犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

光市母子殺害事件差戻審 33・ 元少年の「ドラえもん」の弁解は信用できるか

2008-04-19 22:08:14 | その他
判決理由 (裁判所には、この程度のことは言ってほしいものである)

被告人は、亡夕夏の遺体を押し入れの天袋に入れた理由につき、「ドラえもんの存在を信じていた。押し入れはドラえもんの何でも願いをかなえてくれる四次元ポケットで、押し入れに入れればドラえもんが何とかしてくれると思った」旨弁解する。しかし、以下のとおり、被告人の弁解は到底信用できない。

第1に、四次元ポケットはドラえもんの腹部に付着しているものであり、押し入れがドラえもんの四次元ポケットであるわけではない。ドラえもんが押し入れを寝室としているというならば、被告人は押し入れの中でドラえもんを探さなければならないはずであるが、被告人の行動にそのような形跡は見られない。

第2に、ドラえもんは野比家に居住するものであり、本村家に居住するものではない。野比家は東京近郊に存在することが強く推定されるところ、なぜ被告人はその時に限ってドラえもんが山口県光市の本村家に存在すると信ずるに至ったのか、その認識を裏付けるに足りる証拠はない。

第3に、被告人はドラえもんの存在を信じていたと言いつつ、その内容は具体性に欠ける。仮にドラえもんの存在を信じていたならば、タイムマシンで犯行前に戻って自らの行動を制止する、スモールライトで遺体を小さくする、タイムふろしきによって遺体を生き返らせる、どこでもドアで遺体を遺棄する等の行動が合理的であるところ、被告人がこのような手段を考えた形跡はなく、漫然と遺体を押し入れに入れたのみである。

第4に、仮にドラえもんが存在したならば、どこでもドアやタケコプターの影響で鉄道や飛行機が不要となり、鉄道会社や航空会社の株価が暴落しているはずであるが、本件犯行当時、そのような事態をうかがわせる事情はない。そして、被告人は本件犯行当時すでに18歳であり、これらの事情は容易に認識し得たはずである。

以上より、被告人の弁解はいずれも虚偽であり、被告人が亡夕夏の遺体を押し入れの天袋に入れた行為は、単に遺体の存在を隠蔽し、その発見を遅らせるための行為であったとみるのが合理的である。


バカバカしい弁解には、バカバカしく真面目に返答するのが一番である。

光市母子殺害事件差戻審 32・ 死刑存置論と死刑廃止論のディベートには意味がない

2008-04-19 15:46:05 | 実存・心理・宗教
死刑存置論と死刑廃止論の争いは、人間の生命がかかわる以上、本来であれば純粋に形而上学的な議論でなければならないはずである。しかし、これがディベートやディスカッションのような形で争われると、完全に形而下的な政策論になる。現に、22日の判決において死刑が宣告されたならば、この議論は死刑存置論にとって非常に有利になるだろう。これに対し、判決において無期懲役刑が宣告されたならば、死刑廃止論にとって非常に有利となるだろう。形而下的な政策論は、有利不利の勝負によって正義や真実を決定する。

真実でなく勝負を求めるならば、それは根拠によって主張を裏付け、他者を論破し、論駁する方向に進む。人間の生命そのものを論じる際にこのような争いをすることは、無意味であるばかりか有害である。例えば、死刑確実と思われた凶悪犯人が無期懲役刑となり、十数年後に仮釈放されたところ、数日後に再び連続殺人事件を犯した。このようなことがあれば、世論における正義は一気に死刑存置論に傾く。逆に、冤罪を訴え続けた被告人に死刑判決が下され、死刑が執行された数日後に、真犯人が自首してきた。このようなことがあれば、世論における正義は一気に死刑廃止論に傾く。

このような極端な例は実際には少ないが、形而下における確率の問題である以上、これに近いことは起きる。従って、死刑存置論は冤罪の発覚を恐れるし、死刑廃止論は凶悪犯罪の発生を恐れる。それでは逆に、死刑存置論は凶悪犯罪の発生を喜び、死刑廃止論は冤罪の発覚を喜ぶのか。これは微妙なところである。反対派の論破、論駁で熱くなっているのであれば、これは相手を打ち負かすだけの何よりの有利な論拠であり、一気に勢いづくところである。これは、ディベート形式に伴う変形ニヒリズムである。「あってはならない」と主張していることが実際に起きると、論争に有利になるという皮肉である。

厳罰化を主張するならば「凶悪犯罪はあってはならない」と叫び、人権論を推進するならば「冤罪はあってはならない」と叫ぶ。しかし、論争に勝つためには、自らが「あってはならない」と叫ぶところの出来事はなければならず、反対派が「あってはならない」と叫ぶところの出来事は本当にあってはならない。従って政治的な人間は、自らが「あってはならない」と言っていたことが起きたときには、ぞろぞろと集まって怒りを表明する。この怒りの根底には、抑え切れない笑いと喜びがある。自らが大っぴらに待ち望むことはせず、反対派に不利な事実が起きたところに一気に付け込む。これも近代のニヒリズムの変形である。

BPO(放送倫理・番組向上機構)は光市母子殺害事件をめぐる報道について、多くが極めて感情的に制作されていたこと、弁護団対遺族という対立構図を描いたこと、公平性の原則を満たさなかったことなどを指摘する意見書を出したが、これは死刑存置論と死刑廃止論の政治的な対立においては非常に正しい。政治とは、自らの欲求が満たされないことに対する怒りと、それを妨害する反対派に対する苛立ちであり、ニヒリズムの変形だからである。これに対して、遺族の怒りや絶望は、このようなニヒリズムを超越している。「娘を返せ」「息子を返せ」「妻を返せ」「夫を返せ」という絶望の問いを問い続けることの絶望は、ディベートやディスカッションでどうなるものでもない。

光市母子殺害事件差戻審 31・ 反省型弁護と闘争型弁護の使い分けは小賢しい

2008-04-19 14:29:06 | 実存・心理・宗教
光市母子殺害事件の差戻審は、広島高裁で12回にわたって開かれた公判では、裁判所が認定した犯罪事実をめぐって検察側と弁護側が正面から対立し、激しく争われた。元少年の被告人質問は計17時間にも及び、元少年はこれまでずっと殺意を認めていたにもかかわらず、事件から8年が経過して、初めて殺意を否認した。一般社会ではもちろんこのような理屈は通用しないが、柵の中ではこのような理屈を通用させている。これが人権論の人権論たるゆえんであり、俗に「人権しか頼るものがなくなった人は一般社会に戻れない」と言われるところである。

元少年の殺意の否認は、弁護戦術としては至極妥当である。従って、一般社会から「遺族の感情を踏みにじるものだ」「最後の悪あがきだ」との批判を受けても、その言葉が通常の意味で伝わることはない。もともと柵の中と柵の外の論理が異なる以上、「国民は刑事裁判というものを理解していない」「弁護人の職務を誠実に遂行しているだけだ」と言われればその通りであり、取り付く島もなくなるからである。かくして、元少年側は「捜査官から容疑を認めないと死刑になる可能性が高い」と言われ、不当な誘導をされ、本当は殺意はなかったのに殺意があったと言わされていたと主張することになる。それにしても、8年間は長すぎる。

このような弁護団の戦術は、「反省型弁護」と「闘争型弁護」の使い分けと言われ、弁護団の言うとおり、刑事裁判における弁護人の職務を誠実に遂行していることの表われである。すなわち、動かぬ証拠が揃っていて有罪を免れない場合には、少しでも宣告刑を短くするために反省の念を示し、有利な情状を引き出すようにする(反省型弁護)。これに対し、事実認定が微妙で無罪や軽い構成要件の認定が取れそうな場合には、細かく検察官の主張する事実を弾劾し、徹底して争う(闘争型弁護)。これは近代刑事裁判においては大前提となっており、国民からの違和感の表明に聞く耳を持たないのは、弁護団だけではなく検察官も裁判所も同様である。

弁護団が8年も経ってから殺意を否認し始めたのは、反省型弁護から闘争型弁護に方針を変更したことの表われである。その意味で、捜査官の言葉がポイントとなっていたという主張は正しい。もしも、最初の山口地裁で死刑の判決が出ていれば、最初の広島高裁において殺意を否認していた。また、もしも最初の広島高裁において死刑の判決が出ていれば、最高裁で殺意を否認していた。ところが実際には、最高裁で初めて死刑の可能性をほのめかされたため、差戻し審で初めて殺意を否認しただけの話である。反省型弁護から闘争型弁護への刑事弁護の戦略としては、一般的な筋書きに則っている。

多くの国民がこの裁判に違和感を表明したのは、この「戦略」や「弁護戦術」という思考方法そのものである。本村洋氏の涙の会見の前では、このような問題の立て方そのものの小賢しさが暴露される。弁護団がどんなに「国民は刑事裁判というものを理解していない」と言っても、その理解そのものを問うている以上、弁護団への批判が収まることはない。元少年が、殺意についての供述の変遷の理由を捜査官の誘導に求めるということは、殺意の有無について、「自らが死刑になるか否か」という効果の点から逆算して戦略的に決めているということである。一般社会では、このような行動は「誠意がない」「被害者をバカにしている」と呼ばれる。

加害者側の論理からは、殺人未遂罪のほうが傷害致死罪よりも刑が重い。これは、刑法は人命尊重を第一の基準とはしていないと正面から宣言していることの表われである。これに対して、被害者遺族側の論理は、とにかく被害者に生きていてほしかった、この一点に尽きる。加害者に殺意があろうとなかろうと、命を奪われた被害者は帰らないのだから、こんな争いは本当はどちらでもいい。もし妻や娘が帰ってくるならば、細かい事実認定などどちらでもいい。もし妻や娘を返してくれるならば、いくらでも赦してやる。近代刑法の実証主義は、この不可能性の絶望を最初に切り捨てたが、現実の犯罪においてこれが消えるはずもない。ここを被害者側に指摘されると、反省型弁護と闘争型弁護の使い分けの戦略など、あまりに卑しすぎて見ていられなくなる。