犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

兵庫県の号泣県議

2014-07-29 22:30:24 | 実存・心理・宗教

平成26年7月24日 週刊朝日dot.より

 衝撃の号泣会見で渦中の人となった野々村竜太郎前兵庫県議(47)。一連の騒動を新聞やテレビが取り上げ、インターネットが“増幅装置”となって、いまやお祭り騒ぎの様相になっている。賛否はネット上だけでなく、話題性にあやかろうとする便乗商法にまで広がる。

 政治家をモチーフにしたユニークなお菓子の製造販売で知られる「大藤」(東京都荒川区)は「号泣饅頭」の構想を練りながら断念。同社の大久保俊男社長が言う。「パッケージは野々村氏の似顔絵で、饅頭に押す『59』(号泣)の焼き印を頼む段階までいったのですが、『兵庫県民の中には恥じ入る声もあり、それで商売をするのはどうか』と社内で反対の声があがり、発売に至りませんでした」。

 一方、時事ネタTシャツを専門に取り扱うアパレルメーカー「ジジ」(同武蔵野市)は会見直後の今月4日に「ヒステリック野々村Tシャツ」(税込み3132円)を発売。デザイナーの菊竹進氏によると、ぜひ商品化をとのリクエストが寄せられたという。「2週間で約250枚売れ、今年の売り上げナンバー1の小保方Tシャツに迫る勢い。ただ、西宮市民の方から励ましの電話がある一方、『品のないひどい商品だ』と苦情も届いています」。


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 野々村元県議は日本中を笑いの渦に巻き込んだ芸人のように言われ、一躍時の人に祭り上げられましたが、私は全く笑えませんでした。そうかと言って、彼の犯した不正に単純に怒ることもできず、具体的に判明した事実に心から呆れることもできません。本人の言動よりも、これを受け止める世の中の笑いの空気や、悪ふざけが過ぎる匿名の反応に対して、何となく薄ら寒いものを感じただけです。

 誰の心の中にも、狂気というものはあると思います。私の中でも、ある時には心の奥深くで息を潜め、ある時には爆発寸前で留まり、いつも狂気は存在しています。今回の号泣釈明会見について、心理学者が「意図的な演技である」と評論していましたが、科学の分析はこの程度なのかと思います。見栄も恥もなく、外面も取り繕わず、計算高くもない演技が存在し得るというのか、科学の分析は腑に落ちません。

 この情報化社会では、腹黒い人物や巨悪の狡猾さについて、国民レベルとして人々の目が肥えていると思います。そして、野々村元県議の政治家としての資質の点についても、世論の共通了解のようなものは成立していたと思います。私も仕事柄、本当に悪辣な人物を山のように見てきましたが、野々村県議は単なる世渡り下手であり、不器用さをこじらせた結果、狂気が顔を出した程度の話だと思います。

 実際に野々村元県議の会見の聞いてみても、「少子高齢化問題を解決すべき」等の内容は至って普通だと思います。選挙の投票日前日の候補者の絶叫演説と大差ないとも感じます。結局のところ、複雑なシステム下において大きな志は荒唐無稽に至りやすく、実務的な些事を軽視すると痛い目に遭うものの、些事が膨大に過ぎて人一人の人生が終わってしまう苛立ちがあり、私はそこに狂気の引き金を見ました。

乗り越える

2011-06-25 00:13:09 | 実存・心理・宗教
 日本は今回の震災を乗り越えられるのかと問われれば、答えは「乗り越えられる」しかないように思われます。そもそも日本が震災を乗り越えたらどうなるのか、乗り越えなかったらどうなるのか、その基準が決まっていないからです。日本といった抽象概念を主語とし、その人の集まりについて乗り越えを論じること自体、そもそも「必ず乗り越えられる」という答えを前提とした問いであるとも思います。震災から3ヶ月以上が経過し、被災地以外では日常生活が戻り、「被災なされた皆様方に重ねて心よりお見舞い申し上げます」といった社交辞令がうるさいと感じられるようになったら、このような問いは不要にもなります。

 他方で、被災者個人に焦点を当てた場合、この乗り越えの議論は疑問形ではなく、「悲しみは必ず乗り越えられる」「人は必ず立ち直ることができる」という断定形で持ち込まれることが多いように思います。これは、ある種の善意の押し付けであり、反論を許さず、聞く者のありがた迷惑を省みないものだと感じます。痛みや苦しみは経験した本人にしかわからないという真実を心得ている限り、本来はかけるべき言葉など存在しないことを知りつつ、何らかの言葉を苦しみながら絞り出すという過程を経るため、単純なプラス思考の励ましにはなり得ないとも思います。これが言外に生じる目線の問題であり、人が「上から目線」を感じる理由です。

 ある方のブログを読み、被災者への乗り越えを求めたくなる心の動きが3つの言葉に集約できることを知りました。ここには、私自身の心の動きも見事に言い当てられています。1つめが「可哀想に」という感情です。これは上から目線そのものです。2つめが「私はあんな目に遭わなくて幸せだ」という感情です。これは、自分の幸せの再確認です。そして3つめが、「人が悲しむところを見るのが辛い」という感情です。これは、自分が不安になりたくない、不快になりたくないという動機から来ています。これらの自己中心的な心情を正面から認めて苦しむならばともかく、他者の幸福に置き換えて何の疑問も感じないところが欺瞞的だということです。

 ここ数年の社会問題といえば、年金、労働、格差社会、介護、少子高齢化といったものが国民的に共有されてきました。そして、年金記録が消えた悲しみに対して「悲しみは必ず乗り越えられる」と励ます人はいませんでしたし、正社員と派遣社員との格差に対して「未来を強く信じれば乗り越えられる」と言う人はいなかったと思います。また、要介護認定への疑問に対して「希望を捨てないで下さい」と元気づけても何の解決にもなりませんし、孤独死の問題に対して「あなたは1人じゃない」と熱く語ってしまっては単なる冗談です。結局、人は未来も希望もないと薄々感づいているときのみ、「未来を信じて」「希望を持って」と抽象論を語るしか方法がないのだと思います。

義援金 (1)

2011-03-26 23:51:55 | 実存・心理・宗教
 日本赤十字社を通じ、東北関東大震災への義援金の寄付を行ってきました。イチロー選手の2000分の1、安室奈美恵さんの1000分の1の金額です。私がなぜ寄付を行ったのかと言えば、自己満足のためです。ほんの少しだけ、被災地の誰かの役に立つことができたような気がして、私の心が満たされたからです。
 寄付に限らず、利他的な行為は、本質的に矛盾を免れないものと思います。偽善も善の一種ですが、匿名で隠れて寄付をする行為は、寄付をした事実をアピールしつつ寄付をする行為よりも、偽善からは遠いと思います。しかしながら、隠れて寄付をする者は、「あなたは寄付をしていない」という非難に耐えなければならず、この自己欺瞞との闘いに費やす労力は無意味であるとも思います。

 この2週間、諸外国の人々からの「日本への応援メッセージ」を多く耳にしました。最初は、有り難いと思いました。その後、日本人として、理屈抜きの別の感情が瞬間的に湧いてきました。この感情は複雑であり、正確に言葉にすることはできませんが、支援の言葉は有り難いがゆえに重く、逃げられないと感じました。そして、ここは「有り難い」と思わなければならないのだと感じ、仮に内心に起こった感情が「有り難い」以外のものであっても、その気持ちは世間的に抑えなければならないのだと思いました。
 私は被災地の人間ではないため、すべては安全地帯からの理屈です。そして、このようなことが考えられるのも、被災地の人間ではないからです。思えばここ数年、スマトラ島沖地震、四川大地震、ハイチ地震などの大災害に際して、日本もそれらの国々に対して、「応援メッセージ」を発信してきました。そして、その言葉を受け取る側が、憐憫の視線に不快感を覚え、同情など向けられたくないと感じ、国民としてのプライドが傷ついていたとしても、そのような言葉は返って来なかったのだと思います。

 私は、自分が寄付した微々たる義援金が役立ってほしいと思います。それと同時に、義援金を役立ててもらわなければ困るとの欲望や、さらには被災者の方々に喜んでもらわないと困るとの傲慢さもあり、自分の心を誤魔化していると感じます。
 被災地の人々の無数の言葉のうち、被災地以外からの善意の重さ、押し付けと感じる苦しさ、憐憫や同情の視線に対する不快感などは、マスコミの報道においては最も表に出にくいものと思われます。「全てが夢の中の出来事であり、夢から覚めて元通りの日々に戻れるならば応援もお金も何も要らない」というのが人間の普通の考えでしょうが、カメラの前では言いにくいと思います。

弁護士には犯罪被害者が「壁」と感じられる理由

2010-07-16 00:04:20 | 実存・心理・宗教
 被告人の妻は、この1ヶ月間、まともに眠れていないと言った。警察からの電話を受けた瞬間から、あまりに色々な出来事が一度に集中し、頭の情報処理が追いつかないとも言った。夫に対しては、裏切られたという感情や、今でも信じたくないという気持ちが錯綜して、心の整理がつかないようである。彼(弁護士)は、一方的に彼女の話を聞き、ただ頷くだけであった。夫の身柄勾留は1ヶ月に及んでいる。
 彼女は、犯罪者の妻として、被害者の方に申し訳ないという気持ちは非常に強いと語り、この言葉に偽りはないと言う。しかし、夫に裏切られたという感情も同じ程度に強く、犯罪の連帯責任を取るべき加害者の位置に自分が収まることに対しては、本能的な違和感があるとも語った。そして、今の自分の心情は一言では表現できないけれども、自分は「加害者」か「被害者」かと問われれば、どちらかと言えば「被害者」のほうを選ぶと述べた。
 彼は、上手く返答ができなかった。「あなたは被害者です」とも「加害者です」とも言えない。しかも、「あなたは被害者ではありません」とも「加害者ではありません」とも言えない。彼の頭の中では、「被害者」という言葉の意味が揺らいでいた。

 被告人の妻は、疲労が深く滲んだ顔で、被害者に示談金を受け取ってもらえないことについて、遠回しに苛立ちを見せた。1日も早く解決に結びつけばと思い、恥を忍んで実家にまで頼み込んで大金を用立てて、半月前に弁護士に預けたのである。しかし、示談交渉に全く進展がないのであれば、「一刻も早く」との思いで走り回った意味がないではないか。
 彼女は、被害者に対する交渉の方法について直接に不満を述べることはなく、無理におどけた調子で「今なら先生が私のお金を使い込んでいてもわかりませんよね」と言って笑った。彼は、その底意地の悪い笑いに怯えながらも、筋の通った言い分を聞くしかなかった。そうかと言って、この話は、弁護士の腕が悪いから示談に至らないという種類の問題ではない。
 彼は、ほとんど定型的なフレーズのように、「被害者の方の厳罰感情が強いようで、示談金を受け取る気になれないのでしょう」と語った。手続きが滞っている原因は、しかるべき示談金を受け取らない頑固な被害者のほうにある。古今東西の弁護士は、この言葉の威力によって、どれほど依頼者の信頼をつなぎ止め、救われて来たことだろうか。「共通の敵」を作り、その敵に原因を押し付けることは、窮地において恐るべき威力を発揮する。

 その1週間後、彼は車で被害者の自宅近くの喫茶店に向かっていた。示談金を受け取るかどうかは解らないが、とにかく弁護士の話を詳しく聞きたいとの連絡があったからである。このような被害者を事務所に呼ぶわけには行かず、彼のほうから出向くしかない。移動時間と滞在時間を入れれば、最低半日はかかる。しかも、この1日だけでは済まない。
 彼には、この時間が「拘束」と感じられた。その間、他の仕事は全くできなくなる。事務所に電話が入っても出られず、その間に書類の山は積み上がる一方で、当初予定していた仕事も後回しである。もしも、被害者がさっさと示談金を受け取ってくれさえいれば……。彼の思考は、不謹慎であるとは解っていても、どうしてもその方向に引っ張られる。
 限られた時間内に仕事がスムーズに進まないと、気持ちに余裕がなくなってくる。1つ1つの受け答えに身が入らない。依頼者の話の筋を強引に曲げて、結論に突っ走ろうとしてしまう。こんなことになっているのは、一体誰のせいなのだ? 彼の頭の中では、いつの間にか被害者とは攻略すべき「壁」となっていた。何の成果も挙げられずに帰ってしまっては、被告人の妻に合わせる顔もない。交通費だけを請求するならば、さらなるトラブルの種となる。

 彼は、被害者の待つ喫茶店に入る前、弁護士会の犯罪被害者保護研修のレジュメに目を通した。そして、被害者の救済活動に精力的に取り組んでいる弁護士の言葉を思い出していた。いかに弁護士が犯罪者を支援する仕事だとは言っても、被害者を軽視する者は誰一人としていない。誰もが口を揃えて、被害者保護の必要性を語っている。
 しかし、弁護士が語る犯罪被害者保護は、ある一点において、避け難い欺瞞を含んでいる。それは、彼の善悪の判断の自己欺瞞とも一致していた。彼にとって、この示談が成立し、被害者に示談金を受け取ってもらえることは善であり、その逆は悪である。これは、彼の生活に密着した善悪の判断である。その際、被害者の心の中にお金を受け取ってしまったことの後悔が生じたとしても、それは悪ではない。多数の事件を並行的に処理しなければならない者は、効率や費用対効果の問題に思考を占拠されているからである。
 弁護士会のレジュメには、被害者に対する心のケア、精神的な立ち直りについて、詳細な記述がある。しかし、いつまでも心がケアされなくては困る、早く精神的に立ち直ってもらわなければ困るという目的が、その記述の裏側にはある。このような犯罪被害者保護活動は、詰まるところは、「壁」を低くする技術の習得にすぎない。彼は、自分がしていることは被害者保護ではなく、二次的被害への加担であることだけは忘れるまいと思いながら、喫茶店に入った。


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フィクションです。

ある交通事故裁判の打ち合わせの光景

2010-05-19 23:20:56 | 実存・心理・宗教
 彼は、自分が人間としての表情を失いつつ、それ以外に顔の筋肉の動かしようがない状態の中で、決められた場所に向かってただ歩いていた。顔どころか全身の筋肉が動かず、特に動かしたくもない。国選弁護人からの電話を受け、生まれて初めて法律事務所を訪れること対しては、僭越にも緊張感を覚えている。少なくとも、絶望からの救いを求めているのでないことは確かである。
 「取り返しがつかない」という言葉は、何度繰り返してもその通りである。それ以外に彼が適切な言葉を見つけたわけではない。しかしながら、言葉から滲み出るところの「言いたいことであるところの何か」には遠く及ばず、むしろその何かに迫ることを妨げる効果しかないのであれば、沈黙する以外に人間が採り得る行動もない。次善の策としてなしうるのは、自ら言葉を語るのではなく、「言わずにはいられない」という何かに突き動かされて、その何かに迫る言葉を語らされていることのみである。
 車社会では、誰しもが被害者になり得るのと同様に加害者になり得る。そして、自分は飲酒運転でもなく、誰もが犯しうる一瞬の不注意によって、運動神経の衰えた高齢者をはねてしまった。現代社会では最も多い事故の形態である。しかし、自分が奪った人の命が戻ることがないにもかかわらず、現にこうして自分が生きていることの不快感に対しては、そのような慰めの言葉からは何も伝わってくるものがない。人の命を奪いながらも生きている事実を厳しく責められるほうが、自己弁護の屁理屈を正当化してもらうよりも、その不快感は和らぐ気がする。

 弁護士は、自動車運転過失致死罪の起訴状を広げ、「どこか間違っているところはありませんか?」と彼に聞いた。続けて、「たまに、間違いを犯してすみません、なんて謝る人がいるんですけど、話が逆なんですよ。検察官の起訴状が間違っているのか、あなたの方が間違いを指摘するんです」と言って愛想笑いをすると、彼も釣られて表情を緩めた。彼は、自分が人間としての表情を取り戻したことに気がつき、救われたと思い、その状態に安住したいと願う自分を小市民的だと思った。
 弁護士はその後、できる限り「はねた」「轢いた」という言葉を使わず、「接触した」「衝突した」という表現を使うように指導した。彼は、何かが違うと思いながらも、両者の会話は一方的に進んだ。彼が被害者の死を知らされてから今日まで、四苦八苦して考え続けてきた言葉は、どうにも弁護士に伝わっているようには思えない。弁護士からは、「そんなに心配しなくていいですよ」「大丈夫ですよ」との答えが返ってくるのみである。
 自分の全身は、たとえ過失であったとしても、人の命を奪ったことがあるという負のオーラに包まれていたはずである。そして、人を死なせた経験のない弁護士の全身を圧倒していなければならないはずである。それが、どういうわけか、事態はそのようになっていない。彼が勾留されずに釈放されていること、交通違反の前歴がないこと、保険会社を通じて示談が済んでいることなど、弁護士が彼に有利な事情を丁寧に説明すればするほど、彼は負のオーラから自由になり、人間らしさを取り戻してくるのがわかる。そして、その心の奥底で、命の重さから逃れようとしている自分の弱さと甘えが、彼の居心地を悪くさせているのもわかる。

 弁護士は、法廷に来てもらう情状証人として、彼の会社の上司と、彼の父親に依頼するよう指示した。そして、会社の上司からは「真面目に仕事をしています」との証言を、父親からは「二度と事故を起こさないように監督します」との証言を得るべく、質問事項と模範解答のシナリオを述べ始めた。彼は、人の命を奪ったからには誰が何を言っても言い訳であり、それを言い訳であると知っているならば人はそれを言わないはずであり、そのような言葉には語る価値がないと思った。しかし、刑事裁判の場ではそのような言葉に価値があり、自分はその価値に甘えられる立場にあるのだと知った。
 さらに弁護士は、寛大な刑を求める旨の嘆願書を、会社の同僚や友人からできる限り多く集めてくるよう彼に指示した。彼は、寄ってたかって被害者の命を冒涜しているような自責の念を感じながらも、そのようなことをすれば裁判官に悪感情を持たれるのではないかという保身の気持ちもあり、内心は激しくせめぎ合っていた。しかし、弁護士は彼のいずれの気持ちにも気付いていないようであり、「しっかり反省して謝罪すれば実刑はないですよ。安心して私に任せて下さい」と繰り返すのみである。
 被告人質問の打ち合わせの段になり、弁護士からは、「真面目に仕事をすることが被害者への供養になると思います」との模範解答を示された。彼は、完全に違うと思ったが、何がどう違うのか上手く表現しようがなかった。人の死に対して、反省や謝罪などという言葉を述べてしまっては、その反省や謝罪をされるべきところの何かが逃げてしまい、その何かが人に伝わったり、人に感じられたりすることはない。しかしながら、刑事裁判の法廷で反省や謝罪をしなければ、現実には「反省が不十分で実刑」という話になってしまう。

 弁護士は、さらに被害者遺族に謝罪の手紙を出し、それを裁判所に有利な情状として主張することを提案した。彼は、遺族の方々に許してもらえるとも、許してもらいたいとも思っておらず、手紙など書きようがないと答えた。すると、弁護士は反省文の例を彼の前に提示した。そこには、名前を変えれば誰が書いても同じになるような、薄っぺらな言葉が並んでいた。「事故のことを常に忘れずに生きていきます」など、一見して嘘である。人は、自ら好んで社会生活に支障を来たす生き方を選択することはできない。
 「被害者が若い人でなかったのは不幸中の幸いでしたね」と弁護士が笑いかけたため、彼は思わず、「私はそれだけ長く生きてきた方の人生を奪ってしまったんですよね。戦争をくぐり抜け、高度成長を支えた方の人生を、一瞬で終わらせてしまったんですよね」と答えた。弁護士は相変わらず、「そんな風に考える必要はないですよ」とにこやかに笑い、量刑の相場、執行猶予期間の相場を丁寧に説明し始めた。彼は弁護士が自分のために時間を割いてくれていることが徐々に申し訳なくなり、黙ってその話を聞くことにした。
 たとえ人の命を奪ったとしても、故意の殺人でなければ、命をもって償う必要などない。これが現在の法律であり、社会常識であるが、人の命がそこまで軽くていいものか、彼にはどうにも腑に落ちないところがある。しかしながら、彼自身に命をもって償う勇気がないならば、そのようなことを言う資格もない。また、一般的な社会生活を放棄して、一生を死者を弔うために捧げる決意もできないならば、いずれにしても偽善である。彼はが人間としての表情を取り戻し、笑顔を見せると、弁護士も満足そうに笑った。

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フィクションです。

困っている人の気持ちが理解できる弁護士

2010-05-09 23:38:38 | 実存・心理・宗教
 司法制度改革による法曹人口の増員に伴い、法曹界では「弁護士の質の低下」という言い回しが聞かれるようになりました。人間に対して「質」を論じつつ差別撤廃を目指す欺瞞は措くとして、何をもって質の高低を判断するかについては、それぞれの立場で言いたいことが言われているようです。
 法務省や裁判所の関係では、「与えられた現実を既知の法律構成に変換する手法で要件・効果型の法的構成に置き換える能力、その法的構成の概念の包摂範囲・相互作用等のあり方につき概念操作を規範的に統制している諸概念を運用する能力」などが質の高低の指標とされているようです。他方、増員の絶対反対を訴える弁護士会では、「弁護士の増加により個々の仕事の数が減っても横領や脱税に走らない能力」などが大前提となっているようです。
 これらに対して、「困っている人の気持ちが理解できる能力」については、司法制度改革の公式な文脈ではまず語られることがありません。このような能力については、法律の専門的な議論の場には稚拙であるとの暗黙の前提があるものと思われます。

 「質の低い弁護士」とはどのような弁護士かと問われて、私が真っ先に連想するのは、「ドラえもんが助けてくれると思った」などの主張を行った光市母子殺害事件の弁護団です。この事件の弁護団は、「困っている人の気持ちが理解できる能力」については天下一品であったと思います。弁護士にとって、世の中で何が「困っている」の極致かと言えば、「死刑になりたくないのに死刑判決を言い渡されそうで困っている」に勝るものはないからです。
 一般的にはプラスの評価を受けている「困っている人の気持ちが理解できる能力」に関して、私が光市母子殺害事件の弁護団の質が低いと感じたのは、自己の側の依頼者の気持ちのみを理解して感情移入し、周りが全く見えなくなっていたからです。もちろん、代理人という仕事は、自己の依頼者にとっての利益を追求することがその職務であり、争っている相手方の身になることは、依頼者に対する利益尊重義務にもとるものと考えられています。これが法曹倫理のパラダイムです。
 このパラダイムの偽善性は、「困っている人の気持ちを理解する」という一般的な善意につき、本来であれば自分以外の全人類に向き合う義務に直面して途方に暮れなければならないところ、特定の委任契約によってこの苦しみを簡単に飛び越えているところにあると思います。その結果として、自己の依頼者の困った局面を打開するためにはどんな理屈をも考え出す反面、相手方の困った気持ちは眼中から排除されるのも当然のことでしょう。

 困っている人の気持ちを理解しようとすることは、本来、理解しようとする者の体力をも激しく消耗させるはずです。また、傷ついた人の気持ちに共感することは、共感する者自身の気持ちをも激しく傷つけます。そして、理解しようとしても理解できない無力感、報われない挫折感などにより、心の疲労は蓄積していくのだと思います。
 人の身になって考えていると自負しつつ、上記のような疲労困憊の現実に直面していないならば、それはやはり自己の考える正義を依頼者に投影しているという意味において、偽善と言うしかないと思います。この偽善性は、徒党を組んでシュプレヒコールを上げる形態においては、怒りや憎しみを正義として声高に主張するはずです。他方、複雑で繊細に入り組み深く沈潜した人間の苦悩に対しては、「怒りや憎しみからは何も生まれない」との判断を簡単に下すはずです。
 弁護士にとって、自己の側の依頼者だけでなく、対立する相手方の困っている気持ちが理解できることは、相手方の弱点が手に取るように見えるということでもあります。すなわち、相手方が一番言われたくないことがわかり、相手の心をズタズタに打ちのめし、立ち直れなくなるまでに心を折る力のある言葉を手に入れるということです。もし、人間に対して「質」を語ることが許されるとすれば、「質の高い弁護士」とは、この言葉の恐ろしさを認識しつつ、その手加減を知っている者だと思います。

ある過労死の裁判の裏表

2010-04-23 21:59:46 | 実存・心理・宗教
某団体の機関紙より

 29歳の未来ある青年が急性心筋梗塞で亡くなってから早くも2年が経った。その間にも、日本の労働環境は改善の兆しを見せない。企業が今なおグローバリゼーションの流れに便乗し、リストラを断行しているのが全ての元凶である。人件費は削減しても業績は落とすな、というのが企業の立場である。彼の勤めていた会社は、リストラの成果もあって今期200億円の黒字が見込まれると報じられている。このようなことが到底許されるはずがない。

 青年の母親は、彼の名誉を賭けて会社を提訴した。企業の役員は、投資家への評価を何よりも重要視するため、労働者に対する配慮は二の次となる。そして、仕事に真面目に取り組もうとした彼にとっては、長時間の残業は当たり前となっていた。会社のために尽くした者が、会社のために犠牲者となるのである。このような不正義が許されてよいはずがない。過労死の絶滅、そして労働者および労働組合の地位向上をめざす闘いに、大きな火の手が上がった。

 第3回口頭弁論期日には、あいにく母親は体調不良で傍聴することができなかったが、我々は彼女の意志を熱く受け止めて戦いに臨んだ。この闘いがいかに大切であるかを再認識し、勝利を勝ち取るまで戦い抜く覚悟である。


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その母親から聞いたこと

 過労死の何よりの防止は、周囲の者が危機を察知したときには、何がどうあろうとも力ずくで仕事を休ませることだと聞かされます。これは結果論であり、命を落としてからでは手遅れです。息子の危機を察知していながら仕事を休ませなかった私は、一生涯かかっても償い切れない罪を背負いました。私の裁判を支援して下さる方々からは、自分を責める必要などない、責められるべきは会社なのだと口を酸っぱくして言われます。しかし、私にはその言葉がピンと来ません。面倒なので、最近は黙って頷いています。

 あの電話を受けた日のあの瞬間が、今も凝縮されたまま私の全身に染み付いており、ふとしたきっかけで怒りと悲しみが込み上げてきます。死にたくなかったでしょう。私はその後、世間が華やかな雰囲気で盛り上がっている時、どうでもいいという気持ちで顔を背けています。何を見ても白けています。最初の1年くらいは、過労死の絶滅のための活動に打ち込むことで気が紛れていました。しかし、徐々に悲しみが深く静かに沈んでいるような感覚になり、最近は、何かのために戦うということ自体が虚しくなってきました。

 裁判は会社に損害賠償を求めるものであり、私は息子の命に値段をつけて戦っています。金額が安いといって争っているのは、私が息子の死を受け入れていることに他なりません。しかし、私は息子の死を受け入れていないことに気がつきましたので、これからは裁判には行きません。


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どうしたものでしょうか。

ある児童虐待事件の裁判員裁判の光景

2010-04-18 23:57:46 | 実存・心理・宗教
 検察官は、被告人の供述調書を淡々と朗読していた。彼女は、児童虐待事件の裁判員にだけはなりたくないと思っていた。母親が3歳の息子を虐待して死なせた事件など、人の罪を裁くことの重さ以前に、とても人間として直視できるものではない。しかし、検察官の声に合わせて供述調書を目で追ううちに、彼女は目を覆いたくなりながらも、1つ1つの文字に目が釘付けになっていた。
 「夫が○○(息子の名)の髪の毛を後ろから掴んで振り回し、頭を浴槽にぶつけると、ゴーンという鈍い音がしたのです。私はそれを後から見て、無理に笑い声を上げていました。○○は大声で泣き叫んで仰向けになったので、夫が左手で口をふさぎ、右手で顔を何発か拳で殴りつけました。すると、○○が暴れたので、夫はもう一度○○の頭を浴槽にぶつけたのです。○○は頭から勢いよくぶつかり、床に倒れ込みました・・・」
 彼女は、夢中で供述調書の文字を追いながらも、何の感情も沸かなかった。わからない。理解できないのではなく、全くわからない。3歳の男の子は、最愛の両親に殴られ、浴槽に頭をぶつけられ、どんなに痛かったことか、悲しかったことかと想像したい。しかし、両親に愛されて育った自分には、その痛みが実感と理解できない。目は必死に文字を追いながら、心は茫然としている。

 彼女は、何かにせき立てられるようにメモ用紙を取り出し、供述調書の文字を書き写し始めた。ただただ必死に書き写した。何にせき立てられているのか、彼女自身にもわからない。許されるのであれば、そのページを抜き取って持って帰り、コピーしたかった。それが許されないのであれば、その時の彼女にできたことは、被告人である母親の言葉を一言一句メモすることだけである。
 彼女は、被告人の罪を裁くということの重さを全く感じなかった。裁判員の人選によって懲役の長さが2~3年変わろうとも、それほど大した問題とは思えなかった。3歳の男の子の命が失われた事実を前にして、母親の懲役の長さの問題で盛り上がれるなど、正気の沙汰とは思えない。いや、人間は正気を失っているからこそ、傷害致死罪という法律用語の枠内に逃げ込み、過去の判例から量刑を検索し、人の罪を裁くことに熱中できるのかも知れないとも思う。
 この法廷にいる人々は、誰一人として3歳で殺されてはおらず、無事に育てられてこの場にいる。だから、3歳で殺された男の子には絶対に敵わない。男の子が可哀想だ、その絶望はいかばかりか。3歳で殺されなかった大人が何を言ったところで、すべての言葉は表面を滑る。ただ、供述調書の文字だけが現実のものとして彼女に刺さる。

 彼女は家に帰ると、すぐにメモを取り出し、パソコンで本物の供述調書のように復元してみた。すると、その行間には、血が凍るような取調室の空間が再び現れた。この供述調書の行間には、心の闇も何もない。ここに過剰な意味づけをすることによって、人間は何事かを錯覚する。
 「床に倒れた○○は、浴槽の縁に捕まり、渾身の力で立ち上がり、ギャーと叫びなら私の顔を睨みつけてきたのです。そして、前のめりに倒れると、そのまま動かなくなりました。夫が○○の顔を何回か平手で叩きましたが、○○は動きませんでした。私は、大変なことをしてしまったと思い、夫に救急車を呼ぼうと言いましたが、夫はしばらく待てと言いました・・・」
 彼女の中には、この供述調書の行間から母性愛を読み取りたいという気持ちが避け難く存在していた。そうでなければ、この狂気には救いがなかったからである。しかし、彼女はすぐにその試みを放棄した。現に、自分の命よりも大切な我が子を失い、狂気と正気の間で生きている母親の母性愛を想像すると、この被告人の人間性はあまりに安っぽかったからである。ところが、そう切り捨ててしまうと、今度は3歳で命を落とした男の子の存在に押し潰されそうになる。

 この世の最大の悲しみは、最愛の我が子の死である。子供を持つ全ての親は、今日明日にも、事故や災害、急病や犯罪によって、この悲しみに直面する可能性の中で毎日生きている。ただ、ほとんどの人は、その現実に気がつかない。気がついた時には、解決しようのない苦しみを一生抱えて、正気の狂気の混濁した場所で強制的に生かされているしかない。
 このような人間存在の現実に比べると、この被告人は、何たる妙な地位で生きているのかと思う。誰がどう死の原因を作ろうとも、逆縁は逆縁に変わりがない。ところが、この母親が法廷で述べていたのは、子育てが大変だったとか、周囲の協力がなくて孤立したとか、ストレスが溜まって歯止めが効かなくなったとか、自己保身ばかりである。他の裁判員は、熱心に聞き入って一定の同情を寄せている様子であったが、彼女は全く心を動かされなかった。被告人は自己を正当化し、自分を責めることもない。何という恵まれた、幸福な逆縁であろうか。
 この母親は、息子の死を知らされても、死にたいという感情すら持たなかった。それは、その現実が最愛の我が子の死ではなく、自分自身の罪の問題に他ならないからである。母親は我が子を殺すとは、一般的には狂気の沙汰である。しかし、我が子を喪った哀しみがこの世の狂気の限界であるならば、その状況において自らが狂気を認識してない狂気など、果たして狂気の名に値するものか。
 
 彼女は、虐待中の被告人の苦しみを切々と訴える弁護人と、それに応じて意味不明の涙を流す被告人と、それを量刑判断の争点として評議する他の裁判員によって、3歳の男の子の母親がこの世から存在しなくなることが我慢ならなかった。この世の誰かが、あの供述調書の行間を伝えなければならない。自分は、このことを広く社会に知らしめる使命がある。
 判決の前日、彼女は復元した被告人の供述調書を数十部印刷して郵便で送る準備をし、さらにホームページを開設して、供述調書の内容を公開する準備を整えた。もちろん、裁判員の秘密漏洩に対して6ヶ月以下の懲役刑が科されることは、事前に説明を受けていた。しかし、3歳で失われた命を前にして、守秘義務に何の意味があるというのか。幸福な逆縁がもたらす狂気の正気を裁判所の狭い空間に閉じ込めたまま児童虐待の防止を論じるなど、何たる偽善だろう。
 判決は懲役10年となった。彼女は家に戻ると、早速計画を実行に移そうとした。しかし、最後のところで勇気が出ない。別に守秘義務を果たそうという意志が生じてきたわけではない。刑罰が怖いわけでもない。一言で言えば、臆病である。守秘義務と裁判員の倫理が問題とされることによって、虐待事件そのものが忘れ去られ、3歳の男の子の命が踏みつけられるのが怖い。彼女は数日考えた後、すべての書類を処分した。こうして、司法制度改革の根幹を揺るがす大事件は未然に防がれた。


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フィクションです。

ある無罪判決の後の検察庁の光景 その2

2010-03-19 00:03:09 | 実存・心理・宗教
(その1から続きます)

 被害者や遺族に控訴断念の納得を求めるとき、彼(検察事務官)の個人的な良心と職業倫理とは、いつも激しくぶつかり合っていた。そして、国家公務員・組織人という肩書きによって、個人の快・不快の感情が方向付けられているのもこの部分であった。
 妻を殺された夫、母を殺された娘を目の前にして、「控訴できないものはできないんだから黙って従ってください」と言い渡すことは、一人の人間としては間違った行いのように思う。しかし、検事ではない事務官が、「控訴しましょう。高裁では有罪判決を取ることをお約束します」と言ってしまっては、明らかな嘘である。
 人の世には数え切れないほどの間違いがあり、その無数の間違いを秩序立てて囲い込まなければ、社会のルールは破壊される。そして、その秩序やルールの裏側には、無罪判決の陰で沈黙を強いられてきた無数の被害者や遺族が存在する。

 恐らく、今回の強盗殺人事件の無罪判決は間違いである。常識的には、どう見ても、あの被告人は真犯人である。しかしながら、被告人本人ではない彼には、本当のところはわからない。決定的な証拠がない以上、本当に被告人が犯人だとわかるのかという問いを突きつけられれば、答えは「No」に決まっている。被告人が自白から否認に転じた原因もわからない。仮に、真犯人と名乗る者が自首して来たとしても、その者が真犯人かどうかもまたわからない。
 そもそも、決定的な物証と自白が揃っている事件ですら、逮捕・起訴された者が真犯人であると言い切ることはできない。被告人が真犯人と合意の上で身代わりとなり、すべての遺留品について精密な工作がなされていたならば、これを見破ることはまず不可能だからである。身代わり犯人がそのまま服役を終え、本当のことを語らなければ、この世で2人以外に真実を知る者はいない。
 そして、法治国家は、無実の者に有罪判決が下されることを「誤判」と呼び、真犯人に無罪判決が下されることは「誤判」とは呼ばない。後者は、人間の行うことに100パーセントはあり得ないとの命題により、「誤り」の範疇から除外されているからである。

 彼が沈黙を保っていると、被害者の娘がゆっくりと口を開いた。「何をやっても母は帰ってきません。そんなことは言われなくてもわかっています。頭ではわかっています。しかし、正直な気持ちを言えば、私は今でも母が家にいないことを、現実として受け入れていません。ですから、私は生きていられるんです」。
 夫が補足するように語った。「被告人が有罪であろうと無罪であろうと、妻が帰ってこないのは同じことなんです。ですので、控訴して有罪になったとしても、妻が家に帰ってこない限り、本当のところは、何の解決にもなりません。死刑判決が出て、『遺族は心から喜んで気が晴れた』などと思われるのは反吐が出ます……」。
 さらに娘は訴えた。「ネットで、『死刑にすればそれで済むのか』という書き込みを見てしまいました。済むと言っても嘘ですし、済まないと言っても嘘です。何だか、考えていることのレベルが違いすぎて、疲れてしまって、まともに相手にする気力もなくなりました」。
 続いて夫も述べた。「逆に、親身に裁判の応援してくれる方もいたのですが、その善意はプレッシャーでもありました。厳罰という目的が達成されたのに、私達がいつまでも浮かない顔をしていたら、恩を仇で返したと思われるのが怖かったからです。まあ、無罪判決ならば、元気に立ち直って生きる演技はしなくてよくなりましたけどね……」。

 彼は、ただただ2人の言葉に交互に聞き入り、頷くだけであった。その視線は、尊敬や憐れみでもなく、単に焦点を失っていた。自分の母親や妻を殺されたわけではない以上、彼は2人の遺族の気持ちも正確にはわからないと思った。さらには、自分の母親や妻を殺されたとしても、やはり2人の遺族の気持ちも正確にはわからないと思った。
 彼は、「お気持ちはわかります」と言ってしまえば偽善となり、「お気持ちがわかりません」と言ってしまえば悪となる現実の前に、何も語る言葉がなかった。少なくとも、余計な合いの手を入れて、2人の言わずにはいられない思いを妨害することだけは避けたいと思った。
 被害者の夫は、厳しい表情を崩さないまま、「私達はもうこれ以上傷つきたくないので、控訴しないでください」と述べた。娘も、全てを悟ったような表情のまま、「今回の結果を母にどう報告するか、あとは自分達で考えます」と静かに述べて、2人は帰り支度を始めた。
 目的は無事に達せられた。彼は、検事に、「被害者遺族は地検の意向に納得して帰りました」と報告することになる。しかし、これでは何も伝わっていない。そうかと言って、彼には、今回のやり取りを言葉にして他人に伝えるだけの力量はない。しかも、検察事務官の職務としては、2人の言葉にならない行間の沈黙を伝えることなどは求められていない。
 2人の姿が地検の玄関から消える頃には、国家公務員・組織人という肩書きの力によって、彼は再び日常の仕事の世界に戻っていた。

(その3に続きます)

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フィクションです。

ある無罪判決の後の検察庁の光景 その1

2010-03-18 23:49:08 | 実存・心理・宗教
 殺人事件で無罪判決が言い渡された直後の検察官の顔は、とても見られたものではない。被害者遺族が傍聴席で絶句し、立ち上がれないでいるのを横目に、声も掛けられずに戻ってきた公判検事の表情は、驚きと絶望と後悔と怒りをすべて1か所に寄せ集めたようでもある。
 ところが、地検の控訴審査で吊るし上げられ、針のムシロに座らされ、起訴検事と公判検事が相互に「下手クソ」と罵り合ううちに、その苦悩は対象を変える。それは、有罪率99%を誇る精密司法の担い手としての出世レースからの脱落、自らの経歴に取り返しのつかない傷が残ったことに対する自尊感情の葛藤である。

 彼(検察事務官)が被害者遺族に対する説明の役割を命じられたのは、地検の控訴断念の意向が正式に決まった2日後、控訴期限の前日のことであった。すでに庁の方針として決まったことに対して、あくまでも控訴を求める遺族に説明を尽くすことは、職務の優先順位として上位に来るものではない。しかも、すでに検事が電話で直接説明しており、これ以上多忙な職務の合間を縫って時間を割く合理性もない。
 彼は、検察官がこれ以上遺族に会う必要もなく、会ってはならないとの理屈はその通りだと思った。また、出世レースからの脱落に打ちひしがれている検察官よりも、自分のほうが適任であるとも思った。

 彼は、地検を訪れた2人を前に、高裁でも勝ち目がない理由を繰り返した。2人とは、妻を殺された夫、母親を殺された娘である。
 犯人は強盗目的で侵入し、被害者に騒がれたため、とっさに彼女の首を絞め、顔面を数十回殴りつけて殺害した。その後、犯人は現場に放火して証拠隠滅を図ったため、指紋もDNAも全く残らなかった。被告人は、逮捕された当初は全身を震わせて反省の言葉を述べたが、公判段階で否認に転じた。裁判では通行人の目撃証言や、被告人が金に困っていたことなどの情況証拠の積み上げにより、捜査段階での自白調書を裏付けようとした。しかし、裁判長は「被告人の犯行とするには合理的な疑いが残る」と判示し、いわゆる灰色無罪となった。これ以上、有力な証拠の出現は期待できない……。

 被害者の夫は、彼に向かって言った。「やっぱり、私が外出した時に、外から鍵をかけなかったのがすべての原因なんですね。本当に申し訳なくて……」。彼には返す言葉がなかった。娘も彼に向かって述べた。「私も遊んでないで、早く帰ればよかったんです。毎日後悔しています。私のせいです。自分を責めるなというほうが無理です……」。彼には、やはり返す言葉がなかった。
 彼はこれまで何百人もの被疑者・被告人と接し、自らの欲望を満たすために犯罪を犯しては、その原因を世の中や他人に求める理屈を強制的に聞かされ、人間の言葉に対する免疫を養ってきた。しかしながら、本来責任を負う筋合いのないものに責任を感じる人間の言葉には、彼は何も対応できなかった。ただただ、2人の偉大な人生と、人間の尊厳に押し潰されていた。

 数分の沈黙の後、彼は言葉を選んで語り出した。「常識的にはどう見ても、あの被告人が犯人です。でも、裁判の有罪・無罪は、『疑わしきは被告人の利益に』というルールで決まるんです。証拠を隠滅しなかった者が有罪になり、証拠を隠滅した者が無罪になるんです。おかしいですけど、そうなんです」。彼の言葉は、徐々に苛立ちを含んだものになっていた。理解して下さい。わかって下さい。私にもどうしようもないんです。彼の真意は、確実に2人に伝わった。
 今度は、2人のほうが沈黙してしまった。2人の目が「わからないけどわかる」と語っていたのであれば、彼にも救いはあった。しかし、2人の目は、「わかるけどわからない」と語っていた。彼には、これ以上新たに言うことは何もなく、これでは話が永遠に終わらないと直感した。物わかりの悪い人達だと思った。そして、数分前の尊敬の視線が、正反対の憐れみの視線に変わっていることに自分自身で気がついた。

(その2に続きます)

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フィクションです。