犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

法とは言葉そのものである

2007-04-30 19:37:49 | 言語・論理・構造
「法」とは何か。辞書の定義によれば、「社会秩序を維持するために、その社会の構成員の行為の基準として存立している規範の体系であり、裁判において適用され、国家の強制力を伴うもの」である。そこで終わらせてしまえば話は簡単である。しかし、問題はその後である。その定義に出てくるそれぞれの単語も、辞書の中においてはまた定義がなされている。すなわち「社会」「秩序」「行為」「体系」といった語の意味は、辞書の中において、またそれぞれに定義がなされる。

このような単語の定義は無限に広がり、相互に依存して循環する。例えば、「社会」とは、「人間の共同生活の総称。また、広く人間の集団としての営みや組織的な営み。人々が生活している現実の世の中。世間。ある共通項によってくくられ、他から区別される人々の集まり。仲間意識をもって、自らを他と区別する人々の集まり」と定義される。こうなってくると、「法」とは何かを厳密に定義するためには、「人間」「共同」「生活」「集団」「営み」「組織」「現実」「世の中」「世間」「区別」「意識」といった単語すべての定義が必要になり、際限なく広がってゆく。これは気が遠くなる話である。

このように、言葉の定義は辞書の中において永遠に循環する。しかし、学問を構築するには、取りあえず証明する必要のない明らかに自明な法則、すなわち公理を前提としなければ始まらない。これは、自然科学ですら用いられている方法である。それでは、法律学における公理とは何か。このように考えてみると、人間が絶対に逃れることができない公理に気がつく。それが、「言葉」である。すなわち、「言葉」という言葉である。「法」も「社会」も「秩序」も「行為」も「体系」も、すべては言葉である。言葉とは、「社会」「秩序」「行為」「体系」といったすべてのものを包摂する上位概念である。言葉という言葉を定義するためにも、やはり言葉が必要である。

法律学とは、条文の意味を解釈する学問である。そして、条文とは「法律などにおける箇条書きの文章」と定義される。さらに、文章とは「書いた言葉」と定義される。このように、法律学も言葉がなければ成立しえない。いかなる法律学上の優れた理論も、日本語や英語といった言語がなければ、発表のみならず研究そのものが不可能である。すべての法律学の記述には、言語を要する。この意味で、法律学における公理は言葉である。すなわち、「法」とは言語による構成物である。「法」とは、そのものが言語であり、言葉そのものである。言葉が法律を作っている。これは分析哲学からは常識であるが、多くの法律学者が見落としている事実である。

山文彦編著 『少年犯罪実名報道』

2007-04-30 19:34:12 | 読書感想文
山氏は、なぜ少年の実名を報道しなければならないと思ったのか。匿名では意味がなく、実名でなければならないと思ったのか。それは、殺された被害者の生命の重さが命ずるところでしかあり得ない。山氏による覚悟の実名報道は、殺された人間の生命権を含んだものであった。

多くの国民は、少年側による山氏に対する損害賠償請求訴訟に違和感を持った。それは、殺された被害者の生命の重さと、自らのプライバシーの重さとを天秤に乗せた少年の鈍感な態度に対してである。さらには、その天秤において、被害者の生命よりも少年のプライバシーのほうが重いと判断した弁護団の人権感覚に対してである。このような違和感はごく正常である。地球よりも重い人の命の前には、プライバシーの主張など寝言に等しいはずだからである。

しかしながら、実際の話はもっと不条理であった。被害者の生命の重さは、そもそも天秤に乗らない。これは、人権というカテゴリーの必然的な限界である。死者に人権はない。法律的な人権論においては、人間の生死という哲学的な問題を扱うことができない。そこで、山氏が法律的正義を超えて哲学的正義を追求しようとするならば、残された道は1つしかない。それは、死者の人権の代わりとして、生きている人間の人権のカテゴリーを使うことである。かくして山氏は、表現の自由や知る権利の主張の中において、殺された被害者の生命権を主張するしかなかった。

人権のうちで最も重いものが生命権であることには疑いがない。憲法13条は、アメリカ独立宣言を受けて「生命、自由、幸福追求」という順番で書かれている。プライバシー権が3番目の「幸福追求」であれば、1番目の「生命」には劣後するはずである。しかしながら、この「生命」も、天賦人権論という変形ニヒリズムにすぎなかった。天与の権利は神の代替物であり、人間の生死に関する哲学的な難問を扱う力はない。人権論からは、どう頑張っても死者に人権はない。そこで、法律的には正当である理屈が、哲学的にみれば全く筋が通らないといった現象が多発することになる。

山氏が行った方法は、人権論を哲学的に救済するという意味を持っていた。国民の間に人権感覚が定着するには、やはり「人権のうちで最も重いのは生命権である」という原則が示されることが必要であり、これは哲学的にも受け入れられる。これに対して、人権派によって「死者に人権はない」という理屈が大声で喧伝されるならば、国民の間に人権概念に対するマイナスイメージが生じてしまう。表現の自由の主張をもって被害者の生命権を主張する方法は、法律論では語りきれない哲学的な内容を持っていた。

これに対して、山氏を批判する立場は、表現の自由の主張の裏にある被害者の生命権を見ようとはしなかった。単純に表現の自由・知る権利とプライバシー権・少年法の理念とを比較して、雑誌が売れればいいのか、営利主義のセンセーショナリズムだと批判することになる。この反応も当然といえば当然である。法律論のカテゴリーでは、そもそも哲学的な問題を扱うことができない。金儲けのための報道だと思えば、物事はそのように見えてくる。物事は、その人の見たいようにしか見えないからである。

小沢牧子著 『心の専門家はいらない』

2007-04-29 17:40:39 | 読書感想文
心理学によるカウンセリングの目的は、専門的な手続きに基づく相談によって、悩みや不安などの心理的問題を解決することである。そこでは、必然的に「犯罪からの立ち直り」というゴールが設定されることになる。解決とは被害者の立ち直りのことであり、それが究極的なゴールである。加害者を一生かけて恨み続けることを目的とするのであれば、わざわざカウンセリングを受ける必要はない。そのようなことを目的とするカウンセラーもいないだろう。カウンセリングにおいては、不可避的に「赦す被害者」が積極的に評価され、「恨み続ける被害者」は消極的に評価される。これは倫理的な上下ではない。未来志向や生産性、目的論的なパラダイムに合致するか否かの違いである。

被害者に対するカウンセリングの充実を求める意見は、加害者への厳罰化を阻止すべきとする立場や、死刑廃止論の中からも積極的に起きている。これも不純さを感じさせる原因である。このような立場は、被害者は心のケアを受けられない反動として加害者への厳罰を求めているのだと考えている。これも、犯罪被害者の多くが直感的に気付いているとおり、問題点が本筋からずらされている。すべての原因である加害者からスポットを外し、苦しんでいる被害者という存在のみにスポットが当てられることになるからである。そもそも加害者が罪を犯さなければ、すべては始まらなかった。この単純なことを見落とす理論は、どこかに不自然なものを隠蔽することになる。

カウンセリングという体系にとって、犯罪被害はそのうちの1つにすぎない。トラウマやPTSDの原因としては、災害、病気、離婚、子育て、近親者の自殺、就職、転職、進学、別離など様々なものがある。その中の犯罪被害も、事故、DV、虐待、ストーカー被害など多岐にわたっている。このような状況の中で、法律学が「心のケア」だけを心理学に押し付けることは、犯罪被害という特殊な経験を正面から捉えようとしていない。犯罪行為という切り離せない加害者の行為の一部を切り離して、被害者の心の傷をケアするという発想に収まるならば、法律学は再び被害者の存在を忘れることになる。

「犯罪からの立ち直り」というゴールを設定するならば、被害者は事件のことを忘れることが求められてくる。現に、被害者が事件のことを思い出したくないと考えることは当然である。しかしその反面、被害者はとにかく犯罪の真実を詳しく知りたいと思う。裁判を傍聴し、裁判所に対して情報公開を求める。そして、裁判が終わっても、事件の風化を防ぐために語り継ぐ。これは実存の必然である。事件の残酷さを思い出したくないということと、事件そのものを忘れたくないということとは、相反するようで全く別問題である。安易な「犯罪からの立ち直り」というゴールの設定は、事件そのものを忘れたくないという被害者の心情を逆撫でし、事件の風化を促進させる危険性も有している。

池田晶子著 『人間自身 考えることに終わりなく』 第Ⅲ章「学者の魂」より

2007-04-28 18:59:29 | 読書感想文
アカデミズムを批判し、在野の文筆家で通した池田氏は、学問と学者について次のように述べている。「アカデミズムには、あまたの学者と呼ばれる人々が生息しているが、狂気を知る人、すなわち本物の学者など、おそらく指折り数えられるほどしかいない。学問すなわち知ることに命を賭けようとする精神のありよう、すなわち狂気は、生活至上の大衆化の時代において、忘れ去られてしまったのだ。」

法律学はもともと、生活至上の学問である。すなわち、形而下のトラブルを社会的なルールで丸く収めるためのものである。法律学は、どこまでも日常に密着していなければならず、正気でなければならない。狂気では社会のルールにならず、法律にならないからである。アカデミズムの法学者ですらこのような性質から逃れられないとすれば、実務家の法曹はそれにもまして正気でなければならない。これが生活至上の大衆化の時代における実学であり、日常に密着した法律学の性質である。

これに対して、犯罪被害とは、非日常の最たるものである。それは、被害者に狂気をもたらす。これは、凶悪犯罪が起きるたびに、被害者やその遺族のコメントによって如実に示される。そして、どこまでも正気でなければならない法律学は、被害者の狂気を問答無用で押さえつける。これが被害者にとっては「法律の壁」として感じられる。正気はどこまでも正気であって、狂気の経験に直面した人間の心情を理解することができないからである。

池田氏が述べているのは、狂気に留まれということではない。人間は狂気を知ることによって、初めて正気を知り得るということである。これが中庸と凡庸の差である。両極端を知ることによって、初めて真ん中の位置がわかる。初めから真ん中を知り得るわけがない。狂気を知るほど、正気に戻るという逆説である。そうであるならば、非日常の最たるものである犯罪被害の救済を学問的に確立しようとするならば、それは形而下学である法律学の枠を超えなければならないはずである。もはや実定法学と法哲学は分離してしまったが、被害者学を法律学から法哲学に移すことならば可能である。

被害者の狂気を問答無用で押さえつける法律学は、被害者を強制的に正気の文脈に取り込む。こうなると被害者遺族は、被害者の死に何らかの形而下的な意味を見出す方向に頼るしかなくなる。それは必然的に政治的な問題となる。しかしながら、それは政治的であるというそのことによって党派的になり、思うように行かなくなる。その先に解決があると思ってしまうと、政治的な意見は平行線となり、逆に解決は遠のいてしまう。

数学に近くなった刑法学

2007-04-28 18:55:07 | 言語・論理・構造
刑法とは、一般に人間臭いものだと思われている。このイメージは正しい。犯罪や刑罰というものは、極めて人間的なものである。しかしながら、刑法学の理論は、まったく人間臭くない。「犯罪とは悪いことである」という臭いがまったくしない。刑法学によれば、犯罪とは「構成要件に該当する違法・有責な行為である」と定義されて終わりである。これが功利主義のフォイエルバッハが確立した近代刑法のパラダイムであり、刑法から人間臭さを消した最初である。それは、被害者を見落とす最初の契機でもあった。

法律を理解するのは、数学の法則を理解するのと似た作業であると言われる。法律家の中には、数学や形式論理学が得意な人が多い。高度に技術化して細分化した法律の言語は、非常に数学の数式に近い。総論と各論という体系、準用や類推などの条文操作、「又は」「若しくは」「及び」「並びに」といった語の厳密な区別など、日常用語とはかなり異なっている。現代では、このような体系に美しさを感じて、細かい作業を面白い感じる人が、法律学には向いていると言われる。抽象的な人間臭い善悪の議論が好きな人は、現代ではあまり法律家に向いていないようである。

法律が数学に近いことは、条文や判決文を見ればすぐにわかる。「又は」「若しくは」「及び」「並びに」といった語で厳密につなげられた文は非常に読みにくく、悪文の典型であると言われるが、論理的には完璧である。括弧が何重にも積み重なる様子は、数学の展開や因数分解に似ている。裁判官は、このような厳密な論理式の一言一句に神経を使う。「又は」と「若しくは」の位置を1ヶ所でも間違えたら、全体の意味が変わってしまうからである。裁判官が何よりも恐れるのは、職務上の過誤である。被害者の悲しみといった人間臭い部分に付き合っている暇はない。

実証性、科学性を追い求めた近代刑法は、人工的な文字記号の確立による法的安定性を絶対視するあまり、刑法が本来持っているべき人間臭さを消してしまった。犯罪被害者の見落としの端緒は、この近代刑法のパラダイムに必然的に含まれていた。犯罪とは、あくまで「構成要件に該当する違法・有責な行為」であって、それが悪いことかどうかは考えようとしない。善悪は数字で表せるものではなく、実証性がないからである。

ウィトゲンシュタインが語り得ず沈黙すべきものとして挙げたのが、世界を超越し、世界の外にあるものとしての倫理であった。法実証主義による法万能論からすれば、抽象的な人間臭い善悪の議論などは、沈黙した上で捨てられてしまうであろう。しかしながら、ウィトゲンシュタインが述べていたのは、沈黙していることそれ自体を忘れてはならないということである。数学に近くなった刑法学が、被害者を見落としたのも当然である。

部分的言語ゲームとしての裁判ゲーム

2007-04-27 19:26:07 | 言語・論理・構造
自白法則、違法収集証拠排除法則というルールがある(憲法38条2項、刑事訴訟法319条1項)。被告人の自由意思に反して自白を強制し、その他不当な方法で集められた供述や証拠物は、有罪の認定に使ってはならないというルールである。問題は、このルールの存在そのものではない。覚せい剤取締法違反・大麻取締法違反から強盗殺人罪・危険運転致死罪まで、全く同じようにこのルールを用いていることによって生じる被害者の違和感である。

法律家は、法律用語を駆使するプロである。そこでは、一般的な言語ゲームとは異なった部分的・2次的な言語ゲームが展開される。部分的言語ゲームの網の目に入ってしまえば、そのゲームの適切な遂行が、思考パターンの固定ということになる。そこでは、大麻取締法違反も危険運転致死罪も、同じ構成要件という枠で一括される。法律家は、これ以外の思考方法によっては、もはや裁判を遂行することができない。

部分的言語ゲームは、まさに人工的なゲームである。裁判とは、有罪・無罪を争う裁判ゲームであり、当事者が専門用語を駆使して争う法廷ゲームである。そのゲームのルールが自白法則や違法収集証拠排除法則であり、これは罪の重さによって変えられていない。憲法38条2項がそのことを表している。被告人の防御権という視点においては、大麻取締法違反も危険運転致死罪も全く同じである。弁護士は、被告人の無罪や軽い刑を求めて争い、検察官や裁判官もこれに応じる。自白の強要や不正な捜査が疑われたならば、どんな事件であろうとそれを問題にして争う。これが人工的なゲームのルールだからである。

犯罪被害者遺族が耐え難いのは、まさにこの点である。自白法則や違法収集証拠排除法則というルールは、人間の生死という存在形式とは何の関係もない。弁護士が被告人の無罪や軽い刑を求めて争うことは、無銭飲食や痴漢、大麻取締法違反から危険運転致死罪まで全く同様であって、人間の生死とは何の関係もない。専門用語を駆使して争う法廷ゲームは、単に罪を裁くだけのゲームであり、最愛の人の命を奪った人間の罪を裁くことは、その中の1つの表れにすぎないということである。弁護士は、大麻取締法違反も危険運転致死罪も同じように、当然のように自白の強要や不正な捜査を槍玉に上げて戦いを挑む。

条文の中における「人を殺した」という言語は、単に構成要件に該当する被告人の行為である。従って、その言語レベルは、「100円のボールペンを万引きした」「大麻を吸った」と同等である。裁判ゲームは、これ以外の思考方法によっては遂行することができない。この部分的言語ゲームを的確に遂行するということは、そのルールを会得することであり、それはそのような思考パターンに慣れるということである。すなわち、人間の生命と100円のボールペンを同等に並べても、法律家は違和感を持ってはならないということである。

高橋シズヱ・河原理子編 『<犯罪被害者>が報道を変える』

2007-04-27 19:21:43 | 読書感想文
犯罪被害者に対する取材や報道が、単なる興味本位やスクープ、視聴率獲得のためになされることは論外である。問題なのは、社会正義のための取材や報道が、結果的に報道被害をもたらしてしまう場合である。すなわち、事件や事故の悲惨さを伝え、二度と同じことが起こらないように警鐘を鳴らし、命の尊さを訴えるための取材や報道が、被害者にとっては報道被害と感じられてしまう場合である。正義感があふれる故の報道被害である。

これは、国民の側の知る権利も同様である。興味本位や覗き趣味は論外である。しかし、事件や事故から教訓を得て、被害者と怒りを共有し、悲しみを分かち合い、社会全体で考えて行こうという正義感ですら、犯罪被害者に対しては逆に作用してしまうことがある。そのような国民のニーズに応えようとすれば、マスコミの正義感が煽られ、よりインパクトのある取材や報道によって世の中に強く訴えたいと思ってしまうからである。そこでは、マスコミによる勝手なストーリーが作られることが多い。

ここで、マスコミの権利と犯罪被害者の権利について法律論で調整しようとするならば、問題の核心を取り逃がすだろう。確かに、マスコミの権利は取材の自由・報道の自由・国民の知る権利への奉仕(憲法21条)などであり、犯罪被害者の権利は人格権・肖像権・名誉権・プライバシー権(憲法13条)などであり、両者の対立構図を描くことができる。しかし、両者は抽象度が違いすぎる。マスコミが命の尊さを訴え、事件や事故から教訓を引き出そうとし、社会全体に貢献しようとすることは、非常に抽象度が高い。これに対して、被害者が無神経にマイクを向けられたり、いきなり写真を撮られたり、報道陣に囲まれて自宅に入ることができなかったりすることは、極めて個別具体的な生活利益の問題である。

マスコミによる犯罪被害者の取材と報道は、それが正義感によってなされる限り、権利であると同時に義務となる。取材と報道は、使命感と義務感によってなされるものとなる。そこでは、国民に対して二度と同じことが起こらないように警鐘を鳴らさなければならず、それを実現することが絶対的な正義となる。これは必然的に報道被害を引き起こす。マスコミにおける抽象的な正義と、被害者における個別具体的な利益とは、全く矛盾するものではなく、完全に両立する。そうであるが故に、それ自体では絶対的な正義である取材と報道が、同時に被害者にとっては報道被害となる。

マスコミの正義感あふれる取材と報道は、それが社会正義の実現をもたらし、被害者救済にもつながることを信じてなされるものである。単なる興味本位や覗き趣味でなければ、それ以外ではあり得ない。内容は形式に規定される。しかしながら、それが実際に社会正義の実現をもたらし、被害者救済にもつながるか否かは別の話である。社会正義が実現すると思っているのは、あくまでもマスコミの側だからである。自己を正義の側に置き、それが被害者の救済につながると思っているならば、その欺瞞は被害者に見抜かれるであろう。それは正義の押し付けだからである。正義であるならば、それは単に正義であるというそれだけのことであり、押し付ける必要もなければ、あえて実現する必要もないはずである。

「覚える」という単語を覚えるということ

2007-04-26 19:21:46 | 言語・論理・構造
言葉が脳内現象である以上、自己の意識と他者の意識は本来的に断絶している。法解釈も事実認定も、すべては断絶の世界である。他人の心の中を覗き込むことはできない。世界全体を見渡す「神の視点」はない。これに気づいたとき、人間は言語ゲームを「していざるを得ない」ことに気付く。

他者の脳の中には神経細胞があり、そこに他者の心と言葉があるはずである。しかし、すべては自分の心と言葉から類推するしかない。それ以上進めないからである。人間はそうであるにもかかわらず、辛うじて他者とコミュニケーションすることができる。ここで、言葉はコミュニケーションの手段だと言っている限りは、この驚くべき言語ゲームの構造に気付くことはできない。驚くべきこととは、単語の1つ1つを取り上げてみて、自分がその言葉をいつどこで覚えたのか、思い出すことができないということである。これが、人間は言語ゲームを「していざるを得ない」ということである。

そもそも、自分は「覚える」という単語をどうやって覚えたのか。これはパラドックスである。今こうして生きている人間は、誰しも「覚える」という単語を最初に覚えた瞬間があったはずである。3歳から5歳の間のどこかで、それを学んだ瞬間が必ずあったはずである。しかし、それをいつどこで覚えたのか、それを覚えている人は絶対にいない。なぜなら、「覚える」という単語を覚えたことを覚えているためには、それ以前に「覚える」という単語を覚えていなければならないからである。これは無限後退に陥る。記憶力の問題ではなく、論理の問題である。これに気付いてしまうと、人間は言語ゲームの網の目の中に投げ込まれ、絶対に逃げられないことが実感できる。そして、言葉をコミュニケーションの手段として使いこなすという態度の甘さが見えてくる。

人間は、一度も自分の意識の中での言葉の意味の理解が、他人の意識の中での言葉の意味の理解と同じであるとはっきりと確認したことはない。にもかかわらず、それを前提に言葉を話しているならば、それは言語ゲームのルールを守っていることである。人間は否応なしに言語ゲームの網の目の中に投げ込まれている。日本人は日本語で文章を書いているが、その文字はその人間が発明したものではない。生まれたときには、すでに前の時代の日本人の誰かが作った言語ゲームに参加してしまっているしかない。

この恐るべき事実は、日常会話にもあてはまるし、言葉を厳密に定義する専門用語にもあてはまる。そもそも、専門用語を定義するには日常会話の単語と文法に頼らざるを得ない以上、法定立や法解釈なども、2次的言語ゲームの遂行という形にならざるを得ない。故意・過失の認定も同様である。こうしてみると、人間が法律を使いこなすという態度は、いかにも恐れ多いことがわかる。法律家は一言一句に心血を注いでいると自負することがあるが、これも恐れ多い態度である。

池田晶子著 『人間自身 考えることに終わりなく』 第Ⅱ章「麻原彰晃の死刑確定について思うこと」より

2007-04-26 19:18:03 | 読書感想文
犯罪者が裁判において否認し、黙秘し、弁解をするのはなぜか。法律学からは、例によってこのような解答が返ってくるだろう。どんな凶悪犯人にも人権があり、国家権力による刑罰権に対しては防御権が認められなければならない。これは全くその通りである。それでは、そのような理論を主張したくなる根底の動機は何か。これを遡って行くと、やはり実存的不安の状況が見えてくる。それが死の恐怖である。

死刑判決を受ける可能性のある犯罪者にとっては、この実存的不安は決定的である。しかしながら、いかなる犯罪者にとっても、この不安は確実に存在する。それは、人間は生きている以上、1秒1秒死に近づいているという事実によってもたらされる。拘置所で未決勾留されている間にも、一度しかない自分の人生の残り時間は、1秒1秒確実に減っている。刑務所で懲役3年とも5年ともなれば、その残り時間は一気に奪われる。人間が少しでも軽い刑を求めて戦い、執行猶予を求めて戦うことは、人間が死の恐怖から逃れられない以上は必然的である。

犯罪被害者のことを考えれば、自分の人生の残り時間を差し出しても、これを償わなければならない。これは論理的に正しい。しかし、そうは言っても、やはり自分の人生は自分の人生であり、自分の生死は自分の生死である。1秒1秒死に近づいているのは、他でもないこの自分である。これも絶対に逃れられない人間の存在の形式である。一度しかない自分の人生であるから、拘置所や刑務所などに入っている場合ではない。人間の存在形式がこのようなものである以上、犯罪者が自分の罪を棚に上げて否認し、黙秘し、弁解をすることは必然的となる。

刑罰は国家権力による人権侵害である。これは全くその通りであり、法律学的には正しい。しかし、それは刑罰の1つの側面しか見ていない。刑罰とは、人間の人生の残り時間を強制的に減らすものであり、それによって実存的不安と死の恐怖をもたらすものである。弁護士が長々と主張する法律の理屈は、それはそれで正しい。しかし、犯罪者がそれを援用したくなる動機を掘り下げてみれば、そこには必ず哲学的な問題がある。

近代刑法の理論によって、刑罰は国家権力による人権侵害であるという側面のみが絶対化されることによって、被害者の見落としは必然的となる。犯罪者の側の実存的不安の動機は、刑法の人権論の主張につながる。これに対して、被害者の側の実存的不安の動機は、刑法の人権論の主張につながらない。犯罪者は、その実存的不安と死の恐怖によって、裁判では否認や黙秘や弁解をする。しかも、そのような犯罪者の行動は、国家刑罰権に対する正当な防御権として認められることになる。

裁判の法廷とは、犯罪者の実存的不安が端的に表れる場所である。一般社会では到底通用しないような稚拙な弁解が、大真面目で述べられる場所である。犯罪者は、自己の戦いは国家刑罰権に対する正当な防御権であると述べて、死の恐怖を表面には出さない。しかしながら、そのような正当な防御権を主張したくなる根本的な動機は、やはり死の恐怖に他ならない。まずはこの事実を直視する必要がある。

どんな凶悪犯人にも人権がある。しかしながら、凶悪犯人がその人権を主張したくなるのは、死の恐怖からである。従って、死の恐怖からの逃避が目的であり、人権はそのための手段にすぎない。すべての根底には、人間の生死という存在の形式がある。このような事実を直視すれば、凶悪犯人が自分の人権ばかりを主張して、被害者を軽視しても、被害者はそれほど真面目に憤慨する必要がなくなる。凶悪犯人は死の恐怖から逃れるために、使える理屈は使おうという程度の話であって、崇高な人権論は手段にすぎないからである。

中島義道著 『哲学者というならず者がいる』 その2

2007-04-25 19:05:51 | 読書感想文
専門家の常識は、一般人の非常識であると言われることがある。法律万能主義は、犯罪被害者の人生までも条文の中に押し込めて説明しようとする。犯罪被害者の裁判制度への違和感は、哲学から法律学への違和感でもある。

あまりに細分化しすぎた近代刑事裁判の理論は、哲学的視点から大局的に捉え直してみる必要があるだろう。これによって、被害者保護法制についても新たな視点が開けてくる。以下に、「自分は社会問題にまったく興味がない」と公言している中島氏の文章を引用する。


p.108~109より抜粋

現代人は、犯罪や事故が起こると、原因を追及するが、その場合最優先されるのは科学的原因である。しかし、こと人間の行為になると、法則も力もきわめて複雑になる、不確定になる。たしかに、あのダンプカーが歩行者の群れに突入して3人の児童を殺した過程は確認された。この過程はどこまでも細かく記述できるだろう。だが、これだけではまだ原因は完全に解明されていないとわれわれは考える。もう一つ足りないものがある。それは、運転手のからだに潜む「心の動き」を含めたディスポジションである。事故が起こったのは、彼が「酩酊していたから」であり、「不注意だったから」なのだ。

われわれがある現象の原因を問うということは「見えないもの」の世界へ足を踏み出すことである。その一部は科学的法則に支配された物質の関係に行き着くことによって、うまく説明できるが、そうでない膨大な現象についても、どうにかして納得したいという思いを消すことはできない。だから、みんなこぞって納得できる「見えないもの」を仮定し、それがこの現象を引き起こしたというお話を拵え上げ、安心したいのである。


p.137~138より抜粋

大衆が自信に満ちている時、そしてエリートがそれにへつらう時(つまり、現代日本)こそ、哲学が必要なのではないかと思う。だが、それは多くの政治家や評論家の語っている意味内容とはまるで違っており(むしろ逆である)、どの時代のどの社会においても、じつは「善い」とは何か「悪い」とは何かを知ることは、おそろしく難しいということを徹底的に認識することである。

そして、ライプニッツの言うように、ほんとうに物事の真相に分け入ってみれば、犯罪行為に至る因果関係など複雑怪奇でわかるはずもなく、ニーチェの言うように、とりわけ被疑者の「意志」や「動機」などふわふわととらえどころのないものであり、もしかしたらすべてはただのフィクションではないのか、という問いである。