他人の実力を評価しているつもりが、いつの間にか自分の実力のほうを示していることがよくある。例えば、芥川賞を受賞した川上未映子氏の『乳と卵』について、ある人は「最初の一行から最後の一行まで一切の無駄も隙もない文章」と評価し、またある人は「何がなんだかさっぱりわからない文章」と評価しているが、これは川上氏の実力ではなく、評価する側の実力を示している。客観的物理的世界を大前提とし、さらにその中で言語を二次的に定義して囲い込む法律学においては、このような視座の転換が図りにくい。それどころか、客観的・一義的に明らかでなければならない法律の条文や判例を読む際には、このような視座の転換は有害である。
犯罪被害者遺族の言葉は、聞く人を選ぶ。すなわち、一体何を言っているのか、それは聞く人の実力によって変わる。「犯人に死刑が執行されても、自分は癒されなかった。むしろ、悲しみや憎しみの感情をぶつける相手がいなくなったことの方がショックだった」。さて、このような遺族の言葉をどう聞くか。死刑廃止論の立場からは、世界の潮流は死刑廃止に向かっており、日本は未だ前近代的な人権後進国であるとの論拠と並列して、このような遺族の言葉が引き合いに出されることがある。そして、被害者遺族には社会における経済的・精神的なケアこそが必要であり、カウンセリング面での支援などの体制の拡充を講じることによってその立ち直りを支援すべきであるとの主張がなされる。
上記のような遺族の言葉を聞いた上で、それを意図的に誇張・歪曲し、言葉尻を捉えて「遺族も必ずしも死刑を望んでいない」との結論を導き出すのであれば、それは1つのテクニックである。これは、倫理的にはともかくとして、政治的なテクニックとしては巧妙である。問題なのは、聞く側が心底から「遺族も必ずしも死刑を望んでいない」「遺族は死刑によって救われていない」などと受け止めてしまう場合である。これは、話を聞く側にその実力が伴わない場合であり、聞く側が選ばれていない場合である。法律の知識が豊富な人における死刑廃止論は、このパターンが非常に多い。言語は客観的・一義的に定義することが可能であると信じられていれば、「死ね」が「死ぬな」を意味することがあり、「死ぬな」が「死ね」を意味することがある事実など、全く思いが至らなくなるからである。
「犯人に死刑が執行されても、自分は癒されなかった。むしろ、悲しみや憎しみの感情をぶつける相手がいなくなったことの方がショックだった」。どれだけの自問自答を経て、この言葉が絞り出されているのか。どれだけの反語と逆説を経て、この表現が選ばれているのか。それを少しでも想像すれば、これを死刑廃止論の論拠として利用することには、人間として本能的な違和感を覚えるはずである。もし死刑が廃止され、仮釈放のない終身刑が導入されたとしても、犯人にはいずれ寿命で死ぬ時が来る。そのとき、犯人の命を1秒でも短くすることができず、その上悲しみや憎しみの感情をぶつける相手に去られた遺族のショックは、死刑が執行された場合のショックよりも小さいものなのか。もしも、遺族のほうの寿命が先に到来し、犯人をこの世に残したままで死の床に伏せるとき、遺族は犯人を赦して安らかな気持ちで死ぬことができるのか。
犯罪被害者遺族の言葉は、聞く人を選ぶ。すなわち、一体何を言っているのか、それは聞く人の実力によって変わる。「犯人に死刑が執行されても、自分は癒されなかった。むしろ、悲しみや憎しみの感情をぶつける相手がいなくなったことの方がショックだった」。さて、このような遺族の言葉をどう聞くか。死刑廃止論の立場からは、世界の潮流は死刑廃止に向かっており、日本は未だ前近代的な人権後進国であるとの論拠と並列して、このような遺族の言葉が引き合いに出されることがある。そして、被害者遺族には社会における経済的・精神的なケアこそが必要であり、カウンセリング面での支援などの体制の拡充を講じることによってその立ち直りを支援すべきであるとの主張がなされる。
上記のような遺族の言葉を聞いた上で、それを意図的に誇張・歪曲し、言葉尻を捉えて「遺族も必ずしも死刑を望んでいない」との結論を導き出すのであれば、それは1つのテクニックである。これは、倫理的にはともかくとして、政治的なテクニックとしては巧妙である。問題なのは、聞く側が心底から「遺族も必ずしも死刑を望んでいない」「遺族は死刑によって救われていない」などと受け止めてしまう場合である。これは、話を聞く側にその実力が伴わない場合であり、聞く側が選ばれていない場合である。法律の知識が豊富な人における死刑廃止論は、このパターンが非常に多い。言語は客観的・一義的に定義することが可能であると信じられていれば、「死ね」が「死ぬな」を意味することがあり、「死ぬな」が「死ね」を意味することがある事実など、全く思いが至らなくなるからである。
「犯人に死刑が執行されても、自分は癒されなかった。むしろ、悲しみや憎しみの感情をぶつける相手がいなくなったことの方がショックだった」。どれだけの自問自答を経て、この言葉が絞り出されているのか。どれだけの反語と逆説を経て、この表現が選ばれているのか。それを少しでも想像すれば、これを死刑廃止論の論拠として利用することには、人間として本能的な違和感を覚えるはずである。もし死刑が廃止され、仮釈放のない終身刑が導入されたとしても、犯人にはいずれ寿命で死ぬ時が来る。そのとき、犯人の命を1秒でも短くすることができず、その上悲しみや憎しみの感情をぶつける相手に去られた遺族のショックは、死刑が執行された場合のショックよりも小さいものなのか。もしも、遺族のほうの寿命が先に到来し、犯人をこの世に残したままで死の床に伏せるとき、遺族は犯人を赦して安らかな気持ちで死ぬことができるのか。