犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

河野裕子著 『桜花の記憶』 その2

2012-11-29 00:02:45 | 読書感想文

p.233~

 歌を読むことは、歌を作ることよりももっと難しい。そして、読むことよりも、肉声で批評することはもっと難しくおもしろい。このことに気がついている人は案外少ないように思う。歌会で批評があたり、待っていましたとばかりに滔々と正論めいた持論を展開する人があるが、あれはちょっと違うなあ。

 言い淀んだり、しばらく沈黙したり、ことばに詰まってしまって、どうしようと言ったりする。或いは発言しているあいだに自分の読み方の誤りに気がついて軌道修正する人もいる。批評があたった瞬間、一時的に発声不能になる人もあって、やっと何とかボソボソ一言だけ言う人もあるかと思えば、隣りの席にいる人に助け船をたのむ人もあったりして、これが歌会というものの、生のおもしろさなのだし、これが自然というものである。


p.242~

 わたしたちには、現実がしんどいから歌を作っているという側面が必ずあるはずだ。天気明朗、仕事は楽しい、飯はうまい、よく眠れる、家族とはうまくいっている人は歌など作る必要はない。現実に自足しているならば、文語定型のこんな詩型に苦労する事はない。好きなように人生を楽しめばいいのである。誰にも何にも強制されることなく。

 しかし、現実がどうにもならないものであり、自分自身が途方に暮れたときに、歌を作り、それを読んでくれる仲間たちが居てくれることが何よりも替えがたい慰謝であり生きる力である事に気づいた時、私たちにとって人生の意味は変わってくる。


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 社会科学において、定義されて厳密に使われる言葉の重さは人を殺します。契約書をよく読まずにサインしたばかりに、人は給料を差し押えられて失職し、定期預金を差押えられて全財産を失い、競売で自宅を失います。そこでは、個人的な事情は全く考慮されることがありません。誰が語っても同じ言葉であり、同じように重いものとされ、万人に互換性があります。

 このような一言一句の緊張の中で精神をすり減らしていると、文学で行われている言語の使用は、気楽な「言葉遊び」に見えがちだと思います。しかしながら、善悪や生死の問題に直面すれば、人は互換性のある言葉の限界に突き当たります。ここを社会科学の定義された言語で乗り切ろうとするとき、人は軽い言葉の重さを装わざるを得なくなるのだと思います。

河野裕子著 『桜花の記憶』 その1

2012-11-28 22:57:16 | 読書感想文

p.43~ (津島佑子さんに対する手紙)

 自分自身の内面だとか、ある特定の事実を書く、ということは、本来できないものなのだろう、と私はあなたのエッセイを読みながら改めて思いました。見たこと、聞いたことの生活のひとつひとつの小さな断片を、ことばに変えて、書き寄せてゆきながら、書き手は書き手自身の内側を確かめてゆく。その作業のみちのりを、筆者自身と共に辿るような思いで読むよろこび。このことが、多分、この手紙の初めに書きましたように、津島佑子さんという「私」に、溶けこんでいけたひとつの理由なのでしょう。


p.100~

 歌の常道を踏むべく、死者への鎮魂を装った、如何にも挽歌らしい挽歌を作った一時期もあった。それは自分にとって正直でない愚かなやり方だった。死者の為に、涙くさい歌を作ったとしてそれが自分にとって何の力になろうか。もはやどのように問い、打とうとも、応え返すことのない、打ち返すことのない、絶対的な沈黙の中に入ってしまった存在に向かって、何かを聴く為の耳を持つなど、欺瞞と醜悪の他のものではない。

 なま暖かく湿った情緒でもって、死者を欺いたり忘れたりすることは、その場限りの自慰でしかない。残された者は、おのれという生者の本音を常に吐かせ、それに突き動かされ、揺りあげられて、生き、駆けるしかない。本音を吐かない歌は弱い。恥ずかしい。


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 言葉の本来的な性質が最も強く発揮される場は、「書きながら考える」、そして「書きながら考えが広がる」という点にあると感じます。従って、決まりごとや定義に従って文書を書くということは、無理をして人間が言葉を操っている状態だと思います。但し、社会を動かしている99パーセント以上の文書は、企画書・稟議書・報告書などの実用的な文書であり、言葉のある種の機能のみが用いられている状態だと思います。

 法律の仕事に就いていると、「考えられている文章」を前にすると目が文字の上を滑ってしまうのが悩みです。他方で、考える必要のない文章がスラスラ書けてしまうのも悩みです。例えば、「被告人は今後は二度とこのような犯罪を行わないことは当然として、いかなる反社会的行為も行わないよう自らを戒めることを心より誓っており、また、責任ある社会人としての立場をわきまえ、人生を立て直すことを決意しており、よって、再犯の恐れは皆無である」などといった文章です。

谷川俊太郎詩集 『これが私の優しさです』 より

2012-11-26 00:02:16 | 読書感想文

p.73~ 「もし言葉が」

  黙っていた方がいいのだ 
  もし言葉が 一つの小石の沈黙を忘れている位なら
  その沈黙の 友情と敵意とを 
  慣れた舌で ごたまぜにする位なら

  黙っていた方がいいのだ 
  一つの言葉の中に 戦いを見ぬ位なら
  祭りとそして 死を聞かぬ位なら

  黙っていた方がいいのだ 
  もし言葉が 言葉を超えたものに 自らを捧げぬ位なら
  常により深い静けさのために 歌おうとせぬ位なら


p.95~ 「カベと叫び」

  ワルソーのカベをこわしたひとが ベルリンにカベをつくり
  ワルソーにカベをつくった人が ベルリンのカベをこわそうとし

  ヒトラーと叫んだ人が ケネディと叫び
  ヒトラーと叫ばなかった人も ケネディと叫び
  ケネディと叫ばなかった人は フルシチョフと叫び

  どこにもカベをつくらず 何も叫ばなかった人は
  カベに閉じこめられて 助けを叫ぶよりないのか


p.164~ 「空に小鳥がいなくなった日」

  森にけものがいなくなった日 森はひっそり息をこらした
  森にけものがいなくなった日 ヒトは道路をつくりつづけた

  海に魚がいなくなった日 海はうつろにうねりうめいた
  海に魚がいなくなった日 ヒトは港をつくりつづけた

  街に子どもがいなくなった日 街はなおさらにぎやかだった
  街に子どもがいなくなった日 ヒトは公園をつくりつづけた

  ヒトに自分がいなくなった日 ヒトはたがいにとても似ていた
  ヒトに自分がいなくなった日 ヒトは未来を信じつづけた


p.137~ 「大きなクリスマスツリーが立った」

  キラキラ光っていて この世じゃないみたいにきれいだけど
  これも人間がつくったものだよ
  夜のあいだに大いそぎで ビニールテープを巻いたりして
  時々ビリッと感電したりして
  つくった人は寒くて寒くて きれいかどうかも分らなかったよ

  キラキラ光っていて 永久に消えないみたいにまぶしいけど 
  いつかはこわしてしまうんだよ
  すぐに新しい年がやってきて これもあっという間に古くなる 
  きれいなもののいのちは短いのさ
  ほんのちょっとにぎやかな気分になって あとは夢のように忘れてしまうんだ

  キラキラ光っているものは どうしてもどこかに影をつくる
  影しか見えない人だっているんだよ 影のほうがいいとすねてる人だっているんだ
  そんな人にかぎってほんとうは もっともっとキラキラと明るいものに
  それが何かはよく分らないくせに もう泣きたくなるほどこがれているのさ


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 谷川さんは昭和60年5月の著作の中で、「これだけ情報があふれ、危機にみち、人間のエゴイズムが複雑にからみあった現代の地球上の人間社会に、ひとつの全体的なヴィジョンを回復するなんてことは至難のわざだ」と語っています。詩が主観を通した万人に当てはまる言葉を獲得しようとするとき、情報と欲望の増大に伴う大量の言葉に飲み込まれれば、これは言葉そのものの危機に他ならないと思います。

 この世には「詩」という名称があり、「詩」という形式があるがゆえに、詩ではないものが詩のような顔をしていることも多いようです。このことから、詩人の夢想というものが、現実から離れた夢想の意に捉えられがちだとも思います。しかしながら、形而上において詩的な言葉でしか説明できないような「そのもの」を語る行為が、形而下において真理を示す言葉でないわけがないですし、世の中を正しくする活動でないわけがないと思います。

大野更紗著 『困ってるひと』

2012-11-25 22:21:18 | 読書感想文

(原因不明の難病を発症した女子大学院生のエッセイです。)

p.101~
 今思えば、あの病院は、わたしにいろんな大事なことを教えてくれた。重度の障害や、難病、あるいは精神疾患を抱えた人たちが、日本社会の中で、どういう扱いを受けているか。「現実」とは「矛盾」とは、何か。弱者にされるとは、どういうことか。研究室にいくら籠っていようが、一生、実感として学ぶことはなかっただろう。正直な気持ちを言えば、あの壮絶な環境をどうやって、誰も傷つけないように書けばいいのか、伝えればいいのか、わたしにはわからない。


p.139~
 一生、この先、病に怯えながら、苦痛に苛まれながら、耐えて、耐えて、なぜそうまでして、生きなければ、ならないのだろう。1月、2月、真冬。極寒。わたしの精神は、いったん、死を迎える。昨今、巷で大流行している「絶望」というのは、身体的苦痛のみがもたらすものでは、決してない。わたしという存在を取り巻くすべて、自分の身体、家族、友人、居住、カネ、仕事、学校、愛情、行政、国家。「社会」との、壮絶な蟻地獄、泥沼劇、アメイジングが、「絶望」「希望」を表裏一体でつくりだす。


p.142~
 ひとが、病や死に直面するというのは、ドラマや小説のようなものじゃない。瀕死の状態、手術中、そういった劇的な「瞬間」は、すぐに過ぎ去ってしまう。病に限らず、現実のものごとに「向き合う」という作業は、長く、苦しい、耐久デスマッチみたいなものだ。そして、その苦しみは、身体的苦痛だけがもたらすものではない。病の症状に耐えるだけで大変な患者を決定的に追いつめるのは、社会のしくみだったりする。患者にとってのデスマッチの相手、「モンスター」は、社会そのものだ。


p.231~
 思考は、完全に停止した。ただ、涙だけが流れた。とめどなく。夕食は、一切喉を通らなかった。薬も飲めなかった。何も話せなくなった。ベッドの上に寝そべっても、トイレに行っても、洗面台の鏡の前で手を洗っても、電気ポットからお湯をくんでも、ただ、涙が、ダムが決壊したかのように流れ続けた。身体の中の水分がなくなってしまうのではないかと思うほどに。最後の糸は切れて、私をつなぎとめるものは、なくなった。

 崖の淵で、すれすれで立っていた。そこで、何の因果か偶然、先生が私の背中を押した。突き落とされた「底」には、言葉も、感情もなかった。誰もいなかった。これが本当の絶望なんだと思った。これがひとの死だと思った。そこには、苦しみ以外に、何もなかった。生きる動機は、なかった。


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 サービス業においては、「困っている方がいらっしゃいましたら、お一人で悩まず、お気軽にご相談下さい」という宣伝文句が溢れています。そして、費用対効果が低いとなれば、相談を適当に切りあげて、上手いことお引き取りを願うのが通常だと思います。法や経済が作り上げた精緻なシステムは、本当に「困ってるひと」の前にはうろたえるばかりです。そして、多くの人が制度の限界を知りつつこれを避け続けてしまえば、社会は、人間を苦しめるための虚構になるのだと思います。

 人間は動物ですが、人間以外の動物は言語を話さず、人間のみが「痛い」という単語を持っています。ここで、身体の痛みは、極めて動物的なものだと思います。そして、言語によって思考する人間において、その言語の対極にある動物的なものが「痛み」だと思います。痛みを感じつつ言葉を失わない人間が、脳内を「痛い」という単語で占領されたとき、思考は停止します。これを言語で表現すると、「痛い!」だけだと思います。言語は、苦悩や絶望が極まれば極まるほどそれを語れず、身体の痛みはさらに切迫していることを思い知らされます。

 これに対し、世の中の痛くない人々によって冗舌に語られる言語は、なべて理屈っぽいものと思います。法的手続きに必要な膨大な書類が膨大であり、複雑な仕組みを構成する抽象概念の山が人々を苦しめていることは、手続民主主義の当然の帰結だろうと思います。外部からの不正や内部の不祥事に正面から対応しようとすれば、結果よりも手続上の公平性・透明性・参加性が求められ、「単に手続が遵守されていればよい」という自己目的化が避けられないからです。そして、人が全人生を賭けた苦痛を語る言葉の前に、抽象概念の束は無力だと思います。

木慶子著 『悲しみの乗り越え方』より

2012-11-22 00:02:11 | 読書感想文

p.86~ 「千の風になって」を拒む気持ち より

“秋は光になって畑にふりそそぐ 冬はダイヤのようにきらめく雪になる”
“朝は鳥になってあなたを目覚めさせる 夜は星になってあなたを見守る”

 秋になると日が短くなりますから、光になるというのは、とても貴重な存在になるということ。冬の雪はダイヤのようだというのも、美しく、嬉しくなるようなイメージです。鳥になって、星になってと、生きている人を見守ってくれる死者の存在を私たちに感じさせてくれます。

 ところが、私がグリーフケアで出会った遺族の方が、この歌を「嫌い!」と一蹴しました。「私の死んだ主人に、風になんかなってもらっては困るのよ! 千の風になっては、姿が見えないじゃない。鳥になっても嫌、光なんて嫌よ!」 そういって、腹を立てるのです。

 その方は、3人の方から「千の風になって」のCDを贈られたと言います。「グリーフケアにいい歌だと思われているのね。子どもが“これは死んだパパの歌ね”なんていうテレビ番組もあった。でも、私としては、主人は主人としてあの世にいるんだというイメージを一生懸命描こうとしているのに、こんなのに騙されたくないの!」

 実は、こういう人は1人や2人ではありませんでした。「“墓になんかいません”なんて言わないでください。私たちはお墓が拠り所なんです」「“死んでなんかいません”なんて言わないでください。死んでいなかったら、こんなに苦しみません」と、何十人という人からお小言を言われました。


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 『千の風になって』は、紅白歌合戦で平成18年~20年の3年連続で歌われ、いわゆる「国民の誰もが感動する歌」になりました。情報化社会においては、マスコミによって「良い」とされたものは、「嫌だ」という意見が出てくる余地がほとんどなくなります。その内容が嫌いであっても、押し付けられるということが嫌いであっても、「国民的に愛されている歌のどこが悪いのか理解できない」という空気の前には口を噤まざるを得なくなるものと思います。

 この歌が大ヒットしていた頃、朝日新聞社主催で、「千の風になったあなたへ贈る手紙」コンクールが行われていたことを思い出します。訳詞・作曲者であり選考委員長である新井満氏による選考基準には、「喪失の悲しみを乗り越えて元気に生きている現在が書かれていること」「感動があること」という項目がありました。私はこの部分を目にしたとき、何とも言えない強制力を感じ取ったことを覚えています。

 東日本大震災が起きた昨年、『千の風になって』が紅白歌合戦で歌われなかった理由について、現場でどのような話があったのか、部外者にはわかりません。しかしながら、震災直後から懸命の捜索活動が続き、家族は足を棒にして遺体安置場を回り、DNA鑑定による必死の身元確認が続き、なお3000人が行方不明である状況を前にして、「千の風になって吹きわたっている」ことは、あまりに感傷的であり、無神経であったのだと思います。

シンドラー社製エレベーター事故

2012-11-20 22:16:55 | 国家・政治・刑罰

11月16日 NHKニュースWEB 「エレベーター事故 初公判見通し立たず」より

 平成18年に東京・港区で、高校生がシンドラー社製のエレベーターに挟まれて死亡した事故は、裁判の争点を整理する手続きが、これまでで最も長い3年に及び、現在も初公判の見通しが立っていないことが分かりました。この事故は、平成18年に東京・港区のマンションで、当時16歳の男子高校生がエレベーターのドアに挟まれて死亡したもので、「シンドラーエレベータ」の東京支社の元保守部長ら5人が在宅のまま起訴されました。

 15日夜、東京地方裁判所で、裁判の前に争点を絞り込む17回目の「公判前整理手続き」が行われましたが、関係者によりますと、初公判の日程は今回も決まらず、裁判が始まる見通しは立っていないことが分かりました。シンドラー側は「事故の前の点検では、ブレーキに関する装置に故障はなかった」と無罪を主張する方針ですが、争点が複雑なことや、検察が鑑定を改めて行ったことなどから、公判前整理手続きは3年に及び、制度が始まってから最も長くなっています。

 こうしたなかで、先月、金沢市のホテルでも同じメーカーのエレベーターで死亡事故が起きていて、非公開の手続きが続き、裁判が始まらないまま再び事故が起きたことに、遺族から批判が出ています。死亡した高校生の母親の市川正子さんは、「裁判がスタートしないことに憤りを感じる。早く裁判で重要な証拠を明らかにして、真の安全対策につなげてほしい」と話しています。


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 先日の金沢市のホテルでのシンドラー社製エレベーターの事故のニュースを聞き、港区の事故のことを思い出しました。また、私が港区の事故のことを忘れていたことも思い出し、このニュースで裁判が始まる見通しは立っていないことも初めて知りました。「犯罪被害者の方々が置かれている状況について国民の理解を深める」「被害者の方々の権利利益の保護が一層図られる社会の実現」といった言葉を羅列するしかない我が身の無力さと、偽善性に気付かされます。

 私は医療事故の裁判に接した経験を通じ、「争点の複雑さ」「証拠の膨大さ」「鑑定の解読の専門性」の前に「人の生命の重さ」を語ると、裁判実務の現場では子供扱いされて嘲笑されることを痛いほど知りました。そして、民事裁判であるか刑事裁判であるかを問わず、積み上げられた概念のピラミッドの下の下のほうから頂上を見上げては、誰が何のために裁判をしているのかが全くわからなくなり、頭をクラクラさせていました。「人の生命の重さ」という言葉だけを借りて、細かい争点の議論に戻るのみでした。

小池龍之介著 『考えない練習』

2012-11-17 23:20:52 | 読書感想文

p.194~

 実際のところ、困っている人にしてあげられる最も大事なことは、静かにしてあげることです。黙って話を聞いてあげることです。一方で、本人が苦しんでいるのに、それまでのすべてを肯定して、「あなたは何も悪くない」などと言うのは、その場しのぎの気休めでしかありません。欧米式のカウンセリング理論の下では、こうした全肯定のカウンセリングが行われることが多いようです。相談する方の一方的な安心感を得られるのは確かでしょうが、心の歪みはそのままですし、根本的な解決には至らないことでしょう。

 いずれにしても、困っている方の話を聞いてあげられるのなら、まだ良いでしょう。それすら多くの方はできずに、弱っている相手の話をよく聞かないうちから持論をとうとうと述べてしまうのです。困っている人を見ると、これは押しつけではなく人助けであると誤解し、反応してしまいます。自分は素晴らしいことをしているのだと自己錯覚して、抑制のストッパーが利かなくなってしまうのです。

 良い自分、優しい自分と思いたいがゆえになされる「優しさ」は、本人も無自覚であるがゆえに、しばしば押しつけがましいものになってしまうのです。誰かをかわいそうだと同情する時、それはたいてい優越感から来る感情ではないでしょうか。相手に対してかわいそうと思える自分に興奮し、「かわいそうと思っている自分は良い人である」というイメージに浸っているのかもしれません。


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 セクハラ・パワハラ・モラハラなどの精神的ストレスが労働問題として法律的に争われる場合、当人の疾患がなかなか改善しないばかりか、薬を増やされて薬漬けになってしまうという状況を目にします。医師やカウンセラーがプロであるが故に、それぞれのプライドや誇りがあり、「先生と患者」という力関係もあり、なおかつ医師やカウンセラーは法律問題については素人であるという点も関係していると思います。

 何週間も待たされて心療内科に行って話をしてみても、仕事の具体的なところはその会社のその場にいなければ解らないため、肝心なポイントが通じず、アドバイスが真に迫らないという話も聞きます。医師やカウンセラーとの相性が悪く、何か所もクリニックを変えているという話も耳にします。セクハラ・パワハラ・モラハラなどの行為は、それぞれの人生の根本的な部分をその瞬間に破壊するという点が本筋でありながら、当人の症状のほうから入ると、どれも「うつ病の診断書」と「薬の処方箋」になってしまうのだと思います。

 逆に、法律家のほうは精神医学について素人であり、精神的ストレスを労働問題として扱う場合、かなりピントが外れるように思います。社員が心療内科に通って治療しなければ「ストレスを放置して健康管理に務めなかった」という問題になり、通院を隠していれば今度はそのことが問題とされます。また、薬を飲んでいれば「業務に支障が出る」という問題になり、飲んでいなければやはり「業務に支障が出る」という問題が起こります。結局のところ、法律家のほうは証拠としての「うつ病の診断書」と「薬の処方箋」だけを求めていることが多いと感じます。

川上徹也著 『独裁者の最強スピーチ術』

2012-11-15 00:02:32 | 読書感想文

p.122~

 独裁者やカリスマになりたければ、聴衆の声が聞けるテレパシーを身につける必要がある。聴衆が一番聴きたいのは、自分が心の奥底で思っている言葉だ。心の奥底で思っているのだけれど、うまく自分で言語化できなかったり、口に出すのがはばかられるような言葉が聴きたいのだ。特に日頃から不満を抱え爆発しそうな状況になっている時、その効果は大きい。

 ヒトラーは、民衆の心の中にある「言いたいこと」「爆発しそうになっていること」「理想」を探しあて言語化することが天才と言えるほどにうまかった。ヒトラーはただ自分の思っていることを気ままに語ったのではない。ドイツ国民が心の奥底で思っている「願い」を語った。思っていながら、そんな「願い」はかなうわけないよな、と打ち消してしまうようなことを堂々と語った。


p.222~

 独裁者ヒトラーと橋下徹の演説・スピーチの手法には、共通する部分が多い。もちろん、それだけで「橋下が独裁者になる、ヒトラーになる危険性がある」というわけではない。もちろん時代が違う。そんなことが今の日本で本当にできるとは思わない。思わないけれども、頭の隅にはその懸念を常にもっておいた方がいい。たった1人の考えだけで、物事がすべて動いていくのは、危険であることは歴史が証明している。

 正直に告白しよう。私は橋下徹に期待している。大阪はもとより、日本の政治を少しでも変えてもらいたいと思っている。我々が政治家を評価する時、大切なのは「政策」でもないし、「実行力」でもない。彼や彼女が語る「言葉」なのだ。もし、橋下の政策や手法が気に入らないという政治家がいたら、ただ批判するだけではなく、対抗するだけの「言葉力」「スピーチ力」を身につけて、彼とは別の魅力的なストーリーを語ってほしいと思う。


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 橋下徹の演説とヒトラーの演説は似ていると言われます。ここから、橋下氏とヒトラーが似ているという推論がごく自然になされるのは、「言葉はその人そのものである」という言語の性質をよく表しているように思います。口が上手い、レトリックに長けているという評価は、通常は中身がないという評価を前提としています。しかしながら、これらは全く別の問題であり、中身があるかどうかは別に判定されるべき要素だと思います。むしろ、「口先だけだ」「騙されてはいけない」という警告それ自体に中身はないと思います。

 橋下氏とヒトラーの類似が語られる際には、「現在のところ民主主義よりも優れたシステムは発明されていない」ことを前提に、ヒトラーは民主的かつ合法的に独裁者となった事実が挙げられるのが通常だと思います。いわゆる「人類の苦い経験」と、なおかつ信じられるべき民主主義の可能性です。そして、民主主義は統治機構の原則論である以上、この話は必ず形式的になり、抽象論に流れ、庶民が日々苦しんでいる具体的な問題と乖離するように思います。これでは、橋下氏の演説に完敗するのは当然だと思います。

本村洋、宮崎哲弥、藤井誠二著 『光市母子殺害事件』 その3

2012-11-13 23:13:21 | 読書感想文

p.25~

藤井:
 死刑廃止運動に関わっている弁護士や学者らは、このところ犯罪被害者の声を理解するようなそぶりを見せていますが、実際は死刑廃止運動を邪魔する目障りな存在としか捉えていない気がします。

宮崎:
 もっと明け透けに言うとね、彼らは「本村さえいなければ、こんなことにならなかった」と絶対に思っている。「本村をはじめとする犯罪被害者の声がメディアに取り上げられなかったなら、死刑はすでに廃止段階に入り、被疑者・被告人・受刑者の人権はもっと手厚く保障されたはずだ」と。

本村:
 僕が検察と手を組んでいるように見えるわけですね。

藤井:
 本来なら犯罪被害者というのは、敵とか味方ではなくて、右も左も関係なく救済されるべき対象のはずなんです。けれども、それがイデオロギー闘争として、向こうから「敵」と看做されるようになってしまった。それは死刑に反対している人々が左翼的な運動のある種の代表みたいになっている状況が今の日本にあるからなんですが、逆に言うと、これまで彼らが犯罪被害者という存在を無視してきた証左でもあります。

宮崎:
 人間は政治的動物という属性を不可避的に帯びていますから、社会を動かすアクションに乗り出した以上、何がしかの政治的軋轢が生じるのはやむを得ない。これが現実です。

本村:
 そうですね。それまで僕は、「司法と戦う」とまでは言いませんけど、司法に対してきちんと一個一個の事案を見て判断を下してもらいたいということを主張したかっただけなんですよね。明らかに反省していない少年を目の前にして、「もう反省している」という判決を書いて、これまでの判例に倣って刑を下すというような裁判のあり方を直してもらいたかったんです。


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 弁護士事務所において実際に事務手続をしているのは、弁護士ではなく、低賃金の事務職です。光市事件において「ドラえもんが助けてくれると思った」という文字をパソコンで打ち、それをプリンターで印刷し、誤字脱字がないか一字一句チェックし、ホッチキスで止め、各事務所間でファクスをしたのは恐らく事務方の人々です。最高裁の弁論の日に模擬裁判のスケジュールを入れるように命じられて粛々と処理を行ったのも、苦情の電話への対応や懲戒請求に対する答弁書の作成に追われて連日の深夜残業を強いられたのも、恐らく事務方の人々です。この目の前の苦悩が見えない弁護士には、遠くの苦悩は見えないはずだと思います。

 あまり知られていないことですが、弁護士事務所では事務方に対して労働基準法が守られていないことが多く、サービス残業はおろかセクハラも頻発しています。どの組織でも、対外的に正義感の強さを標榜する者は、内部では権力を振りかざす独裁者になりがちだと思います。「正義の味方」という外面の良さが強調されるほど、そのまま「灯台下暗し」という陥穽に落ちるということです。「法律の専門家である弁護士が労働基準法を守らないのは矛盾だ」というのは、あくまでも外部からの理屈です。組織の内部では、「司法試験に受かっていない素人の事務方が弁護士に労働基準法を説くなど恐れ多い」という力関係があります。

 ある人権派弁護士の秘書をしていて精神を病み、退職を余儀なくされた方の話を聞いたことがあります。その弁護士の著作を読むと、「過ちを犯しても何度でもやり直せる社会を作ることの重要性」や「人の過ちを赦すことの大切さ」が述べられており、優れた人格者であることが窺われます。他方、元秘書の方は、コーヒーが温ければ怒られ、コーヒーが熱ければ怒られ、ホッチキスの玉がなくなれば激怒され、ボールペンのインクが出なければ激高され、探している書類が見つからないときなどは烈火の如く怒鳴りつけられ、秘書がコピー用紙のサイズを間違えたときなどは人格まで否定され、不眠症からうつ病に陥ったとのことでした。

 光市事件で死刑判決が言い渡され、記者会見を終えて各々の事務所に戻った弁護士を迎える空気を、私はあまり想像したくありません。不機嫌で一触即発の状態の弁護士の周りで、ピリピリして張り詰めている事務方の状況を思うと、身が縮こまります。すぐに上告だ、再審だとして大量の仕事を言いつけられたならば、組織のために働いて給料を得ている社会人は、事務作業を淡々とこなすのみです。自分の意見を持つ余裕もなく、無色透明の雑用係に徹するだけです。ここでは、「仕事である」との割り切りが全てであり、仕事の流儀、やりがいといった概念の出る幕はないと思います。「人殺しは赦されるべきだが仕事のミスは絶対に許されない」という価値序列に身が持たなくなるからです。

本村洋、宮崎哲弥、藤井誠二著 『光市母子殺害事件』 その2

2012-11-12 23:58:52 | 読書感想文

p.196~

本村:
 個人的な感情はやはり薄れてきているのかもしれない。10年という時は長いです。いろんな記憶が薄れていきます。例えば、妻や娘の声を今聞いて、的確に言い当てられるかと言えば、自信がないです。
 少しずついろんな思いとか考えが変わってきたということもありますし、自分自身も1つの事件だけに固執するのではなくて、いろんな方と出会ったり、話をすることで、視野が少しずつ広くなっていったと思います。ですから、世間から感情が薄れているというふうに詮索されても仕方がないのかと。

宮崎:
 しかし、それがいけないことなんですかね。私は常々「被害者遺族が人生を享受するのは不謹慎である」とするような世の中は根本的に間違っていると思っているのです。

本村:
 2人の苦しみとか憎しみを僕はわかってあげられないかもしれないですが、2人の命をいかに無駄にせずに、社会に反映させてあげられるか……。僕も当然、いつか命が尽きていなくなります。事件から50年、100年と経ったときに、この事件をきっかけによくなった法律が残っていたりすれば本望かなと思って今活動や発言をさせてもらってます。

宮崎:
 それはそれで貴重な志だし、本村さんにしかできない事業だと思いますが、その目的達成のために、「普通の」暮らしが送れず、過度にストイックな人生を歩まなければならないとすれば、それは被害者救済のためにならないような気がするんだよね。運動は運動だし、それは人生のほんの一部でいい。ラディカルに言えば、被害者遺族という立場すら、本村洋という人間の一面に過ぎない。

藤井:
 ステレオタイプな被害者像をむさぼっているだけの社会では、とても大事なことだと思いますね。本村さんのご両親が以前「もう一度、結婚して家庭を築いてほしい」とおっしゃられていたことを思い出しました。


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 本村氏はこの対談において、自分が市井の会社員であること、普通のサラリーマンであることを何回も述べています。あまりに当然のことを繰り返さなければならないのは、社会の側が押し付けるステレオタイプの像が動かし難いからだと思います。これは、いわゆる死刑廃止に向けた活動が常時存在するイデオロギーであり、活動家におけるライフワークであることに否応なく対応させられている結果だと思います。そして、「人権派弁護士の苦しい闘い」は自由意思で選んだ結果の自己実現ですが、「被害者遺族の苦しい闘い」は常に脱出したいのにできない絶望であり、同列に並べられるものではないと感じます。

 本村氏は事件から9年経った頃、精神的に限界となり、犯罪被害者に関する講演活動を一切やめて仕事に集中したとのことです。この辺りも、死刑廃止論の政治的主張との違いが際立ちます。本村氏は事件以後、自分の生活を立て直すことに苦しみ続けているとのことですが、これは単純に事件と向き合うことでも避けることでもなく、イデオロギーの入り込む余地はないと思います。藤井氏は、本村氏の活動ではない生き様全般を評して、「生活者としての日常」と「被害者遺族としての非日常」の間を移動させられているのだと述べています。

 会社組織の中で給料を得るということは、組織に貢献しつつ自己の評価を高め、会社が抱える課題に積極的に取り組み、その職責を果たすことです。右肩上がりではない時代には、技術と専門性を持った汎用性の高い人間でないと生き残れませんし、社交性・コミュニケーション能力を高めるためには世俗的なものを軽視してはならず、話題が豊富であることが求められます。そして、会社人間にならず広く社会に目を向けると言っても、会社の利益を害してしまえば、社会人として失格との烙印を押されるのがこの社会です。ここにおいて、形而上の「命の重さ」との次元の差異による軋轢は避けがたいと思います。

 社会人が直面する厳しさとは、1つの失敗で責任者の首が飛び、あるいはリストラの嵐に翻弄されて人生設計が根本から狂い、あるいはパワハラで全人格を否定されて死の淵に追い詰められることであり、そこでは胆力と言われるところの精神力の強さが1つの指標になります。また、組織においては、リーダーシップのみならず調整力も備えていなければ、人望を集めるのは困難だと思います。このような世界を生き抜く難易度は、元少年が殺人を犯した後に反省して更生する難易度とは比較にならないほど高いと感じます。それでも、ある日突然妻子を殺される事実を前にすれば、社会の荒波も太刀打ちできないと思います。