犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

池田晶子著 『メタフィジカル・パンチ』

2008-04-26 20:22:51 | 読書感想文
(あちこちの文体を適当につなげて、聖火リレーに関する文を作ってみました)

何重もの厳重な警備に守られ、怒号が飛び交う中で行われる聖火リレーに何の意味があるのか。このようなことを考えるよりも、「聖火とは何か」を考えることが論理的に先のはずである。聖火とはただの火ではないのかと問えば、いや、そんなことはないとの答えが返ってくるであろう。いわく、聖火とは古代オリンピックが行われていたギリシアのオリンポス山で太陽を利用して採火され、聖火ランナーによって開催地まで届けられるものだ。この儀式には、ソクラテスやプラトンの時代からのルーツがあり、聖火はその辺に燃えている火とは全然違うのだと。確かにそのとおりである。しかし、それが一体どうしたというのか。

火とは何か。それは、物質と酸素が結びつくことによって酸化し、その酸化反応の過程で熱と光を発する現象である。それでは、聖火と呼ばれるところの特別な火は、いかにして特別な聖火になるのか。それは、人間の言葉によってである。次のような例を考えてみればいい。バスの中で責任者のミスで聖火の種火が消えてしまい、責任逃れのために慌ててライターで火をつけて誤魔化した場合、その前後の火には何か違いがあるか。何もないはずである。そして、その火が世界中から聖火だと思われれば、それはまさに聖火となる。平和の祭典であるオリンピックの儀式としては、それで一向に構わないはずである。

現に、日本の長野で燃えている火は、ギリシアのオリンポス山で採火された火とは全くの別物である。そして、フランスの聖火はフランス上空の酸素によって燃え、中国の聖火は中国上空の酸素によって燃えるに決まっている。これが同一の聖火であって、世界中を回ってきた聖火であると決められるのは、人間の言葉によってである。それゆえに人間は、その物質と酸素の結びつきに過剰な意味を与え、それを何重もの厳重な警備によって守り、その周辺で様々な歓声と怒号を飛び交わす。聖火の出発地を辞退した善光寺では、聖火の騒ぎを横目に、チベット騒乱での犠牲者を弔う法要が行われた。善光寺において静かに燃える蝋燭の火を見るがよい。

聖火をめぐる騒ぎはどうすれば抑えられるのか。それは、このような聖火リレーに何の意味があるのかを問うことではなく、「聖火とは何か」を問うことによって可能となる。それは、酸化反応の過程で熱と光を発する現象である点において、その辺のタバコの火と何も変わらないという身も蓋もない論理である。聖火が聖火であるという議論以前の大前提を疑わない限り、この喜劇はなくならない。現在の形の聖火リレーは、1936年に開催されたベルリンオリンピックにおいて、ナチスによって導入されたそうである。プロパガンダの天才と言われるドイツ宣伝大臣のゲッベルスが、大衆の感情を昂揚させるために、オリンピック発祥の地から火を運ぶというアイデアを思いついたらしい。さもありなん。