犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

光市母子殺害事件差戻審 42・ 人間はただ死刑を望むものではない

2008-04-22 12:14:08 | 国家・政治・刑罰
例えば、死刑が確実と思われる連続殺人犯が、警察官に追い詰められて自殺を図った。さて、被害者の手当てを差し置いても、この殺人犯を命を何としても救うべきか。死刑廃止国ならば答えは簡単であり、救命すべきであるとの結論が導かれる。それでは、死刑を存置している我が国においてはどうか。これも、法治国家である限り、その生命を救わなければならない。まずは、裁判において反省し、真実を話し、遺族に謝罪することが第一である。その上で、国家における正義として、極刑の存在を証明しなければならない。これが法治国家である。

我が国は8割以上が死刑の存置に賛成しており、死刑反対派からは「人権意識が低い」「人命軽視だ」との批判を呼んでいるところである。しかしながら、人間はただ死刑を望むものではない。殺人犯が現場で自殺を図った場合において、人間の倫理は、「何としても命が助かってもらわなければ困る」との方向の指針を示す。これは、死刑に賛成している人のみならず、被害者の遺族においても同様である。人間の倫理が望むのは、あくまでも国家による正当な手続きを経ての死刑である。この意味で、「死刑賛成派は中世の仇討ちの思想から成長していない」との批判は的外れである。

単に国家が被害者遺族の自力救済の代行、復讐権の満足、仇討ちの代理行使を行っているに過ぎないならば、殺人犯がその場で自ら死を選ぶことは喜ばしい。また、どこからともなく正義の味方が登場して、警察が逮捕する前にその犯人を殺すならば、大いに拍手喝采を受けるはずである。しかし、近代法治国家における多くの死刑賛成派や被害者遺族の倫理は、そのような幕引きを決して喜ばない。あくまでも近代国家が国家の名において、極刑としての死刑を宣告すべきだということである。法治国家における生きる者の正義感は、この形式のみによって維持される。

光市母子殺害事件における本村洋氏を初めとして、ほとんどの被害者遺族は、「殺せ」「死ね」などとは叫んではいない。真実を語ってほしい、自らが起こしたことの重大性に気づいてほしい。そして、他人を殺したことの罪は、自らの死に値することを知ってほしい。論理的に、理性的に、このような要求をしているのみである。被告人がこのような逡巡を経て初めて、仮に無期懲役であったとしても、遺族の心に届く謝罪が可能となるはずである。この意味で、死刑反対派から賛成派に向けられた批判の多くは、ポイントが外れている(もしくはわざと外している)ものが多い。


26枚の傍聴券に3886人 光母子殺害事件判決(朝日新聞) - goo ニュース

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