犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

ドストエフスキー著 『罪と罰』 上巻より

2011-10-08 00:02:48 | 読書感想文

p.80~

 こうして彼は自分を苦しめ、このように問いつめることによって、一種の快感をさえ感じながら、自分をからかった。しかし、こうした自問はどれも新しいものでも、突然のものでもなく、もうまえまえからの古い病みつきのものだった。もういつからかそれが彼をさいなみはじめて、彼の心をずたずたに引き裂いてしまっていた。

 このいまのふさぎの虫が彼の身内に生れたのは遠い昔のことで、それが成長し、つもりつもって、それが近頃ではすっかり大きくなって、こりかたまり、おそろしい、奇怪な化け物のような疑問の形をとり、執拗に解決をせまりながら、彼の心と頭をへとへとに疲れさせたのである。


p.124~

 どうしてほとんどすべての犯罪があんなにたやすくさぐり出されてしまうのか? どうしてほとんどすべての犯罪者の足跡があんなにはっきりあらわれるのか? 彼はすこしずついろいろなおもしろい結論を出していったが、彼の見解によれば、最大の原因は犯罪をかくすことが物質的に不可能であるということよりは、むしろ犯罪者自身にあるというのである。

 犯罪者自身が、これはほとんどの犯罪者にいえることだが、犯行の瞬間には意志と理性がまひしたような状態になって、それどころか、かえって子供のような異常な無思慮におちいるからだ。しかもそれが理性と細心の注意がもっとも必要な瞬間なのである。彼の確実な結論によれば、この理性のくもりと意志の衰えは病気のように人間をとらえ、しだいに成長して、犯罪遂行のまぎわにその極限に達する、そしてそのままの状態が犯行の瞬間まで、人によっては更にその後しばらく継続する、それから病気がなおるように、その状態もすぎ去る。

 そこで1つの問題が生れる。病気が犯罪自体を生み出すのか、それとも犯罪自体が、その特殊な性質上、常に病気に類した何ものかを伴うのか?


p.448~

 彼らに言わせれば、いっさいが≪環境にむしばまれた≫ためなのだ、それ以外は何も認めない! 彼らの大好きな文句だよ! この論でいくと当然、社会がノーマルに組織されたら、たちまちいっさいの犯罪もなくなる、ということになる。抗議の理由がなくなるし、すべての人々が一瞬にして正しい人間になってしまうからだ。自然というものが勘定に入れられていない、自然がおしのけられている、自然が無視されているんだ!

 彼らに言わせれば、人類が歴史の生きた道を頂上までのぼりつめて、最後に、ひとりでにノーマルな社会に転化するのではなくて、その反対に、社会システムがある数学的頭脳からわりだされて、たちまち全人類を組織し、あらゆる生きた過程をまたず、いっさいの歴史の生きた道をふまずに、あっという間に公正で無垢な社会になるというのだ! だから彼らは本能的に歴史というものがきらいなのさ。


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 ラスコーリニコフに言わせれば、状況証拠の積み重ねによる立証の問題点は、病気が犯罪自体を生み出すにせよ、犯罪自体がその性質上常に病気に類した何ものかを伴うにせよ、人がその病気に深く冒されれば冒されるほど、裁判では有罪の認定が難しくなる点に集約されると思います。

 凶器や指紋といった直接証拠が存在せず、状況証拠しか残されていないのであれば、ラスコーリニコフの分析によれば、これは理性と細心の注意がもっとも必要な瞬間において、犯人がその必要とされる理性と注意を発動したことの成果となります。自身の行為の正当性に対する自信が瞬間的に揺らげば揺らぐほど、現場には証拠が残されたままになるからです。

 その結果として、理性が曇らず意志も衰えない犯人であればあるほど、凶器を現場に残したり指紋を消し忘れたりすることなく、裁判での問題を「状況証拠の積み重ねによる立証」に持ち込むことが可能となります。人間の罪に対する罰という決まりが、罪の瞬間における人間の意志と理性の麻痺を前提とするならば、ここには大きな転倒があるように思います。

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2 コメント

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鋭い分析 (タケゾウ)
2013-08-23 06:53:26
《その結果として、理性が曇らず意志も衰えない犯人であればあるほど、凶器を現場に残したり指紋を消し忘れたりすることなく、裁判での問題を「状況証拠の積み重ねによる立証」に持ち込むことが可能となります。人間の罪に対する罰という決まりが、罪の瞬間における人間の意志と理性の麻痺を前提とするならば、ここには大きな転倒があるように思います。》

はじめて書き込みします。

 鋭い分析だと思いました。
 猟奇的な犯人も計画的殺人も同じく、殺人という罪には変りないのですから、等しく裁かれなくてはいけませんね。
 そこに大きな転倒があると感じました。
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タケゾウ様 (某Y.ike)
2013-09-02 01:46:54
コメントありがとうございます。
お返事遅くなりました。すみません。

実用性を旨とする法律学は、「所詮は作り物」の文学を軽視するようなところがあると思いますが、新証拠の発見1つで大騒ぎになって右往左往させられるのは法律家のほうだと思います。

殺人の罪を法律で裁く場合、法曹三者から裁判員に至るまで、全ては「何もかも知っている人物」の掌中に落ちています。法律学は「心の闇」の解明という使命を装いつつ、逃げ道を作っているのだとも感じます。
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