犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

藤井誠二著 『殺された側の論理』 第6章

2007-05-31 19:18:13 | 読書感想文
第6章 「生きて償う」という「きれいごと」

殺人犯が「生きて償う」と述べるならば、多くの人はそれを「きれいごと」だと感じる。それは、政治家や大企業のトップの不祥事が発覚して辞任の世論が高まったときに、「しっかりと職責を果たすことが信頼回復につながる」と言ってヒンシュクを買うのと同じことである。正論か屁理屈かの違いは、権力者であろうと犯罪者であろうと変わらない。「こそ」「むしろ」といった逆接的表現は、「逆接」ではあっても「逆説」ではない。

「死刑」の問題は、その中に「死」を含んでいる。死がわからないのに死刑がわかるわけがない。しかしながら、人間の生死に関する哲学的な問題には答えがない。「人間はなぜ生きるのか」、「なぜ自殺してはいけないのか」といった問いに対しては、絶対的な正解は得られていない。このような現実がある以上、死刑制度の賛否の問題については、とりあえずのこの世間における正解を出しておくしかない。法律学が扱いうるのは、哲学的な問題を底上げした先の政策的な問題のみであり、それぞれの国で仮の答えを出して先に進むしかない種類の話である。

このような政治的な議論においても、哲学的な議論に近いものと遠いものがある。そして、哲学とは客観的なデータではなく、自分の人生における経験と直感のみによって、普遍に通じる真理を探究する営みである。そうであるならば、こと死刑制度に関する以上、犯罪被害者遺族の意見に勝るものはない。ここでは、利害関係のない冷静な第三者の意見には意味がない。生死に関する問題は主観と客観を超越しており、答えは実存的な自問自答の先にしかないからである。3人称の死から2人称の死を類推しても、哲学的な議論からは遠ざかるのみである。

人権派の死刑廃止論には、自分の意見は絶対的に正しいという傲慢さが付きまとう。これは被害者遺族に対して冷酷なわけではなく、単に鈍感なだけである。人権派における死刑を廃止したいがための被害者対策という政治的な手段は、被害者遺族による哲学的懐疑によって簡単に見破られるだろう。命あっての人権であり、命あっての死刑廃止論である。人間が生死の問題を論じるときには、かならず自分は生きているという自己言及のパラドックスが生じている。死刑廃止条約の条文を絶対的な権威として信じてしまえば、哲学的懐疑は終わりである。日本の世論が圧倒的に死刑制度を支持していることは、人権派からは人権意識が低いというだけの話であるが、条約といった権威にかかわらず日本人が自分の頭で物事を考えていることの証拠でもある。

法廷に死者はいない

2007-05-30 19:16:06 | 時間・生死・人生
裁判の空間に、殺された人間はいない。裁判官や検察官、弁護士や被告人は生きている。傍聴席の人々も生きている。しかし、殺された被害者本人だけがその場にいない。これは当たり前の話である。この当たり前であることが当たり前すぎるゆえに、そこからは逆に異常性が噴き出してくる。

裁判システムに完全に浸かっている法律家は、この当たり前であることをそのまま受け取っている。裁判官も弁護士も同じである。この鈍感さこそが、被害者遺族を苦しめている原因の1つである。法廷における遺影の持ち込みの問題も、「被告人が萎縮して公正な裁判が害されるか否か」という問題設定の方法では、被害者遺族の苦しみの一番核心のところを取り逃がす。当たり前であることが当たり前のまま進行されている裁判の異常性への感受性、このギャップを直視することがすべての始まりである。

そもそも、法廷において仰々しい儀式を開催している発端は、被害者の死である。にもかかわらず、その発端である人間が存在しない状況は、欠席裁判の様相を呈する。被害者遺族が、何とか写真だけでも存在させてあげたいと願うのは当然のことである。しかし、法律学の理論からは、被告人だけが当事者であって、被告人さえ存在すれば欠席裁判ではない。被害者遺族からすれば、このような裁判制度それ自体が欠席裁判である。

ハイデガー哲学から見れば、犯罪被害者遺族の直面している問題は、人間にとって最大かつ根本的な問題である。人間であれば、誰しも心のどこかで所有している問いが顕在化しただけである。日常生活を平穏に送っている人々は、日々の忙しさにかまけて、その人間にとって最大かつ根本的な問題から目を逸らそうとする。しかし、そのような人々も、ひとたび自分が最愛の人を犯罪被害で失う立場に立たされたならば、この問題に直面することを免れない。人間は潜在的に、常に被害者遺族の直面している問題と同じ問題を抱えながら生きている存在である。日常生活を平穏に送っている人々の視線からは、犯罪被害者遺族は心理的に異常な状態に追い込まれているという安易な捉え方がなされる。しかし、ハイデガー哲学から見れば、このような思慮の浅薄さのほうがむしろ異常である。

法廷に死者はいない。この当たり前なことを当たり前であるがゆえに変だと感じるか否か。この感受性なくして、法律学のパラダイムの下で小手先の政策論だけを推し進めても、やはり最後には割り切れないものが残ってしまう。「被告人が萎縮して公正な裁判が害されるか否か」という問題は、その問題設定自体のピントがずれている。ずれているものは、掘り下げても無駄である。

長尾龍一著 『法哲学入門』

2007-05-29 20:04:12 | 読書感想文
法哲学の第一人者である碧海純一東大名誉教授の言葉に、次のようなものがある。「法哲学とは何か。この問いに対する答えは、厳密にいえば、法哲学者の数だけある」。長尾龍一教授は、本文中でこのように述べている。「法解釈の客観性に限度があることを指摘して、実定法学者の独善に水をかけることも、法哲学の大きな役割である。法哲学の任務は、何よりも実定法学の批判であり、哲学と法学は逆接的関係に立たなければならない」。

現在の法哲学の議論は、アカデミックなテーマに集約されてきている。法の概念論や正義論、法思想史、自然法と実定法との関係などである。こうしたテーマの細分化は、現実の世の中との乖離を招くという弊害が指摘されている。スコラ的な議論に陥って、「木を見て森を見ず」になってしまう。そこでは、生きることと学ぶことが別になってしまう。これは、論理的にはあり得ない事態である。生きることは学ぶことであり、学ぶことは生きることと別物ではあり得ない。

19世紀の科学主義、実証主義の流れは、法律学と哲学の双方をスコラ的な議論に陥らせた。「知の知」である法律学と、「無知の知」である哲学とは、いずれもそれぞれの道においてマニアックな空理空論に走ることになる。法律学は現実の世の中の動きを差し置いて、100年に1回起きるか起きないかわからないような事件をめぐる問題に議論が集中することになる。これは現在でもあまり変わらない。法律学における犯罪被害者の存在の見落としも、このような大きな流れの中にある。法哲学は、この法律学と哲学の双方のデメリットを引き継ぐことになった。

法律家に必要な制度的思考様式のことを、リーガルマインドという。法律の実際の適用に必要とされる柔軟・的確な判断力である。犯罪被害者の立場から見てみるならば、このリーガルマインドというものも、犯罪被害者の存在の見落とす1つの原因である。法律家は一般人とは異なる能力を持っているという特権意識は、被害者の声を1人の人間として聞くことができず、変形した上で受け取ってしまう危険性につながる。リーガルマインドを有する法律家からは、法が生き物に見えなければならない。この法の擬人化は、その反面として実際の人間を殺すことにつながる。犯罪被害者の視線に立ってみれば、リーガルマインドの負の面もよく見えてくる。

法哲学とは、法哲学者の数だけある。法哲学の大きな役割は、法解釈の客観性に限度があることを指摘して、実定法学者の独善に水をかけることである。犯罪被害者保護法制について、刑事法の枠組を超えて、法哲学的な視点を持つことは有用なことである。

(このブログのタイトルは、碧海教授のお言葉に甘えさせて頂いたものです。また、このブログの内容は、長尾教授のお言葉に甘えさせて頂いたものです)

存在論と認識論

2007-05-28 18:22:31 | 時間・生死・人生
存在論と認識論は、哲学研究の基本形態である。存在論とは、あらゆる存在者が存在しているということは何を意味するかを問い、存在そのものの根拠またはその様態について根源的・普遍的に考察する学問である。ハイデガーの主な関心はこちらにあった。これに対して、認識論とは、認識の起源・本質・方法・限界などについて考察する哲学の一部門である。カントおいて合理論と経験論の統合がなされ、批判哲学が完成した。

法律学は、哲学のうちの認識論から派生したものである。そこでは、存在論は認識論の端緒に過ぎないものとされる。罪が存在するのか、債権債務が存在するのか否かは、事実認定と証明責任によって決定される。そこでは、証拠物の証明力や、目撃証人の信用性が主な問題として扱われる。裁判が長引くのは、この認識論を問題とする刑事訴訟法の伝聞法則によるものが大きい。そこでは、被害者そっちのけで、目撃証人が弁護側の反対尋問によって攻撃されることになる。暗くてよく見えていなかったのではないか、人違いではないか、記憶があいまいなのではないかといった法廷でのやりとりは、どんどん細かくなって裁判を長引かせる。

近代刑法の裁判システムが犯罪被害者保護にそぐわないのは、この存在論と認識論という対立構図が大きい。認識論に基づく裁判においては、存在するか否かが問題にされるのは、被告人の犯した罪だけである。罪が存在すれば有罪であり、罪が存在しなければ無罪である。ここでは、ハイデガーが問題としていたような存在論については、そもそも眼中にない。しかしながら、犯罪被害者の興味は存在論のほうにある。それは、ある時には被害者の心の痛みであり、ある時には死者の無念である。このような文法は、裁判における事実認定の文法とは全くかみ合わない。

被害者の裁判参加制度に関する議論は、被害者の負担の大きさや、被告人からの報復の危険といった政治的な問題が中心となっている。しかし、最大の問題は、そもそも異なった文法が通じるのかということである。存在論における最大の問いは、「なぜ我が子は殺されなければならなかったのか」である。そして、被告人に対する最大の要求は「我が子を返せ」であり、裁判所を無力化する最大の言明は「犯人が死刑になっても我が子は戻ってこない」である。被害者の裁判参加制度に反対する立場の根底にあるものは、認識論のパラダイムが存在論によって壊されることを恐れる心情である。被害者の裁判参加制度によって近代刑法の根底が揺るがされるという表現は、突き詰めればこのことを意味するものである。

藤井誠二著 『殺された側の論理』 第5章

2007-05-27 18:21:28 | 読書感想文
第5章 殺された側に「時効」はない

法律的な議論においては、「時効はいつ始まるのか」、「時効の起算点はいつか」という形で問いが立てられ、被害者遺族もこの問いに巻き込まれる。時間の流れが客観的な事実として捉えられている。しかしながら、法律は当為概念(Sollen)であって、事実(Sein)を語ることはできない。時効の議論を正確に述べるならば、「時効はいつ始まるべきか」、「時効の起算点はいつにすべきか」としか表現できないはずである。

石川千佳子さんの事件においては、東京地方裁判所内で異なった結論が出された。これも不思議な話ではない。時間の流れは客観的な事実ではなく、人間が時効を「始めさせて」いるからである。裁判官が時効を「始めさせる」ことによって時効は始まるのだから、裁判官が異なれば、時効は異なった時期に始まることになる。加害者に逃げ得を許す結果となるか否かは、結局は政治的な政策判断の問題である。どんなに論理的に突き詰めても、最後は常識、正義、公平といった抽象概念に突き当たるしかない。これが法律の議論の根本である。

犯罪被害者遺族は、その日から時間が止まったようだという表現をする。これは、実際の感覚としてごく正常である。哲学的には「マクタガードのA系列・B系列」という問題であるが、時間が流れているという事実は錯覚である。当然ながら、我々は時間が流れているところを見たこともなければ聞いたこともなく、メタファーに騙されているにすぎない。人間は、子供の頃は時間の流れが遅く感じられたのに、大人になると速く感じられるという感覚を持つものであるが、これも時間が客観的に一定の速さで流れているわけではないことを示している。犯罪被害者遺族における時間が止まった感覚は、人間にとってごく当然の事態である。時間とは時計の針の角度でもなければ、カレンダーの厚さでもない。

殺された側に時効がないことは、比喩的な意味ではなく、文法上正しい。法律は、時間が流れているという我々の錯覚の上に構築された制度である。時間が止まっている被害者遺族に対して、「時効はいつ始まるのか」、「時効の起算点はいつか」という法律的な議論を押し付けることは、単なる政策判断の問題を針小棒大に議論しているにすぎない。ハイデガーは、人間は時間的な存在であると述べているが、現代社会においてこのことを実感している人間は少ない。現代人は、「時間を生かす」ことには熱心でも、「時間に生きている」ことには気付こうとしない。法律の議論も、このような現代社会の理論の上に構築されているのであれば、遺族が「殺された側に時効はない」という表現によって何が言いたいのかが把握できない。

法は道徳の最小限

2007-05-26 18:52:06 | 国家・政治・刑罰
ヘーゲルはカントの道徳律について、具体性がないと批判した。これは、現代の我々が見ても同じような感想を持つものである。ヘーゲルが指摘したのは、ルールを守ることと人間が生きることとは別のことではなく、人間はすでにルールを守ってしまっているか、破ってしまっているかのいずれかだということである。道徳律はどこまでも外的なものであって、生きた人倫性がない。道徳が自分の外側にあり、決して到達し得ない理想の対象であるとするならば、それは本能的に「嫌なもの」として感じられる。「法は道徳の最小限」という格言もこの延長にあり、法も道徳も外的強制として作用する。

カントの道徳律は、「すべき(Sollen)という意志の規則が、常に普遍的な法則に一致するように行動せよ」というものであった。これは確かに息苦しい。これをヘーゲルとは全く逆の方向から批判したのがフォイエルバッハであり、ここから罪刑法定主義が確立することとなった。「法は道徳の最小限」ではなく、そもそも法と道徳は別物である。法と道徳とは峻別され、道徳違反によっては罪に問うことはできない。このような功利主義的な発想は、法律に違反すれば罪になるという側面ではなく、法律に違反しなければ罪にならないという側面のみが強調されることになる。

ヘーゲルの良心の理論と、フォイエルバッハの罪刑法定主義の理論とを比べてみれば、我々の常識に近いのはヘーゲルのほうである。我々は悪いことをするときには、自然と良心がとがめる。これは理想ではなく、現実である。犯罪とは堂々と行われておらず、ばれないようにコソコソと行われているのがその証拠である。正しいことであるという自負があるのならば、万人に向かって堂々と行っているはずであり、裁判で否認する必要もない。法律なければ犯罪なしという罪刑法定主義の理論は、人間がいやいや道徳に従い、いやいや法律に従っているという側面ばかりを強調しすぎている。どんな人間も、その良心によって自発的に法律を守っているという現実を見ていない。

現実的なものは理性的であり、理性的なものは現実的である。人間の意志は自由の表現であり、その意志は自然法則を変えようとするものである。人間が自らの良心によって、自然と道徳や法律を守ろうとしていることは、この自然法則を変えようとする働きの1つである。これがヘーゲルからカントへの批判である。カントはその自然法則が道徳だと言っているが、これでは道徳が変えられてしまい、矛盾が生ずることになる。さらに現実主義者のヘーゲルは、近代刑法の父フォイエルバッハの理論を、人間を動物のように扱うものだと批判した。これは、カントに対する批判とは、そのレベルが全く異なる。

人権感覚の成熟

2007-05-24 19:01:42 | 国家・政治・刑罰
なぜ凶悪犯人にも弁護士が付くのか。国民の間におけるこのような素朴な正義感は、非常に大切なものである。国民は近代刑法の原則が全くわかっていない、人権感覚が成熟していないと切り捨てるのは簡単である。しかし、逆に国民からこのような素朴な正義感が失われる社会は恐ろしい。犯罪被害者保護が進んできたのは、このような人間の正義感の表れである。その意味で、凶悪犯人にも弁護士が付くのは当然であると納得している限り、人間は犯罪被害者が直面している問題の所在を捉えることができない。

「疑わしきは罰せず」という近代刑法の大原則も、それが特定のイデオロギーであるがゆえに、しばしば社会常識からかけ離れた無罪判決をもたらす。これはこれで事実であり、そのような法政策を採用しているだけの話である。国民世論がそれを疑問視し、「灰色無罪」だと感じるのは、至極正常なことである。これに対して、無罪は無罪であり、灰色無罪などと言うのは人権感覚がない証拠だと断定するならば、それはやはり独善的な教条主義にすぎない。

二次的被害という枠組みを文法的に演繹するならば、犯罪被害者の最大の二次的被害は、無罪判決が出てしまうことである。真剣に犯罪被害者保護政策を進めるならば、少なくとも灰色無罪の場合には、「被告人が犯人だと信じている」と表明する権利は認めざるを得ない。被害者が、このような人間として当然の感情を述べる言葉すら飲み込んでしまう空気が生まれたならば、近代刑法の大原則は完全なファシズムとなる。この恐るべき構造を見据えなければ、二次的被害の救済を進めると言っても、表面的なもので終わってしまうだろう。

人権派弁護士と言われる人達は、被告人の人権と同じように、被害者の人権問題にも取り組んでくれるのか。これは、誤魔化さずに突き詰めれば突き詰めるほど、原理的に期待できないことがわかる。被害者の人権問題を最重要課題として取り組むことは、人権派弁護士としての存在に矛盾するからである。被害者への同情は、誤判の恐れや厳罰化を引き起こすものとして、消極的にしか捉えられないからである。

被害者保護の世論の高まりに伴い、人権派弁護士も被害者の人権問題に無関心ではいられなくなっている。しかし、本音からすれば、余計なものが入ってきたというところであろう。「厳罰化は被害者の真の救済につながらない」という主張は、その本音を隠している限り、話がどうしても本筋からずれてしまう。確実なことは、「厳罰化は被告人にとって苦しい」ということのみである。従って、厳罰化に反対することは、被害者のためになるか否かは不明であるが、被告人のためになることだけは確実である。

藤井誠二著 『殺された側の論理』 第4章

2007-05-23 19:13:29 | 読書感想文
第4章 警察に「殺された」息子よ

犯罪被害者の権利を確立する動きは、被告人の人権を保護しようとする人権派弁護士と対立することが多い。その意味で犯罪被害者保護の活動は、保守的であるとみなされがちである。しかしながら、そもそも人間の生命や人生には右も左もない。人権派弁護士と対立する場合には、「左ではない」ということで、相対的に右になってしまうだけの話である。犯罪被害者の抱える問題は、政治問題ではなく、哲学的な問題である。松岡則子さんによる警察官への批判は、このことをよく示している。

松岡さんが何よりも傷つけられたのは、本来であれば市民の生命を守る立場にある警察官が、瀕死の被害者を残してその場から逃げ出した点である。さらには、警察側が「警察官の職務執行行為として正当であった」とのお役所的な弁解に終始している点である。ここには絶望的ともいえるシステムの自己矛盾がある。警察は国民の信頼を得なければならず、不祥事があってはならないとされる。そして、市民の生命を守る立場にある警察がその信頼を維持するためには、逆に警察官が市民の生命を守らなかったことを隠蔽せざるを得なくなる。この本末転倒は、近代国家の典型的な病理現象である。人間が脳内で作り出した「組織」と、その「組織に対する信頼維持」の絶対的なイデオロギーは、近代社会における変形ニヒリズムの表れである。

警察官が瀕死の被害者を残して逃げ出し、さらには事後の隠蔽工作を図った行動は、組織という「公」と、個人という「私」の両側面を持つ。組織が全体として不祥事を隠すことは、往々にしてその仕事への誇りの証明であり、職務熱心さの表れとして行われる。このような自己保身は、究極的には1人の人間としての実存的な本音に還元される。人間はその仕事において自己を自己として存在させ、職業上の肩書きを演じることによって自分の人生を形成する。そこでは、自分の不祥事による組織の信頼低下は、自分の人生に消しがたい汚点を残すことになる。ここでは、近代社会における「組織に対する信頼維持」信仰が、人間の生命よりも重く扱われることになる。

死者の尊厳に対しての姿勢は、殺された側と、そうではなかった側とでは必然的に異なる。これは、人間とは生まれて生きて死ぬという存在の形式から逃れられないことに基づく。「殺された側にしかわからない」という言い方は、紛れもない真実である。殺された側の供養は、殺した者と戦うことによってしか果たされない。殺した者を赦すことによる供養は、人間存在の形式において端的に矛盾であり、無理な欺瞞が混入せざるを得ないからである。

古典学派と近代学派

2007-05-22 19:28:28 | 国家・政治・刑罰
刑法学の根底には、客観主義刑法(古典学派・旧派)と主観主義刑法(近代学派・新派)との対立がある。これは根本的な人間観の違いであり、哲学的な問題である。しかし、今や最新の法改正と新判例を追うのに忙しい法解釈学においては、このような問題は軽視されてしまった。このような根本的な点で悩んでいては、社会のルールとして使い物にならないからである。

古典学派は、人間は自由意思を持って合理的に行動できる存在であると捉える。そこでは、刑罰とは、その意思によって不合理な行動を行った者に対する道義的非難であるとされる。これに対して、近代学派は、人間とはその行動を遺伝と環境によって決定されている存在であると捉える。ここでは、刑罰とは、社会を防衛するための手段であるとされる。これは、人間には自由意思はあるかという問題であり、哲学においても未解決の難問として残されている。

人間における自由意思の存否という大問題には、妥協の余地などあるわけがない。ところが、この世のルールとして使えることを第一とする刑法学は、これを妥協させてしまう。法律学によく見られる「折衷説」である。すなわち、人間は、ある程度まで遺伝と環境に支配されつつも、自らの意思で行動することを決定できる存在であるとする。このように考えれば、社会の役に立つ理論となる。もちろん、哲学からは、このような折衷説で納得することは論外である。しかし、法律学からは、逆にいつまでも答えが出ない哲学のほうが役立たずであるとされる。かくして法律学は、哲学的な問題にとりあえずの答えを出して、細かい技術的な問題に進んでいる。

哲学的な問題にとりあえずの答えを出した刑法学は、すべてを党派的な政治問題に変換してしまう。主観主義刑法(近代学派・新派)は、行為者の反社会的性格の危険性を前提とし、保安処分を刑罰に代替しうると考えるため、人権論からの反発が強い。これは改正刑法草案の棚上げにも表れており、イデオロギー的な論争に終わってしまう。このような政治的な対立は、人間には自由意思はあるかという哲学的な探究とは無関係である。

長嶺超輝著 『裁判官の爆笑お言葉集』

2007-05-21 17:31:54 | 読書感想文
著者があとがき(p.217)で述べている通り、前例のない本である。10万部のベストセラーになるのもうなずける。見かけによらず、非常に哲学的な洞察を含んでいる。内部告発でもなければ、「日本の裁判が危ない」という紋切り型の主義主張でもない。法廷に通って傍聴をするだけならば誰でもできるが、裁判に対するこのような視覚の取り方は、まさに前例がない。「脱構築」の一種といえるだろう。

笑う哲学者・土屋賢二氏が述べている通り、答えが出ない哲学的な問題は、最後には笑うしかない。人が人を裁くとはいかなることか。人が人を裁くことは許されるのか。このような問題は、難しいことを言って誤魔化すよりも、笑って誤魔化すほうが正直である。『裁判官の爆笑お言葉集』という題名は、単なる揶揄ではなく、哲学的な真実は笑いの中に自然と示されるしかないという洞察を含んでいる。

著者の細かいところへのこだわりは、自然と問題点を浮き上がらせている。裁判官は、自分のことを主語として「裁判所」と呼ぶ(p.30)。これは、裁判官が人間がありつつ人間であってはいけない、この微妙な線を鋭く指摘している。専門家にとっては当たり前になっていることほど、深く掘ってみるならば、思わぬ問題を発見するものである。裁判官であっても、わからないものはわからないに決まっているが、法治国家においては誰かが裁判官をやらなければならない。そうである以上、裁判官が爆笑のお言葉を述べることによってのみ法治国家は維持される。少なくとも、法廷の権威が失墜することはない。

著者は、法の仕組みは「ある」か「ない」かの二項対立のデジタルであり、裁判とは日本刀を使ってキュウリやニンジンの飾り切りを作るようなもどかしさがあると述べている(p.9)。これは非常に上手い比喩である。デジタルな法的結論の中にあっても、裁判官は人間である以上、アナログの表情を消すことはできない。そして、被告人や被害者のその後の人生を決めるのは、むしろそのアナログの部分である。これは、従来の刑法学や刑事訴訟法学においては完全に見落とされてきた視野の取り方である。

長嶺氏は非常に文章力があり、このような10万部のベストセラーが書けるのに、なぜ司法試験に7回も落ちたのか。その答えも本の中に示されている。24歳の母親が自宅に生後4ヶ月の息子を置き去りにしたまま男友達と2連泊し、その息子が死亡したという事件の裁判が紹介されている(p.145)。この裁判で弁護側は、被害者には乳幼児突然死症候群の可能性がある以上、「遺棄」と「致死」との間の因果関係がないとして争った。著者はこの点について、「私には本質から外れた議論に思えてなりません」と述べている。

全くもって著者の述べる通りである。しかしながら、法治国家においてはデジタルな二項対立の技法を習得するのが「リーガルマインド」であるとされ、司法試験ではその能力が試されてしまう。すなわち、「遺棄」と「致死」との間の因果関係が事件の本質であるとして強引に論理を構築できる人が試験に受かりやすく、わずか4ヶ月でこの世を去った子供の人生を想像して絶句するような人は試験に受かりにくい。多くの国民は、長嶺氏のような人物こそ法曹になってほしいと思うだろう。しかし、デジタルな部分が肥大化した法治国家の司法試験においては、全く逆のタイプの人間が合格しやすいということである。