恐ろしいものではなく、暖かいものに変わってくることになる。この映画は、原作の雰囲気を見事に再現しているため、そのまま行間の多い映画になっている。出演者はわずか数人であり、大きな展開もないため、楽しめる人と退屈を感じる人が極端に分かれているようである。しかし、その差は映画の側にあるのではなく、見る側の想像力の差にある。

ネットにおける犯罪予告

2008-06-28 00:14:33 | 言語・論理・構造
秋葉原の通り魔事件の後、ネットでの犯罪予告による補導・逮捕者が続出している。「今から池袋に行って100人殺す」、「東京競馬場に爆弾を仕掛けた」、「JR新潟駅に放火し無差別殺人を起こす」などの書き込みをした容疑者が、次々と脅迫罪・強要罪・威力業務妨害罪などに問われている。これだけ「犯罪になります」という情報が流れている中で、この逮捕者はあまりにも多い。犯罪になるとわかっていたならば完全な確信犯であるが、「確信犯」の名に値するほどの立派な思想もなさそうである。逆に、犯罪になるとわかっていなかったならば、単なる軽率な行為であり、やはり立派な思想はなさそうである。いずれにしても、本人はここまで大げさになるとは思わなかったといった感じであり、重い罪名と軽い意識とのギャップが際立っている。

伝統的に刑法の脅迫罪・強要罪・威力業務妨害罪が想定しているのは、このようなネットにおける予告ではなく、手紙による予告である。まずは文案を練って推敲し、それを筆記したり印刷したりして、脅迫状を完成させる。それから、封筒に入れ、宛名を書いて切手を貼ってポストに投函する。差出人がわからないようにしたいときには、指紋が付かないように、すべての過程で手袋を忘れてはならないし、筆跡も身元が割れないようにしなければならない。脅迫状1通を出すにも一苦労である。これをすべて遂行するには大変な時間と労力がかかる。従って、十分に考え直す時間もあり、「こんなことはやめよう」と引き返す時間もある。本来、犯罪の実行へのハードルは、このように非常に高いはずのものであった。

ネット社会は、このハードルを恐ろしいほど低いものにした。もちろんこのような社会では、どのようなことを書けば犯罪になるのか、その境界線の情報も提供される。例えば、「死ね」は罪にならないが「殺す」は罪になることがあり、その判定は目的と手段の具体性・現実性によって判定されるといったガイドラインも作られている。そして、どこまでがセーフか、どこからがアウトか、具体例も豊富に作られている。しかし、どんなに詳細なガイドラインを作ったところで、重い罪名と本人との軽い意識とのギャップは解消できない。これは、犯罪を実行するまでの時間の長さの問題、すなわち犯行を思い止まる時間の長さの問題である。ネットにおける犯罪予告は、掲示板で煽り合ってカッとなれば、ほんの10秒で実行されてしまう。送信ボタン1つである。

近年の法律をめぐる問題は、社会の変化の早さに法律の改正が追いつかないことだと言われてきた。そして、行政刑法をどんどん増やし、それでも次々と抜け穴が見つけられてしまうという問題が起きていた。ところが、ネットにおける犯罪予告の問題は、方向性としては完全に逆である。社会の変化の早さによって、プリミティブな刑法犯の構成要件の網が広くかかってしまった。実際に放火や殺人の予定は毛頭なくても、それ自体が脅迫罪・強要罪・威力業務妨害罪の構成要件的故意であるから、錯誤論は使えない。刑法の謙抑性と言っても、従来の手紙による脅迫状の構成要件論を前提とすれば、同じことをネットですれば必然的に犯罪成立ということになる。結局、法治国家は、軽い意識の下で重い罪がどんどん成立する状況を止めることはできない。

それでは、実際に国民はどうすればいいのか。どのガイドラインを見ても、月並みなことしか書かれていない。例えば、「軽い気持ちで爆破の予告を書き込んだだけでも、警備員が隅から隅まで調べたり通行人を避難させたりして、多くの人を混乱させることになりますので、絶対にしてはいけません」。科学技術の粋を極めた高度情報化社会の象徴という割には、昔の小学校の先生のお説教のようである。大人に対するお説教なら、次のようなものがある。「モラル教育が必要なのは、子供だけではない。現代社会の我々全員である。人間は、その貧相な内容に不釣合いな技術を所有してしまったのである。進歩したのは技術であって、間違っても人間の側ではない」。(池田晶子著『勝っても負けても 41歳からの哲学』13ページ、「パソコンに罪はない」より)

少年法改正

2008-06-27 23:34:13 | 実存・心理・宗教
秋葉原通り魔事件(6月8日)の陰に隠れてあまり大きく報道されなかったが、6月11日、懸案であった改正少年法が可決された。これによって、犯罪被害者や遺族が少年審判を傍聴できるようになった。反対論からは、「被害者や遺族が新たな心理的ショックを受ける」との論拠も挙げられているが、これはあくまで表向きの理由である。反対論の中心は、あくまでも成人とは異なる少年の可塑性であり、成人以上に強く求められる更生と社会復帰の理念である。そして、この理念の追求にとって、被害者側の要求は正面から衝突するものであった。今回、この衝突がクローズアップされなかったことは、世論における1つの構造の変化を示している。それは、4月の光市母子殺害事件の死刑判決においても示されたものであった。

光市母子殺害事件の死刑判決とその後の世論が、実証的に示した構造は沢山ある。特に、死刑廃止論と修復的司法が現在の国民に対してあまり説得力を持っていないことは明白になった。また、少年法の精神も大きな痛手を受けた。それも、従来的な左右のイデオロギー論争を前提にして政治的な主義主張が否定されたのではなく、その問題設定自体を無効にされてしまったという形である。土俵の上で戦おうと思っていたところが、土俵自体を覆されてしまった。少年審判の非公開性の趣旨、被害者の意見陳述による少年の更生への影響といった従来的な問題設定そのものが、今やさほど価値のあるものだとは受け止められていない。

従来の少年事件といえば、成人事件以上に可塑性と更生が問題となり、そのプライバシーをめぐって論争が起きていた。被害者の側とすれば、加害者が少年であろうとなかろうと関係がない。ところが、その事件の詳細を知ろうとすると、否応なしに少年法の精神が壁となり、戦いに巻き込まれてしまう。この違和感から、少年法の精神に異議を唱えようとすると、まさに左右のイデオロギー論争に発展する。例えば、神戸連続児童殺傷事件の酒鬼薔薇聖斗こと少年Aや、大阪堺市のシンナー通り魔事件の少年については、週刊誌に実名や顔写真が掲載され、左派から批判の大合唱が起こった。これに対して右派からは、なぜか表現の自由が持ち出され、泥沼の裁判になってしまった。被害者は蚊帳の外である。

光市母子殺害事件の元少年については、その実名や顔写真については全くといっていいほど関心が向けられなかった。確かに、事件から9年も経って元少年は27歳にもなっており、その方面での関心が薄れていることにも理由がある。しかしながら、このような凶悪な罪を犯したのは一体誰なのか、どのような人物なのか、更生や社会復帰は可能なのか、この点が社会的に重要な問題とはされなかった。神戸市の少年Aの事件とは対照的である。これは、光市の事件では完全に被害者側からの視点が採用され、加害者からの視点が無効にされたことを意味している。弁護団は従来のパラダイムに従って、週刊誌が少年の実名や写真を掲載する時を待っており、それを糾弾する準備をしていた。しかし、本村氏が向き合った問題は、そのようなレベルをはるかに超越していた。

元少年の視点と被害者遺族の視点、これは土俵の上での勝負の問題ではなく、どの土俵で戦いをするかという問題である。そして、本村氏の論理は万人に普遍であったが、弁護団の論理は狭い党派の中でのみ通用するものであったため、日本社会では広く被害者側の視点が採用された。そこで、被告人の元少年は、その顔も固有名詞も不要になってしまった。「被告人の元少年」というだけで十分となり、不特定多数の一般論のうちの1つということで論理が完結してしまったからである。被害者側からすれば、犯人が少年であろうとなかろうと関係なく、その少年がどんな人生を送ってきたかなどはさらに関係はなく、死刑に値する罪を犯した者は死刑にならなければならない。かくして、元少年は、顔写真も実名も奪われた。このようにプライバシーを侵害すらしてもらえないことは、プライバシーを侵害されることよりも恐ろしかったはずである。

森達也著 『死刑』 プロローグ

2008-06-25 22:42:10 | 読書感想文
p.5~6より

首に縄をかけられたフセインは周囲の執行人や立会い人と言い合ったあとに、正面を向き目を閉じて、「アッラーの他に神はなし。ムハンマドはアッラーの使徒である」とのイスラム教の信仰告白のフレーズを低く唱え始めるが、2回目のムハンマドを口にした瞬間に、激しい音と共に足もとの台座が外されて、その身体は真下に落下した。・・・その光の下に現れたフセインの顔は、絶命している表情には見えなかった。目はうっすらと開いていたし、口もとも微かに動いていたような気がする。


***************************************************

これは、2006年12月30日、バグダッドにおいて執行されたサダム・フセイン元大統領の死刑の様子を述べたものである。このような文章を読むと、人間の心はある独特の動きをする。これは、正確には記述できない。「死刑問題について触れたときの心の動き」としか言えない。そして人間は、このような死刑執行の描写から問題を立てること自体に漠然とした違和感を抱きつつも、それが言語化できない。誘導尋問に乗せられているようでもある。これは、「与えられた情報を鵜呑みにせず、何事も自分の頭で考えましょう」と言っていた人が、「罪刑法定主義と誤判の防止は近代司法の鉄則である」との言い回しに触れると、急に緊張して硬直してしまう状況と似ている。死刑は生死の問題であるが、制度の問題である。しかし、やはり最後は生死の問題であり、個人の心の問題は完全に消えることがない。

社会の制度の問題として理屈を詰めて行けば、どうしても「罪と罰」のうち、後半の「罰」ばかりに議論が集中し、前半の「罪」が逃げてしまう。「朝起きて、刑務官の足音が近づいてくる。それがちょっといつもと違って、どこかのドアの前で立ち止まって・・・ もし自分のドアの前で止まったら、それでもう人生が閉ざされる。その恐怖は凄まじいと思うんです」(p.50)。これは死刑執行を待つ死刑囚の恐怖を語ったものであり、死刑廃止論を強烈に正当化する論拠とされてきた。しかしながら、ここでも「罰」ばかりがクローズアップされ、「罪」が逃げている。そもそもの最初の殺人事件、何の罪もなく殺されたほうの無念はどこへ行ったのだ。過去の被害者の心理描写をするのか、将来の死刑囚の心理描写をするのか。この選択自体が、1つの隠された理論武装である。この政治的な覇権争いは、結論が先にある以上、論証によって事態が動くことはない。過去も将来も、すべては現在の別名である。

「死刑を廃止すべきか」という問いになかなか答えが出ないとなると、人間は技術的に問いを変更したがる。例えば、「なぜ死刑が廃止できないのか」。はたまた、「死刑は国家による新たな殺人行為ではないのか」。これらの問いは、最初の問いよりも下手である。問いはメタファーとしての構造を作る。そして、いったん構造を作ると、それは物理的な構造でないにもかかわらず、他の構造が見えなくなる。最初の殺人行為と、刑罰である死刑執行を同等に考え、単純に一括りに「人殺し」としてしまえば、簡単に答えが出る。しかし、その答えは、問いの形式によって逆算されていたものである。ここでも「罰」ばかりがクローズアップされ、「罪」が逃げている。やはり、軸足は哲学的な絶対不可解の問いに置かれなければならない。すなわち、「なぜ人を殺してはいけないのか」。

「死に神」に被害者団体抗議=「侮辱的、感情逆なで」(時事通信) - goo ニュース

池田晶子・陸田真志著 『死と生きる・獄中哲学対話』 その2

2008-06-25 21:37:35 | 読書感想文
「陸田真志 2通目の手紙」より

p.19~25より抜粋

私が殺した御二人は、私が何をしたとしても、絶対に戻ってくる事はありません。私は、その事実を深く認識しています。どんな善行を積もうと、どんな刑罰を受けようと、私の「罪」は消える事がありません。私は「人間社会」というものの中で、今まで生きる事を選び、この国を出て、その法律を捨てることもできたのに、それをせずこの国で、その法律を破ったのですし、私が自分で選んだ法律上の罰を受けるのは、至極当然の事で、それらも私の「贖罪」とは全く関係が無く、言ってしまえば、かすりもしないのです。無期刑としても、やはり同じ事です。

私が過去、どのような場面を見、体験したかを文にして、ある程度は他人に伝わるかも知れませんが、その時に私がどう思い、考えたかは「どうやっても伝わりはしない」。生前は確かに私と同じ、その仕事をしていた被害者の御二人も、私が殺さなければ、彼らの魂、精神も、その仕事の間違いにいつかは気付き、辞める日が来たかも知れない事を思えば、私が思う事によって在る彼らの魂のためにも、それはできません。その文章中にでてくる、被害者御二人の姿が、いかに事実とはいえ、今の御遺族の方々にとっては、目にしたくない、触れられたくない、考えたくない部分でしょうし、既に、御遺族の御心の中に在る被害者の姿を乱すのは、酷な事と私には思えるのです。

社会つまり皆は個の集まりである。皆とは自分と全ての個である。自己も個であり、己であると同時に皆である。そう知って「個=己」を本当に愛する事によって、皆を愛する事を知るしかないと思うのです。「己=個」を真に愛し、真に「個=己」にとってよい事をする、利する事によって「自己」を超える。それは、私がこの先よく生きていく為の指針とする物です。「善」を知ってこそ、自己の「悪」も認識できる。本当の「わるい」は、相手や他人だけでなく、自己にも「悪い」と知れば、ほっといても、皆、自分がかわいいのですから悪は起こりえないし、それが自然であると思うのです。


***************************************************

去る6月17日、連続幼女誘拐殺人事件の宮崎勤死刑囚と、上記の手紙を書いた陸田真志死刑囚の死刑が執行された。アムネスティ・インターナショナル日本は、同日、次のような抗議声明を出した。「今回の執行は前回の執行から約2カ月後に行われたものであり、日本が大量処刑への道を進めていることの証である。日本で死刑執行が増加していることに対し、アムネスティ・インターナショナルは深い失望と、極めて重大な懸念を表明する。宮崎さんも陸田さんも、判決確定から執行までの期間は2年半あまりで、従来になく、早い執行ペースである」。

宮崎死刑囚のほうは、死刑の日まで一言も反省や謝罪の言葉を発せず、さらには自らの死刑を怖がっていた。これに対して、陸田死刑囚のほうは、人を殺した経験という地位を自ら逆手に取って、自らが殺人の1つであるところの死刑に処される意味を問い続けた。宮崎死刑囚と陸田死刑囚を機械的に並列して抗議声明を出すことには、一体どのような意味があるのか。少なくとも、個々の死刑囚の遺志を汲んでいないことは確かである。


犯罪被害者の会、朝日新聞の「死に神」表現に抗議文(読売新聞) - goo ニュース

上野千鶴子著 『おひとりさまの老後』

2008-06-23 22:08:15 | 読書感想文
現代社会は個人主義であり、個性尊重が建前とされている。そして、個人としての自立が求められ、プライバシーの尊重が叫ばれている。その割には、老いも若きも孤独や孤立というものを非常に恐れるが、これは無理な注文である。上野氏の指摘するとおり、「人間は孤独である。覚悟して生きろ」というしかない。高齢者の一人暮らしは寂しいものだと相場が決まっているが、本人が好きで悠々自適の生活をしているならば、周囲のレッテル張りの方が余計なお世話である。これは、孤独死というレッテル張りも同様である。本人がそれを望んでいる限り、孤独死を防ぐためのあれこれは、プライバシーの侵害となる。

老後の心配と死後の心配は、その質が異なる。老後の心配は、年金の問題や病気の問題に置き換えられることが多いが、突き詰めれば「死に向き合うこと」への心配である。これは、どうしても予定通りにはいかない。それにも関わらず、世の中は老後の不安を煽るメッセージにあふれており、完全に自己目的化して空転している。年金について政府を批判することによって気を紛らわせ、「死に向き合うこと」を先送りにするという本末転倒である。その意味では、むしろ死後の心配のほうが救いがある。公証役場で公正証書遺言を作って、家庭裁判所で相続人の廃除をして、相続税対策をして、お葬式とお墓の手筈を整えれば、それ以上のことはどうしようもないからである。

上野氏が提唱する「おひとりさまの死に方5カ条」は、非常に実用性がある。特に、身辺整理は大切である。死は極めて形而上の出来事であるが、一度生まれた者はこの世で生きているという存在の形式から逃れられない限り、死は形而下の出来事でもある。どんなに「死とは何か」について考え抜き、自分が死んだ後のことはどうでもいいと宣言した大哲学者でも、いきなり余命3ヶ月だと宣告されれば、とりあえずは身辺整理を始めるはずである。これは理屈ではない。恥ずかしいことが書いてある日記は捨て、不倫の証拠となるような写真は捨て、メールも削除し、恥ずかしい本やらDVDは処分するのが人間というものである。人間は形而上の死に向き合うためには、まずは形而下の死の側面を粛々と処理しておく必要がある。

死という経験は、誰にも平等に訪れるものであるが、他の誰とも分かち合うことのできないたった1人の経験である。自分の代わりに他人は死んでくれないし、自分も他人の代わりに死んであげることはできない。その意味では、死の瞬間に何人の人に看取られているかという問題は、上野氏が述べるとおり、それほど大した話ではない。これは、人間は一度しか生まれられないし、一度しか死ねないという回数の問題と捉えるとわかりやすい。Only one, Only once. 時間性の中で、すべての人間は孤独に生まれ、孤独に死ぬしかない。これは、集団の中で誰かが孤立しているといった通常の意味の孤独の概念よりもはるかに厳しいが、その分だけ救いもある。生死の前にはすべての集団も幻想であり、すべての人間がお互いを孤独であると知ることによって、逆説的に孤独が癒されるからである。

押川真喜子著 『在宅で死ぬということ』

2008-06-22 21:29:55 | 読書感想文
「どうしても行きたかったディズニーランド」より

p.121~2
(ゆかりちゃん=白血病の17歳の女性、 「私」=看護師の押川氏、 H先生=医師)

声かけに反応しなくなってから、ご両親は何度も、「よくがんばったね。ゆかりちゃん少し休もうね。もう眠っていいんだよ」と語りかけました。それからしばらくして、ゆかりちゃんは天に召されていきました。最後のディズニーランド行きから4日後のことでした。

ご両親もお姉ちゃんも、とりみだすことなく、最後までゆかりちゃんを優しく見守っていました。悲しさはずっと残るでしょうが、後悔は残らないくらいに一生懸命やったという気持ちが家族みんなから感じられました。お母さんとお姉ちゃんとで、ゆかりちゃんお気に入りの、おしゃれな紺のワンピースを着せました。側には、ディズニーランドで買ったぬいぐるみやグッズが並べられました。

そのあと、家族と一緒に涙を流しながらでしたが、ときには笑いながらゆかりちゃんの思い出話をすることができました。お父さんは、「全然苦しそうじゃなくて……本当によかった」と話し、私は、「最期があんなにやすらかなのは、ゆかりちゃんがこれまでがんばったことへの神様のプレゼントですね」と心から答えました。

お母さんは、「どうしてこんなにおだやかに話せて、冗談も言えるんでしょう……」といい、H先生は、「きっと十分にやってあげられたからでしょう」と答えました。「お姉ちゃんも、すごくがんばったね。小さい時から……。お姉ちゃんがいたからゆかりちゃんもがんばれたんだよね」と私が声をかけると、お姉ちゃんは涙をためてうなずきました。長い長いゆかりちゃんの闘いは、やっと終わりました。


***************************************************

押川真喜子氏は、聖路加国際病院訪問看護科のナースマネージャーであるが、平成4年に自ら訪問看護科を立ち上げている。そして、訪問看護のプロとして、これまで多くの「在宅死」を見届けてきた。医療者にとっても、家族にとっても、そして何より本人にとっても死は厳しい現実である。つい数十年前まで、自宅で死を迎えるのは日本でも当たり前の光景であったが、医療が発達するにつれ、死は病院で迎えるものに変わってきた。たとえ0.001パーセントでも可能性があれば、それに賭けて治療と延命を望むのが当然であって、退院は闘病の放棄を意味するからである。しかし、さらに医療と通信機器の発達に伴って、自宅でも病院と遜色のない治療が可能になってきた。そして、最後はどうしても家に帰りたいという患者の希望も叶えられるようになってきた。

「QOL(quality of life)」という言葉がある。直訳すれば、生活の質、人生の質、生命の質である。これは、人々の生活を物質的な面から量的にのみ捉えるのではなく、精神的な豊かさや満足度も含めて、質的に捉える考え方であり、医療や福祉の分野で重視されている。通常、誰にとっても、一番安らぐ場所は自宅である。そして、病気の悪化は精神的なものの影響も大きく、病院での孤独感から解放されて住み慣れた我が家に戻ると、病状は改善の症状を示す例も多い。家族水入らずであれば、病院ではできないこともできる。もちろん、訪問看護の体制が万全に整っており、いつでも医師が電話一本で駆けつけられることが大前提である。押川氏の尽力などもあり、今や訪問看護のシステムは広く全国に広がっている。そして、病院で全身に管をつながれて死ぬのではなく、自宅のいつもの部屋で家族に囲まれて死を迎えたいという願いも実現できるようになってきた。

もちろん、話はきれいごとだけでは済まない。嘔吐や排泄の処理は当然として、家族が人工呼吸器や痰の吸引のチューブなどの機械の取り扱いに精通しなければならず、これを失敗するとすぐに命に関わる。さらには、介護する家族が精神的にも肉体的にも疲れてしまい、結局は病院に逆戻りということもあるようだ。さらには、家族と本人、家族同士がイライラして衝突し、ずっと仲の良い家族が不和になってしまうという危険もある。それにもかかわらず、本人や家族が在宅における死を望むのは、介護をする家族の「QOL」の向上という意味が大きいそうである。これは、受け止められない現状を受け止め、死後までも見据える覚悟である。「悲しみ」と「後悔」は、確かに異なった心の動きである。全力投球すれば悔いはないが、思い残すことがあればその悔いは消えない。死者の側が安らかにあの世に旅立てれば、生者の側もこの世から安らかに見送れる。生き方の問題は死に方の問題であり、死に方の問題は生き方の問題である。

結論先にありき

2008-06-21 21:08:38 | 言語・論理・構造
環境保護団体のグリーンピース・ジャパンのメンバーである佐藤潤一容疑者が、鯨肉入りの段ボールを青森市内の運送会社から無断で持ち出した容疑で逮捕された。佐藤容疑者は逮捕前、取材に対して、「不法領得の意思はなかったので窃盗罪は成立しないと考える」との見解を示していた。しかし、日本大学法科大学院の板倉宏教授は、「当然窃盗罪に当たる。告発のためといっても、何か目的があって盗んだということで、不法領得の意思が認められる。社会的相当な行為として違法性が阻却されることはない」と述べている。これに対し、龍谷大学法科大学院の村井敏邦教授は、「外形的には窃盗に当たるが、告発のためやむを得ずやったという行動が正当行為にあたり、違法性が阻却されるという議論はありうる」との見方を示している。

法解釈とは、客観的なものである。特に刑法は厳格な解釈が要求され、論理学のように正確でなければならず、人間の主観が混入してはならない。従って、グリーンピースの主義主張への賛否そのものとは関係なく、今回の犯罪の成否は独立したものとして考えられなければならない。そのような観点から、専門家は刑法235条(窃盗罪)や35条(正当行為)の条文を解釈し、過去の判例の類似点と相違点を検証し、法的な見解を述べる。それにもかかわらず、板倉教授と村井教授の見解は分かれている。この差異が生じる原因は何か。ここを突き詰めれば、最後はグリーンピースの思想に賛成か反対か、この点に行き着かざるを得ない。これは極めて主観的なものであり、個人の価値観・人生観に関わるものである。どんなに客観的な法解釈であっても、その客観性を裏付けるためにソースやデータを集めて理論武装する行為は、主観的でなければできないことである。知性のトップである大学教授でも、人間である以上、この点だけは逃れられない。

板倉教授は板倉教授の脳内において窃盗罪を成立させており、村井教授は村井教授の脳内において窃盗罪を不成立にしている。抽象名詞は、このような形でしか存在できないものである。人間の脳を離れて、抽象的な「窃盗罪」なる何かが存在するわけではない。社会科学の客観性は、自然科学の客観性に比べれば、はるかに主観的である。その意味で、法解釈の客観性とは、「結論先にありき」である。「罪になる」のではなく、「罪にする」と表現したほうが正確である。また、「犯罪が成立する」のではなく、「犯罪を成立させる」と表現したほうが正確である。数年前に自衛隊官舎へのビラ配りが問題になった「立川テント村事件」においても、刑法130条前段(住居侵入罪)の客観的な解釈の問題は、実際にはイラクへの自衛隊の派遣に関する賛否によって決められていた。その上で、罪になるとの見解も罪にならないとの見解も、お互いに「刑法は厳格な解釈が要求され、客観的でなければならない」と述べており、ますます話がわかりにくくなっていた。

近代文明は、人間の脳内の抽象名詞を絶対化し、人工物である法律の体系を構築した。言葉を細かくして、抽象名詞を沢山作ることによって、「それ」はこの世に存在するようになった。この意味で、どんなに罪刑専断主義を否定し、人の支配を否定しても、犯罪の成否を一義的に決定することはできない。法律学は客観性を至上命題とする社会科学であり、論理実証主義の手法を持ち込んで法実証主義を確立した。しかし、その語り得ぬ部分については、沈黙するのではなく、自然法論と天賦人権論によって語ってしまった。法実証主義と自然法論は相対立するものでありながら、実務的な法解釈の現場においては、両者が妙な形で組み合わされている。このような状況にある限り、法解釈には明確な答えは出ない。人間の脳内に言語が回っているだけの話だからである。従って、どんなに条文を細かく解釈しても、スッキリと決着がつくわけではない。現代社会はますます条文を細かくしすぎて使いこなせなくなり、右往左往するだけである。


グリーンピース部長 鯨肉窃盗罪「成立せぬ」 開き直り、専門家は「犯罪」 (産経新聞) - goo ニュース

池田晶子・陸田真志著 『死と生きる・獄中哲学対話』 その1

2008-06-19 19:33:01 | 読書感想文
一昨日、連続幼女誘拐殺人事件の宮崎勤死刑囚(45)の死刑が執行された。宮崎死刑囚は捜査や公判で不可解な供述を繰り返し、詳しい動機や背景も全く語らず、死刑の日まで反省や謝罪の言葉もなかった。それどころか、4人の被害者の死の恐怖には一言も触れず、自らの死の恐怖のみを根拠に絞首刑の残虐性を唱え、薬物使用の方法を主張していた。「死刑廃止を推進する議員連盟」は、死刑の確定からまだ2年5ヶ月である点を強調していたが、20年経ってもこの調子では、死刑の執行を先延ばしにしたところで、常識的に見ても何も得るものはない。

一昨日は3人の死刑が執行されたが、宮崎死刑囚以外の2人のうち、1人が陸田真志死刑囚(37)である。議員連盟の亀井静香会長は、「新たに3人の命が国家権力に消された。何か国民の幸せにつながっていくものが生まれたのか」と批判していたが、宮崎死刑囚にとってはともかく、陸田死刑囚にとっては、この批判は的外れである。下記に引用した陸田死刑囚の言葉は、今日6月19日現在、この世の人間の言葉ではない。そして、往復書簡の相手方である池田晶子氏も、もはやこの世の人間ではない。しかし、なぜかそこに変わらず、その人の言葉がある。当たり前のことであるが、本の内容のほうは、陸田死刑囚の死刑執行の瞬間の前と後で、全く変わっていない。


***************************************************

「陸田真志 1通目の手紙」より (p.13~17)

「殺人者」という事実。その後の自分の行動。「人間のクズ、いや俺は人間ではない」とひたすら自分が嫌になり、落ち込みました。しかし、それよりも自身を卑下したのは、2人も人を殺しておきながら、それでも、まだ、「自分は死刑になりたくない」と考える自分がいる事でした。これは、二重の罪悪感となりました。自殺を考えても、「それは、今の悩み、辛さから逃げて、又、他の人間(拘置所の職員の方など)に新たに迷惑を掛ける事だ」そう思えてできず、自殺しないでいると、「他人を殺しておいて自分は生きていたいのか」と自分自身を罵倒する毎日でした。

「精神病になった。国家の個人への弾圧だ」などと、被害者面をする人間や懲役囚がいますが、精神性を重んじ、自己に恥じる事のない人間であるなら、どこに置かれても、何でもない事だと思うのです。「犯罪をやるか、やらないかは最終的には本人の意志だ。今ある自分は、全て自分が選択してきた結果だ」 それがわかりすぎる程、私には、わかっていたのです。PTSDを病んでいる人達が犯罪に走らず、自己と闘っている事を考えれば、何の言い訳にもならない事。家庭や貧困、社会を、自分の犯罪の原因にする(永山死刑囚などの)人間は、自らの罪悪を認める事の怖さから、何か他の物のせいにしようとしているだけだ。その事が、心の奥ではわかっていたのです。

「死を恐れず、下劣である事を恐れる」、それを知り、又、獣としか思えなかった私にも善を求める心がある事、あった事がわかり、やっと自分自身を卑下する考えから解放されました。今、独房においても全くの自由を得ていると信じられます。おかげでそれまで、公判で少しでも自分にとって有利な事を言うのは、それが事実であっても、「死刑を免れようという己の弱さでは」と悩む事もなくなったし、逆に不利な事も死刑を恐れる事なく答弁できたし、裁判官にも、「死刑になってもならなくても、よく生き、死んでいく事、正しくある事が、私がこの先できる唯一の償ないだ」と言う事ができました。そして、そのようにこの先、生きて死んでいける、その事に大きな喜びと価値を感じております。

中野翠著 『よろしく青空』 「畏怖という感情」より

2008-06-18 22:37:59 | 読書感想文
p.110~

近頃はお葬式の際、亡くなった人の顔をカメラ付き携帯などで撮影する人が増えていて、葬儀関係者は注意すべきかどうか困惑しているという話。ある葬儀関係者は「人を悼む気持ちが荒廃しているのでは、と気になる。亡くなった方は死に顔なんて絶対に撮られたくないはず。撮影の可否まで遺言を取ることも検討しなければ」と語っているのだが、カメラ付き携帯になじんだ人たちの中には「記録に残したい」という気持ちのほうが強い人もいるらしい。

まったく恥ずかしいことだ。情けないことだ。棺の中の死者の顔に向かってケータイを突き出している人の姿を想像すると、「人間、そこまで鈍感になれるものか」と呆れ果ててしまう。死に顔を撮るな、というわけじゃあない。撮るなら心して撮れ、覚悟して撮れ、人の生と死の不思議に対して、その人の一生分の時間に対して、まっこうから向かい合う、それだけの強い意志を持って撮れ。スナップするな、謹写しろ。メモ代わりみたいな気分で撮ったりするな――と私は言いたいのだ。

私自身は、「死者には誰もかなわない」と思っているから、撮る気はまったくないけれど。生きている人間はどこかアヤフヤさを免れないけれど、死んだ瞬間に、そのアヤフヤさも絶対のものになるのだ。確かな輪郭を持った一生として感じられる。さらに「死」という人間にとっての大神秘を目の前にさせられるのだ。かなわない。たぶん、そういう感情を「畏怖」というのだろう。カメラ付き携帯電話は確かにすぐれた便利な発明なのだろうが、明らかに人々を行儀悪く、鈍感にした。便利さや手軽さに、人の心が振り回されているのだ。


***************************************************

秋葉原の事件では、刺された人が倒れているところに携帯電話のカメラを向けている野次馬が大勢いた。それどころか、携帯で実況中継に夢中になっている人も沢山いた。赤の他人だからそのようなことができるのだろう、身内ならばまさか携帯で写真は撮れないだろうと思っていたら、今やそうでもないようである。人生の重さとケータイの軽さ。生死の重厚さと写メールの手軽さ。電子機器が便利になったからといって、社会が良くなるとはかぎらない。それどころか、文明の発達は、人々を不幸にするところがある。

事件現場では、被害者を必死に介抱している人がいた。それどころか、被害者を助けに行って、自分まで刺された人もいた。介抱に走った人は、誰からの強制でもなく、一切の損得勘定を持たずに、そのような行為に向かった。これは人間の品格である。他方、どうしても携帯で実況中継したくなる人は、そうするしかなかった。これも人間の品格である。死は誰にとっても先にあるものではなく、今ここにあるものである。他者の生死の危機に直面して、携帯での実況中継に夢中になることに一抹の後ろめたさを感じたならば、それが本当の恥である。その恥すらも感じない人生は、人生の名に値しない。