犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

ある多重債務者夫婦の法律相談 その2

2010-10-22 00:01:11 | 国家・政治・刑罰
(「その1」からの続きです。)

 数ヶ月後、彼は弁護士会の委員会の席で、同期の弁護士に出会った。その雑談の中で、同期の弁護士は、ある夫婦の依頼者との出会いを口にした。それは、弁護士の地位を超えて1人の人間としての人生観を変えられるほどの衝撃だったとのことである。

 その夫婦は、娘と3人で賃貸マンションに暮らしつつ、老後のために堅実に貯金もしていた。4年前、25歳の娘を突然襲ったのが癌であった。3人は一丸となって病と闘った。病院をいくつも替え、新薬が出ればそれに飛びつき、関連する書籍を読み漁り、ありとあらゆる民間療法も尽くした。民間療法には保険も効かず、貯金は2年で底をつき、その後は借金生活に突入した。
 親戚も当初は協力的であった。しかし、闘病が長引くにつれ、徐々に雲行きが怪しくなってきた。親戚の1人は夫婦に対し、「狂っている」と言った。別の者は「往生際が悪い」とこぼし、それが夫婦の耳に入ってしまった。また別の者は、「人はいつか皆死ぬ」と夫婦を慰め、夫婦は号泣しながら激しく反論し、事態はさらに険悪になった。
 それでも夫婦は親戚にすがるしかなく、治療費の経済的な援助を依頼した。しかし、親戚からは「無駄な金は出せない」との返事が返ってくるのみであった。結局、「葬儀費用やお墓の費用ならば援助してもよい」との返答を機に両者は完全に決裂し、その後は今日まで一切連絡を取り合わなくなり、夫婦は双方の親戚から孤立した。

 娘の死後、夫婦は狂ったように仕事に打ち込んだ。夫婦は債権者からの請求を受け、とにかく溜まった借金は返さなければならないと思い、深夜残業にも自発的に取り組み、賃料の安いアパートに転居した。しかし、給料は下がるのみであり、ボーナスも出ず、利息が膨らむ速度のほうが上回った。
 夫婦はそれでも目の前の仕事に全精力を注いだ。夫婦とも勤務先の会社の経営状態は悪化し、社長からはそれぞれ残業代のカットを言い渡された。夫婦はそれにも構わず、サービス残業に打ち込んだ。借金はさらに膨れ上がったが、夫婦はまるで自ら体を痛めつけるように無償で労働に向かい、少ない給与のすべてを債務返済に充てた。
 夫婦の勤務先の会社にとって、文句も言わずに低賃金で長時間労働に従事する社員の存在は貴重であった。そのため、夫婦とも会社に都合のいいように使われ、無償の深夜残業に加えて休日出勤も行うようになった。夫婦はついに時を同じくして体調を崩し、すぐにリストラされたが、会社には「社会人としての健康管理が不十分ですみません」と深くお詫びをして去っていった。

 彼の同期の弁護士事務所を訪れた際、その夫婦は、何よりも借金を返せない自分自身の不甲斐なさを厳しく責めていたとのことであった。また、債権回収会社の社員に対するお詫びの念と、それ以外にはこの世に未練や執着はないという点を繰り返し語っていたとのことである。
 また、その夫婦が彼の同期の弁護士を選任した決め手となったのは、夫婦のある言葉に対する回答であったらしい。夫婦が「死ぬのならばせめて借金をきれいに清算してから死にたい」と語ったのに対して、彼の同期の弁護士は絶句して何も言うことができず、その後数分間の沈黙が流れたとのことである。
 彼の同期の弁護士は、この夫婦の壮絶な人生を見せつけられてしまうと、自身の仕事の悩みなどあまりに浅いことに気付かされ、仕事に対する自信を失ってしまったと語った。そして、生死の境目で生の側に踏みとどまり、しかも生きる希望が全くないことが明らかでありながら自ら死の側に落ちていない人間の前では、これまで自分が考えていた人間の尊厳に関する抽象論など、とても語り出すことができなかったのだと語った。

 彼は、同期の弁護士の話を一通り聞き、思わず大袈裟に驚きながら、「そんな話が自分の近くにあるとは思わなかった」と笑い顔を作った。それは、彼の人生において初めて味わう種類の挫折感であった。


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フィクションです。

ある多重債務者夫婦の法律相談 その1

2010-10-19 23:59:34 | 国家・政治・刑罰
 その夫婦は見るからに疲れ果てており、顔に表情がなかった。服装にも無頓着で、典型的な多重債務者の身なりである。何社もの貸金業者からひっきりなしに電話をかけ続けられ、郵便を送りつけられれば、人は簡単にこのような状況に陥る。そして、ますます惨めな生活に拍車がかかり、そこから抜け出せなくなる。
 血も涙もない債権回収会社から見れば、債務者夫婦がこのような窮地に陥っているならば、十分に目的を達成したと言ってよい。自己破産されて借金を踏み倒されることが明らかであれば、せめて債務者が精神的に追い詰められているところでも見せてくれないと、筋が通らないからである。

 弁護士である彼は、経験則上、多重債務が生じた原因を当事者から事細かに聞きだす必要性を感じていた。自己破産の申し立て後、裁判官の前で新たな事実が明らかになったりすれば、目も当てられないからである。弁護士にとっては、債務者の破産が通らなくなる危険性よりも、裁判官に前で調査不足を皮肉られ、当事者の前で恥をかかされることへの恐れのほうが先に立つ。
 彼は、できる限り丁寧な口調で、この夫婦から多重債務に陥った状況を聞き出そうとした。しかし、夫婦ともなかなか口が重く、彼の問いかけに対する反応が鈍い。彼は徐々に苛立ってきた。借金の相談に来たのだから、借金の原因を正直に話してくれなくては困る。このような人達は、必ず弁護士にも言えない隠し事をしているものだ。要注意である。
 彼は夫婦をリラックスさせるために、軽口を交えながら、夫は競馬・競輪やパチンコで浪費していないか、妻は買い物依存症ではないかと聞いた。しかし、そのような事実も全くないようであり、どうにも話が前に進まない。ようやく口を開いたかと思えば、「まあ、色々ありまして……」と語り、薄ら笑いを浮かべて黙り込むのみである。

 彼は質問を変えた。家族や親戚の援助を受けて債務を返済することはできないのか。夫婦は、子供はおらず、親戚とも没交渉になっていると言った。彼は、これもよくある話であり、傷は浅いほうだと思った。親戚が下手に連帯保証人にでもなり、全員揃って自己破産という話にでもなれば、将来的に修復不能な禍根を残す。
 子供がいないというのも、かえって幸福かも知れない。彼はこれまで、子供が両親の借金を背負わされ、理不尽なトラブルに巻き込まれ、その人生の方向性を狂わされたケースをいくつも見てきた。子供の人生は子供の人生である。親の借金につき合わされるほどつまらないことはない。夫婦の生活状況を他者に明確に説明できない者は、往々にして夫婦揃って生活能力が低く、生活設計に甘さがあるものだ。
 夫婦によれば、今から親戚に援助を申し込むことも完全に不可能だとのことである。彼は無理に苦笑いしながら、「金の切れ目が縁の切れ目ですね」と言った。しかし、夫婦の表情は硬いままである。彼としては、最大限に気を遣って言葉を選んでいるつもりだったが、会話がスムーズに進まない。とにかく、自分から相談に来ておいて沈黙されることと、問いかけに対して返事がないことが一番困るのだ。

 彼はさらに質問を変えた。夫婦とも定年まで10年以上もあるのに、仕事ができないというのは本当なのか。確かに夫婦とも医師の診断書はあり、心身の不調により再就職に困難があるという点では問題ない。しかしながら、借金は働いて返すというのが大原則である。夫婦が同時に体を壊し、就職活動すらできなくなるというのも、少しばかり話ができ過ぎていやしないか。
 彼は、裁判官からの詰問に遭いそうな部分を予めしつこく聞いた。しかし、夫婦からは何らの有益な情報も出てこない。彼は、学生時代から培ってきたコミュニケーション能力にはかなりの自信があったが、このような人達はお手上げである。特に、夫婦揃って「死ぬのならばせめて借金をきれいに清算してから死にたい」と語るに至っては、下手に答えれば揚げ足を取られて責任問題となるため、彼のほうが苦笑して沈黙してしまったほどである。
 自己破産の代理人を彼に依頼するのか。彼が最後に聞くと、夫婦は「考えておきます」と答えた。これは、「あなたには依頼しません」の意味である。彼は、それがお互いのためだと思った。弁護士にすべてを正直に話してくれないような人達とは、信頼関係を築くことはできないからである。彼自身も、よくわからない人達に振り回されているほど暇ではない。世の中では貸す方ばかり悪く言われているが、借りる方にも必ずそれなりの責任があるはずである。

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フィクションです。

ある幼児虐待死事件の判決前夜 その2

2010-10-15 00:03:11 | 国家・政治・刑罰
(「その1」からの続きです。)

 判事補と彼は、それぞれに沈黙を挟んで言葉を交わしながら、深い自問自答を繰り返していた。生まれた子供を前にすれば、命の重さは絶対的な価値を持つ。よって、「避妊すればこの子は生まれなかったのに」と語ってしまえば、必然的に激しい良心の葛藤が呼び起こされる。そうかと言って、すべてを「命の重さ」の一言で片付けることに対しては、どこかで論理がすり替えられているとの気持ち悪さが残る。
 それでは、今回のように、生まれた子供が殺されてしまった場合はどうか。ここにおいて、「避妊すればこの子は生まれなかったのに」と語ることが初めて許されるように彼には感じられる。最初から生まれなかった場合と比較してみても、不存在という点で現象は等価値だからである。ここにおいて、「命の重さ」の一言で問題を片付け、論理をすり替えて逃げていた問題に人間は直面する。

 判事補と彼は、殺された赤ちゃんの死体写真を挟んで、同じ問題に向き合っている。固く閉じられた赤ちゃんの目に、油断すると2人とも吸い込まれそうになる。一度でもこの世に生を受けて数ヶ月生きた後に殺されることと、一度もこの世に生を受けないこととでは、一体どちらが幸せなのか。どちらが悲惨なのか。どちらが残酷なのか。何よりも人の命が重いというならば、一度でも生まれたほうに軍配が上がるようにも思える。しかし、どうにも問題自体が上手く問題として立っているようには思えない。
 生まれてすぐ殺されるくらいであれば、最初から生まれないほうが幸せだと言いたくもなる。しかし、幸・不幸や残酷さを問題にできるのは、実際に生まれた人間に対してのみであり、最初から生まれない人間に対しては評価の前提を欠く。生まれなかった人間は、実のところ、生まれてから殺された人間との比較においてのみ存在していると言ってよい。人は生まれた瞬間に死に向かって歩き始めるならば、生まれない人間が死に向かうことはあり得ない。

 判事補は、結局のところ、過去の多くの判例も参考にして、検察官の求刑の8割という無難な結論に落ち着いたのだと語った。自分の命よりも大事な我が子の命という感覚のない者に対して、真面目に善悪を説くことは空しい。弁護人は、子育てに対する社会全体の構造や支援体制の不備に根本的な問題があるのであり、被告人夫婦を厳罰に処したところで何も解決しないと熱弁を振るっていた。これはその通りである。死者が帰らない限り、根本的な解決はあり得ない。
 彼は判事補に対し、「我が子」という言葉の不思議さを語った。被告人夫婦は、自分の子を自分の所有物として扱い、最後まで好き勝手に操っていた。そして、独立の人格を持った人間として尊重していなかった。文法的な意味とは逆に、人はこのような親について、「我が子」の親であるとは言わない。人は、自分の子を別人格の人間として尊重するからこそ、その者が初めて「我が子」となり得る。この点を取り違えると、我が子を失った親に対して、「まだ他の子供が残っている」「子供ならまた産めばいい」といった慰めがなされることになる。

 帰りがけ、判事補は彼に対して、「もし将来あなたが人の親になったならば、たとえ如何なることが起きたとしても、我が子を虐待することだけはないでしょう」と語った。彼は、「それは裁判官も同じでしょう」と語り、お互いに複雑な笑いを浮かべた。被告人夫婦の気楽さと比して、彼らには残酷な運命が待ち構えている可能性がある。もし我が子に先立たれた場合、恐らく彼は人間の形をした抜け殻として一生を送ることになる。しかし、殺された赤ちゃんの閉じられた目に賭けても、そこから逃げようとは断じて思わない。
 彼と判事補が時間をかけて自問自答することができたのは、その場にいた人間が2人だけだったからだと彼は思う。時代は移り、重罪事件の量刑は6人の裁判員と3人の裁判官の評議によって決められることとなった。9人の評議の中で、人々はいかにして自問自答を経て割り切れない感情に折り合いをつけ、全体としての結論を導いていくのか。彼にはよくわからない。


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フィクションです。

ある幼児虐待死事件の判決前夜 その1

2010-10-12 23:54:52 | 国家・政治・刑罰
 裁判長が帰宅した後も、左陪席の判事補が判決の草稿を読み直してチェックしている。左陪席の判事補は、書記官である彼とも年が近い。主任書記官が「年下の上司」に対して屈折した尊敬の念を抱いているのに対して、彼は純粋にこの左陪席の判事補の見識を尊敬していた。
 彼は、この幼児虐待事件の立会いを全面的に任され、当初から傍聴席の手配などを行ってきた。彼も判事補もまだ若く、人の親ではない。その彼らが人の親の罪を裁く仕事に従事し、被告人夫婦を親として失格であると断罪することは、冷静に考えれば妙な話ではある。しかし、これを言ってしまうと裁判が成り立たないため、昔からこの点は突っ込まれないことになっている。

 判事補は、これほど量刑に悩んだ事件は初めてだと語った。被告人夫婦とも、我が子の命を奪うということの意味を理解しているとは思えず、ましてや実際に我が子の命を奪ったことの意味を理解しているとは思えなかった。判事補としても、裁判官席に対して頭を下げて謝罪されたところで、「謝る相手が違う」と言うしかない。
 人の世の罪と罰は、当然ながら、人の罪に対して人が与える罰である。そして、人間とは、我が子の命のためなら自分の命を犠牲にするのも厭わない存在である。そうであれば、逆に我が子の命を失わせた者についてこの種の罰を問題にすることは、そもそも最初から入口が逆なのではないか。ここにおいて、純粋な死者のための罰の概念が生じ、死を通じて初めて人の命の重さが認識される。

 被告人夫婦の犯行の原因を突き詰めていけば、3人の子供を育てられるだけの経済力もなかったのに、4人目の子供を作ったというところに答えは集約されてくる。しかも、この夫婦の享楽的かつ退廃的な人生への向き合い方は、絶望的なほど強固である。この点において、彼と判事補の感想は一致していた。判事補も彼も「子供を作る」という表現は嫌いであったが、被告人夫婦の犯行の原因を語る際に、この表現を避けることはできない。
 被告人夫婦は、4人目の妊娠を知った時に中絶をしなかったのは、お腹に宿った命の重さが理由であると述べた。弁護人はそれを受けて、夫婦は人の命の重さを深く考えるあまり、かえって最悪の結果を招いてしまったのだと主張した。判事補は、その理屈を断罪した。この夫婦は単に性的快感を得たいがために、避妊を怠っただけではないか。

 この夫婦には、人生に対する計画性が全くない。4人の子供を育てられないことが明らかであり、特に子供がもう1人欲しいという動機もなかったのであれば、避妊すればよいだけである。この点において、判事補と彼の意見も一致していた。これは生命倫理としても常識的な線だと彼は思う。経済的な問題を抜きにして、「子供の数は多ければ多いほど楽しい」という意見に与するほど彼は能天気ではない。
 これが避妊ではなく中絶の話となれば、激しい生命倫理の対立を呼び起こすところであり、彼にも答えが出せない。これに対して、避妊によって生まれなかった命に対して心を痛めることは、あまりにお人好し過ぎると彼は思う。この世に無数の男性と女性がおり、従って無数の精子と卵子があるならば、生まれなかった命もまた無数に想定できてしまうからである。


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フィクションです。

ある判決の日の裁判所書記官の日記 その2

2010-10-03 00:05:33 | 国家・政治・刑罰
(「その1」からの続きです。)

 法廷の前のベンチには、他方の当事者と関係者が数人座っている。こちらは支援者もなく、孤立無援といった趣きである。当事者達は無言で虚空を見上げ、人生の分岐点を目の前にして怯えている。ベンチの周辺は時間が停止しているようでもあり、時間が停止し得ないことの残酷さを全身で表現しているようでもある。「大丈夫ですよ。あなたは勝っています。結論はずっと前に出ています」。彼は心の中だけで語る。
 この当事者の運命は客観的に決まっているのかいないのか。裁判長が最終的な結論を出した数ヶ月前の時点で、物理的世界におけるその事実は、間違いなく科学的に存在する。そうだとすれば、その時点で当事者の運命は客観的に決まっていたと言ってよい。世間一般の言葉の使い方に従えば、普通はこれを「客観的」と呼ぶからである。
 しかし、彼の思考は、この結論をさらに打ち消す。運命を左右される張本人がその客観的な運命を知らず、運命を左右されない彼が他人の客観的な運命を知っていることなど不自然ではないか。要するに、彼を含めて数人の人間の主観だけを集めて、それを客観と言っているだけの話なのではないか。そうかと言って、裁判長が判決を言い渡すまでは客観的に当事者の運命が決まっていないのだとすれば、その客観から逸脱した彼の立つ場所の説明がつかない。

 彼の脳裏には、運命の瞬間の到来を待つ当事者の姿が貼り付いている。昨夜は緊張で一睡もできなかったとすれば、それは結果的に無意味である。当事者がベンチに座りながら無理に深呼吸をし、手が震えて書類を床に落とし何度も拾い上げていたのも、本来であればしなくてもよい苦労である。結論は数ヶ月前に出ているからである。
 判決宣告の瞬間までわざわざ当事者に極度の緊張を強いることが、その後の当事者の人生に意味をもたらすことになるのか。やはり彼には、そうとは思えない。善とは何か、正義とは何か、彼自身の心の声から耳を塞いでいるように感じられるからである。実際のところ、結審から判決宣告までに恐ろしく長い時間がかかったのは、単に裁判官の異動や法廷の確保といったこちら側の都合だけである。
 極限の心労に向き合っている者の目の前を素通りし、その心労を一瞬で取り除く行為を行わないことが善であるとするならば、そうすることが善であり、そうしないことが悪であることが前提とされていなければならない。しかしながら、彼はそれが善であることを自分自身に説明できない。裁判所は善悪を裁く場でありながら、彼自身が善悪の問題から逃避している。彼の心には棘が刺さったままである。

 それでは、彼はなぜ、心の中だけで「あなたは勝っています」と語ったのか。それは、世間では本当のことを言ってはならないからである。もし、彼が実際に「あなたは勝っています」と言ってしまえば、事態は彼の意思とは無関係に勝手に動き出す。そして、これは彼にとってはこの上なく面倒であり、無意味の最たるものである。
 当事者は恐らく、マスコミの取材に対し、「判決の前から結論を知っていました」と語り、これは大変な騒ぎとなる。情報漏洩、前代未聞の不祥事といった単語が飛び交い、彼の上司はカメラの前で並んで頭を下げ、信頼回復と綱紀粛正に努めざるを得なくなる。そして、彼の心に刺さった棘など何の意味もない無用の長物であるとされ、彼は組織人失格の烙印を押されて懲戒免職となるはずである。
 もちろん彼は、当事者の前を素通りした瞬間、退職金や国家公務員の身分への執着にまで思考を回していたわけではない。職務倫理に照らし、情報漏洩が悪であり、判決の結論を事前に語らないことが善であるとの判断に押し切られたからである。その瞬間、彼は人間としての本音と組織人としての建前を使い分け、善と偽善の境界線を曖昧にしたと言ってよい。それは、主観と客観の境界線をも曖昧にし、神の目の錯覚の中で安易に生きる方法を選択したことでもある。

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フィクションです。

ある判決の日の裁判所書記官の日記 その1

2010-10-02 23:57:47 | 国家・政治・刑罰
 運命の瞬間が刻々と到来するとき、人はただ時間の流れに身を委ねているしかない。判決の日の朝、裁判所の玄関前に集まる人々の表情は、人間と時間の関係を裏側から説明しているようにも見える。勝訴か敗訴か、これは多くの人間の運命を一瞬で変え、その後の人生を根本的に変える。
 手に手に横断幕やプラカードを持った支援者の表情には、負けるわけがないとの確信が表れている。しかし、その眼差しは定まらず虚ろであり、ぎこちなく歩き回る姿からは動揺が滲み出ている。極度の緊張は隠しようがない。そして、そのような支援者達がお互いに作る張り詰めた空気が、周辺一帯に異様な空間を形成している。
 人は他人と全く同じ場所に立つことができない以上、それぞれの人にとって風景が違って見えることは当たり前である。しかしながら、裁判所書記官である彼にとって、この裁判所の玄関前を通ることは、それ以上の意味での世界の違いを見せつけられることである。事前に判決の結論を知る者にとって、この世界への接触は、主観と客観の境界線を揺らがされる経験である。

 弁護士が支援者に対し、無理に笑顔を作って何かを話している。彼は、その方向を見ないようにし、足早に去りつつも、腹の底では冷笑していることに気付く。「あまり期待を持たせることを言わないほうがいいですよ。あなた達は、もう負けています。あなた達の敗訴を書いた判決の下書きは、とっくの昔にできています」。
 支援者が「勝訴」の垂れ幕を用意しているのが見える。今日は、この垂れ幕の出番はない。何と無駄なことを。それは、彼にとって優越感と罪悪感が入り混じったような心情でもあり、そのどちらでもないような心情でもある。彼は今、この集団の心を一瞬で凍り付かせる力を持っている。この集団の全員の頭をハンマーで殴りつけ、魂を抜かせる力を持っている。この力は、国家権力といった無粋なものではない。
 弁護士や支援者は今は笑顔を見せているが、数時間後には、その顔は一瞬で凍る。裁判長の言葉に耳を疑い、驚き、うろたえ、憤激し、なぜ正義が負けて不正義が勝つのかと悔しさを爆発させる。そして、「司法は死んだ」「裁判所の信頼は地に墜ちた」と叫ぶ。連日の深夜残業で判決の日に備えた彼の苦労などには全く想像も及ばずに。

 弁護士や支援者達は、数年間にわたり主張と立証を尽くして結審に持ち込み、今は天命を待っている。ところが、彼はその天命を知っている。天命を先に知り得るのは神だけだ。裁判長が主文を言い渡した瞬間、世界は確実に変わる。ところが、彼を含めごく少数の人間においては、先に世界が変わってしまっている。
 神の視点を持つ者は、絶対的な権力を手にしているはずである。ところが、彼には、そこまで言い切れる自信がない。弁護士や支援者達の顔が凍るのは数時間後のはずであり、そこまでは時間の流れには彼も身を委ねているしかないからである。次の瞬間に直下型の大地震が襲い、裁判どころではなくなることが絶対にないと誰が言えるか。数分後に彼に急病が襲い、命を落とすことなど絶対にないと誰が言えるか。
 彼が錯覚した神の視点は、所詮は人間が書いたシナリオの中での出来事である。この世の人々が法律を作り、裁判所を作り、裁判長が判決を言い渡す。彼が立っている特権的な地位とは、この一連の儀式を信じている者の内部において、シナリオを少しばかり早く見ているだけのことである。この特権に何の意味があるというのか。

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