犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

ニュージーランド地震

2011-03-28 00:03:03 | 時間・生死・人生
 2月22日に発生したニュージーランド・クライストチャーチの地震で、日本人の死者は25人、行方不明者は3人となりました。1人の死は悲劇ですが、25人の死は統計です。そして、25人の死は悲劇ですが、15,000人の死は統計です。ニュージーランド地震の報道が東北関東大震災の報道に取って代わられたことは、あくまでも報道する側の事情です。どんなに人の死が統計上の数字となっても、それは悲劇である1人の死が集まったものであり、その死の周囲には世界一不幸な人間がその数だけいるのみだと思います。

 東北関東大震災が起きるまでの間、この地震の報道について、私が感じた3つの点がありました。1つ目は、このような災害は「お涙頂戴の悲劇」の枠にはめられるという点です。人は、明るく楽しいニュースを好むものであり、しかも他人の不幸に蜜の味を覚えるものだと思います。そして、直視できないような酷い現実については、それを対象化して悲しむ者と一緒に悲しむ立場に自分を置くことにより、罪の意識を免れることができるのだと思います。
 亡くなった方は何が好きだった、どんな夢を持っていた、それが突然の地震により断たれた、という形で死が美化されると、見る側はひとまず安心することができます。やり場のない気持ちに足場が与えられ、混沌とした感情に向き合う必要がなくなり、日常生活への支障が避けられるからです。こうして、ニュージーランドの悲劇は、テレビを通じて、日本ではある種の娯楽性を帯びていたように感じます。この娯楽性は、キャスターの無理に作ったしかめっ面に象徴されるものと思います。

 私が感じた点の2つ目は、人はこのような災害から「明日は我が身」と考えて、教訓を得ずにはいられないということです。「お涙頂戴の悲劇」を一緒に悲しむことについては、やはり人は偽善であると心のどこかでわかっていますので、そこから逃れようとするのだと思います。他方で、人は生産性のある議論を求めて、被災者の死を無駄にしないための具体的な議論を始めざるを得なくなるのだと思います。
 民放の報道番組では、ニュージーランドの地震の話が、いつの間にか東京直下型地震の話に変わっていたのを記憶しています。おどろおどろしいBGMとともに、CGで首都圏が壊滅した状況が展開されていました。シミュレーションによると、首都圏の死者は最大で13,000人だそうです。このような報道の根底にあるのは、やはり人間の単調な欲望(金銭欲)だと思います。欲望の追求のためには、地震などで命を落としている場合ではないからです。

 私が感じた点の3つ目は、人は天災の中にも人災の要素を見つけ、「このような事態は避けられたはずである」ことを論証し、責任者を探さずにはいられないということです。エゴイズムが飽和した社会においては、やり場のない怒りに対してはやり場を見つけなければならず、「私はこう思う」という賛成・反対論以外は存在しにくくなっているのが現状だと思います。こうして、人の死は悪となり、話はわかりやすい善悪二元論に収まります。
 カンタベリーテレビビルの倒壊については、クライストチャーチ市に責任があるのか、ビル所有者に責任があるのか、といった議論が日本でも起きかかっていたように思います。そして、このような責任者の糾弾が行われてきた逆効果として、何とかして人災の要素にすがりたい被災者の家族に対し、「被害者エゴ」「賠償金目的」という下司の勘繰りが行われ、人の死に対して本来的な敬意を払わない意見も増えてきたように感じられました。

 以上の3つの点は、東北関東大震災の報道では、全く見られないものです。悲劇の要素は全くなくなり、死者・行方不明者の数は統計上の数字となりました。それと同時に、ニュージーランド地震を遠い昔のこととして忘れ去ったように思います。

義援金 (2)

2011-03-27 00:06:46 | 国家・政治・刑罰
 憲法・民法・行政法の重要判例に、群馬司法書士会事件(最高裁平成14年4月25日判決)というものがあります。これは、阪神・淡路大震災に際し、被災した現地の司法書士を支援するため、群馬司法書士会が復興支援金の拠出を決定したことに対し、同会所属の司法書士が異を唱えて最高裁まで争った事件です。会員の負担は、登記申請1件当たり50円でした。
 私は、この判例の存在を初めて知ったとき、ひどくショックを受けました。もちろん、事件の内容を詳細に知れば、難しい問題が含まれていることがわかります。「復興支援への人道的援助」というものは、誰にも反対しようのない大義名分であり、そこに全体主義の危険性が潜んでいることも理解できます。また、善意の強制が許されるか、という哲学的テーマに通じることも看取できます。

 しかしながら、法律的にものを考えることはある意味悲しいことであり、そして哲学的テーマを裁判で争うことは虚しいことだという思いは、今も消えることがありません。また、この判例の文言を何の疑問もなく分析し、学問として研究に打ち込める者は、6400名超の死者の存在に打ちのめされておらず、人の生死に対する感覚においてある一線を超えているのだと感じたこともあります。
 この訴訟が提起されたのは、阪神・淡路大震災から3か月後の平成7年4月でした。「被災者のことを考えればこの時期に訴訟などできるはずもない」という非難は、安易な自粛論に便乗したものであり、まさに全体主義の危険性があると感じます。私がショックを受けたのは、被災地以外の者は天災によっても人間の無力さを思い知らされることもなく、虚脱感に打ちひしがれることもなく、自己の外部に自由を求めて戦い、思想・良心の自由(憲法19条)から演繹的に物事を考えることができるという点でした。

 法は抽象名詞の体系です。「激震」「崩壊」「壊滅的な打撃」といった単語は、本来は言葉を失うような自然災害の現場から生まれてきたものと思いますが、現在では組織や政権に関する抽象的な意味で使われ、それが本来の場面における鈍感さにつながっているように思います。言葉を失うときは、単に言葉を失うのみであり、ある主張を論理によって正当化する行為とは正反対の心の構えであると感じます。
 表立って反対できない大義名分の圧力は息苦しいものであり、人権論における自由が、その圧力に対する抵抗を主戦場とすべきであることは理解できます。しかしながら、6400名超の死という動かぬ事実を目の前に突きつけられ、自然の前に人智の無力さを悟り、自らが生かされていることへの謙虚さに思いが至った者は、このような形で人権論の自由を主張したくはならないであろうと思います。

 いずれにしても、この判例の存在は、すでに法律を学び始めていた私にとって、1つの転機となりました。天災の被災者への生命感覚の乏しさは犯罪被害者への生命感覚の乏しさに通じることに気づきましたし、死刑廃止論の述べる「生命の重さ」への違和感の原因も言語化できるようになりました。

義援金 (1)

2011-03-26 23:51:55 | 実存・心理・宗教
 日本赤十字社を通じ、東北関東大震災への義援金の寄付を行ってきました。イチロー選手の2000分の1、安室奈美恵さんの1000分の1の金額です。私がなぜ寄付を行ったのかと言えば、自己満足のためです。ほんの少しだけ、被災地の誰かの役に立つことができたような気がして、私の心が満たされたからです。
 寄付に限らず、利他的な行為は、本質的に矛盾を免れないものと思います。偽善も善の一種ですが、匿名で隠れて寄付をする行為は、寄付をした事実をアピールしつつ寄付をする行為よりも、偽善からは遠いと思います。しかしながら、隠れて寄付をする者は、「あなたは寄付をしていない」という非難に耐えなければならず、この自己欺瞞との闘いに費やす労力は無意味であるとも思います。

 この2週間、諸外国の人々からの「日本への応援メッセージ」を多く耳にしました。最初は、有り難いと思いました。その後、日本人として、理屈抜きの別の感情が瞬間的に湧いてきました。この感情は複雑であり、正確に言葉にすることはできませんが、支援の言葉は有り難いがゆえに重く、逃げられないと感じました。そして、ここは「有り難い」と思わなければならないのだと感じ、仮に内心に起こった感情が「有り難い」以外のものであっても、その気持ちは世間的に抑えなければならないのだと思いました。
 私は被災地の人間ではないため、すべては安全地帯からの理屈です。そして、このようなことが考えられるのも、被災地の人間ではないからです。思えばここ数年、スマトラ島沖地震、四川大地震、ハイチ地震などの大災害に際して、日本もそれらの国々に対して、「応援メッセージ」を発信してきました。そして、その言葉を受け取る側が、憐憫の視線に不快感を覚え、同情など向けられたくないと感じ、国民としてのプライドが傷ついていたとしても、そのような言葉は返って来なかったのだと思います。

 私は、自分が寄付した微々たる義援金が役立ってほしいと思います。それと同時に、義援金を役立ててもらわなければ困るとの欲望や、さらには被災者の方々に喜んでもらわないと困るとの傲慢さもあり、自分の心を誤魔化していると感じます。
 被災地の人々の無数の言葉のうち、被災地以外からの善意の重さ、押し付けと感じる苦しさ、憐憫や同情の視線に対する不快感などは、マスコミの報道においては最も表に出にくいものと思われます。「全てが夢の中の出来事であり、夢から覚めて元通りの日々に戻れるならば応援もお金も何も要らない」というのが人間の普通の考えでしょうが、カメラの前では言いにくいと思います。

角川歴彦編 『テロ以降を生きるための私たちのニューテキスト』

2011-03-25 20:50:07 | 読書感想文
中島義道 「テロに匹敵する世間的暴力について」より p.90~

 ハイジャックされた民間旅客機がニューヨークのビルに激突したという事件が鮮明になったとき、私の頭をフトよぎったことは「これもまた決定されていたのかもしれない」ということであった。つまり、私の脳髄を占拠したのは、大変な惨事だということでもなく、テロリストに対する怒りでもなく、イスラム原理主義に対する疑問でもなく、「アメリカの正義」に対する反感でもなく、世界経済の先行きに対する不安でもなかった。じつに、決定論と自由意志に関する古典的な哲学的難問であったのだ。

 「哲学は必要だ」と分別顔の善人どもは口を揃えて言う。しかし、それは真っ赤なウソである。彼らは安全な哲学のみ欲しいのである。哲学はその本性からして危険なものであり、社会的には大いに害になりうる。突然の惨事で5000人~6000人もの尊い人命が失われたというのに、何を血迷ったのか「それは決定されていたのかもしれない」などという不謹慎なことを思うことそのことが厳しく禁じられているのだ。たとえ思っても、断じて口に出してはならないのだ。

 真理を求めつづけるところに哲学の生命はある。だが、世の人々はこぞってこれを嫌悪する。いや厳しく禁止する。尊い人命が奪われているときに、「自由が存在するか否か」と問うことそのことを拒否するのである。それは、時と場所と状況を弁えて哲学しろという要求にほかならない。つまり、社会的な配慮が必要な場では哲学をするなという要求である。真剣な問いが「驚き」として生ずるところにこそ哲学は湧き出るのに、まさにそのとき哲学をやめよと命じるのである。


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 2001年9月11日の同時多発テロの後、この中島氏の文章を読み、哲学とは具体的な問題(解答を求める形の問題)には何の役にも立たないことを知りました。そして、同じく「テロ以降」の出来事である今回の大震災に際して、やはり哲学は具体的な問題(復興・再建・立ち直りの方法論)には役に立たないことを知りました。また、人為的なテロに際しても、自然災害においても全く同じように妥当してしまう理論は、このような役に立たない理論であると知りました。

 今回の大震災を表現する際のキーワードとして、「未曽有」と「想定外」が良く使われているように思います。「未曽有」も「想定外」も、決定論と自由意志に関する古典的な哲学的難問の入口であり、答えのない問いがこの世に存在することを示すものです。これらの言葉について、それをまた言葉によって強制的に思考を巡らせざるを得なくなる場所が、まさに被災地の現場であると思います。そして、被災地の復興を願えば願うほど、この思考は遠ざかるように思います。

虚礼

2011-03-24 00:09:29 | 言語・論理・構造
 震災が起きてから、「拝啓」に続く季節の挨拶が書きにくくなりました。ビジネス文書のマニュアル本を見ると、3月の欄には、「春光天地に満ちて快い時候」「木々の緑日毎に色めく季節」「天も地も躍動の春」「ものみな栄えゆく春」といった例文が目白押しです。さらには、「日の光には春らしさが感じられ心まで浮き立つ思いが致します」「高校野球の球音が聞こえるようになると春たけなわの感が致します」といった凝りすぎのものも並んでいます。

 震災後は、「ますますご清栄のこととお慶び申し上げます」といった素っ気ないもので済ませるようになりました。私の心の奥底には、人間としてそのような気持ちになれるはずがない、という倫理観があります。しかしながら、現実にそのような行動を取っている動機は、非常識な人間だと思われたくないという保身です。今は世間的に何を言うとヒンシュクを買うのか、場の空気を読んでいるわけです。

 それでは、「拝啓」に続いて「被災地の皆様に心よりお見舞いを申し上げます」「1日も早い復興をお祈りいたします」といった挨拶が書けるかというと、これも書くことができません。いわゆる「相手方に失礼な表現」にあたるからです。私自身、このように書かれた文書を受け取りましたが、一瞬、何とも言えない違和感を覚えました。私に向かって祈られても困りますし、お見舞いを言われても困るからです。

 ビジネス文書において、「心よりお見舞い申し上げます」「復興をお祈りいたします」といった表現が適当なのは、不特定多数への通信の場合です。この媒体としては、ダイレクトメール、FAX、電子メール、電子掲示板などがあり、震災以降はどれも判で押したようにお見舞いとお祈りが行われています。そして、この媒体はどれも「関係者各位」に向けられたものであり、被災者が目にすることはまずありません。すなわち、お見舞いをしていること、祈っていることそれ自体が目的です。

 人間の倫理の筋としては、被災地の苦しみを一緒に苦しみたいが、自らが経験していない苦しみはなかなか苦しむことができない、という手順を取るのが自然であると思います。しかし、効率性が最重要のビジネスの現場においては、このような筋に沿って物事を考えることは、非常に困難であると感じます。私自身、「目の前で肉親が津波に流されることに比べれば計画停電など大したことではない」と思っていたはずが、いつの間にか計画停電による不便が最大の問題となってしまっています。その上で、ぬけぬけと「被災地の皆様に心よりお見舞いを申し上げます」などと書いています。

将棋棋士・谷川浩司さん 『がんばりすぎずに』より

2011-03-23 23:39:29 | 時間・生死・人生
朝日新聞 3月22日朝刊  震災関連連載より
 
 救助を求めておられる方の身の安全を、まず第一に願います。復興ということまで考えられるような状況ではないと思います。そのうえであえて、阪神大震災で被災した私の経験から言えば、これから長い長い闘いになる。あのとき、ちょっとの差で生死が分かれた。人間は本来、平等であるはずなのに、なぜ自分は無事だったのか、今も答えが出ません。

 被災された皆様には「がんばってください」ではなく、「がんばりすぎないでください」と申し上げたい。気力だけで乗り切れる期間は限られています。一歩ずつ、少しずつ。そんな気持ちが大事ではないでしょうか。


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 哲学者・永井均氏の『子どものための哲学対話』に、次のような一節があります。
 「将棋をさす仕事とか、存在する意味があるのかな? そんな仕事、なくてもいいんじゃないかって思うんだけど?」「それは違うよ。人間は遊ぶために生きているんだからね。高度な水準に達した人のために役立つような、将棋のさしかたを示してくれる人が、必要になってくるんだよ。」

 いつまでも落ち込んではいられない、暗い気持ちを何とか和らげたいという希望は、容易に強迫に転化するものと思います。この余裕のなさは、「この震災の大変な時に小さな盤の上で駒を動かして遊んでいる場合か」といった視線につながるものと思います。私は、谷川氏の凝縮された言葉を読み、同氏は狭い将棋板から無限の宇宙に通じ、その宇宙から地球に通じ、その上の日本列島に戻ってきているような、そんな感じを受けました。

小松真一著 『虜人日記』より

2011-03-22 23:46:07 | 読書感想文
p.379~ 山本七平氏の解説より

 時間は記憶を風化さす。しかし同時にそれは記憶された対象を客体化させ、従ってその伝達は逆に容易になる。記憶自体はあくまでもその人だけのもので、他人はそれを共有することはできない。しかし、記憶を基にして構成した絵、物語り、あるいは文章は、それに接する人びとに、客体化され、それによって捨象・改変された記憶の一端を提示することはできる。だが、時間という捨象を経由して提示された記憶は、すでにその人の体験した事実ではない。

 比島の末期におけるジャングル戦を体験した者にとっては、あの飢え・銃弾・寄生虫・マラリア・雨・疲労・無灯火・泥濘の中で、紙も鉛筆もない状態の人が、何かを書き得たであろうとは思えない。否、書くどころか、「読む」体力と気力さえ喪失していたのが実情であった。従って、その時点、その場所で記されたルポは、存在しないのが当然である。

 そして、もし存在するなら、その人は、何か特別な理由で異常に安穏な状態にあり、従って、戦場を体験したといえないはずの人である。いわゆる勝ち戦さのときの従軍記者の記録がほぼこれに相当し、その内容は、戦闘が終って安全になった段階での、戦闘に関する伝聞の集録を記事に構成したもの、一言でいえば安全地帯での取材を基にした作品にすぎない。そしてこういう記述の特徴は、自己の「見」と、他から伝えられた「聞」と、自分の身体に直接受けた体験とが、記述の中で明確に分れておらず、筆者の立つ位置が不明な点にある。


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 震災の死者と行方不明者が2万2000人を超えている現実につき、人間の言語で端的に描写しようとすれば、茫然、無力感、悪夢、無常、地獄、絶望、虚脱感、胸が張り裂ける、胸が潰れるといった表現しかあり得ないと思います。もちろん、これでも表現としては極めて不正確であり、それ以前の生易しい表現は入る余地がないと感じられます。

 2万2000人の死者と行方不明者を目の前にして、勇気、希望、あきらめない、前を向いて、頑張って、乗り越えて、元気、笑顔といった表現が前面に出ていることは、山本七平氏の言葉を借りれば、その瞬間において風化が促進されているのだと思います。阪神淡路大震災の16年後の風化ぶりを目の当たりにすれば、現在から16年後の東日本大震災の風化ぶりも想像がつきます。

法と自由と民主主義

2011-03-21 23:00:19 | 国家・政治・刑罰
 法と自由と民主主義の思想は、自然災害の被害者に対して、それなりの理解を示すものである。私はこれまで、漠然とこのように考えていました。人災である犯罪被害の場合と異なり、国家権力による刑罰権の発動の問題が生じないからです。しかしながら、震災の発生から10日が経ち、被災地の外で行われている法律家の議論を聞くにつけ、この思想が「被害」というものに対して鈍感である事実を色々と認識させられています。

 報道各社がすべて通常の番組を改編し、緊急報道番組を放送したことにつき、憲法21条(表現の自由)との関係で問題があるとの意見を聞きました。明るい番組を控える横並びの自粛の風潮に対し、戦前のような思想統制の危険性を感じるとのことです。常に憲法の基本から物事を考える姿勢としては、実に正しいと思います。そして、人の死に対する洞察が浅く、実に情けないと思います。
 義務や強制によって被害者に共感しなければならないと考えているのか、あるいは自由や自発によって被害者に共感しようとしているのか。さらには、共感したいが共感など不可能であると気づいて苦しんでいるのか。この差異は、己の人生に向かう構えの違いのようなものであり、理屈では説明できないと思います。そして、政治的な自己主張の強さは、天災と人災とを通じて、「被害」の捉え方の浅さにつながっているように感じられます。

 福島原発が危機的な状況となり、法律家の間では、平成18年3月24日の金沢地方裁判所判決の重要性が語られるようになってきました。法曹界では「志賀原発運転差止め訴訟」と言われているものであり、我が国で初めて原発の運転差止めを認めた判決です。この地裁の裁判官と東京消防庁の職員とを称賛しつつ、差止めの判決を覆した高裁の裁判官を強く非難する意見を多く聞きました。
 福島原発での命を賭した活動に対しては、それを見守る無力な国民の1人として、心から敬意を表し、無事を祈ることしかできません。ここでは、法律の抽象論は無意味であり、目の前で起きている人間の限界的な姿に圧倒されざるを得ないと思います。法律の議論が、この緊迫した状況下でも過去の判例を出発点としている点については、法律を学んだ者として愕然とさせられました。原発周辺の住民は、ここでも「被害者」として正義の側に引き込まれることになります。

 首都圏では、計画停電や交通機関の運休による支障が生じています。社会正義の実現を標榜する各種報告会・勉強会も無期限の延期を強いられ、「被災地の一刻も早い復旧をお祈りします」との枕詞ばかりが繰り返されています。自らの主張を世に問う活動についても、被災地の現実を前にして、ひとまずの休戦を強いられた状態です。世の中が落ち着いた頃を見計らって、一刻も早く活動を再開したいという本音も聞かれます。
 人間の基本的な姿は、平穏無事の状況ではなく、極限的な状況において表れるものだと思います。それは、綺麗事が通用せず、人間の醜い本性と高貴な本性とが同時に表れる状況です。そして、ある真実が真実であるのならば、それはいかなる時においても、いかなる場所においても妥当するはずです。その意味で、震災が起きると休戦を余儀なくされ、その間は真実ではなくなるような真実はあり得ないと思います。

 天災と人災とを問わず、人間にある日突然に突きつけられる「被害」というものへの洞察の浅さを感じるのは、上記のような法曹界の議論に接したときです。被害による絶望は、絶望以外の何物でもない以上、将来的には希望に転化するはずの仮の状況であるとの言説は、何らかの偽善を免れないと思います。法と自由と民主主義の思想は、天災の被害に対しても鈍感であると感じます。

東日本大震災

2011-03-13 23:56:22 | その他
 その時私は、東京の真ん中のビルの中にいました。倒壊の危険を感じて外に飛び出ると、すべての建造物が大きく揺れ、無数の人々が道路に飛び出していました。地鳴りのような音を聞きながら、「狭い地球の表面に貼り付いて重力に逆らってビルを建てた人間の文明の儚さ」などという陳腐な台詞が頭に浮かんでいました。
 震源地が東北地方であることを知ると、私は「被災者とそれ以外」の二分法に従って安全地帯に移り、被災地を対象化して捉え始めていました。私には、これ以上被害が増えないことを祈り、亡くなられた方の冥福を祈ることしかできません。情けないです。

 先の先の復興政策を語り、中長期的な展望を語る政治家が嫌いです。時間は、今この瞬間しか存在せず、しかも「その瞬間」で時計が止まったならば、動くことはないと思います。
 自分のプレーで被災者を元気づけたいと言っていたスポーツ選手が嫌いです。何の力にもならないと思います。喪章も免罪符のようで好きではありません。
 被災者の悲喜劇のストーリーを無理に描いていた番組が嫌いです。先の1月の阪神淡路大震災16年の追悼行事の取り上げ方の小ささを思い起こすと、信用ならないと思います。

 「これほどの規模の津波は想定されていなかった」と淡々と語る専門家が嫌いです。自然の猛威の前に人智の無力さを語るのではなく、結果論としての精緻な分析を展開し、被災者の生活の破壊を前にして科学者の立場を守るのは欺瞞だと思います。
 天変地異の原因を為政者などの外部に求め、主義主張に転化する非科学的な思想を語る人が嫌いです。神や仏がいるのであれば、こんな悲しいことは起こりません。天変地異によって人類に警告を与える神は、それを信じる人間が勝手に作った神にすぎないと思います。
 これらの理屈を述べる人々に比して、被災地で理屈も語れず汗と涙を流している人々に対しては、敬意と畏怖以外の感情は湧いてきません。

 震災の翌日、メールで首都圏の帰宅難民の悲惨さと武勇伝を自慢してきた友人が嫌いです。「今から仙台で不動産屋でもやるか」と言っていた同僚も嫌いです。ここぞとばかりに耐震工事の営業に来たリフォーム会社の社員も嫌いです。
 これらの人々に対して愛想笑いをし、追従笑いをし、大人の対応をしている自分が嫌いです。
 歯切れの悪い記者会見をする東京電力や原発施設の関係者にはイライラします。しかし、これに対して矢継ぎ早に厳しい質問を投げかけ、常に正義の側に立っているマスコミの人々はもっと嫌いです。
 普段の仕事では同じような会話を繰り広げ、揚げ足取りと保身しか考えていない自分を省みて嫌になります。

 地震の直後に、メーリングリストで義援金の提供を募ってきた団体が嫌いです。この団体の内部では、先方からお礼状や「義援金を頂いた方々」の公表がないと、不満のメールが飛び交います。単なる売名行為だと思います。
 福島原発の爆発が起きた直後に、メーリングリストに鬼の首でも取ったかのようなメールを送ってきた原発反対活動家が嫌いです。被災者への支援活動と政治利用は紙一重であり、鈍感でありたくないと思います。

 好き嫌いはすべて解釈であり、自分が考えたいように考えることが可能です。これに対して、あらゆる不要な情報を取り去った後、最後に残るのが安否確認の情報です。ここでは、「心より震災のお見舞いを申し上げます」といった言葉は無価値です。
 奇跡の再会と、悲しみの対面とは、天国と地獄であると感じられます。そして、新聞やテレビでこの天国と地獄を交互に見ていると、心が整理できなくなり、言うべき言葉が何も出て来なくなり、余計な言葉しか書けなくなります。

 天国の場合には再会した両者の視点が存在するのに対し、地獄の場合には残された者の視点しか存在しない点において、死者からの視点は強制的に除かれます。「生存者の捜索」と「遺体の収容」の違いを分けて考えることも、言葉で無意識に線を引き、上から目線の安全地帯に逃げているように思われます。
 悪夢を前にして全身で生きている人々に対し、私は傍観者としてこれ以上被害が増えないことを祈り、亡くなられた方の冥福を祈ることしかできません。本当に情けないです。