犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

光市母子殺害事件差戻審 39・ 死刑か無期懲役かはすでに決まっている

2008-04-21 16:53:16 | 言語・論理・構造
光市母子殺害事件差戻審の判決は、明日4月22日である。最も注目が集まる争点は、死刑か無期懲役かである。それでは、前日である今日の段階において、この刑は客観的にわかっているのか。これは何とも言いようがない。マスコミが広島高裁に押しかける準備をしているのは、現時点では死刑か無期懲役かわからないからである。客観的に刑が決まっているならば、どちらなのかを詮索する必要などない。それでは、客観的に刑が決まっていないのかと言えば、そんなこともない。客観的であれば万人(99%でなく100%)に当てはまらなければならないはずであるが、広島高裁の楢崎康英裁判長、4人の裁判官、書記官、廷吏、庶務課や広報の事務官らは、死刑か無期懲役かを知っているからである。だからこそ、情報漏洩が問題となる。

判決の言い渡しの瞬間に、刑が客観的にわかったことになる。これは、裁判をめぐる部分的言語ゲームである。裁判長から判決主文が述べられるや否や、傍聴席から数人の記者が飛び出して行き、裁判所の玄関前でマイクを握ってカメラに向かって叫ぶのも、このゲームのルールに従った行動である。制度的にも、刑事裁判においては言い渡しの時までに判決原本が完成している必要はなく、判決期日の閉廷によって言い渡しが完了する。これは、試験の合格発表とも似ている。解答用紙を提出した瞬間に運命は決まっているとも言えるし、合格ラインの設定がなされていない時点においては運命は決まっていないとも言える。厳密に言えば、天災による焼失の可能性がある限り、運命など何も決まりようがないとも言える。これは、部分的言語ゲームのルールが決めることである。

元少年は明日、緊張して裁判長の前に進み出ることだろう。そして、恐怖と不安の混じった表情で、裁判長の第一声を待つことだろう。その時、裁判長においては、すでに頭の中で死刑か無期懲役かがわかっている。これに対して、元少年は、いずれの刑であるかがわかっていない。人間は、どうしても他人の頭の中がわからず、その頭を外側から見るしかない。判決の内容も刑の重さも決まっているはずなのに、実際に言われるまではそれがわからない。この法廷の部分的言語ゲームは、実は裁判官と被告人の攻守逆転である。元少年はこの裁判において、これまでずっと認めてきた殺意を否認した。このような弁解ができるのは、人間は、他人の頭の中がわからないからである。裁判官にも、検察官にも、傍聴人にも、一般国民にも、少年の殺意の存在はわからない。殺意があったともなかったともわからない。これは、今日4月21日時点において、関係者を除いて死刑か無期懲役かわからないことと同様である。

高等裁判所における争点は、元少年の殺意の有無であった。弁護団がこれを執拗に争うことは、閉鎖的な部分的言語ゲームの中において、忠実にルールに従ったものである。殺人罪(刑法199条)には死刑が定められているが、傷害致死罪(刑法205条)には死刑が定められていない。従って、弁護人の職務としては、殺意がないことを主張するのは当然であるということになる。被告人が「殺意があった」と言えば殺意があったことになり、「殺意がなかった」と言えば殺意がなかったことになるからである。これは、裁判官が「死刑」と言えば死刑になり、「無期懲役」と言えば無期懲役になるのと同じことである。部分的言語ゲームにおいては、裁判官、被告人といった肩書きが絶対的であるが、一歩外に出てしまえば肩書きには何の意味もなく、すべては一人の人間にすぎない。そして、人間の生死の文法は、本来は肩書きなどでは語れない。


元少年に22日判決=光市母子殺害で広島高裁(時事通信) - goo ニュース

光市母子殺害事件差戻審 38・ 殺した側からは無限に言葉が出てくる

2008-04-21 13:43:33 | 言語・論理・構造
光市の母子殺害事件の弁護団は、4月12日に広島市中区で講演を行い、元少年が昨年12月に遺族の本村洋氏に出した手紙の内容を紹介している。その手紙には、「命尽き果てるまで謝罪を続けていきたい」、「生きていたいということが本村さんをどれだけ苦しめているかを知ってしまったぼくは、身の置き所がない」などと書かれていたという。この謝罪が本心であるのか演技であるのか、それは言語というものの性質上、解明することはできない。赤色・青色のスペクトル問題と同様であり、裁判における情状の点において、閉鎖的な言語ゲームの中で扱われるのみである。問題なのは、元少年側は閉じられた言語ゲームの中で無限に言葉を創作できるのに対して、本村氏の側は開かれた言語ゲームの中で絶句せざるを得ないということである。

元少年の一挙手一投足は、構成要件該当性の判断を根底から左右するものであり、法律的に意味がある。「亡くなった実母のイメージを弥生さんに重ね、甘えたい気持ちが強くなり、後ろから抱きついた」といった主張や、「激しく抵抗されたのでパニック状態になり、体を押さえ続けたが、気が付かないうちに右手が首を押さえていた」といった主張は、そのように言うや否や現実となる。言葉が世界を作る以上、元少年は詳しく思い出してみれば、いくらでもそのように考えられるからである。語り得るものは、沈黙する必要がない。「自分はそのような心理であった」と言うや否や、世界はそのように存在したことになり、他人はその中に入ることができなくなる。閉じられた言語ゲームである裁判所の事実認定は、これを証拠から強引に認定するが、真実は神のみぞ知る(もしくは神も知らない)。

これに対して、本村氏の側は、開かれた言語ゲームの中において絶句せざるを得ない。例えば本村氏は、帰宅して押し入れの中に2人の遺体を発見した瞬間について、どのように言語で記述できるのか。信じられなかった。背筋が凍った。鳥肌が立った。頭に血が上った。膝が崩れる思いだった。心臓が高鳴った。とっさに頭の中で現実を否定した。このあたりが限界である。これは、苦しい過去は思い出したくないということでなく、言語による心理描写の限界である。人間は正当にも、これを絶句という反語でのみ語る。さらには、葬儀場で棺の顔の部分の蓋が閉じられ、最後のお別れをし、火葬炉の中に棺が消えてゆく時の胸が張り裂けそうな思いは、一度でも葬儀を体験した人であれば直感的にわかる。そして、この直感を表現する言葉など、この世のどこにもないこともわかるはずである。開かれた言語ゲームにおいては、人間は絶句によって物事を語る。

元少年のほうは、いくらでも語る言葉を持っており、いくらでも新たなストーリーが作れる。そして、「命尽き果てるまで謝罪を続けていきたい」との絶対的に正しい言語を用いて、いくらでも反省の弁を述べることができる。この新たな言葉の誕生は、死刑を避けたいという効果から逆算して創作することが可能であり、それが記述へのモチベーションとなっている。これに対して、本村氏のほうは、語り得ないものを追い詰めるために、悪戦苦闘して進むしかない。ところが、本質が絶句である以上、言葉を言えば言うほど遠ざかる。さらには、特定の効果からの逆算を行う裁判の閉鎖的な言語ゲームにおいては、本村氏の言葉はすべて「遺族の被害感情」という形に変形されざるを得ない。法律的には、語り得ないことの沈黙によって示されるものには意味がないからである。かくして、被告人の能弁と、被害者遺族の絶句とが、論理の形式として不可避的に現れる。


光母子殺害差し戻し審を学ぶ(中国新聞) - goo ニュース

光市母子殺害事件差戻審 37・ 殺された被害者は何のためにこの世に生まれてきたのか

2008-04-21 01:21:44 | 実存・心理・宗教
光市母子殺害事件差戻審の判決を前にして、遺族の本村洋氏は会見を行い、元少年について「反省にまだ真剣さが足りない」と話した。そして、「死刑が内省を深める契機になると思っている。死刑以外で生き永らえるより、胸を張って死刑を受け入れ、社会に人を殺めることの愚かさを知らせるのが彼の役割」だと述べている。ここには、いかなる党利党略もなく、普遍的な人間の声がある。死刑廃止論が描きたがる構図に、「遺族は冷静さを失って感情的に叫んでおり話にならない」というものがあるが、本村氏の会見にはあてはまらない。実際に、多くの被害者遺族は本村氏と同様であり、感情的に死刑を叫ぶ人など多くない。死刑廃止論がステレオタイプの構図を作ることは、単に一つの党利党略である。

人間の生死は、優れて形而上学的な問題であり、哲学や宗教によって扱われるべき事項である。すなわち、一個人の死生観の問題である。実際の民主主義社会では、表面上は政治経済、あるいは法律論における多数決によって規制されざるを得ないが、人間の実存の深いところまでを規律することはできない。宗教のない日本社会において、政治的に死刑廃止論を主張しようとしても、多くの国民の耳に届かないことは当然である。いかに「人間の命の重さ」を持ち出したとしても、それは「他人の命を奪った人間の命」であって、論理的には自己矛盾を生じる。この矛盾を乗り越えるのは宗教や哲学であるが、日本人の多くは無宗教である以上、これを包括するだけの物語を描くことができない。すなわち、殺された被害者の死にも、死刑を執行された加害者の死にも、大きな視点からの意味づけを与えることができないということである。

哲学や宗教の問いは、突き詰めれば「なぜ人は生きるのか」「なぜ人は死ななければならないのか」といったパターンに集約される。殺人事件における問いは、裁判を遂行する上では、加害者における「なぜ殺したのか」との動機を法律的に明らかにすればそれで済む。しかしながら、哲学における中核の問いは、被害者遺族によって発せられる「なぜ殺されなければならなかったのか」との問いである。これは、生きて死ぬべき人間が、死に意味を見出したいとの実存的な望みである。この問いに答えが与えられなければ、被害者は殺され損であり、そもそもこの世に生まれてきた意味がなくなる。いったい彼女は何のために殺されたのか。もし加害者が更生するための手段として生まれてきたというのであれば、何のための人生だったのかわからない。これは犬死にである。加害者の改善更生、社会復帰、再犯防止などという目的が主張されればされるほど、被害者はその程度のことに自らの生命を供したのかという脱力感が生じてくる。

宗教がない日本社会において、被害者の死に意味を与える大きな物語とは、「二度とこのような犯罪が起きないこと」、「このような悲しい思いをする人がいなくなること」に尽きる。事件の教訓によって人間がほんの少しでも賢くなり、再発防止が図られ、少しでも理想的な社会が実現されることによって、被害者の死は初めて意味を持つ。そのためには、加害者にはそれ相応の罰を受けて、罪の償いをしなければならない。本村氏の述べるとおり、殺人犯の役割が「社会に対して人を殺めることの愚かさを知らせること」であれば、その刑は死刑でなければならないはずである。そうでなければ、被害者の死に意味が与えられないからである。もちろん、「二度とこのような悲しい思いをする人がいなくなるように」という目標が現実に達成されることは難しいが、問題はそのことではない。生きて死ぬべき人間が、その実存不安に耐えて人生に根拠を見出す際には、加害者側の動機や反省を中心に作られる物語はあまりに小さく、幼稚だということである。


死刑か回避か 光市母子殺害の差し戻し審22日判決(朝日新聞) - goo ニュース