犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

光市母子殺害事件差戻審 23・ 遺族の心のケアを図れば厳罰感情は収まるのか

2008-04-13 18:01:10 | 実存・心理・宗教
犯罪被害者遺族に関する政策論を聞いていると、遺族の「支援」、「保護」、「権利」、「救済」、「ケア」といった単語が無意識のうちに使い分けられているのがわかる。このうち、伝統的な人権論や死刑廃止論において最も多く用いられているのが、「保護」と「ケア」である。特に、「心のケア」というフレーズで用いられることが多い。文脈的には、「心のケアこそが本質的な援助策であり、遺族の刑事裁判手続への参加などを認めるならば、遺族の報復感情を煽るばかりか、被告人からの逆恨みや脅迫を生じ、さらには参加を望まない遺族への消極的な圧力となる。従って、まずは根本的な支援策である心のケアを進めるのが先である」といった流れで主張されることが多い。もちろんこれは、単に刑事弁護活動の障害となる遺族の厳罰感情を抑えたいだけの話であり、本気で支援策に取り組もうとしているわけではない。あくまでも被告人の防御権の行使が第一であり、遺族の心のケアは第二である。

犯罪被害者遺族を「ケア」するのか、それとも「権利」を認めるのか。これは主語が異なる。ケアの主語は支援者であるが、権利の主語は遺族自身である。この意味で、被害者遺族の権利とは、「心のケアという安い言葉で物事を片付けられないこと」、すなわち「心のケアをすれば問題がすべて解決すると思われないこと」である。逆説的に言えば、遺族にとっての最大の心のケアとは、「心のケアをされないこと」である。刑事裁判に参加した上で、被告人に反省を求め、真実を語ることを要求すること、これはあくまでも医療面や精神面でのケアとは別の話である。この裁判参加は、実際には遺族の精神状態の安定につながることもあれば、不安定につながることもあり、論理的な関係はない。国家的な経済補償を得て、医療面や精神面でのケアを受けるのは最小限の権利であり、それによって厳罰感情を抑えなければならないという決まりもない。

心のケアとは、被害者遺族の怒りや悲しみを抑えて、平常心に戻すことを目的とする。そこでは、大前提として、怒りや悲しみを持ち続けることにマイナスの評価が与えられ、それを克服することにプラスの評価が与えられている。しかしながら、これも無意識のうちに一定の価値判断を先取りしている。いわく、「近代刑事法の大原則においては、冷静に証拠に基づいて犯罪事実等を認定することが必要であるのに、被害感情を抱く犯罪被害者遺族が参加すれば、この裁判の原則が歪められてしまう」。このような意見は、大前提として論理と感情に序列を付け、論理を上位に、感情を下位に置いている。ところがこの図式は、近代刑事法の大原則から一歩外に出れば、何の効力も持たない。両者は不可分一体であり、序列はないどころか、芸術などの世界では論理よりも感情が上位に置かれているからである。そして、被害者遺族の怒りや悲しみは、まさに論理(理屈・観念)ではなく、感情(感性・生理・好悪・美意識)を端的に捉えるものである。ここでは、法律学における序列そのものを無効にしている以上、その序列を持ち出しても同語反復である。

被害者遺族が裁判に参加して、どんなに怒りが激しく、どんなに悲しみが深いかを伝えたいと望んでいるのに、それでは抜本的な対策にはならないと言う。そして、裁判に参加したがるのは心のケアが不十分だからであり、もっと心のケアを進めれば遺族が裁判に参加したがることはなくなるはずだと言う。一般には、このような言い回しを「お節介」、あるいは「無礼千万」という。遺族の厳罰感情が刑事弁護活動の障害となるのであれば、遺族に対してもそのように認めるほうがよほど正直である。中途半端な心のケアなど、副作用と弊害のほうが大きい。もともと、国家権力と被告人の対立という図式においては、「1人の無辜を罰しないためには99人の凶悪犯人を釈放するのもやむを得ない」という極端なイデオロギーで突き進んできた以上、99人を釈放した後についても「あとは野となれ山となれ」で押し通すしかないはずである。実際に野となり山となりかかって、遺族の厳罰感情に困って慌てて心のケアで収拾を図るならば、最初のイデオロギーに無理があったと認めているようなものである。

光市母子殺害事件差戻審 22・ 死刑における過去と未来の弁証法

2008-04-13 01:08:03 | 国家・政治・刑罰
自己と他者の弁証法、生と死の弁証法を考えてみても、死刑というものはどうにも後味が悪い。どんなに死刑賛成派であっても、死刑が執行されたとのニュースを聞いた時の感情は、非常に複雑である。後味が悪いけれども仕方がない、論理的に限られた選択肢の中で最もまともなものを選んだらこうなってしまった、その苦しみの中で自分を納得させている人間が大半であると思われる。死刑廃止論の人々は、死刑が執行されたとのニュースを聞くといつも熱くなって集結するが、人間の生死はそのように徒党を組んでシュプレヒコールを上げる話ではない。死刑存置論は、廃止論からは「素人の感情論にすぎない」と定義づけられることが多いが、事態はそんなに単純ではない。あくまでも、殺人罪の均衡としての哲学的な死刑を語っているのみであり、仮に万引きや振り込め詐欺にも死刑が定められるとなれば、死刑存置論のほとんどは異議を唱えるからである。

殺人罪の償いとして死刑が弁証法的に釣り合っているとしても、それが釣り合っていないのが、時間性においてである。被害者はすでに死んでいるが、被告人は現に生きている。すなわち、被害者の死は過去の死であるが、被告人の死は未来の死である。そして、過去と未来が弁証法的に統一している今現在において、自分は生きており、被告人も生きている。この時間性の構造に対する感受性が、死刑賛成派と反対派を分けることになる。現に被告人は生きている、これを未来の死という形式において、わざわざ生きている人間を人為的に殺す。このことを真面目に突き詰めて考えれば考えるほど、死刑を執行することの重大性に耐えられなくなってくる。「死刑とは新たな殺人であり、己の罪を悔いて生き直す可能性を断つ所業である」、このような指摘はもっともである。どんなに被害者が悲惨な殺され方をしても、それはすでに過去の歴史上の事実である。今さらどうしようもない。これに対して、未来の事実はまだ生じていない。こう考えてしまうと、死刑執行が決まった日の死刑囚の絶望、死刑執行官の苦しい心情などが次々と想像され、死刑は廃止するしかないとの結論に至ることになる。

ここで注目しなければならないのが、被害者遺族における「事件の日から時間が止まっている」との感覚である。これは、すべての過去は過去における現在であり、すべての未来は未来における現在であり、すべての現在は過去における未来であり、かつ未来における過去であることに基づく。すなわち、現在の絶対性は過去と未来を分けるが、その現在は過去の一時点でもあり、未来の一時点でもある。従って、被害者はすでに死んでいるが被告人は現に生きているという現在の事実に絶対性を置いたところで、その絶対性は保障されない。すべての過去は現在であり、すべての未来は現在である。従って、すべての殺人事件が起きる前の現在においては被害者は生きており、死刑が執行された後の現在においては被告人は死んでいる。こう考えると、被害者の死は過去の死ではなく、被告人の死も未来の死ではない。単に、死刑の後味の悪さは一過性のものであるという事実がこのことを示している。死刑執行の現場の悲惨さを語る人に対して、殺人事件の現場の悲惨さも見るように求めたくなるのも、この真実を示しているといえる。

自己と他者の弁証法、生と死の弁証法に過去と未来の弁証法を重ね合わせてみれば、遺族にとっては論理的にあるはずのない状況が生じている。すなわち、「被害者は死んでいるのに、加害者が生きている」。もう少し正確に言えば、「なぜ被害者が生きているのではなく、加害者が死んでいるのではないのか」。逆説的に言えば、「なぜ殺された者が生きておらず、殺した者が死んでいないのか」。どうしてもこのように問うしかない。もちろんこれでは裁判所には通じないので、普通に「死刑にしてください」と言うしかなく、これはほとんどの場合「素人の感情論にすぎない」と受け取られる。哲学的には、加害者自らが「私は生きていてはいけない人間です。私を死刑にしてください」と言うことにより、逆説的な真実が初めて動き出す。これが無理であっても、せめて「私は人を殺したにもかかわらず、やはり死にたくないというのが正直な気持ちです。どうしても死ぬのが怖いです。私は卑怯な人間です」との心情を吐露することくらいはできる。その先に、「償い」も「赦し」も自然と示されることになる。しかしながら、近代刑事法のシステムからは、このような哲学的な逆説を制度的に受け入れる余地がない。加害者・被害者双方にとって不幸なことである。