犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

日航機事故から29年

2014-08-14 22:58:51 | 時間・生死・人生

平成26年8月13日 産経新聞ニュースより

 昭和60年、520人が死亡した日航ジャンボ機墜落事故から12日で29年となり、墜落現場となった群馬県上野村の御巣鷹の尾根では、遺族らが雨の中、慰霊登山に臨んだ。夜にはふもとの「慰霊の園」で追悼慰霊式が開かれ、関係者が犠牲者の冥福を祈った。

 日航によると、慰霊登山を行った遺族は前年より4家族52人少ない68家族226人。事故で義弟の加藤博幸さん=当時(21)=を亡くした小林邦夫さん(53)は「ここに来ると改めて命の大切さを痛感する。事故を語り継いでいかなければ」と話していた。

 慰霊登山に参加し、「昇魂之碑」に花を手向けた日航の植木義晴社長は「二度とこうした事故を起こさないと安全の誓いを報告した。8月12日は日本航空にとって安全の原点。社員全員で心を一つにして安全を守っていきたい」と述べた。


***************************************************

 マレーシア航空機の消息不明と今回の撃墜事件、台湾のトランスアジア航空機の着陸失敗事故、アルジェリア航空機の墜落事故と続いていますが、それぞれの事故はそれ自体が絶対的な歴史的事実であり、その被害と運命も絶対的である以上、これらを比較することは無意味だと思います。一瞬はどの時間軸においても一瞬であり、この一瞬が永遠であることを想起すれば、何十年という時の経過について、何らかの感慨を生じることもあり得ないだろうと思います。

 私は臆病者ゆえに飛行機が苦手で、飛行機に搭乗して降りられなくなる瞬間を迎える度に、哲学的思考に襲われます。私は、自分の乗る飛行機は落ちないことにしていますが、このような心の持ちようは、全ての飛行機事故の乗客と同じです。寸分も違わないことが自分でわかっています。人間がすることに絶対はなく、安全神話は無意味であり、ひとたび乗ってしまったら終わりです。人間には未来のことはわからず、過去に戻ることもできません。瞬間が存在するだけです。

 私は確かに、自由意思によってその飛行機に乗りました。飛行機が苦手だという理由で出張を断るなど、この社会では通用しませんので、飛行機に乗ることを選んだ以上はある種の決断をしています。私は来週の今頃のことを考えながら、実は私には来週が存在しないかも知れないと気づいています。また、「この飛行機は落ちる気がする」と言って直前に搭乗をやめて実際に落ちなかったときの決まり悪さを恐れ、生命の重さという価値を確かに後回しにしています。

 私が乗った飛行機が落ちていないのは、単なる運です。この生身の生命が360度の空中の物体の中で浮いていること、その状況には絶対に抗えないこと、この物体に現に命を預けて命を握られていること、数時間前に戻れるなら何でもすること、助かるならば全財産を捨てても構わないこと、その唯一の願いが不可能であること、墜落直前の飛行機の中での人間の思考は、いかなる哲学者が研究室で考える論理よりも哲学的であると感じ、厳粛な気持ちになります。

「3・11」 その2

2014-03-13 00:04:17 | 時間・生死・人生

(その1からの続きです。)

 「3・11」を巡る主張の中で、私が特に違和感を有しているのが、「福島の子ども達を放射能から守れ」というフレーズです。福島を初めとして多くの子ども達の命が失われ、この日から時間が動かない現状を前に、自責の念、祈り、切なさといった繊細な部分が踏み潰されるような気がするからです。

 震災関連死は福島県が最も多く、避難指示区域の住民の関連死が県内の8割を超え、さらにその8割以上が70歳以上の高齢者です。帰還の見通しが立たない絶望感や、環境の変化による疲労感は、それまで積み上げてきた長い人生の軌跡を正面から否定し、人生の意義を奪うものと思います。

 ところが、「3・11」は人類史上最悪の放射能汚染の日であるという視点からは、「福島のお年寄り」は切り捨てられ、「福島の子ども」ばかりが叫ばれているというのが私の印象です。個人の心の奥底の悲しみや絶望などは、極めて内向的であり、政治的主張との相性が悪いことの表れだと思います。

 穿った見方をすれば、福島原発事故が地震と津波によらない単独事故であったならば、脱原発の世論の盛り上がりは比較にならなかったと思います。私は少なくとも、原発の議論の中身ではなく、論点自体の設定として、「3・11」を脱原発の政治的主張の日だとする思想は支持したくありません。

「3・11」 その1

2014-03-12 23:46:03 | 時間・生死・人生

3月11日 NEWSポストセブン
「ビートたけしが震災直後に語った『悲しみの本質と被害の重み』」より

 常々オイラは考えてるんだけど、こういう大変な時に一番大事なのは「想像力」じゃないかって思う。今回の震災の死者は1万人、もしかしたら2万人を超えてしまうかもしれない。テレビや新聞でも、見出しになるのは死者と行方不明者の数ばっかりだ。だけど、この震災を「2万人が死んだ一つの事件」と考えると、被害者のことをまったく理解できないんだよ。

 じゃあ、8万人以上が死んだ中国の四川大地震と比べたらマシだったのか、そんな風に数字でしか考えられなくなっちまう。それは死者への冒涜だよ。人の命は、2万分の1でも8万分の1でもない。そうじゃなくて、そこには「1人が死んだ事件が2万件あった」ってことなんだよ。

 本来「悲しみ」っていうのはすごく個人的なものだからね。被災地のインタビューを見たって、みんな最初に口をついて出てくるのは「妻が」「子供が」だろ。一個人にとっては、他人が何万人も死ぬことよりも、自分の子供や身内が一人死ぬことのほうがずっと辛いし、深い傷になる。残酷な言い方をすれば、自分の大事な人が生きていれば、10万人死んでも100万人死んでもいいと思ってしまうのが人間なんだよ。

 そう考えれば、震災被害の本当の「重み」がわかると思う。2万通りの死に、それぞれ身を引き裂かれる思いを感じている人たちがいて、その悲しみに今も耐えてるんだから。だから、日本中が重苦しい雰囲気になってしまうのも仕方がないよな。その地震の揺れの大きさと被害も相まって、日本の多くの人たちが現在進行形で身の危険を感じているわけでね。その悲しみと恐怖の「実感」が全国を覆っているんだからさ。


***************************************************

 「3・11」という象徴的な文字列には、2種類の意味が託されていると感じます。その1つは「悲しみと鎮魂、追悼の日」であり、もう1つは「歴史的事故の反省、脱原発活動の象徴の日」です。これらは本来、理屈として相反するものではなく、実際に両立して語られてきているとも思います。

 しかしながら、前者からは「がれきは思い出の詰まった被災財」であり、後者からは「がれきは放射能で汚染された忌むべきもの」であり、相互理解の不能が顕在化していることもまた事実だと思います。ここでは、同じ「3・11」という象徴の奪い合いが生じているとの印象を受けます。

 私は仕事上、「3・11」は原発ゼロを目指す日であり、再稼動反対アピールの日であるという環境の中におります。しかしながら、私は上記のビートたけしさんの意見、「1人が死んだ事件が2万件あった」という指摘が深く腑に落ちる者ですので、率直に言えば、この環境の居心地はあまり良くありません。

 脱原発活動の空気の中では、地震や津波そのものはあくまで天災にすぎず、人災である原発事故よりも一段低く置かれます。人間が危機感を持つべき最重要課題は、人類史上最悪の放射能汚染の話に決まっているではないかということです。天災ほうの話は、最後は諦めがつくはずだという結論です。

(続きます。)

大川小遺族が宮城県と石巻市を提訴

2014-03-10 23:05:21 | 時間・生死・人生

 3月10日、石巻市立大川小学校の児童の家族が仙台地方裁判所に提起せざるを得なかった裁判は、東日本大震災という出来事そのものだと思います。この誠実な論理こそが、あの日の大震災というものなのだと、改めて慄然とさせられます。この論点の中心を射抜く現実の直視に比すれば、「絆」「前進」「未来」「笑顔」などは明らかな論点ずらしであり、現実逃避の論理であると感じます。また、「復興」ですらも、震災そのものを正視する論理ではないと思います。

 周囲からどんなに「過去は変えられない」「未来は変えられる」と言われたところで、人の人生の形式というものは、「どうしてもこの問題に向き合って苦しまなければ人生が成立しない」という論理であらざるを得ないと思います。片が付かないかも知れないことを前提として、そのことに抗い続けなければ心の区切りをつけられるか否かすらもわからず、そのわからないことに集中しなければ前に進めるか進めないかもわからない、このような限界的な論理です。

 裁判を起こすより他に方法がなくなったという震災そのもの論点の前には、「未来」「前進」など生温い気休めですし、何をすっきり終わらせようと急かしているのか、論点ずらし以上のものではないと感じます。また、終わらせたいのではなく始まってしまった人生の形式にとっては、「復興が進む」「笑顔が戻る」という価値の押し付けは暴力的だと思います。誰に何を言われようが、他人ではなく自分の人生であり、世間的価値で誤魔化せる話ではないからです。

 このような訴訟に対しては、「不満の矛先をどこかにぶつけたいのはわかるが、学校を悪者にするのは筋違いである」との意見を多く耳にします。これは、当事者ではない人間の感想として自然でしょうし、私も心のどこかでそう思っています。この心情は、筋が通らない気持ち悪さから逃れたい無意識だと思いますが、なぜ天災によって人間同士が争うのか、それが紛れもない現実であり、この裁判こそが震災そのものであると、自戒を込めて確認したいと思います。

余命3ヶ月の連帯保証人の話 (27)

2014-02-26 23:58:42 | 時間・生死・人生

 私は、依頼人とその妻のことを弱者だとして同情し、心のどこかで見くびっていたのかも知れない。法律事務所という場所で、嘘を嘘で塗り固める理屈に囲まれてばかりいるうちに、人が運命を受け止めたときに生ずる洞察力への謙虚さを失っていたのだろうと思う。私は、依頼人の妻の声を耳にし、ふと我に返った。言葉は必ず人間に嘘をつかせるという意味を悟ることと、私が普段の仕事の中で切り回している嘘とは全く違う。

 この仕事のゴールは決まっている。すなわち依頼人の死である。また、依頼人が亡くなるまでの間、私は事故や事件で死なないことになっている。そして、依頼人があまり長く生きられると、業務が迅速に流れない。所定の作業が進捗しないことは、経済社会のルールからは最も非難に値することである。そして私は、事務所に債権回収会社からの催促の電話が続くことを嫌がっている。依頼人の妻には、この辺りは全てお見通しである。

 私は依頼人を前にして一緒に覚悟を決め、人が自らの人生を1分1秒生きることの意味に立ち戻り、この金銭的な些事の一切を私が引き受けると約束したはずであった。自分で責任を負っておいて、その責任を負うことが責任逃れであるとの理屈を用いることは、生死を考えずに生死を論じるという根本的な矛盾に対する妥協である。私は面倒な思考に頭がパンクしそうになっているが、その実体は案外単純なことなのだろうと思う。

 私は、法律家としての責任よりも、人間としての責任を負うことを瞬間的に選択した。私は電話口で、「奥様の体調がご心配だったので、はい、こちらは特に問題ありませんので、どうかご無理をなさらない下さい」などと語っていた。ひとたび世の中に出れば、個人の思想を肩書きに優先させることは許されない。しかし私は、この依頼人に親身になって仕事をしないことが、人間のなすべき仕事であるとはどうしても思えなかった。

(フィクションです。続きます。)

余命3ヶ月の連帯保証人の話 (26)

2014-02-26 22:43:01 | 時間・生死・人生

 最初の日から4ヶ月半が経過した。依頼人の妻からの連絡はない。所長が示す不快感はますます強くなり、私の焦燥感も、所長が有しているそれに引き付けられてきた。すなわち、「依頼者が1年も2年も生きてしまうことのリスク」である。社会人である以上、自分の意見のみを押し進め、リスク回避を考えず、対案や次善の策を提示しないというのでは、そのことに対する責任を負わされる。善意が空手形を切る不祥事となって苦しむのは自分だ。

 私が進めている仕事は、哲学的な探究ではなく、「債権管理回収業に関する特別措置法」第18号8項に基づく法的事務である。ここでは、あくまで「債務整理をしようと思っていたら途中で死んでしまった」という話でなければならない。所長は、当初より、引き延ばし工作が長くなることの法曹倫理上の問題を懸念していた。私は、俗世間の交通整理に「倫理」の語が用いられることを憂えていたが、向こうから襲い掛かってくるものは拒めない。

 所長からの圧力に耐えられず、私は初めて自分から依頼人の妻に電話をすることになった。形の上だけでも自己破産の申立てをするのが本筋であること、「人生の最後が破産者で終わる」などと堅苦しく考える必要はないこと、医師の診断書があれば依頼人が裁判所に呼ばれる可能性はないこと、何もしないままでは依頼人の自宅に債権回収会社からの訴状が送りつけられる可能性があることなどについて、私は不本意ながら事前に伝達事項を確認する。

 私の予想では、依頼人の妻は疲れ果てているか、溜まっているものを吐き出して来るかであり、私は本題を切り出すタイミングに苦慮するはずであった。しかし、電話口で長い沈黙を保つ依頼人の妻は、全く別の世界にいた。それは、私の限られた語彙では、神々しさや気高さとしか表現しようがない。私は、自分が語り始める前から、本題を察知されていることを直観した。こちらから電話をしたということは、現状報告を求める催促に決まっている。

(フィクションです。続きます。)

余命3ヶ月の連帯保証人の話 (25)

2014-02-25 22:40:17 | 時間・生死・人生

 人がこの世に生まれてくるということは、余命が長くても80年か100年だと宣告されることである。この依頼人の連帯保証債務の問題においても、余命が3ヶ月か半年か1年かということは、現に大きな違いをもたらしているわけではない。最大の違いは、ある人が余命という概念そのものに捕らえられているか否かである。ここでの問題は、医学的な余命の判断の正当性ではなく、ましてや余命を宣告することができる医師の権威でもない。

 私は確かに、「依頼人には債務の心配など忘れてもらって、どうか心穏やかに生きてほしい」と考えている。しかし、このような同情の視線は、自分を自分であると信じ、生死の外側から他人事の死を眺めているにすぎない。私も所長も、債権回収会社の担当者も、自分が死ぬべき存在であることを忘れたいがため、日々の忙しさにかまけている点は共通である。人生の形式を内容とすり替え、どうせ死ぬなら人生は楽しんだほうが得だと考えている。

 依頼人が見ている世界と、私が見ている世界は違う。依頼人に対しては真実の言葉しか通用せず、価値のないものは見抜かれる。日常生活の中で最重要だと思われている事柄、例えばビジネスマナー、5年後の自分のためのスキルアップ、長いものに巻かれる処世術などは、真実の言葉のみを洞察する者からは全て切り捨てられる。私が生きている緩い世界は、依頼人が生きている厳しい世界に対して、論理的に上位に立つことは絶対にできない。

 私がこの依頼人のために誠実に仕事をしなければならないのは、このような畏怖と敬意によるものである。しかし、債権回収会社との電話で安っぽい理屈を連発した後は、現に自分が行っている事実がひたすら惨めで情けない。正義の戦いのために熱くなる心情とは程遠く、かといって哲学を形而下に持ち込んで理解されない苛立たしさとも異なる。単に、勝手に思い込み、勝手に苦労して悩んでいるだけであり、傍迷惑となることを恐れるばかりである。

(フィクションです。続きます。)

余命3ヶ月の連帯保証人の話 (24)

2014-02-24 23:15:11 | 時間・生死・人生

 仮に債権回収会社が訴訟を起こしてきたとしても、依頼人には差し押さえられる給与がない。預金口座も空っぽである。ゆえに、私が電話で愚にもつかない言い争いをして恨みを買ったところで、実害が生じることはない。法律家は、「プロの法律家として恥ずかしい屁理屈」と、そうでない屁理屈との差異に敏感であり、正義を暴走させているときほど予防線を張っているものである。これは、私も環境の中で自然と身につけてしまったものだ。

 回収会社の担当者は、「うちが銀行でないからバカにしてるんでしょう? あなたも銀行さんには態度を変えるんでしょう?」と怒りを見せる。これには虚を突かれた。私にその発想はなかった。法律家であれば、普通はこの辺りの複雑な事情に思い至るのが当然のはずであり、私はやはり未熟で純粋な人間である。自分では1円もお金を借りていない保証人が、署名と押印をしただけで人生の全てが狂ってしまうという事実に心を痛めているだけだ。

 依頼人は、愚直で平凡なサラリーマンであった。そして、肉親の会社の危機に直面し、人助けであると思い、連帯保証人を引き受けたのであった。「真面目に働いていればいつか必ずいいことがある」という道理は、世知辛い社会におけるせめてもの希望である。逆に、「他人の借金まで払っても少しもいいことがない」という道理なのであれば、人は「そのような世の中には生きていたくない」と思う。この絶望は非常に深く、誤魔化しがきかない。

 私の目の前にある現実は、さらにここから一回転している。依頼人は、脳内の思考による「死にたい」という抽象的な死ではなく、脳内の腫瘍による「死にたくない」という具体的な死を前にして生きている。法律論はここでも、「契約が守られなければ社会は滅茶苦茶になる」という原則論から離れることができない。しかし、これだけで済ませられるのは、世間を知り過ぎた守銭奴か、逆にお金の苦労をしたことがない恵まれた者だけだと思う。

(フィクションです。続きます。)

余命3ヶ月の連帯保証人の話 (23)

2014-02-24 21:34:20 | 時間・生死・人生

 私が調子に乗って屁理屈の演説をしているとき、依頼人の存在はどこかに飛んでいる。正確に言えば、依頼人の存在を利用し、代理人という肩書きを最大限に使いながら、献身的な姿勢をほのめかしているということである。「正義」という観念は、改めて怖いものだと思う。正義が正義として主張されるのであれば、それは無条件に絶対的正義であり、その内容については既に主張が終わってしまっている。内省の契機を経ることがない。

 「3ヶ月前には3ヶ月後のことはわかりませんから、3ヶ月で結論が出るか出ないかという結論がわかっていたら話が変ですから、お宅の質問にどう答えたら納得して頂けるのか、こちらのほうが教えてほしいんですが」と、私は溜め息を交えた声を出す。担当者の非常識ぶりにうんざりしている自分を装っているうちに、本当に担当者の非常識ぶりにうんざりしてくるのが不思議である。言葉は世界を作り、存在しないものを存在させる。

 ベラベラと屁理屈を述べて相手を困らせ、疲れさせるのはいい気分である。葛藤を経ていない安い言葉である分、論理は明快であり、迷いがない。ここで自分の言葉に責任を持つということは、自分が責任を問われないように注意することであり、相手に責任を負わせることである。相手から言葉尻を捉えられたり、揚げ足を取られることは、言葉を大事にしていないことの証拠だとして非難される。この思考停止から抜け出すことは難しい。

 私は、「債務者の味方」といった正義を標榜し、悪と闘い、暴走する罠には落ちたくない。ある正義は、逆から見れば不正義であり、相互に正義が暴走しているだけである。債権回収会社の担当者も、忠実に社会人の義務を果たしているに過ぎない。ここの表向きの論理によって見えなくなる部分、すなわち社会の裏側や汚い部分を知らないまま、世間知らずの学生の延長で「社会を変えたい」と熱くならないよう戒めるのみである。

(フィクションです。続きます。)

余命3ヶ月の連帯保証人の話 (22)

2014-02-22 23:27:35 | 時間・生死・人生

 「何で3ヶ月でないのに3ヶ月だと言われたんですか」と、債権回収会社の担当者が電話口で食い下がる。私は、「失礼ですが、お宅の事情だけで話が進むわけではないですから、そう言われても困るんですが」と呆れてみせる。担当者は私の言葉を聞かずに、「あなたのせいで事務が進捗せず支障を来たしてるんですよ」と怒る。私は担当者の言葉を受けて、「進捗はお宅の内部の話ですから、こちらには何かを言う権利がないんですが」と呆れる。

 担当者の言葉が途切れたところに付け込んで、私は屁理屈を続ける。「結局、お宅は思い通りにならないから、何で思い通りにならないのかと言っているようにしか聞こえないんですが、それはそういうものだとしか言えないですよね」。「お宅がそのような言い方をされるなら、こちらはもう返事のしようがないですし、この辺は当然わかって頂けないと困ることですし、そんなこともわからないのでは話を続けても意味がないでしょう」と、大袈裟に憤慨する。

 回収会社の担当者は、「3ヶ月とにかく待ってくれと、理由は後でわかるからと、そうあなたに言われたから、今電話で聞いてるんですよ。おかしいですか」。「私も答えを聞かないと上席に報告できませんから」と粘る。「上席に報告」という部分に力が入っている。この担当者が、今回の粗相を上席から怒鳴りつけられ、人格否定のパワハラまで受けたとすれば、その原因を作ったのは間違いなく私である。しかし、ここを掘り下げると私の精神が潰れる。

 担当者の言い分は、社会人として尤もである。ゆえに、担当者の口調が敵対的である点の不快感に、私の世界の中心は移動する。正義と悪の二元論である。「結局は、お宅の危機管理が甘いとか、そういう問題ですよね」。「なぜ3ヶ月かという質問に答えること自体が、こちらの依頼人に対する守秘義務違反になることを理解しておられますか。質問自体がおかしい質問には答えようがないんですが」。議論のための議論にはまると抜け出せない。

(フィクションです。続きます。)