犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

岩瀬博太郎・柳原三佳著 『焼かれる前に語れ』

2008-08-30 23:27:19 | 読書感想文
死は誰に対しても等しく訪れるものである。しかし、家族にとっては、受け入れられる死と受け入れられない死がある。「人生の目的は何か」、「人生の意味は何か」といった哲学的な問いは、答えが出るものではないが、むしろ死を受け容れる方向に作用する。これに対して、現代の科学技術では判明するはずの事実がわからないこと、あるいは判明しているはずの情報が公開されずに隠されていること、これらは死が受け容れられない方向に作用する。家族が肉親の死の事実を受け容れるためには、現代の科学技術で到達したところの死因を知ることが不可欠である。死因がわからなければ、家族はいつまでも苦しみ、その後の人生も大きく変わることになる。哲学的な生死を問う大前提として、科学的な死因の究明は避けることができない。また、犯罪による死の場合には、家族が死因を知らされずに苦しみを増幅させることは、二次的被害の典型である。この被害は、法廷での証言やマスコミの取材における二次的被害よりも、より直接的な被害である。

現在の日本のシステムにおいては、まず検視官(警察官)による死体の検視が行われ、五官によって外傷の有無などが調べられる。そして、犯罪行為による死と認められた場合のみ、司法解剖に回されることになる。現場では、「殺人の線が出ないと解剖に回せない」などと言われているようである。このような入口における刑事の勘による振り分けには、確かにそれなりの合理性がある。初動捜査に関われる人的資源は限られており、経済性や合理性の観点からすれば、社会常識にも合っているからである。しかしながら、そもそも人間の生死は、経済性によって割り切れる事項ではない。死因がわからずに家族がいつまでも苦しむ状況は、このような合理的なシステムの歪みから生じている。経済的なシステムは、各部署が自分の関係ないことはしないというセクショナリズムや、縦割りによる悪意のないたらい回しを生みがちである。そして、入口による振り分けのミスはなかなか気付かれず、気付かれたときにはすでに取り返しがつかない。

千葉大学大学院の岩瀬博太郎教授は、平成18年1月から、遺体をCT(コンピュータ断層撮影)で検査して解剖結果と比較する全国初の試みを始めている。司法解剖の人手が足りず、遺体を切り刻むことに対する抵抗感も強い日本社会において、この方法は画期的である。CTを用いれば、腹腔穿刺による出血によって逆に死因が不明になるといった弊害も避けられる。病気の発見と治療、すなわち人間を死から遠ざけるための機器をこのような目的に用いることは、一種のコペルニクス的転回に近い。生を勝利とし、死を敗北とする医学の常識の中でこのような試みを始めることは、恐らく相当の覚悟が必要であり、多くの圧力もあったはずである。医療過誤訴訟においても、明らかに医師に不利となるからである。そのような中で、岩瀬教授は次のようにはっきりと述べている。「人の命を大事にすることが医師の仕事であるからこそ、法医学者と臨床医らが『医師』として互いに協力し、死から生を学ぶ制度改革を進めていくことが必要だと私は思っている」(p.180)。

現代社会の複雑なシステムは、すべて人間のために発明されたものであるが、その複雑性が縦割りの弊害を産み、逆に人間を苦しめてきた。解剖の制度においても、現在の日本では、①司法解剖(裁判官の令状に基づき犯罪捜査としてなされるもの)、②行政解剖(非犯罪行為について監察医が行うもの)、③承諾解剖(家族の承諾を得て行うもの)に分かれている。実際に行われていることは同じ解剖であるにも関わらずである。岩瀬教授は、この問題点にも具体的に切り込み、改善策を提示している。もちろん、このような大局的な視点は、現場からの反論の声を招きがちである。警察官も検察官も忙しいのだ、現場を知らずに部外者がものを言うなとの声である。しかしながら、立場による議論は、立場が変われば意見も逆になる。岩瀬教授は、遺族からの司法解剖への不満の声を聞いてプライドを失いかけたときにも、反論ではなく理解によって道を開いた。同じ医学の知識を持った医師であっても、最後に行動を分けるものは、その人の人生哲学であることがわかる。

(続く)

死因究明制度

2008-08-29 23:16:36 | 国家・政治・刑罰
8月28日、死因究明制度について、衆院法務委員会の超党派議員団が保岡法相に提言をまとめて提出した。欧米の多くの国では異状死解剖率が50%以上であるのに対し、我が国では10%程度にとどまっている。それによって、死因の取り違えや犯罪の見逃しが頻発しており、事件や事故の再発防止にもつながっていない。このような死因究明制度の低さは、犯罪者を助長させ、裁かれるべき殺人者が野放しにされることにもなる。そこで同提言においては、異状死の解剖率を5年後に20%(年間3万件)となるよう体制を整備することや、新制度創設を検討する審議会の早期設置を盛り込んでいる。また同提言では、死因不明の全死者について、解剖・CT・薬毒物検査などが体系的に行われる制度を新設することの必要性が述べられている。政府は、昨年12月に法務省や厚生労働省など改革のための検討会議を設けたが、作業は進んでいないとのことである。

人は生まれてきた限り、「なぜ人は死ななければならないのか」という形而上的な問いを所有する。そして、この問いには科学では明確な答えが出せず、その役割は哲学や宗教に委ねられる。しかしながら、哲学や宗教における問いを鋭くし、問い自体が答えであるような問いを発するためには、まずは科学によって死因が正確に突き止められなければならない。「死因を究明してほしい」「真実を知りたい」という叫びのような声は、この形而上の問いと形而下の問いの両方に足場を持っている。形而上的には、人間は生まれてきた以上必ず死ぬものであり、すべての人の死因は「生まれてきたことだ」と言える。しかし、何年もの闘病を経て亡くなった人の死と、当日の朝まで健康そのものであった人の死を比較してみれば、湧き上がってくる問いが明らかに異なる。これは、残された周囲の者の悲しみではなく、死ななければならなかった本人の驚きである。

人間は誰しも、過去のその時に戻ることはできない。それゆえに因果律とは、ある結果から原因を遡及的に探究する法則となる。すなわち、過去から現在への時間の流れではなく、現在から未来への時間の流れでもなく、現在から過去への擬制である。仮に過去に戻れたとしても、そこには結果が伴わない以上、それを原因と捉えることはできない。過去と現在が矛盾する時間として存在する以上、過去の正しさは「さしあたりのもの」とされ、原因とは「意志的なもの」とされる。かくして、原因とは現在からの想起となり、社会的な制作物となり、特定の力が読み込まれることになる。ゆえに古来、人間の死因は、非科学的なストーリーによって語られてきた。そして、科学の発達に伴って、哲学や宗教は徐々にその守備範囲を減らしてきた。これは逆に言えば、科学によって死因が正確に突き止められることにより、初めて哲学や宗教の問いを正確に問うことができるようになったということである。

死を大切にすることは、生を大切にすることである。翻って、生を大切にすることとは、死者の死因を明らかにすることである。これは、誰しも人生は一度きりであり、「なぜ死ななければならないのか」という形而上的な問いを所有すべき存在であることに基づく。この問いは、他者の不慮の死によって形而下に先鋭化する。また、「なぜ死ななければならないのか」という問いは来るべき自らの死を語るのに対し、「なぜ死ななければならなかったのか」という問いは逃れられない現実の他者の死を語る点で、形而上の机上の空論を免れている。そして、生き残った者において、「なぜ」という問いの強さが異なるという現実は、それ自体において形而上と形而下の双方に正当性を持っている。科学技術の発達は、人の死因を正確に究明することを可能にした。あとは政治の力である。それだけに、今回の衆議院の超党派議員団の提言と同じ日に民主党の離党騒ぎが起こり、後者のほうばかりが注目され、衆議院の解散の時期ばかりが云々されることは情けない。

無償の愛

2008-08-27 22:59:31 | 国家・政治・刑罰
刑事裁判の経過に納得ができない人が、それと並行して民事裁判を起こす。現在の日本では、このような光景はごく一般的である。その目的は、ほとんどの場合「加害者に誠意が見られない」「刑事裁判では真相が究明されていない」「本当のことが知りたい」「加害者には正直に真実を話してほしい」といったものである。もちろん現在の法治国家においては、仇討ちや報復の権利は訴訟物として認められない。従って、やむを得ず金銭による損害賠償請求権を訴訟物とすることになる。命はお金で買えないことを示したくても、現在の法制度の下では、そのこと自体を金銭賠償請求権の中で述べざるを得ないという矛盾である。これは被害者の力不足ではなく、法制度の側の限界である。

被害者としては、お金をもらっても、実際には何も得るものはない。あくまでも究極的な希望は、死者を元通りに戻してもらうことである。事件の前の状態にして返してほしい。本当はお金など欲しくない。まさに「無償の愛」である。お金を訴訟物にするのは、あくまでも現在の法律がそうなっているからであって、苦肉の策である。ここのところだけは絶対に譲れない。もしも事件の前の普通の幸せな生活に戻してくれるならば、被害者側はいくらでもお金を払う。これが民事裁判の隠れた訴訟物である。ここで、被害者にとって最も苦しいのが、「やっぱり金が目的なのか」「金が儲かれば満足するのか」との中傷を受けることである。どんなにお金など欲しくないのだと言っても、訴訟物がまぎれもない金銭債権であるため、これはどうしようもない。

それでは、お金が目的ではないことを理解してもらうためには、どうすればいいのか。これは、民事的な金銭賠償の多寡にかかわらず、刑事裁判で厳罰を求めることをおいて他にない。お金など要らないのであれば、欲しいものは真実であり、筋道であり、正義であり、論理である。そうだとするならば、これを実現するのは、やはり国家の手による刑事罰である。「加害者に誠意が見られない」「刑事裁判では真相が究明されていない」として民事裁判を起こしても、それは刑事裁判の理を曲げるものではない。両者はあくまでも両立する。どんなに加害者が賠償を尽くしたとしても、それで満足して厳罰を求めることをやめてしまえば、やはり「金が目的だったのか」「命をお金で買うのか」との誤解を受けてしまう。そうならないためには、あくまでも厳罰を求め続けるしかない。

犯罪被害者を見落としてきた法曹界は、ようやく被害者の存在を思い出してきた。しかし、それは従来の被告人中心のパラダイムの中での保護や救済であり、厳罰化を志向するものではなかった。そして、厳罰感情を抑えるための金銭賠償、国家による金銭補償をその主眼に置いてきた。すなわち、被害者は経済的に苦しんでおり、金銭を補償すれば立ち直りに役立つだろう、精神的な立ち直りについても心のケアをすれば厳罰感情は収まるだろうとの制度設計である。ところが、これに乗ってしまえば、被害者は最も理不尽な中傷に直面してしまう。「国からお金がもらえれば満足なのか」「やっぱりお金が目的なのか」「殺されて儲かって良かったな」。このようなを誤解を招かないためには、被害者は国からいくらお金を補償されようと、心のケアの援助をされようと、それとは全く別問題として、刑事裁判ではあくまでも厳罰を望まざるを得ない。これが、命はお金で買えないということである。

佐野洋子著 『役にたたない日々』

2008-08-26 21:20:26 | 読書感想文
p.146~

2ヵ月位前、六本木ヒルズというところに初めて連れていってもらった。高いところからぐるりと夕暮れの東京を見た。私はSFの世界に落とされたかと思った。

びっしりとかさぶたのようにどこまでもどこまでも建物に埋めつくされていた。青灰色の夜の初め空の下で、果てしない東京は哀愁に満ちて、何かがこみ上げて来るような気分になった。このかさぶたのように地球にはりついたものを人の営みというのだろうか。SF映画の空中からの都会の俯瞰図を見ているようで、私には人の営みにリアルに思いをはせるには巨大すぎた。

大都会にはりついたかさぶたのようなもの、これは地球のガンだ。薄気味悪く増殖し続けるガン細胞、東京ばかりでなく、香港もサンフランシスコもロンドンもカサブランカも大都会は地球にばらまかれたガンだと思った。巨大な中国、インド、アフリカも新しいガン増殖に懸命なのだ。人類はそのようにプログラミングされている生き物なのだろう。


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すべての物体は、かさぶたのように地球に貼り付いている。日本で高い建物に昇れば昇るほど、地球の裏側のブラジルからすれば、下に降りて行くことになる。地球の側から見てみれば、地球には上も下もなく、表も裏もない。ブラジルから見れば、日本は地球の裏側にある。


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p.225~

サトウ君の家で古い西部劇を見た。映画が終わった時、「アッ、これ見た。今気がついた」とサトウ君が云った。ヒッヒッヒッ。嬉しいね。

「オイ、マリコ、あれ」
「あれって云ってもわかりません」
「アレだよホラ、アレ」「だからわかんないって」と云ったかと思うと、「マリコ、アレ取って」「わかった」と云う事もある。
アレ、ソレ、あそこ、ここ、代名詞の連発である。同年輩が集まると、アレ、コレ、ソレ、思いちがい、勘ちがいである。

このごろ私は何かをしようと思って立ち上がる。
立ち上がった瞬間、何のために立ち上がったか忘れる。
呆然と立ち尽くす。日に何度もである。呆然と立ち尽くす。
恐怖がおそうが、立ち止まって、頭を自分でポカポカなぐって、「何だっけ何だっけ」と叫んでいる友人もいて、少しほっとしたりする。


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客観性とは何か。客観性を失う恐怖に直面している人に対しては、どんなに理屈を並べても勝てない。

死者に語りかけるということ

2008-08-24 19:24:23 | 時間・生死・人生
あなたは今この会場のどこか片隅に、ちょっと高いところから、あぐらをかいて、肘をつき、ニコニコと眺めていることでしょう。そして私に『お前もお笑いやってるなら、弔辞で笑わせてみろ』と言っているに違いありません。あなたにとって、死も一つのギャグなのかもしれません。私は人生で初めて読む弔辞があなたへのものとは夢想だにしませんでした。

私はあなたに生前お世話になりながら、一言もお礼を言ったことがありません。それは肉親以上の関係であるあなたとの間に、お礼を言うときに漂う他人行儀な雰囲気がたまらなかったのです。あなたも同じ考えだということを、他人を通じて知りました。しかし、今お礼を言わさせていただきます。赤塚先生、本当にお世話になりました。ありがとうございました。私もあなたの数多くの作品の一つです。合掌。

平成20年8月7日 森田一義


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8月7日に行われた漫画家の赤塚不二夫さん(享年72)の葬儀で、大きな話題を呼んだのが、タモリさんの弔辞であった。タモリさんは手にしていた紙を何度も見ながら弔辞を読んでいたが、その紙は白紙であり、すべてアドリブだったとのことである。何しろ、「酒を飲んで帰ったら面倒くさくなった」らしい。今の世間的な常識においては、弔辞は色々な式辞の中でも表現が難しいものとされ、失敗が許されないことから、定型文を並べて無難にまとめられることが多い。そのような中で、タモリさんの赤塚さんに対する思いをストレートに表現した弔辞が話題を呼んだのは、人間の深いところにある何かを指し示したからである。

人間の一生には、入学式や卒業式、成人式や結婚式など、あらゆる儀式がある。その中でも、人間がたった一人きりで主役を務めるのが葬式である。最大にして最高の舞台である。ところが人間は、どう頑張っても、自らの葬式には出席することができない。あらゆる儀式の中で、自らに一番関係があるはずの葬式においてのみ、なぜか本人は出ることができない。主役不在である。それにもかかわらず、人類はこの儀式を脈々と受け継いできた。死者を送る者が次の死者となり、その死者を送る者がまた次の死者となり、気が遠くなるほどの繰り返しである。そして、主役が不在でありながら、周囲の者はその人に語りかける。まるでそこに居るかのように語りかける。しかも、その語りかけの内容は、生前であれば意味が通じないものである。

タモリさんは述べた。「あなたは今この会場のどこか片隅に、ちょっと高いところから、ニコニコと眺めていることでしょう」。今やインターネットが瞬時に世界を駆け巡り、科学的世界観が常識となっている。今年の3月には、宇宙飛行士の土井隆雄さんが宇宙に行ってきたばかりであり、何人もの宇宙飛行士が地球を見下ろしている。それでも我々は、赤塚不二夫さんがどこか高いところから我々を見ているという言い回しに触れても、特に不自然を感じない。それどころか、定型的な弔辞ではなく、白紙を持って「あなた」「赤塚先生」と真っすぐに語りかけたタモリさんに驚異の念を持った。そして、弔辞とは本来こうあるべきだとの感を強くした。これらは、死者が存在していなければ全く意味を持たない行為である。そしてこれらは、改めて理屈をつけて考えるような話ではない。人間はすでに、そのような存在の形式をそのまま生きてしまっているからである。

死者は今どこにいるのか。これは存在の不思議であり、不在の不思議である。物理的な肉体のことではなく、その人「そのもの」はどこへ行ったのか。それは、自分の記憶を持っている、「その人であるところのその人」である。「死者は我々の心の中に生きている」という言い回しは、比喩的に使われることが多いが、これ以外に表現のしようがない端的な現実である。存在したことが存在する、すなわち全ての過去は現在において存在し、しかもすべての他者は自己において存在している。死別の悲しみは記憶の所有によるものであり、赤の他人は悲しみを持つことがない。これはお互い様である。そうであるならば、残された人における死者の記憶が死者の死とともに消滅すれば、悲しみはなくなるはずである。しかし、記憶の消滅と悲しみの消滅、より残酷なのは果たしてどちらか。他の誰でもないところの「その人」は、一度存在を始めたならば、すべての時が現在である以上、その存在を止めることはない。

4年に0.1秒

2008-08-23 11:46:32 | 実存・心理・宗教
◎ 柔道女子48キロ級・銅メダルの谷亮子選手のコメント

「5大会連続のメダル獲得。自分自身の中では全力を出し切った結果なので、うれしく思う。日本で応援してくれた人や、会場で応援してくれたファンに感謝の気持ちでいっぱい」
「4年に1度のチャンスしかない五輪に、5回連続で出場できたことを誇りに思う」

◎ 夫の谷佳知選手(巨人)のコメント

「メダルの色は違ったけれど、僕には金色に輝いて見える。これからも彼女が選んだ道を全力でサポートしたい」


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◎ 柔道女子78キロ超級・銀メダルの塚田真希選手のコメント

「負けてしまったけど、すっきりした気持ち。達成感の方が強い」
「全力で前に出て戦った。すがすがしい気持ちです」
「自分の持っているものを出し切って勝負したかった。出し切れたと思う」


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◎ レスリング女子48キロ級・銀メダルの伊調千春選手のコメント

「アテネからの4年、妹の馨と一緒に歩んできた道は最高の道だった。その道を歩んで来られたことが私の誇り。このメダルも金メダルです。頑張って来られた自分に感謝です」
「相手が本当に強かった。納得している。支えてくれたみんなに感謝の気持ちでいっぱい。4年間、馨と歩んできた道は金メダルだと自信を持って言える」

◎ 妹の伊調馨選手(63キロ級・金メダル)のコメント

「姉の千春の存在が力を貸してくれた。姉妹で金が目標だった。かなわなかったけど、この金メダル1個が自分にとっても千春にとっても最高の1個」


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◎ レスリング女子72キロ級・銀メダルの浜口京子選手のコメント

「アテネの時もうれしかったけど、北京の銅メダルはアテネよりうれしいです。北京五輪は、私の一生の宝です。ここまで来るのに、レスリングができないんじゃないかと思う時があったけど、自分を信じて続けてきてよかった。父にはメダルを首にかけてあげたい」
「母には本当に迷惑を掛けていたので、恩返ししたいと思っていた。自分を信じて続けてきてよかった。3位決定戦は、15年レスリングをやってきて最高の試合だった。悔しさはまったくない。アテネより中身が濃い銅メダル。人生の宝になると思う」


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「ママでも金」と言い続けてきた谷亮子選手。残り11秒で金メダルが逃げた塚田真希選手。「姉妹で金」が合言葉だった伊調千春選手。アテネ五輪での銅メダル以来、金メダルだけを目標にしてきた浜口京子選手。誰もが金メダルを目指して、4年間の時を過ごしてきた。そして、金メダルを獲る実力がありながら、時の運によって金メダルを逃した。しかしながら、誰もが表彰台では晴れやかな笑顔を見せていた。「この銀メダルは金メダルだ」。「銅メダルが金色に輝いている」。これは本当に満足しているわけではなく、単なる負け惜しみでもない。言葉にならない複雑な思いの詰まったコメントには、多くの含蓄がある。観客はそれを聞いて、また言葉にならない感動を覚える。

史上最多となる1大会8冠を達成した水泳のマイケル・フェルプス選手(アメリカ)は、次のようなコメントを残した。「誰も成し遂げていないことをやりたかった」。「夢を描いて頑張れば不可能なことは何もない」。「僕の夢は進行中だ」。史上初となる世界新を記録しての金メダル3冠を達成した陸上のウサイン・ボルト選手(ジャマイカ)は、次のように述べた。「何だって可能だと思っているよ」。「素晴らしい気分だ。夢がかなったよ」。「もう何も言うことはない」。圧倒的な自己肯定感、全知全能感、世界を征服したかのような興奮のコメントも、オリンピックの魅力ではある。しかしながら、含蓄という点では、なぜか金メダルを逃した選手のコメントには及ばない。

東野圭吾著 『さまよう刃』

2008-08-21 22:38:25 | 読書感想文
p.346~

 長峰は続けた。
 「じつをいいますと、私だって復讐に躊躇いを感じなかったわけじゃないんです。伴崎を殺したのは衝動的なものですが、スガノカイジを追いつつ、やっぱり迷いはあったんです。もしかしたら彼は今頃、本気で反省しているかもしれない、後悔しているかもしれない、これからは真人間になろうと思っているかもしれない、だったら絵摩の死もまったく無駄ではなくなる、一人の人間を更生させたことになると考えられないこともない、するとその人間を殺すのではなく生かすことのほうが意味があるのではないか……なんていうふうにね」
 彼はふっと唇を緩め、頭を左右に振った。「とんだお人好しでした。この記事を読んで、私は確信したんです。奴らは一人の女子高生の自殺さえ、何の教訓にもしなかった。反省材料にできなかった。むしろ、好結果だと思っている。それはつまり、絵摩を死なせたことについても、おそらく同様だということを示しています。スガノは反省も後悔もしていない。姿を隠しているのは、ただ単に捕まるのが嫌だからにすぎない。今頃はどこかで息をひそめて、自分たちの罪がなかったことにならないかと虫のいいことを考えているに違いないんです。私は断言しますが、そんな人間に生きていく資格などない。更生する見込みもない。だったら、せめて遺族の怒りをぶつけたい。恨みを晴らしたい。自分がどれほどの憎悪を受ける行為をしたかを思い知らせてやりたい」
 語るうちに、自分の言葉に興奮したように、長峰の声は大きくなっていった。和佳子は萎縮していた。彼の怒りが自分にぶつけられているような気さえした。事実彼は、遺族の悲しみを理解せず、復讐は許されないことだ、とお題目のように唱える一般大衆にも憤りを感じているのかもしれなかった。


p.497~

 「警察というのは何だろうな」 久塚が口を開いた。「正義の味方か。違うな。法律を犯した人間を捕まえているだけだ。警察は市民を守っているわけじゃない。警察が守ろうとするのは法律のほうだ。法律が傷つけられるのを防ぐために、必死になってかけずりまわっている。ではその法律は絶対に正しいものなのか。絶対に正しいものなら、なぜ頻繁に改正が行われる? 法律は完璧じゃない。その完璧でないものを守るためなら、警察は何をしてもいいのか。人間の心を踏みにじってもいいのか」 そこまでしゃべった後、久塚はにっこりと笑った。「長い間警察手帳を預かっておきながら、俺は何ひとつ学んでなかったよ」
 

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小説家は法律家よりも法律のことを知っている?

福島県大熊町・県立大野病院事件

2008-08-20 19:41:38 | 言語・論理・構造
帝王切開手術で29歳の女性を失血死させたとして、業務上過失致死罪などに問われた加藤克彦医師に対し、福島地裁は無罪の判決を下した。産婦人科医の不足を加速させたとして、医療界が注目していた「県立大野病院事件」の裁判である。死亡した女性は出産後、対面した長女の手をつかんで「ちっちゃい手だね」と声をかけたという。その後、容体が急変して輸血などの措置が講じられたが、彼女は出産の約4時間半後に死亡した。無罪判決を受けて、国立成育医療センターの久保隆彦・産科医長は、「有罪になれば、産科医療の崩壊に拍車をかけるところだった。今回の判決は極めて妥当な判断だ。これ以上の産科医減少と産科医療の崩壊を招かないために、検察は控訴すべきではない」と語った。これに対して、被害女性の父親である渡辺好男さんは、医学用語や帝王切開手術の知識をゼロから医学書やインターネットで調べてファイルにまとめ、15回の公判すべてを傍聴してきた。それでも、判決前には「公判でも結局何が真実かはわからないままだ」と話し、専門的議論の前に遺族が置き去りにされたとの印象を強くしていた。そして、無罪の判決の朗読が始まって5分ほど経った後、突然涙をこぼし始め、ハンカチを取り出しては何度も涙をぬぐった。

何が起きたのかを知りたい。とにかく真実を知りたい。医学の素人が何の知識もないところで、多額の費用を投じて民事裁判を起こしたり、刑事裁判で検事に協力するのは、この一念に尽きる。別に医師を刑務所に入れることによって死者の無念を晴らそうというわけでもなく、事故を教訓にして社会を変革しようというわけでもない。最大の望みはすべてを元に戻してもらうことであるが、そんなことは言われなくても無理だとわかっている。だから、とにかく真実を知りたい。この真実とは、科学主義における過去の客観的真実の意である。そして、法治国家においては、この真実を明らかにする場は裁判所をおいて他にない。ところが、この種の客観的議論は無限に細かくすることができる。そして、医師の側は自らの過失を否定するために、医療の専門家ではない裁判官にもわからないような難しい議論を展開して、とにかく専門的な議論に持ち込もうとする。人間は、自分の理解を超える難しい議論を展開している者に対しては、降参して従うしかないからである。裁判所の嘱託による医師の鑑定意見においても、医師が同業者の利益を損なうことは書けないのが通例である。かくして現代の医療裁判は、原告の「真実を知りたい」という気持ちが実現されることが非常に難しくなっている。真実を追えば追うほど、重箱の隅に入ってゆき、専門用語のカムフラージュによって鳥瞰的な視点が失われるというもどかしい構造である。

どんな医学的な専門用語も、最後は日常用語によって支えられている。そして、裁判はあくまでも医学的な真実を明らかにする場ではなく、法律的な真実を明らかにする場である。法律的な過失論においては、注意義務は予見可能性と結果予見義務、回避可能性と結果回避義務に分けられているが、これは法律用語を使うまでもない。「すべきことしなかった」か、「してはならないことをした」ならば、法的な過失があるというだけの話である。「もし何かをしていればその結果は起きなかった」か、「何かをしていなければその結果は起きなかった」ならば過失が認められるということである。これはもちろん、法律的な部分的言語ゲームである。現実の世界では、事実は1つしかない。すなわち「タラ・レバ」はなく、過去の事実は変えることができない。それゆえに、実際には起きなかったこと、起こるべきであったことを、言語の力によって仮構する。これが法律的な部分的言語ゲームである。そして、「何かをしていなければその結果は起きなかった」というときの、その「何か」は、無限に想定することができる。それゆえに、これは実際にその場で行動していた本人に委ねられる。言語とは、ないことを語るものだからである。従って、医師が自ら「あれもしておくべきだった」「これもしておくべきだった」と無限の想定を語るならば、法的な過失があったということになり、医師は有罪となりやすい。これに対して、加藤医師のように「できる範囲のことを精一杯やった」と主張し続ければ、法的な過失はなかったということになり、医師は無罪となりやすい。

この判決においては、医療界を挙げて加藤医師の支援が行われたようである。そして、福島地裁の前では、無罪判決を受けて支援者の医師らが安堵の表情を見せた。人の命を預かる医師らが、29歳で人生を終えた女性の不在の周囲で喜びの声を上げる、このパラドックスは抜きがたいものがある。もちろん、通常の医療行為で医師が逮捕されれば現場が萎縮すること、全国で産科医の不足や過酷な労働状況が指摘されることは事実である。そして、医師が大挙して押し寄せて警察や検察を批判し、無罪判決に対して喜びを表明することは当然である。しかしながら、すべての医療行為が人の命を救うために行われているのであれば、死者の隣で沸き起こる喜びには、論理的に一抹の逡巡と後ろめたさが伴っていなければならない。我が子を残して死ななければならなかった女性への想像が、「大変残念に思います」の一言で済まされるならば、医師の生命倫理としても強烈な違和感が残る。父親の渡辺好男さんは、娘の長男が「お母さん起きて。サンタさんが来ないよ」と泣き叫んだ姿が脳裏から離れないという。医療過誤裁判の被害者が求める真実は、このような1人の人間としての真実である。そして、医師も1人の人間である以上、専門用語による議論とは別に、人間としての回答をすることが可能である。本来、1人の人間の死は社会問題ではなく、医師不足の問題とも何ら関係がないはずである。しかしながら、裁判で医師からそのような回答が返ってくることはまずない。

裁判員の側からものを見る

2008-08-18 19:51:02 | 実存・心理・宗教
いかなる殺人罪も、強盗罪も、放火罪も、被害者が存在しなければ成立し得ない。その意味で、犯罪被害者は刑事裁判のシステムの維持にとっては不可欠な存在であった。それにもかかわらず、犯罪被害者は刑事司法から除外され、「忘れられた存在」と言われてきた。最高裁判所の判決においても、刑事裁判は被害者のためにあるのではないと明言されている。これは、社会科学の客観的な視点によって、全体主義的な視角が固定されてしまったことが大きい。実施が間近に迫った裁判員制度においても、同じ弊害が起きようとしている。すなわち、裁判員制度を導入することによって、固有名詞のない集団としての裁判員が存在するようになった結果、人間としての一人ひとりの裁判員の存在が見えなくなるというパラドックスである。

「あなたは被告人に死刑を言い渡すことができますか」。「あなたは人を裁くことの重さに耐えられますか」。このような問いは、裁判員の人生に迫っていない。裁判員制度の導入によって、日本の司法は変わる。しかし、裁判員の人生はもっと変わる。それまで犯罪や裁判などとは無縁の生活を送ってきた人が、何かの機会に裁判の傍聴に行ってみると、それまでの人生観がまるっきり変わってしまうことがある。広い世の中にはこんな場所もあったのか。こんな裏社会があったのか。こんな人間も同じ空気を吸っていたのか。一度このような経験をしてしまうと、人間はそれ以前の自分には戻れない。そして、変化した後の自分は、その後もずっと自分自身につきまとう。これが人生観の変化ということである。傍聴席からの見物ではなく、法廷の正面において被告人と向かい合うとなれば、その変化の度合いは比べ物にならない。

殺人罪や危険運転致死罪の裁判となれば、裁判員も遺体の写真や解剖の経過を記録した写真と向き合わなければならない。人間の命はこれほどまでに儚いものなのか。そのような事実にひとたび直面してしまえば、それは裁判員に強烈な実存不安を引き起こす。毎日のようにそのような記録を見ている裁判官にとっては何でもないことが、裁判員にとっては人生観を根底から覆す衝撃になる可能性がある。これは裁判員のほうが正常であり、裁判官のほうが麻痺している。ここで、遺族が傍聴席で遺影を持つ中で、被告人が平然とした態度で殺意を否認した場合、裁判員は「殺意の認定」という刑事裁判の手続きを遂行することができるのか。人命の儚さに打ちのめされたまま、精神的におかしくならずに、殺意の有無を認定するという作業に集中できるのか。このような問題は、「あなたは被告人に死刑を言い渡すことができますか」という問題よりもはるかに厳しく人間に迫ってくる。

このような人生の核心に迫る難問が相談できるのは、まずは家族や友人などの親しい人間である。しかし、裁判員には守秘義務があり、家族や友人にもこのようなことは相談できない建前になっている。また、守秘義務の関係でブログに書いたりすることも固く禁じられるとすれば、言語化によって混乱を整理するという過程にも強烈な障害が立ちふさがる。裁判員の側からものを見てみると、このような実存的な問題が次々と生じてくることがわかる。裁判員制度の導入に伴う特別有給休暇の新設については、多くの会社で議論されている。しかしながら、もっと大きな問題は、非日常的な裁判を通して生命の儚さや運命の苛烈さに直面してしまった人が、会社に戻って従来どおりの仕事ができるかということである。こう考えると、自分の仕事や家庭を崩壊させないためには、裁判員はあまり真剣に取り組まず、片手間にやるくらいが望ましいという話にもなってくる。「あなたは人を裁くことの重さに耐えられますか」といった視点の採り方は、社会科学の客観性の悪い面の表れである。

“葬式仏教”と仏教哲学

2008-08-17 21:17:24 | 時間・生死・人生
お盆は元々仏教の行事であったが、日本では盂蘭盆が薮入りに結びつき、国民的な風習として現代に伝えられてきた。一族が集まって先祖を供養し、亡くなった人を偲ぶことは、家族の結びつきが希薄である現代社会において大変に意義のある風習である。人間は、神仏の存在は簡単に否定できても、自分の祖先の存在はなかなか否定できない。今の自分があるのはご先祖様のお陰であると感謝する義務があるかはともかく、人はなぜか先祖の存在だけは否定できない。誰しもこの世に人間として存在する限り、父母は2人、祖父母は4人、曾祖父母は8人、確かにこの世に存在していたはずである。さらにその上が16人、その上が32人という形で、その中の誰一人欠けても、自分が自分としてこのような形で存在することはなかった。この恐るべき平凡な奇跡に気がつくか否かによって、お盆の光景も異なったものに見えてくる。

宗教といえば、何やら教義が難しそうであり、お金を払えば何かのご利益が得られるといったような倒錯した印象を抱かれやすい。すなわち、宗教的な専門用語は日常的描写を追放しがちであり、講話では人間が普段は考えていないことを改めて考えさせられる。しかしながら、人間の存在形式からすれば、日常言語による描写が宗教の教義に劣るということはない。「無」とは何か、「空」とは何か。あるいは「慈悲」とは何か、「救い」とは何か。このような言葉を自分の頭一つで突き詰めようとするならば、難解な専門用語を先に知ってしまうことは、むしろ大きな障害になる。このような概念は、専門家に聞いて教えてもらう種類のものではない。誰しも自分の人生を生きて死ぬしかなく、他人の人生を生きて死ぬことはできないからである。どんな高名な宗教家であっても、一人の人間である以上、この単純な事実から逃れることはできない。

日本の典型的な“葬式仏教”は、哲学的な思索を放棄し、社会常識としてのマナーの部分だけを拡大してきた。香典袋にはフルネームを書く、香典袋の金額のあとには「也」をつけない、会葬御礼にはのしをつけない、この辺りまでは宗派にかかわらず常識でわかる。しかしながら、焼香は1回か2回か、数珠は右手か左手か、線香は1本か2本か(それも1本を半分に折るのか2本使うのか)といったところは、今でも宗派によって様々である。様々であるということは、別にどちらでも構わないという話であり、マナーとしても「それぞれの宗派や地方の風習に従う」としか言えないようである。さらには、かつては香典袋にピン札を入れてはならないものとされてきたが、今では折り目をつければ構わない、さらには折り目も必要ないという方向に変わってきたらしい。ここでは、死者を悼む気持ちよりも、自分が恥をかきたくないという点が前面に出ている。また、マナーに関する本では、受付で香典袋を渡す際にお悔やみを言うか否か、その言葉はどのようなものにすべきか、といったことまでマニュアル化されている。マニュアルとは、自分の頭一つで根底から物事を考える手間を省くためのものである。

宗教は本来、何らかの不幸で最愛の人を突然喪った人の心を支えるものでなければならない。世の中のいかなる言葉も虚しい中で、宗教は人の心を支える言葉を語るはずであった。しかしながら、現在の“葬式仏教”は、このような言葉を語ってはいない。これに対して、仏教の中でも、非常に深い哲学的思索を展開するものがある。例えば禅仏教は、仏教とはいいながら、仏を信じることを徹底的に排除し、思索を極めようとする。神仏の信仰を拒否するにとどまらず、無神論を信仰することをも拒否する。「仏に逢うては仏を殺せ。祖に逢うては祖を殺せ」とは、唐の禅僧の臨済(?-867)の言葉である。また、「前後ありといへども、前後際断せり」「一生百歳のうちの一日は、ひとたび失わん、再び得ることなからん」「生死のなかに仏あれば生死なし。生死のなかに仏なければ生死に惑わず」などの言葉を残したのは、曹洞宗の道元(1200-1253)である。最愛の人を突然喪った人の心を支える言葉は、誰かに教えてもらうものではなく、改めて学ぼうとするものでもない。直感的に入ってくるものは入ってくるし、入ってこないものは入ってこない。世の中は、なぜかそのようになっている。