平成26年8月13日 産経新聞ニュースより
昭和60年、520人が死亡した日航ジャンボ機墜落事故から12日で29年となり、墜落現場となった群馬県上野村の御巣鷹の尾根では、遺族らが雨の中、慰霊登山に臨んだ。夜にはふもとの「慰霊の園」で追悼慰霊式が開かれ、関係者が犠牲者の冥福を祈った。
日航によると、慰霊登山を行った遺族は前年より4家族52人少ない68家族226人。事故で義弟の加藤博幸さん=当時(21)=を亡くした小林邦夫さん(53)は「ここに来ると改めて命の大切さを痛感する。事故を語り継いでいかなければ」と話していた。
慰霊登山に参加し、「昇魂之碑」に花を手向けた日航の植木義晴社長は「二度とこうした事故を起こさないと安全の誓いを報告した。8月12日は日本航空にとって安全の原点。社員全員で心を一つにして安全を守っていきたい」と述べた。
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マレーシア航空機の消息不明と今回の撃墜事件、台湾のトランスアジア航空機の着陸失敗事故、アルジェリア航空機の墜落事故と続いていますが、それぞれの事故はそれ自体が絶対的な歴史的事実であり、その被害と運命も絶対的である以上、これらを比較することは無意味だと思います。一瞬はどの時間軸においても一瞬であり、この一瞬が永遠であることを想起すれば、何十年という時の経過について、何らかの感慨を生じることもあり得ないだろうと思います。
私は臆病者ゆえに飛行機が苦手で、飛行機に搭乗して降りられなくなる瞬間を迎える度に、哲学的思考に襲われます。私は、自分の乗る飛行機は落ちないことにしていますが、このような心の持ちようは、全ての飛行機事故の乗客と同じです。寸分も違わないことが自分でわかっています。人間がすることに絶対はなく、安全神話は無意味であり、ひとたび乗ってしまったら終わりです。人間には未来のことはわからず、過去に戻ることもできません。瞬間が存在するだけです。
私は確かに、自由意思によってその飛行機に乗りました。飛行機が苦手だという理由で出張を断るなど、この社会では通用しませんので、飛行機に乗ることを選んだ以上はある種の決断をしています。私は来週の今頃のことを考えながら、実は私には来週が存在しないかも知れないと気づいています。また、「この飛行機は落ちる気がする」と言って直前に搭乗をやめて実際に落ちなかったときの決まり悪さを恐れ、生命の重さという価値を確かに後回しにしています。
私が乗った飛行機が落ちていないのは、単なる運です。この生身の生命が360度の空中の物体の中で浮いていること、その状況には絶対に抗えないこと、この物体に現に命を預けて命を握られていること、数時間前に戻れるなら何でもすること、助かるならば全財産を捨てても構わないこと、その唯一の願いが不可能であること、墜落直前の飛行機の中での人間の思考は、いかなる哲学者が研究室で考える論理よりも哲学的であると感じ、厳粛な気持ちになります。