犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

この1年 (3)

2013-12-31 19:50:58 | その他

 一度きりの人生において、積み重ねてきたものや人生設計を一瞬で吹き飛ばすものが「被害」であり、この世のあらゆる被害は理不尽です。しかしながら、政治的な視点を持てば、その被害の重さには序列が生じるものと思います。現に、原発被害者支援の正義は風評被害救済の価値と衝突し、後者を犠牲にします。原発は絶対的に危険なものであり、この文脈での安全の要請には意味がないからです。

 また、原発被害者支援活動は「被害者の怒り」を原点としますが、「被害感情」は扱いません。この被害感情というものは、典型的な犯罪被害者が有するものとされ、その内実は生産性のない腹いせへの衝動であり、かつ宥め透かされて抑え込まれることが予定されています。この用語の選択は作為的ではないと思いますが、それだけに政治的な主義主張に基づく序列が表れていると感じます。

 弱者の救済を正義とするこの支援活動において、私が最も偽善性を感じたのが、福島原発の廃炉のために働く作業員への無関心でした。脱原発を主張する弁護士のほぼ100パーセントが、他方では労働者の味方であり、格差解消や反貧困を目指し、苛酷な労働を強いられている人々の救済に取り組んでいます。ところが、脱原発の主張の場面になると、作業員の姿は見事に視界から消えています。

 脱原発を実現するためには、「さよなら原発」と言えば原発が消えてくれるわけではなく、数十年にわたり無数の作業員に廃炉・解体の作業を遂行してもらい、その命を縮めてもらうことが必要となります。ところが、労働者の使い捨ての問題に取り組む弁護士の多くが、なぜか原発ゼロのために働く作業員の存在を忘れます。一刻も早い正義の実現を脳内で考える限り、話は必ず抽象化するからです。

(続きます。)

この1年 (2)

2013-12-31 18:28:00 | その他

 弱者の味方になるという絶対的正義は、いつの間にか「弱者を利用して正義を実現する」という転倒を起こします。抽象名詞の操作によって物理的な動きを生じさせたい人間にとって、この構造や欲望から逃れることは困難だと思います。これが、世の中に言うところの典型的な「正義の味方」です。そして、弁護士が行う従来の犯罪被害者支援には障害が多くなる理由も明らかだと思います。

 原発被害者支援の業務においては、「被害の甚大さと深刻さ」「お金を払っただけで終わらせない」「怒りや恨みは一生続く」といった言葉が多くの弁護士から語られ、全くその通りだと思わされました。同時に、当事者でない者がこれらの言葉を代弁する権利や資格の有無について、改めて考えさせられました。他者の身になる苦しみは、正義の側に立つことの気持ち良さに転化しがちだと思います。

 私がこの点に思い至ったのは、言うまでもなく、原発被害者支援に熱心な弁護士の多くは従来の犯罪被害者支援活動に意義を認めていないからです。原発被害においては、何よりも原発という絶対悪があり、脱原発という将来的な被害根絶の手段があり、東電という社会的権力および政府という公権力が存在します。そして、これらの絶対悪に立ち向かう者が正義でないことはあり得なくなります。

 原発被害と犯罪被害とを問わず、この世で「被害」と称されるものほど理不尽なことはありません。この不条理と絶望を純論理的に突き詰めれば、その先は精神の破壊に至るものと思います。ここでの最大の救いは、前向きな生き方の推奨でもなければ立ち直りへの支援でもなく、絶対悪の存在です。そして、これに対抗する怒りや憎しみ、恨みや悲しみは絶対善でなければ救いがありません。

(続きます。)

この1年 (1)

2013-12-30 23:28:38 | その他

 平成25年、私が新たに担当することになった最大の仕事は、原発被害者支援弁護団に関する事務作業でした。司法制度改革によって法曹人口が急激に増え、弁護士事務所はどこも経営に暗雲が垂れ込めているようです。そして、建前論を抜きにすれば、弁護士事務所は世の中のトラブルのお陰で飯が食えているのであり、しかも飯が食えない形のトラブルには意味がないということになります。

 ここ数年、弁護士事務所にとっての救世主は、消費者金融に対する「過払いバブル」でした。これは、グレーゾーン金利を前提に、多重債務者の救済という正義を実現しながら、消費者金融各社と相互依存の関係を維持しつつ、格差社会や貧困問題に対しては何の根本的解決もなし得ない業務でした。そして、弁護士事務所と司法書士事務所はこのチャンスに群がり、ほぼ食い尽くしました。

 私も組織人の1人として、綺麗事を離れて、次なるバブルを確かに待望していました。一時期、「更新料返還バブル」や「残業代請求バブル」がへの希望が語られた時期もありましたが、これらの期待はあっけなく萎んだように思います。社会的権力や強弱関係を背景として、弱い者の味方をするという大義名分は立つ状況でした。しかし、これらのバブルは弾ける以前に膨らみませんでした。

 あらゆる経済活動の場には利権が生じます。人が食べて行くためには働かなければなりませんし、代案のない主義主張はただの机上の空論であり、お花畑です。司法制度改革の不調が否定できないレベルにまで達し、過払いバブルに続く二匹目のどじょうが待望されていた空気の中で、確かに「原発被害賠償バブル」への期待も生じました。ここには、東電という絶対悪も存在していました。

(続きます。)

ワタミ過労自殺裁判について(13)

2013-12-28 21:24:24 | 時間・生死・人生

 このストレス社会において、上手く精神衛生を保つことを個々の自己管理義務とする思考は、明らかな現実逃避だろうと思います。病理を生理と言い替える苦肉の策はある種の洗脳だとわかっていても、人はあえて洗脳されていないと潰れてしまいます。ここでの批判的精神は人を病弊に向かわせますが、逆に批判的精神を殺すことは人を自死に向かわせることと思います。

 また、利害関係が複雑に対立したこの社会において、働く者の心を決定的に折るものは、組織外のクレーマーからの攻撃的な言葉だと思います。ここにおいて、人は利他的であろうとすることの報われなさ、自己中心的な思考の首尾一貫性を知らされるとともに、自分の労苦が社会につながっていない現実を知らされます。そして、社外の人間は「労働問題」とは全く無関係です。

 他の現代社会の事件と同じように、人間の飽くなき欲望による倫理観の欠如、生死に関する畏怖の感覚の欠如という基本を抜きにはこの議論は始まらないと思います。しかしながら、私の印象では、「労働問題に造詣の深い弁護士」の多くがこのような意見を保守的であるとし、道徳的なものの強制を嫌悪し、より政治的な立場から好戦的に物事を捉えているように思います。

 このワタミの裁判に関する部外者の無責任な願望ですが、原告代理人には国家政策論を広げ過ぎて収拾がつかなくなる陥穽には落ちないでほしいと思います。また、事務方の雑用は長期間かつ膨大になると思いますが、弁護士は「雑用なんか簡単だ」「単純作業は弁護士の仕事ではない」という偉そうな態度に染まらず、縁の下のスタッフへの敬意を忘れないでほしいと願います。

(終わりです。)

ワタミ過労自殺裁判について(12)

2013-12-27 22:14:48 | 時間・生死・人生

 「弁護士が労働問題を争う」となると、そこには必然的に血生臭い空気が生じてきます。そして、個々の人生を賭けた発狂寸前の沈黙は、全て「大企業優遇の国の政策が悪い」という総論の下に位置づけられることになり、イデオロギーの色彩を帯びるような印象を受けます。この大正義同士の抽象的な争いの構造は、この国の厳しい労働環境の実態にとって不幸なことだと思います。

 労働問題の各論においては、長時間労働、パワハラ、セクハラ、名ばかり管理職、サービス残業、賃金引下げ、不当解雇といった縦割りの論点主義を前提に、それぞれに適切な争い方のマニュアルも確立しています。従って、多くの場合、相談者が必死に頭の中を整理して弁護士に切々に訴える話と、弁護士から示される理路整然とした法律的アドバイスは噛み合わないと感じています。

 人に死を決意させるほどの限界的な心情は、他者に対する辛さや苦しさのアピールではなく、自己に対する惨めさや情けなさの攻撃です。そして、法律事務所にとって必要なのは、その心情の掘り下げではなく、医師の診断書やカルテの写しです。これは、請求権を法律的に通すための技巧・戦略であり、「労働問題」の唯一の形です。ここでは、攻撃は全て他者に向かうことになります。

 例えば、「ブラック企業」という新語により、人はそれまで言語化できなかった多くのモヤモヤを語ることができるようになったものと思います。他方で、抽象概念はものの見方を固定化させ、「企業」や「ブラック企業」が実体ではないことを忘却させます。ここには、「ブラック企業を撲滅する」という党派的な利益が生じますが、個々の現場の悲鳴の内実は誰にも届かなくなります。

(続きます。)

ワタミ過労自殺裁判について(11)

2013-12-25 22:57:12 | 時間・生死・人生

 仕事に対する強い責任感を有する者は、誰しも勤める場所を間違えれば過労自殺に至る危険があるものと思います。仕事に対する純粋な高い志を持ち、会社のために役立とうと献身的になっている社員が、世間や組織の汚い部分に包囲され、しかもそれが「社会の厳しさ」であるとされ、「自分自身の甘さ」「社会人失格」の論理に抗えなくなるという世知辛い構造は絶望的です。

 このような環境に置かれた人間の混乱は、その体力や精神力を一気に落とすものだと思います。そして、その混乱に拍車をかけるのが、綺麗事としての「仕事に対する純粋な高い志」を経営者側が独占して握っており、しかも論理が一回転している点だと思います。人を使う立場にある者は、「自分は人に使われる側に立つのは絶対に嫌だ」という哲学をも示すことになります。

 ところが、裁判で問題とされる「因果関係」は、上記の構造とは全く接点がないものです。自死者がうつ状態に陥っていたという精神疾患の生物学的事実こそが求められるのであり、生きる気力を奪われた過程なるものは、死者に聞かなければわからないからです。同じように、ここでは労働時間の長さの数字だけが重要であり、「心地よい疲れ」と「徒労感」の区別もありません。

 私が担当していた裁判は、「業務と自殺との因果関係」を巡る重箱の隅の議論に長時間を費やしただけで終わりました。他の多くの裁判と同じように、概して訴訟というものは、当事者にとって最も重要なポイントは裁判所には関心がないことで、当事者は「こんな話を議論しに来たのではなかったはずだ」「何かが違うような気がする」と言っているうちに終わってしまうものです。

(続きます。)

ワタミ過労自殺裁判について(10)

2013-12-23 22:54:13 | 時間・生死・人生

 過労自殺に追い詰められないためのメンタルの強さとは、現場で鍛えられて成長して身につける種類のものではなく、もっと質の悪い処世術の一つだと感じます。また、現代の複雑な社会を生き抜くためのストレス耐性とは、「人間が生きて働いて生活する」という基本の論理とは方向性がかなり違っており、それ自体の価値を深く追求することは無意味であると思います。

 社会は不条理なことばかりであり、組織というものは理不尽が正論を凌駕する場所です。そして、生身の人間は、これを正面から受け止めてしまえば潰れます。ここにおける打たれ強さとは、労働の喜びとは無縁であり、社会貢献とも全くつながりません。組織においてタフな人材を育てるという目的の下では、戦力になるか否かの思考だけが重要になるものと思います。

 組織の論理に追われて多忙な日常を生かされている者にとって、去った者は邪魔であり、現実問題として相手にしている暇はありません。すなわち、辞めた人、倒れた人、そして死者です。組織の論理の下では、人間の心を持ち続けていれば心を病み、逆に人間の心を失っても心を病みます。この人心の荒廃と「メンタルの強さ」とは、同じ物事の裏表だと思います。

 この社会の全ての事物を吹き飛ばすものが「死」です。死によって、あらゆる会社も組織も消滅させられます。そして、生命の重さを説く理論であっても、過労死や過労自殺という人間の死に方に対する驚きを失った場所では、死の重さは容易に捉え損なわれているものと思います。「生存競争に負けた者が弱いのだ」という命題を巡る左右の政治論に収まるだけです。

(続きます。)

ワタミ過労自殺裁判について(9)

2013-12-22 23:51:15 | 時間・生死・人生

 私が以前に担当していた裁判は、原告側の全面敗訴に終わりました。段の上の偉そうな裁判官から、死者に向かって「あなたの死因はわかりません。私が不明だと言えば不明なのです」と一方的に言われるのは、大真面目な芝居にしては払う犠牲が大き過ぎるものです。このワタミの裁判についても、勝訴か和解かはともかく、敗訴という結果だけは絶対に聞きたくないと感じます。

 敗訴判決後の代理人弁護士は、「日本の裁判所は間違っている」「社員をモノ扱いする会社は腐っている」と激怒します。この感情を実際に支配するものは、依頼者の前でメンツを潰されたことへの憤慨です。あるいは、「弁護士の腕が悪いから負けたのだ」と依頼者に思わせないための保身です。死者が不在の空間で、代理人は死者との委任契約をしていないというだけの話です。

 民事訴訟は法律に則ったゲームであり、訴訟に勝つには技術が必要であり、最大のポイントは重要な証拠を確保することです。裁判に勝って賠償金を得るという目的が正義なのであれば、「上手く証拠を残しつつ死ぬ」ことが何よりに価値が置かれ、生命そのものの重さには価値がなくなります。裁判で勝ち負けを争うということは、制度の側は、人の死を認めることを前提とします。

 国民の法治国家への信頼は、裁判所が正義を実現する機関であることが大前提ですが、ここは専門家との認識がずれているところだと思います。民事訴訟の弁論主義は、「勝手に死んだ子供のために無関係の会社を訴えた親」と、「言いがかりへの対応に苦慮させられる会社」の構造を強要します。また、代理人にとって助かるのは、「しっかりと遺書や日記を残してから死んだ社員」です。

(続きます。)

ワタミ過労自殺裁判について(8)

2013-12-20 23:08:54 | 時間・生死・人生

 これはあくまでも私の個人的な感想ですが、労働問題専門の弁護士が訴訟を遂行すると、企業を悪者とする大上段の正義を前提に「弱者救済」「労働者の人権」「社会を変える」という価値が自己目的化し、原告である家族の真意とのずれが生じることがあるように思います。「私は何のためにここまで息子(娘)を育ててきたのか」という問いは、容易に政治的な主張に転化するものではないからです。

 現代の過労自殺の問題を根本から考えれば、ワーキングプア・二極化・格差社会といった社会問題にまで対象が広がり、複雑な社会の構造全体を論じざるを得なくなります。この理論は、脱原発や特定秘密保護法への反対、憲法9条を守るといった政治的な主義主張ともつながってきます。しかしながら、これらの思想は、原告である家族が裁判に託したものとは全く関連がないはずだと思います。

 私が感じているのは、そのような自死を契機とした正義の実現ではなく、あくまでも自死の生じなかった状態が正義であるという点であり、それは業務と自死との間の因果関係を証明する作業とは逆方向であるという点です。自死に至る具体的な経緯を辿ると、生死は上司や同僚の一言二言によって逆になっていたことが窺われ、殺伐とした空気の中での言葉は簡単に人を殺すのだという現実が明らかになります。

 過労自殺が過労死と大きく異なるのは、健康障害リスクの基準である「過労死ライン」の数値の判定よりも、具体的な個々のストレスが問題になるという点です。そして、人に死を迫るほどの最大のストレス要因は、仕事の内容の話ではなく、社内の人間関係です。ところが、業務と自死との因果関係を証明するとなると、その最大のストレス要因とは微妙にポイントがずれてしまうというのが私の印象です。

(続きます。)

ワタミ過労自殺裁判について(7)

2013-12-18 23:26:01 | 時間・生死・人生

 本来の労働の契機は「世のため人のため」であり、収入は後からくっ付いてくるものだと思います。ところが、今やこの哲学を持ち続けることは精神的な疲労が大きすぎ、私利私欲に徹しなければ自分の身が守れません。経済力を持たない雇われ人の立場の者が、社会貢献への高い志を有したところで、いわゆる社畜として自分の会社の経営陣に貢献するのが精一杯だと思います。

 労働環境が劣悪になればなるほど、「社会の厳しさを知る」「社会の荒波に揉まれる」といった表向きの価値は、倫理ではなく経済力によって意味が決定されてきます。いつの世も、食べて生活することに関する支配の場には絶対的な権力が生じますし、この権力を握るには金銭欲や虚栄心の強さが必要です。他方で、賃金を得て食べていくには、精神的な立ち位置の確保が必要です。

 過労自殺の裁判において、死者の内心にまで立ち入って因果関係を探究している代理人は、実際には別のことを悔いています。勤務先の選択を誤ったこと、必死に順応しようとしてストレスばかり溜めたこと、引き時を逃がしたこと等に対するもどかしさです。職場の合う・合わないは必ずあり、特に体育会系気質の組織に合わないのであれば、早目に辞める以外に解決方法はありません。

 「死ぬくらいならなぜ仕事を辞めなかったのか」という問いに正確に答えようとすれば、「どのような仕事であろうと与えられた役割を真摯に全うする高い志を有していたから」と言うしかないと思います。ところが、この労働の喜び、社会貢献としての労働の価値は、経営者のみが理想論として握っています。権力を持たない者には、労働の喜びと苦痛とを決定する権限が与えられていません。

(続きます。)