犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

光市母子殺害事件差戻審 12・ 犯罪被害者遺族の言葉は聞く人を選ぶ

2008-04-07 12:17:19 | 言語・論理・構造
他人の実力を評価しているつもりが、いつの間にか自分の実力のほうを示していることがよくある。例えば、芥川賞を受賞した川上未映子氏の『乳と卵』について、ある人は「最初の一行から最後の一行まで一切の無駄も隙もない文章」と評価し、またある人は「何がなんだかさっぱりわからない文章」と評価しているが、これは川上氏の実力ではなく、評価する側の実力を示している。客観的物理的世界を大前提とし、さらにその中で言語を二次的に定義して囲い込む法律学においては、このような視座の転換が図りにくい。それどころか、客観的・一義的に明らかでなければならない法律の条文や判例を読む際には、このような視座の転換は有害である。

犯罪被害者遺族の言葉は、聞く人を選ぶ。すなわち、一体何を言っているのか、それは聞く人の実力によって変わる。「犯人に死刑が執行されても、自分は癒されなかった。むしろ、悲しみや憎しみの感情をぶつける相手がいなくなったことの方がショックだった」。さて、このような遺族の言葉をどう聞くか。死刑廃止論の立場からは、世界の潮流は死刑廃止に向かっており、日本は未だ前近代的な人権後進国であるとの論拠と並列して、このような遺族の言葉が引き合いに出されることがある。そして、被害者遺族には社会における経済的・精神的なケアこそが必要であり、カウンセリング面での支援などの体制の拡充を講じることによってその立ち直りを支援すべきであるとの主張がなされる。

上記のような遺族の言葉を聞いた上で、それを意図的に誇張・歪曲し、言葉尻を捉えて「遺族も必ずしも死刑を望んでいない」との結論を導き出すのであれば、それは1つのテクニックである。これは、倫理的にはともかくとして、政治的なテクニックとしては巧妙である。問題なのは、聞く側が心底から「遺族も必ずしも死刑を望んでいない」「遺族は死刑によって救われていない」などと受け止めてしまう場合である。これは、話を聞く側にその実力が伴わない場合であり、聞く側が選ばれていない場合である。法律の知識が豊富な人における死刑廃止論は、このパターンが非常に多い。言語は客観的・一義的に定義することが可能であると信じられていれば、「死ね」が「死ぬな」を意味することがあり、「死ぬな」が「死ね」を意味することがある事実など、全く思いが至らなくなるからである。

「犯人に死刑が執行されても、自分は癒されなかった。むしろ、悲しみや憎しみの感情をぶつける相手がいなくなったことの方がショックだった」。どれだけの自問自答を経て、この言葉が絞り出されているのか。どれだけの反語と逆説を経て、この表現が選ばれているのか。それを少しでも想像すれば、これを死刑廃止論の論拠として利用することには、人間として本能的な違和感を覚えるはずである。もし死刑が廃止され、仮釈放のない終身刑が導入されたとしても、犯人にはいずれ寿命で死ぬ時が来る。そのとき、犯人の命を1秒でも短くすることができず、その上悲しみや憎しみの感情をぶつける相手に去られた遺族のショックは、死刑が執行された場合のショックよりも小さいものなのか。もしも、遺族のほうの寿命が先に到来し、犯人をこの世に残したままで死の床に伏せるとき、遺族は犯人を赦して安らかな気持ちで死ぬことができるのか。

光市母子殺害事件差戻審 11・ 死を遠ざける社会の死刑廃止論

2008-04-07 12:03:07 | 時間・生死・人生
現代社会の根本的な特徴は、現世主義である。物質的に豊かになった現代では、その必然の効果として、現世の幸福に希望が集中することになる。神様や仏様も、開運招福、商売繁盛、金運向上などのために登場することが多く、あまり生死の大切さを説いてはくれない。このようは現世幸福志向が支配的である社会では、死というものがどんどん遠ざけられる。これは人間の死だけではなく、動物の死も含んでいる。「食の安全への信頼」というテーゼを掲げてしまうと、BSEの影響で肉にもなれずに殺処分された牛、あるいは鳥インフルエンザの影響で肉にもなれずに殺処分された鶏の存在を忘れる。このような人々が集まって死刑論議をしても、死に対する感受性が鈍感である以上、死を語りつつ死を忘れる。

現世主義の世の中では、「何をすべきなのか」「何が問題なのか」「どうすればいいのか」といった形で問題が立てられる。すなわち、何かをすれば解決可能であることを大前提としている。そこで、あってはならない現状を否定し、あるべき未来のための制度設計をすることになる。現在はあくまで、未来のための手段であるとされる。しかし、どう頑張っても、人間にとって死だけは逃れられない。現代医療は、死とはあってはならないものであることを前提に、できる限り死を遠ざけようとするが、それが逆に過度の延命措置への批判を生んでいる。死が避けられないものであれば、その死をどのように迎え、どのように看取っていくかを考えていくことも避けられない。逃れられない事実を事実として見据えることにより、初めて議論における共通の土台も作られる。

自殺を思いとどまらせれば、少なくともその時の死はない。同じように、死刑を廃止すれば、少なくともその時の死はない。しかしながら、人間にとって死だけは逃れられないことに思い至れば、実は世の中で信じられているほどの大きな差ではないこともわかる。もちろん、1分1秒でも長く生きることによって生の大切さは裏付けられ、失われようとしている生命を救うべきことは当然である。しかし、生の長さを計測できるのは、あくまでも最後に死があるからである。その生の大切さは、最後に死があることによって、初めて意味を持つ。単に死を遠ざけ、少しでも長く生きることに価値を置く考え方は、現世幸福思考の底の浅さを示している。生命の大切さを説く理論と、現世への執着とは、似て非なるものである。「生命の大切さ」は、正確には「生死の大切さ」と言わなければならない。

死刑が確実である被告人の弁護士は、ただ死刑の執行を遅らせるため、少しでも裁判を長引かせることが重要な戦略となる。最高裁で死刑が確定しても、再審請求を繰り返すことによって、死刑の執行を停止する手法もよく見受けられる。これらが醜い抵抗であり、往生際が悪いという印象を与えるのも、人間にはどう頑張っても最後に死があるからである。そして現に、罪のない被害者は一方的に死を迎えているからである。現世主義の「何をすべきなのか」という思考方法に固まってしまえば、どうしても「人を殺せ」という解答は導かれない。しかし、人間にとって死が避けられないものであれば、その死をどのように迎えるかを考えることも避けられないはずである。死刑の執行を遅らせようとすることと、延命措置にしがみつくことは、「死因」ではなく「死」から見る限り、典型的な現世主義である点において共通している。