犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

東京都議会のセクハラやじ問題

2014-07-01 23:36:17 | 言語・論理・構造

平成26年6月25日 MSN産経ニュースより

 東京都議会のセクハラやじ問題で、塩村文夏都議(35)が6月24日、東京・有楽町の日本外国特派員協会で会見した。23日に鈴木章浩都議(51)=都議会自民党会派を離脱=が一部のやじを認めたものの、別のやじ発言者は不明のままで、このまま名乗り出ない場合、名誉毀損罪などで告訴する考えを示した。

 108人の外国メディアが出席した会見。その中で、男性ジャーナリストから名誉毀損罪や侮辱罪での告訴を考えているか問われ、塩村氏は「(発言者は)1人ではなかったので、名乗り出てきてほしい」とした上で「(法的対応を)排除はしない。最終手段と思っている」とし、名乗り出てこない場合には告訴も辞さない考えを示した。やじについては「早く結婚しろ」と発言した鈴木氏のほか、「子供を産めないのか」などがあったと指摘されている。


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 人が男女差別に敏感であるという場合、その敏感さには大きく分けて2種類のものがあると思います。その1つは、「人間は自分が生まれて来るときに人種も性別も選べない」という諦念から発するものであり、存在の謎の前には謙虚であらざるを得ないという確信から生じるものです。私自身は哲学的な思考の癖を持っていることもあり、この意味の差別については非常に敏感です。あらゆる差別は不条理であり、あってはならないと思っています。

 男女差別への敏感さのもう1つは、差別発言への敏感さです。この文脈では、「現代社会は女性の権利が侵害され続けており、男性全体の意識改革を要する」という主張をよく耳にします。私自身は男性ですので、このように言われると正直非常に苦しいです。男性に生まれてしまった者は、好むと好まざると女性を差別する地位に置かれており、ただ生きているだけで罪を犯しているという苦しさです。これは、単純な自責の念には収まりません。

 私はこれまでの就学先や職業柄、周囲には「女性の権利の尊重を標榜する男性」が数多くいました。私はその方々から「あなたは女性に対する人権感覚が鈍すぎる」「同じ男性として恥ずかしい」等との叱責を受けて、釈然としなかったことを覚えています。その先輩の論理が、あまりに「男性である自分を責める自虐の恍惚感」に満ちており、それが他の男性を責める正義感に転化していることに対し、宗教的な原罪の欺瞞性を感じたからでした。

 私は、第1の意味の差別に敏感ですので、「子供を作る・作らない」という議論自体にも違和感を覚えています。このような視点は親の側の一方的な論理であり、生まれてくる子供の側の論理をここまで無視できるのかと驚く気持ちが大きいからです。結局、差別や平等という概念を論じる時には、「人間は自分が生まれる時には何も選べない」という単純な真実から離れてしまえば、話は例によって政治的な主義主張で終わるのみだと思います。

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