犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

光市母子殺害事件差戻審 17・ 弁護団は本村洋氏の言葉を恐れている

2008-04-10 15:05:58 | 国家・政治・刑罰
光市母子殺害事件の広島高裁における差戻し審において、元少年が一転して殺意を否認したことにつき、遺族の本村洋氏は「心に入ってくる言葉はない」「非常に疲れた。じっと歯を食いしばって聞いていた」「被告にはとにかく正直に真実を述べてほしい」「被告が反省している姿を見たい」とのコメントを残した。その後、世論の間には元少年の弁護団に対する大きな違和感が広がり、これが橋下徹弁護士による懲戒請求の呼びかけにもつながった。世論からの批判に対して弁護団側は、例によって上から目線による説明付けを図る。すなわち、被告人が裁判において防御権を最大限に行使することは近代刑事裁判の基本原理であり、その当然の行為を批判することは現行の憲法・刑事訴訟法の根幹を全く理解していないことに他ならず、適正手続の保障・無罪推定原則などの憲法上の価値原理に基づく制度的保障を危うくするものであるとの主張である。

この一連の流れの中で注目すべきことは、本村氏本人は懲戒請求を煽動したこともなく、橋下弁護士の呼びかけに対して何も言っていないという点である。そして、元少年の弁護団は本村氏本人に対する批判ではなく、本村氏に共感して弁護団を批判する人々に対する再反論を展開しているという点である。弁護団は、本村氏本人に対する批判は極力避けていると言ってもよい。これは、本村氏が「心に入ってくる言葉はない」と感じていたこと、じっと歯を食いしばって聞いていたこと自体は批判しようがないからである。弁護団といえども、さすがに「元少年の言葉をあなたの心に入れるように努力して下さい」「歯をくいしばらないで下さい」とまでは言えない。これが、当為命題(Sollen)は当為命題に対してしか批判ができず、事実命題(Sein)はそのまま認めているしかないという恐るべき現実である。

政治的な主義主張は、すべて当為命題(Sollen)である。これは、ねじれ国会における自民党と民主党の対立、さらにはアメリカ大統領選挙などを見ていればすぐにわかるが、善悪二元論同士の正義の戦いである。自己の正当性と他者の虚偽性を声高に主張する、政治とはそういうものである。すなわち、「自分は正しい、自分に反対する者は間違っている」式の単純な図式である。元少年の弁護団が、本村氏に共感する世論に対する再反論しかできないのも、この政治的な構図の限界によるものである。弁護団は、「元少年は反省して真実を話すべきである」という政治的な要求に対しては、それは間違っているとの再反論を繰り広げることができる。これに対して、本村氏における「被告が反省している姿を見たい」「正直に真実を述べてほしい」との言葉は、あくまでも自らの内心の記述であり、他者への主張ではない。従って、弁護団も怖くて手がつけられない。

世論が近代憲法の理念を後ろ盾に持つ弁護団ではなく、法律の知識のない本村氏に共感を覚えたのも、この事実命題(Sein)の事実性に基づくものである。近代憲法の理念は、確かに被告人が裁判において防御権を最大限に行使することを保障している。これは歴史の経験の集積であって、弁護団の言うとおりである。しかしながら、問題はその先である。原理原則を展開するならば、そこに収まりきれない人間の感情が二重三重に錯綜し、これを一言で片付けようとすれば、そこには心理的な誤魔化しが生じる。確かに刑罰はどこまで行っても国家による人権の制約であり、冤罪はあってはならず、感情の盛り上がりによる過度の重罰化も問題である。それは重々承知の上で、やはりモヤモヤしたものが残る。近代刑事法の理念は、憲法や条約をもって「モヤモヤする必要などありません」と宣言してくれるが、そう言われるとますますモヤモヤしてくる。そして、物事を簡単に割り切りすぎる弁護団の鈍感さに違和感を覚える。事実命題の事実性は、このモヤモヤしたものの存在それ自体を指し示す。

現代社会において、本村氏のような経験をした人は圧倒的少数である。さらにその中でも、本村氏のようにマスコミに顔を出して語る人は非常に少ない。それだけに、政治的な主義主張ではなく事実命題を事実としてのみ語る本村氏の言葉は、そのままでは怖くて聞けない。何と言っていいかわからない国民は、慌てて体勢を立て直し、本村氏の言葉は従来の枠組みで説明できる形に解釈される。弁護団へのバッシングや懲戒請求も、行き場のないエネルギーがそのような形を採ったものであり、本村氏の意向とは関係がない。本村氏本人は、世論の過剰な盛り上がりについては嬉しいとも迷惑とも言えないが、これは事実命題と当為命題の断絶からすれば当たり前である。元少年を死刑にしても死者は戻らない、それゆえに元少年は死刑判決を受けなければならない、この逆説は当為命題で語れるものではないからである。元少年の弁護団が何より恐れているのは、懲戒請求の殺到よりも本村氏の一言一句である。

裁判において被告人が防御権を最大限に行使することは近代刑事裁判の基本原理である、弁護団によるこの主張は、一般性の中に元少年を解消させる効果を持つ。これに対して、本村氏は被害者遺族の一般性の中に自らを解消させることなく、過酷な運命を課せられた個人に執着し、手探りで論理を組み立てている。そこには、元少年の弁護団とは対照的に、子どもじみた甘えはない。啓蒙思想に基づく近代刑事裁判の大原則は、「悪いことをしたんだから反省して当然でしょう」という常識を見事に逆転させ、それによって広く支持を得た。しかしながら、最初はどんなに新鮮であっても、物事を二元的に割り切りすぎれば、言葉にできないモヤモヤ感は蓄積されることになる。これはまさに歴史の経験であり、人類は人権論が言うところの「歴史の経験から学んだ時」から更に時をを重ねていることの証拠でもある。弁護団が本村洋氏の言葉を恐れているならば、それは自らの偽善性、欺瞞性に気がついていることの表われである。

光市母子殺害事件差戻審 16・ 加害者と被害者は対立しているか

2008-04-10 01:01:48 | 実存・心理・宗教
対立とは、二つのものが反対の立場に立つことであり、互いに譲らないで張り合うことである。すなわち、対立させれば対立していることになるし、対立させたくなければ対立させないことができる。客観的な世界の存在を前提とすれば、人間の意志を離れて「対立状況」なるものが存在することになる。しかしながら、客観存在は幻想であり、すべては主体的意志による解釈であると考えるならば、対立とは人間の欲求の産物にすぎなくなる。これは、ポストモダンの哲学においては広く採られている視角である。ここでは、対立していることを前提に妥協や調整を図るのではなく、なぜそのような対立軸を設けたのか、その問題設定自体を問題とする。人権論を基調とする法律学では思いも及ばない視点の採り方である。

加害者と被害者は、一般社会においては対立するものとして捉えられている。これは読んで字の如くである。Aが加害者と呼ばれ、Bが被害者と呼ばれるとき、その行動はコインの裏表となる。すなわち、Aが殴ればBは殴られたことになり、Aが盗めばBは盗まれたことになり、Aが殺せばBは殺されたことになる。どう見ても完全な対応関係である。しかしながら、近代刑法の理論からは、この両者を対立させてはならなかった。国家権力と市民を対立させた以上、その各論として、捜査機関(警察官・検察官)と被疑者・被告人を対立させなければ説明がつかないからである。そして、意図的に加害者という呼称を避けた上で、「本当に加害者かどうかを決めるのが裁判手続きであるから、被告人は加害者とは限らない」との理屈を考え出した。これも、誰と誰を対立させたいのか、結論を先取りした上での逆算である。

国家権力による取調べや刑罰から被疑者・被告人の人権を守るという刑事弁護の活動は、伝統的に左翼イデオロギーとの親和性がある。いつの時代も、青年の血気やロマンティシズムは、権力に逆らう形で発現しようとする。今や安保闘争などの学生運動、国会前のデモなどはなくなってしまったが、刑事弁護活動は、現在も青年のロマンティシズムの典型的な受け皿として機能している。無罪や死刑廃止を求めて戦う人権派弁護士は、どんなに歳をとっても「青年」である。それは、一方では絶対に凡人の枠に収まろうとしない若々しさであり、他方では危ないところに自分を追い込んで試したいという幼稚っぽさである。この破壊的な衝動は、単に反権力的、反道徳的というだけでなく、この構図から外れた存在を無視しようとする。これが、国家権力から被告人の人権を守る過程における被害者の見落としである。

刑事弁護活動が人権論として成立するためには、常に国家権力と被疑者・被告人との対立軸が存在しなければならない。従って、捜査機関が温厚で和気藹々とした取調べをしていては困るし、被疑者が自白して反省してばかりでは困る。捜査機関は強引な取調べをして定期的に誤認逮捕や冤罪を発生させなければならないし、被疑者にはどんな弁解を弄してでも否認してもらわなければならない。この両者の相互依存関係がなければ、国家権力と被疑者・被告人という対立軸の設定が怪しくなるからである。そして、加害者と被害者という一般的な対立軸のほうが目立ってしまうからである。「被害者と被告人は対立する存在ではない」と主張し、犯罪被害者の問題を「心のケア」に押し込めようとするのは、警察・検察権力と闘いたいという欲望にとっては単に邪魔だからである。