犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

裁判員で急性ストレス障害に 女性が国を提訴 (3)

2013-05-20 23:28:35 | 国家・政治・刑罰

5月8日 毎日新聞ニュースより

 訴状によると、女性は証拠調べで見せられた被害者2人の遺体の刺し傷計24ヶ所すべてのカラー写真などが頭から離れず、不眠症や吐き気、フラッシュバックなどに苦しむようになった。「裁判員メンタルヘルスサポート窓口」に電話し、地域の保健所を紹介されたが対応してもらえず、3月22日に福島県内の病院でASDと診断された。

 女性側は、裁判員になったためにASDになったと主張。裁判員制度が苦役からの自由を保障した憲法18条や、個人の尊厳や職業選択の自由を認める同13条、22条に反するとし、法案提出から3ヶ月弱の審議で成立させた衆参両院にも過失があったと訴えている。


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((2)から続きます。)

 「刑事司法が犯罪被害者を見落としてきたことへの反省」という定型句は、立憲主義の体系に忠実であればあるほど、表面的なものにならざるを得なくなります。また、憲法の定める「個人の尊厳」の趣旨や、近代刑法の大原則から演繹する限り、被害者の扱いは法律論の場から除かれ、遺された者の心のケアのみの問題に追いやられるものと思います。今回の訴訟で主張されている憲法論は、このような定型的な図式に基づくものと思います。

 私は、このような立論を「個人の尊厳」であるとして何らの後ろめたさや罪悪感を覚えない主張に対しては、直観的に何かがおかしいとの感を持ちます。裁判員として被害者の死の直前の悲鳴を聞くことは苦しいですが、悲鳴を上げた本人の苦しみとは比べ物にならないからです。また、裁判員として殺された被害者の刺し傷の写真を見ることは苦しいですが、24ヶ所を刺された本人の苦しみとは比較にならないからです。「遺体は吐き気を催すものだ」という論理からは、「個人の尊厳」の価値は到底導かれないと思います。

 裁判員本人の苦しみは、当人にとっては絶対的であり、もとより比較が不可能なものです。ゆえに、これを苦しみ得る主体は裁判員本人のみであり、弁護士が代理人としてこれを苦しむ資格はないはずだと思います。ましてや、憲法の理念によって一般化し得るものではないと感じます。他者の苦しみに対し外側から共感を与えようとするならば、不条理に家族を奪われた者の絶望による不眠症やフラッシュバックは、裁判員のそれとは次元を異にすることに気付かれなければ嘘だと思います。

 私が300人前後の遺体写真を前に吐き気を催さず、不眠症にもならなかった理由の1つには、命を奪われた本人の理不尽さに比べれば私の苦しみなどものの数ではないという確信がありました。また、その周囲の肉親の虚脱感と崩壊を前にすれば、自分が不平や弱音を吐くのも恥ずかしいとの確信もありました。「裁判員に遺体写真を見せるのは人権侵害である」との命題と、「プロは平然と遺体写真を扱うのが仕事だ」との命題を単純に両立させる図式は、やはり生きて死ぬべき人間存在の捉え方が軽すぎると思います。

裁判員で急性ストレス障害に 女性が国を提訴 (2)

2013-05-19 23:24:08 | 国家・政治・刑罰

((1)から続きます。)

 元裁判員の女性が実際に感じた苦痛の激しさについては、私が何かを言う権利はありません。これに対し、担当弁護士の立論に対しては、元裁判員の女性が抱えている繊細さを単純な図式に押し込んでいるとの印象を持ちます。あまりに主張と論理が明快すぎて、殺人罪と死刑に対する考察、すなわち生命と死に対する葛藤が全く窺われないからです。私が必死に心を麻痺させてきたのはこの程度の問題なのか、この程度の問題提起で済まされてよいのか、との感を持ちます。

 裁判所の法廷において、遺体のカラー写真は、すでに出来上がった完成品です。私も法廷の中でのみ仕事をしてきたため、生身の人間である遺体の取り扱われ方や、生身の人間である捜査員による写真撮影の現場についてはよく知りません。ただ、実際に写真しか見ていない者として、その写真を完成させた全ての方々への敬意は常時忘れなかったつもりです。生と死に写真でしか向き合っていない私にとって、現場の方々の内心の紆余曲折の程度と麻痺の過程は想像を絶するものです。

 そして、何よりも遺体のカラー写真がそれである理由は、その被写体として登場させられ、何らの反論もできないまま裁判の証拠物件にされている本人の人生によって説明されるしかないと思います。法治国家においては、その政治的な思想の内容にかかわらず、裁判所は事件や事故で亡くなった被害者の全人生の最後の形に制度的に向き合うことになります。法治国家においては、ある瞬間に突然に人生を終えねばならない不条理に対する無数の言葉は、法廷で語られずに示されるしかありません。

 写真を見るのが「意に反する苦役」であるとの弁護士の主張については、第1に、誠実に職務を遂行し、写真を完成させた全ての方々への敬意において、私の倫理観はこれに異議を唱えます。第2に、自分の人生を全うすることなく、ある日突然にその生を断ち切られた人間存在に対する畏怖の念において、私の倫理観は異議を唱えます。写真や、ひいては遺体に対する最低限の敬意を失わないことは、それが急性ストレス障害の原因であることとは矛盾しないものと思います。

 裁判員制度に対する問題提起が、今回のような形を採るのであれば、これは従来の反対論の繰り返しに過ぎないと思います。また、弁護士がこのような場面で憲法の条文を喧伝することは、国民の憲法に対する認識をかなり歪めているものと思います。遺体のカラー写真を見すぎて感覚が麻痺し、常識的な感覚を失った私が僭越に願うことは、写真の気持ち悪さによる裁判員の苦悩ではなく、写真が指し示す命の重さによる苦悩が論じられて欲しいということです。

(続きます。)

裁判員で急性ストレス障害に 女性が国を提訴 (1)

2013-05-17 22:14:17 | 国家・政治・刑罰

5月8日 朝日新聞ニュースより

 強盗殺人罪などに問われた被告に死刑判決を言い渡した裁判で裁判員を務めた女性が7日、公判に提出された証拠によりショックを受け急性ストレス障害と診断されたとして、国に慰謝料など200万円の賠償を求めて仙台地裁に提訴した。

 提訴したのは、福島県の60代の女性。3月に福島地裁郡山支部で、同県会津美里町で夫婦を刺殺したなどの罪に問われた無職高橋(旧姓横倉)明彦被告(46)の裁判に参加した。訴状によると、女性は多くの刺し傷のある遺体のカラー写真を見たり、119番の音声記録で被害者の悲鳴を聞いたりしたことが原因で、急性ストレス障害に悩まされるようになった。

 女性は今も食欲がなく体重も減ったまま戻らないという。提訴について女性は「裁判員をしてストレスを受けるのは自分で最後にして欲しい。裁判員制度に対して問題提起をしたい」と話しているという。女性の担当弁護士は、裁判員法の規定について「国民の幸福追求権を定めた憲法13条、苦役からの自由を定めた憲法18条などに違反する」と主張している。


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 このニュースの報道では、素人の裁判員とプロの裁判所職員の差異が当然の前提とされていましたが、私は元プロの立場として何とも言えない気持ちになりました。私自身はこれまで、恐らく300人前後の遺体のカラー写真を見てきたと記憶しています。正確な人数については、他の裁判所職員と同じく把握していません。そして、この麻痺の仕方は、職業病に正しく罹患した結果であろうと思います。

 元裁判員の女性が受けた衝撃は、私にも想像がつきます。300人前後の写真を見てきても、「最初の1人」の衝撃は頭から離れないからです。それは40代の主婦の方でした。近所のスーパーに買い物に行った帰り、横断歩道でトラックに轢かれました。私は、彼女の顔を直視できない自分に気がつき、それまで自分なりに考えてきた「瞬間」や「永遠」という概念について、何も知らなかったことを思い知らされました。

 その後、私が数年間にわたり淡々と職務をこなしてきた際の心理操作は、それほど単純なものではありませんでしたが、それほど複雑なものでもありませんでした。少なくとも、裁判に携わるプロの実務家において、その権限がないことについて考察を深めることは職業倫理にもとるという点は明らかでした。すなわち、「罪と罰」「過ちと償い」「生と死」といった哲学的な問いについての考察です。

 私が裁判員制度の導入に賛成していたのは、裁判員の方々にとっては人生で1回のみの経験となる以上、哲学的な問いについて考えることが許されるからです。本来考えるべき問題をプロが考えることが許されないとなれば、せめてプロでない方々に託さなければ、この問いを考える者は誰もいなくなります。裁判員制度がもたらすものは、人間社会がなすべき義務として正しい方向を示しているとの直観が私にはありました。

 私は、多くの刺し傷で原型を留めなくなった被害者や、頭から脳が飛び出ている被害者や、全身が焼けて人間だか何だかわからない被害者の写真に向き合うたびに、一瞬の気持ち悪さに取り付かれ、その後は名付けようのない葛藤に襲われ、繊細さと鈍感さが混沌となった心情を抱えつつ仕事をしてきました。ここで、元裁判員の方に「最後にして欲しい」と言い切られてしまうと、最後のその後はどうなるのか、また妙な問いが沸き上がってきます。

(続きます。)

河野裕子著 『わたしはここよ』より その1

2013-05-12 22:48:13 | 読書感想文

p.43~

 相手の立場と心情を斟酌できるまでにはそれだけの人生の時間と経験が要る。若い日には自分のことだけで精一杯で、その場その場を凌ぐのに全力を賭けてしまう。そのくせ、体力も畏れを知らぬ気力もあって、相手かまわず突っ走ってしまう。もののあわれなど分かるはずもなく、惻隠の情などわかるはずもなく、残酷に相手を傷つけてしまうのだ。

 6、7年前のことになるが、周囲の若い人たちとちょっとした行き違いがあって、そうとう参ってしまったことがある。「あはれ知らぬ若さのゆゑに」一撃をくらうことばを吐かれた。ゲッソリ痩せた。顔つきまで変わってしまった。わたしも若かったと思う。まだ40代の終わりで、若いひとたちを躱す術を知らなかったから、まともに傷ついてしまったのである。何と可愛らしい傷つきかたをしたものかと今では思うが、古傷といえども疼くことはあって、これが生きていることの味なのかもしれない。


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 人間は、人生経験の積み重ねによる深まりを経なければ、心の機微や濃淡といったものを身につけることはできず、惻隠の情もわからないと思います。他方で、単に人生の時を重ねていればこれが身につくというものでもないと感じられます。この点において、客観性を至上命題とする社会科学の視点は、人生の時間の積み重ねというものに最初から価値を置いていないようにと思われます。科学的・客観的事実は、誰が見ようと変わるものではなく、その者の年齢など関係ないからです。

 これも私の狭い経験からの結論に過ぎませんが、法律は心の機微や惻隠の情とは対極的な位置にあり、法律家はこの点において精神的に幼い部分があると思います。学者のほうは専門バカで世間のことに疎く、実務家は思い通りにならないと子供のように怒る傾向があり、これらは「正義」の観念とも無縁ではないと感じます。法律や裁判は客観性を追求するものですが、自己主張を強力に押し進めることによって、客観的事実の側が引き寄せられるという状況が生じるからです。

小池龍之介著 『沈黙入門』

2013-05-08 23:07:46 | 読書感想文

p.22~
 ケチをつけたくなる、という心理を分析してみると、「これにケチをつけられる私のセンスは、すぐれてるヨ」という裏メッセージを含んでおり、ケチをつける対象よりも自分を優位に見せたい、という欲望と結びついています。つまり、ケチをつける相手についてお喋りをしているように見えて、実は自分のことを語っているのです。

p.54~
 正論を語ったからといって問題の解決になることはなく、周りの人を興ざめさせてしまうこと請け合いです。正論というのは、大多数の人間が納得し、少なくとも理屈のうえでは受け入れるものです。ということは、正論とは、それを言っている本人独自の考えではないことが明らかです。

p.61~
 「すみません」を何度も言いすぎると、本気で心から謝っていない印象を与え、「すみません」の価値を下げてしまうことになります。そもそも、「すみません」「ごめんなさい」「申し訳ありません」を連発する態度からは、「これからは改めよう」というよりはむしろ、「この場は適当にゴマカして、自分が変わらないですむようにしよう」というニュアンスが強くにじみ出てしまうものです。

p.76~
 他人の服装についてぶつぶつ悪口を言うのも、評論家や学者が他人や社会を批判するのも、仏道の立場から見ると変わりません。結局は怒りのエネルギーに駆り立てられての行為なのです。なぜ、放っておけばいいのに、他人を批判したり文句を言ったりしたくなるのでしょうか。それは、自分のダメさ加減から目をそらして、「ダメなのは他人、社会、世界のほうだ」と思い込みたいからです。

p.104~
 正しいこと、それ自体は言うまでもなく大切なことですが、「自分の」正しさを言い張ることは、たいていの場合、周りの人にとっては有害です。正しいことを己の心の中に持ち、それによって己をストイックかつ美しく調律してゆくことと、それをわざわざ言葉にして他人にぶつける不粋さの間には、天と地ほどの差があるように思われます。


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 社会問題を「人生の問題」として論じている文章に接すると、人生の問題の切り口としては尤もであり、その中の論理には深く納得するものの、現実にはそれでは済まないのではないかという疑問が沸くことがあります。逆に、人生の問題を「社会問題」として論じている文章に接すると、社会問題の切り口としては尤もであり、その中の論理には深く納得するものの、現実にはそれでは済まないのではないかという疑問が沸くことがあります。

 社会とは人の集まりの別名であり、すなわちそれぞれの「自分」の集まりであり、自分とは「他人にとっての他人」であるところに社会性の認識が生じるものと思います。あまりに垂直的にすぎる問題の立て方に対しても、水平的にすぎる問題の立て方に対しても、私はその鈍感さにイライラすることがあります。言葉で書くと、どちらも「この人は苦労していない」「この人は恵まれている」という苛立ちですが、その質は違っています。