犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

小林秀雄・岡潔著 『人間の建設』

2011-06-30 00:02:15 | 読書感想文
p.50~(岡潔)
 時間というものを見ますと、ニュートンが物理でその必要があって、時間というものは、方向を持った直線の上の点のようなもので、その一点が現在で、それより右が未来、それより左が過去だと、そんなふうにきめたら説明しやすいといったのですが、それで今までは時間とはそんなものだとみな思っておりますが、素朴な心に返って、時とはどういうものかと見てみますと、時には未来というものがある。その未来には、希望をもつこともできる。しかし不安も感じざるを得ない。まことに不思議なものである。
 そういう未来が、これも不思議ですが、突如として現在に変る。現在に変り、さらに記憶に変って過去になる。その記憶もだんだん遠ざかっていく。これが時ですね。時あるがゆえに生きているというだけでなく、時というものはあるから、生きるという言葉の内容を説明することができるのですが、時というものがなかったら、生きるとはどういうことか、説明できません。

p.110~(小林秀雄)
 あなたは確信したことばかりを書いていらっしゃいますね。自分の確信したことしか文章に書いていない。これは不思議なことなんですが、いまの学者は、確信したことなんか一言も書きません。学説は書きますよ、知識は書きますよ、しかし私は人間として、人生をこう渡っているということを書いている学者は実にまれなのです。
 そういうことを当然しなければならない哲学者も、それをしている人がまれなのです。そういうことをしている人は本当に少いのですよ。フランスには今度こんな派が現れたとか、それを紹介するとか解説するとか、文章はたくさんあります。そういう文章は知識としては有益でしょうが、私は文章としてものを読みますからね、その人の確信が現れていないような文章はおもしろくないのです。

p.116~(小林秀雄)
 僕らの受けた教育は一種西洋的なものだったし、若いころの自分の好みもそういうふうでしたから、西洋を分かったようなつもりでいたことが多いのです。
 それがだんだんと反省されてきました。分ることが少ない、実に少ないという傾向に進むものですね。ところが文明に趨勢というものは逆なのです。何もかも国際的ということになった。原爆問題、ヴェトナム問題から、自分の子供の病気というような問題に至るまで、活眼を開かなければならない。そんなことが、いったい人間に可能でしょうか。
 やさしい答えはたった1つです。人間に可能でしょうかなどという問題は切り捨てればいのです。視野を広げたければ、広角レンズを買えばよい。これが現代のヒューマニズムの正体ではないかという気がすることもあります。


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 昭和40年のベストセラーだそうです。「知の巨人」「文と理の天才」の対談ですが、全くインテリ臭がしないことに驚きます。「本が売れる・売れない」の問題は、「言葉が読まれる・読まれない」の問題なのではないかと思います。

佐野洋子著 『がんばりません』

2011-06-27 00:04:11 | 読書感想文
p.253~

 私は、本を読む時の立場というものは大変難しいものであると知った。私が何者であるかさだかに認識出来なかった幼い頃、私は何にでもなれた。その本の中の一番いい役、出番の多い役、人から愛される役、金持ちの役、美人の役、人から同情される役、あるいは貧しくとも心清く正しく貧しさと戦うけなげな少女の役、いつも「ええ、いいえ」「あら、そんなこと」などと煮え切らない女でも、それが男に命がけで愛されている主人公であればそれになった。

 ここのところの私の立場は、優しさも美しさもあきらめて、かつて(今も変りはないが)貧しかったということにつきている。もはや私はシンデレラには共感はせぬ。かつて貧しかったものだけに共感するのである。しかもその中で、健気に清く正しく明日を信じてじめじめと涙を流して戦う人はうっとうしいのである。貧しさの中で、こすからく陽気に嫉妬心とひがみをかくしていけしゃあしゃあと生きる人に共感する。

 先日、名家の出で国際的知識人である犬養道子女史の『ある歴史の娘』という本を読んだ。祖父はリベラルな政治家であり父は白樺派の詩人でのちに大臣になる。幼い彼女は昭和の大変動期を、祖父の狙撃を目撃し、大戦に突入する日本を、その日本を動かしあるいは動かせなかった人々と親しく生きる。大変な立場の人である。教科書に現れなかった生々しい政治の実態を知って私は感激したか。

 私は1頁読むごとに血が頭にのぼり本をたたみにたたきつけるのである。「自慢すんな自慢」 そして又いそいで本を拾っては読みたたきつけては読み、「自慢じゃない表現は出来んのか、自慢じゃない表現は。この様に貴重な歴史的立場に居た運命を自慢たらたらで表現しなかったら、これは大変なもんなんだぞ、その根性の悪さを誰も直してはくれんかったのか、もったいない」と私は叫ぶのである。


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 小説や物語を読む時の「自分の立場」を把握することは、感情移入の癖を見抜くことであり、人間の主観の極致であると感じられます。それと同時に、その把握からもう1人の自分の視点が生じ、自分を客観的に捉えることが可能となり、間主観という意味での厳密な客観性も生じてくるように思います。

 社会科学や政治論を読む時の「自分の立場」とは、究極的には賛成と反対の2つしかなく、全てはそこからの距離でしか測れなくなるとも思います。自分とは異なる価値観も等しく尊重しようとすることは、当初の目的とは裏腹に理論武装の技術だけが磨かれ、主観的な結論を正当化するための客観的な論証を要求せざるを得なくなるとの印象を持ちます。

乗り越える

2011-06-25 00:13:09 | 実存・心理・宗教
 日本は今回の震災を乗り越えられるのかと問われれば、答えは「乗り越えられる」しかないように思われます。そもそも日本が震災を乗り越えたらどうなるのか、乗り越えなかったらどうなるのか、その基準が決まっていないからです。日本といった抽象概念を主語とし、その人の集まりについて乗り越えを論じること自体、そもそも「必ず乗り越えられる」という答えを前提とした問いであるとも思います。震災から3ヶ月以上が経過し、被災地以外では日常生活が戻り、「被災なされた皆様方に重ねて心よりお見舞い申し上げます」といった社交辞令がうるさいと感じられるようになったら、このような問いは不要にもなります。

 他方で、被災者個人に焦点を当てた場合、この乗り越えの議論は疑問形ではなく、「悲しみは必ず乗り越えられる」「人は必ず立ち直ることができる」という断定形で持ち込まれることが多いように思います。これは、ある種の善意の押し付けであり、反論を許さず、聞く者のありがた迷惑を省みないものだと感じます。痛みや苦しみは経験した本人にしかわからないという真実を心得ている限り、本来はかけるべき言葉など存在しないことを知りつつ、何らかの言葉を苦しみながら絞り出すという過程を経るため、単純なプラス思考の励ましにはなり得ないとも思います。これが言外に生じる目線の問題であり、人が「上から目線」を感じる理由です。

 ある方のブログを読み、被災者への乗り越えを求めたくなる心の動きが3つの言葉に集約できることを知りました。ここには、私自身の心の動きも見事に言い当てられています。1つめが「可哀想に」という感情です。これは上から目線そのものです。2つめが「私はあんな目に遭わなくて幸せだ」という感情です。これは、自分の幸せの再確認です。そして3つめが、「人が悲しむところを見るのが辛い」という感情です。これは、自分が不安になりたくない、不快になりたくないという動機から来ています。これらの自己中心的な心情を正面から認めて苦しむならばともかく、他者の幸福に置き換えて何の疑問も感じないところが欺瞞的だということです。

 ここ数年の社会問題といえば、年金、労働、格差社会、介護、少子高齢化といったものが国民的に共有されてきました。そして、年金記録が消えた悲しみに対して「悲しみは必ず乗り越えられる」と励ます人はいませんでしたし、正社員と派遣社員との格差に対して「未来を強く信じれば乗り越えられる」と言う人はいなかったと思います。また、要介護認定への疑問に対して「希望を捨てないで下さい」と元気づけても何の解決にもなりませんし、孤独死の問題に対して「あなたは1人じゃない」と熱く語ってしまっては単なる冗談です。結局、人は未来も希望もないと薄々感づいているときのみ、「未来を信じて」「希望を持って」と抽象論を語るしか方法がないのだと思います。

衆愚政治

2011-06-24 23:50:23 | 国家・政治・刑罰
 「人民が自由なのは、議会の議員を選挙する間だけであり、議員の選挙が終われば人民ももはや奴隷であり、無に等しいものになる」。私は大学2年生の頃、このジャン・ジャック・ルソーの『社会契約論』の一節が大好きでした。そして、まだ選挙権のなかった私は、日本の各種選挙の投票率の低さを嘆き、大人達に憤慨していました。
 私もすでに十数回の選挙を経験しましたが、その間に棄権もしました。棄権をしたのは、自分自身や家族の身に切迫した問題があり、投票どころではなく、正直に言って選挙などどうでもよいという状況に置かれていた時です。その後、「棄権した人は政治に何も言う権利がない」という意見を耳にした時には、ひどく馬鹿にされた気がしました。

 震災直後にもかかわらず内閣不信任決議案が提出され、衆議院の解散総選挙が取りざたされる状況には、「国民を置き去りにして政争に明け暮れる永田町」との印象しか湧きません。どの政党の支持者であっても、「足の引っ張り合いをしている場合ではない」「首相が代わっても具体的に何も変わらない」「力を合わせて震災対策をやるべき時に政治家同士で何をやっているのか」との声は一致しているようですが、その通りだと思います。
 憲法論において、衆議院の解散には、重要な民主主義的意義と自由主義的意義が認められています。前者は、国会は国権の最高機関であり、国会の意思が国民の意思と一致していない事態は背理であることによるものです。後者は、立法府の強大化による専断に対し、行政府が国民の自由を実質的に保障すべきことによるものです。このような演繹論からすれば、「被災者の暮らしの再建を待たなければ解散総選挙などできない」といった状況は、憲法学者も全く考えたことがなく、何らの影響力ある提言もできないように思います。

 大震災が起きる前には、今回の犠牲になった被災地の人々も、「無知な大衆」として一括りにされる主張が目立っていたように思います。福田首相から麻生首相に代わり、内閣支持率と自民党の支持率が上がったときには、民主党の支持者からは「劇場型政治に踊らされる愚民」への批判が多かったと記憶しています。他方、鳩山首相から菅首相に代わり、内閣支持率と民主党の支持率が上がったときには、自民党の支持者から「マスコミに踊らされる衆愚政治」への批判が大きかったと記憶しています。
 国政に関する「無知な大衆」といった全称命題は、日本全国の津々浦々への非難として投げかけられたものであり、当然ながら、宮古・大船渡・釜石・陸前高田・石巻・南三陸・気仙沼・名取・いわき・相馬・南相馬その他全ての被災地の大衆も含んでいます。そして、大震災が起きた結果、これらの土地の人々だけは「被災者の方々」と持ち上げられて、「被災地のことを考える」ことが政治的主張の理由付けとなっています。

 私が十数回の選挙を経験して学んだことは、「無知な大衆」への批判が最も強く表れるのは、落選者の敗戦の弁であるということでした。「時間が足りなかった」「私の力不足だった」というのは典型的なルサンチマンであり、その場ではそうとしか言いようがないのだと思います。また、「有権者の皆様に私の主張が上手く伝わらなかった」「私に投票してくださった方にはお礼とお詫びを申し上げたい」というのは、要するに自分を落とすような選挙民は愚かであり、間違っているということです。
 「無知な大衆」と「良識ある国民」が対立的に語られるとき、その違いは簡単だと思います。自分の支持しない政党の支持者、あるいは自分と政治的な意見が異なる者が「無知な大衆」です。他方、自分の支持する政党の支持者、あるいは自分と政治的な意見が同じ者が「良識ある国民」です。そして、あの日の震災を境に、特定の地域の人々については、「無知な大衆」も「良識ある国民」も合わせて「被災地の皆様」と呼ばれるようになったのだと感じます。

行方不明

2011-06-22 23:04:32 | 時間・生死・人生
 大学の法学部で初めて民法を学び、失踪宣告に関する議論に接したとき、奇妙な感覚に捕らわれたことがあります。それは、ある者が失踪から戻ってきたとき、失踪宣告の取り消しによる遡及効により、別の場所で行われた法律行為の効果が問題になる場面です。私は、この「別の場所」が存在するという事実が妙に引っかかりました。客観的・鳥瞰的な視点を仮構していながら、結局は平凡な社会常識に従って、失踪されて残された側の「場所」を無条件に上に置いているだけだと思われたからです。但し、私の疑問は他の人にはなかなか通じず、哲学的な思考の癖を持つ者は、法律の客観的な思考には向かないことを思い知りました。

 東日本大震災から100日以上が過ぎても、行方不明者は7000人超であると聞きます。他方で、身元不明の遺体は1700人以上にのぼっていると聞きました。そもそも、あの凄まじい地震と津波に襲われた状況では、行方不明者の数字には信憑性がないそうです。一家の中で1人でも生き残っていれば、他の家族を行方不明者として届け出ることができますが、一家が全滅していたとなれば、行方不明者として届け出る者が誰もいなくなる状況が生じるからです。身元不明の遺体は1700人という報道を聞くと、戸籍や住民登録といった制度に関する細かい問題は、議論のための議論でしかないとの感がします。

 津波で一家が全滅した場合と、一家の中で1人だけ生き残った場合とを考えてみると、私個人の直観としては、「1人だけでも生き残ってよかった」とは素直に思えません。もちろん、一緒に亡くなっていたほうが幸せだったとは断じて思わず、人の命は何よりも重いという命題を譲ることはできませんが、その抽象論が現実に起きていることに全く結びつかない感じがします。あるテレビ番組で、家族で1人だけ残された被災者の姿を追い、「私が泣いていても家族は喜ばない」「前向きに生きる」というテーマでまとめているのを見ました。恐らく、庶民のお茶の間に入り込むマスコミは、無理をしている歪みの底にある狂気を報道することは不可能なのでしょう。

 私には、津波で一家が全滅したその全員の心情を想像することはできませんし、一家の中で1人だけ残された者の絶望を想像することもできません。胸が張り裂けるレベルにも達することがなく、この世にこのようなことが起きるのかと信じられない気持ちになり、実はその裏側では起こったことを信じています。世間的には、「生き残った命を大切にしたい」という論理は簡単に理解されますが、「このような人生には生きる意味がない」といった逆説的表現が理解されることは非常に稀だと思います。法律の客観的な思考においては、相続放棄の熟慮期間(3ヶ月)の延長といった現実問題のほうが重要でしょうが、人間が作ったルールの不備によって生じた人為的な問題であり、このような議論に足を取られていることに心が痛む感じがします。

天災と人災

2011-06-21 00:00:25 | 言語・論理・構造
 「誰もいない森の中で木が倒れたときには音がするのか」という哲学の問いがあります。一般常識に従えば「音がする」が正解となるでしょうが、音(空気の振動)と人間の知覚領域の関係が問われていることに気がつけば、このような逆説的な構造の問いには答えなど必要ではなく、問いを深めることが答えであるという結論に至るものと思います。そして、この問いを突き詰めていけば、「過去」はその個人の頭の中の記憶という形でしか存在できず、「未来」はその個人の死後には絶対に観察することができず、その実在性が危うくなります。こうなると、「過去」や「未来」という言葉も簡単には使えなくなってきます。

 人が誰も住んでいない場所で、どのような大地震が起きて地面が崩壊しようとも、津波が陸地を襲おうとも、それは「天災」とは呼ばれないものと思います。すなわち、人間以外の自然だけが存在し、人間が完全に排除された場所では、人災のみならず天災も起こらないということです。天災と人災の区別は、あくまでも人間の側から人間を中心に考えられ、使用されてきた概念だと思います。両者はこのような言語による分類である以上、天災の中にも人災は見つけられますし、天災と人災は二者択一であるとも二者択一でないとも言うことができます。これは、哲学的な逆説の問いに比べると、問いが深まらないと感じます。

 天災か人災か、少なくともその2つのいずれかに分類される出来事である限り、そこからは被害額の試算が行われます。それは通常、何十億円、何百億円という額であり、1人の人間が一生かかっても稼げない金額です。この金額の前に打ちのめされる現実が、人間の生存に直接的な影響と与えているように思います。結局、人が住んでいない場所で何が起ころうとも経済は動かないということであり、経済が動かなければ何も問題はないということです。そして、自粛や風評被害は経済を沈滞させ、復興は経済を活性化させる以上、生活再建や補償の問題が現実化する場面では、前者は後者に覆い尽くされることになるのだと思います。

 天災と人災の区別は、割り切れないものを割り切ろうとする場合に、二元論的な思考によって多用されているとも感じます。一時期、天災でも人災でもなく「菅災」(菅首相の災害)であるとの批判が高まったのが特徴的です。天災という捉え方は、人災ではない以上諦めなければならないとの強制力を有していますが、それまでの間に「地球にやさしく」などの思考で人間が自然を支配下に置いてしまえば、急に手のひらを返すのも難しくなると思います。ある特定の主張に「天災だから」との理由付けを用いるのであれば、同様の理由で「人災だから」との理由付けも用いることが可能であり、結局は両者の区別が問題にされているわけではないとの印象を受けます。

ニコラス・ハンフリー著 『赤を見る』

2011-06-19 23:58:45 | 読書感想文
p.9~
 私たちは、物質世界の仕組みを科学的に説明しようという試みには、おおむね異論はないが、じつは、人間の心の働きを――少なくとも、心のこの領域を――科学には説明してほしくないと願っている人は大勢いる。意識は、解明されてしまえば値打ちが下がるとでも思っているのかもしれない。

p.17~
 Sの脳の中で起きていることはおそらく、赤を見ている人ならどんな人の脳の中で起きていることとも似ているだろう。そして、その特徴的な痕跡は、解像度の高い脳スキャンを行えば、検出できるはずだ。
 しかし、Sにまつわるこの事実は、個人的な事実だ。なぜなら当然、彼がここにいて、目を開いていればこその事実だからだ。彼が赤を見ているのだ。とはいえ、個人的ということは、この事実がいかに驚くべきものであるかという理由の、ほんの序の口にすぎない。それよりはるかに重要なのは、この事実が、この世のありとあらゆる事実のうち、非常に特殊な部類、すなわち、客観的な事実でありながら主観的な事実でもあるという部類に属している点だ。

p.138~
 主体たるには何かの主体でなくてはならないとして、いったいどんな類のものに、主体にとっての対象の役割が果たせるだろうか。すべての経験が同等の価値を持つわけではない。少なくともこの役割においてはそうだ。それどころか、自然にあるさまざまな経験のほとんどは、まったく要件を満たさないだろう。自己の存在を支えるものを提供するだけの実体や精神的な重みが明らかに欠けているだろうから。
 では、どんなものならよいのか。主体が喜んでその主体になれるほどの経験に、必須なものとは何か。その答えは、私たちが感覚の経験の中核として今、確認したばかりの性質そのものだと私は信じている。すなわち厚みのある時間の中に存在することに伴う実体性だ。

p.170~ (訳者あとがき)
 普通、「経験は経験者なくしてはありえない」と考えるが、著者の目を通すと、「内なる世界の経験が、人間の存在の証となる」し、心身の二元性は錯覚にすぎず、それもこの錯覚は偶然に生じた誤り、あるいは適応不良の結果ではなく、自然淘汰のなせるわざ、すなわち進化の賜物となる。そして、極めつけが、先述の、「意識が重要なのは、重要であることがその機能だからだ」という逆説的な結論だ。


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 私は仕事柄、交通事故の裁判で、「その時信号は赤だったのか青だったのか」が争われる場面を多く見てきました。そして、目撃証言や防犯ビデオの解析を通じて、最後には一定の結論が出るのですが、私はこのような争い自体に言いようのない虚しさを感じていました。「信号は赤だったのに被告人は『青だった』と嘘をついている」のか、それとも「被告人には赤信号が青に見えた」のか、はたまた「被告人には信号は赤に見えていたのに青だと思い込んだ」のか、このような争いには決着がつきません。

 証拠裁判主義に基づく法制度は、証明の有無によって全ての事実を説明し、揺るぎない体系を確立することを求められます。これが確立できていなければ、法治国家の仕組みは成り立たず、社会の秩序は崩壊するからです。信号の赤と青を認定しなければならない法制度の議論からは、哲学の問題意識は机上の空論であると捉えられます。「そもそも赤とは何か」「自分が見ている赤と他人が見ている赤は同じなのか」という問いは、交通事故の裁判の際には全く役に立たないからです。

 法律の議論の虚しさ、哲学の議論の役立たずさは、それぞれお互いの議論の次元の差異から生じるものだと思います。私は、この差異が人の死の瞬間に冒涜をもたらしているように感じることがよくありました。交通死亡事故の客観的事実を後から証拠で確定しようとすれば、被告人は「私のほうは青信号でした」と言い張ることが可能であり、被害者のほうは「死人に口なし」であり、証拠不十分で無罪となる確率が高まります。その結果、死者が最後に見ていた信号は客観的に青でなければ死者は浮かばれなくなり、主観的な人生そのものが最後の瞬間に奪われることになります。

風評被害と安全神話

2011-06-18 23:45:59 | 言語・論理・構造
 以下の文章は、私が法律事務所で聞いた話をもとに、私自身の個人的な感想として書き留めておきたいと思ったものです。

 風評被害とは、その言葉の定義により、本来は安全であるものについても「危険である」との根拠のない噂が立てられ、あらぬ損害を受けることだと結論できると思います。そうだとすれば、その「本来は安全である」ことの根拠が、安全神話によって安全とされているのであれば、風評被害の定義も変わって来ざるを得ないように思います。風評被害と安全神話は連動しているからです。

 4月上旬、放射能汚染の有無が判然としないために商品の流通が妨げられ、先が全く見えないという何人かの業者の話を聞きました。業者が望んでいることは、政府が一刻も早く安全宣言を出すことでした。ここで求められているのは、慎重さ・正確さよりも迅速さです。そして、絶対にあってはならないことは、政府による生活の保障がなされないまま、「危険である」との判定が下されることです。ゆえに、政府による生活の保障ができないならば、それは線を引くことによって「安全である」とのお墨付きを与えるべきであるということになります。ここにおいて、安全と危険がきれいに分けられます。

 神話という言葉は、その定義により、超自然的・形而上的な内容を含み、ゆえに科学的な根拠のないものとして使用されています。そして、「安全」と「神話」が組み合わされて「安全神話」という単語が使用されている以上、ここでは絶対安全であるという信頼感は根拠のない思い込みであり、錯覚にすぎないという共通了解があるように思います。従って、それが崩れることは当然であり、崩れなければそもそも「安全神話」という単語は使用されていないとも思います。

 「安全神話の過信」「安全神話を疑え」と並べてみると、ニーチェの「神は死んだ」に倣って、「安全神話は死んだ」という言い回しが浮かんできます。ニーチェの言わんとすることが、大衆の作った神はすでに死んでおり、絶対的なものはないということであれば、現在の状況は非常に似ていると思います。しかしながら、人々がこの世で経済生活を回していく限り、安全神話は完全に死ぬことがなく、何度でも復活せざるを得ないものだとも思います。

 少なくとも私は、原発事故のために生活が立ち行かなくなり、「このままでは首を吊るしかない」との業者の切実感を目の前にすると、神話でも何でも国民の大多数で信じている状態が正常であり、これを根本から疑いつつ通常の社会生活を送ることは不可能であると感じます。

重松清著 『卒業』

2011-06-17 23:38:02 | 読書感想文
p.173~
 父が、もうすぐいなくなる。この世から消える。「死ぬ」とは、「いなくなる」ことなのか? 「消える」ことなのか? なにかが違う。そうじゃない、と心の片隅でつぶやいている自分がいる。じゃあ、なんなんだ――?
 わからない。40年も生きてきて、たぶん人生の折り返し点をすでに過ぎていて、僕自身の死に向かって少しずつ少しずつ近づいているはずなのに、僕はまだ、死について語る言葉を持っていない。大学まで卒業したのに、学校の勉強では誰もそれを教えてはくれなかった。

p.211~
 テレビのスイッチを切った。どんなにしても感情がまとまっていかないもどかしさを、ひさしぶりに思いだした。伊藤が死んでからしばらく、感情が砂のようになっていた。手のひらで集めて、こねて、「悲しみ」の形にまとめようとしても、形づくった端から砂はさらさらと崩れ落ちる。「怒り」の形も同じ。「寂しさ」も同じ。いっそ自分はまだ生きているんだという「喜び」にしてやろうかとも思ったが、それも無理だった。
 
p.277~
 ひとは、どんなときに死を選んでしまうのだろう。絶望でも悲しみでも、借金でも身内の不幸でも失恋でもなんでもいい、自殺に値する条件が揃ったとき、なのだろうか。そんなに割り切れるものではないような気がする。コップの水は満杯になってからあふれてしまうわけではない。ほんのわずかでも、コップそのものが傾いてしまえば、こぼれる。
 誰のコップも、決して空っぽではないだろう。コップは揺れている。きっと誰もが、それぞれの振り幅で。僕のコップは、いま、どれくらいの角度になっている? 通勤の電車で隣り合ったひとは? 通過駅のホームにたたずんでいるひとは?


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 重松氏のこの短編小説集は、最初から最後まで死の話で一貫しています。自殺、病死、若い死、年老いた死、自分の死、我が子の死、親の死、友人の死など、その死の性質からくる唯一の死や、残された者の立場から見た複合的な死が執拗に突き詰められてます。しかも、それが読みやすいシンプルな文章で何事もないように語られ、それによって日常的な等身大の人間を描き、人の心の微妙な動きを行間で捉えているように思います。

 このような正面からの死の話に接して、「暗い話」であるとの印象を持つか否かは、その人がこの場面で「明るい・暗い」という物差しを使うか否かという点と連動し、小説の側ではなく読み手の側の評価を語るように思います。平和な時でも、大災害の後でも、あるいは戦争の後でも、人生とはあらゆる死の準備の過程であることに変わりはなく、それを遠ざけているか否かの違いがあるのみです。そして、死を遠ざける希望のみが性質上他者に押し付けられ、まずは「明るい・暗い」という物差しで測られるのだと思います。

大川小学校

2011-06-15 23:54:40 | 時間・生死・人生
 その日の午前中まで被災地ではなかった場所に「被災地」という呼び名が強制的に付され、その瞬間まで生きていた人間が「遺体」と呼ばれ、物質的ではないすべての価値観が津波で崩壊させられた日から、暦の上では3ヶ月以上が経ちました。「被災地」という呼び名が付されなかった場所で暮らしている私は、その惨状に言葉を失った瞬間の全身の感覚が、徐々に思い出せなくなりつつあります。
 このような中で、絶句の瞬間に引き戻される言葉がいくつかあります。そのうちの1つが「大川小学校」です。全校児童108人のうちの死者・行方不明者が74人、教職員13人のうちの死者が10人であった石巻市立大川小学校です。

 言葉が語られることによって過去と未来の区別が騙られ、過去は結果論を唯一必然の結果として騙り、未来は推測を反証不能の可能性として騙ります。この嘘は、一般的には嘘と呼ばれるものではありませんが、それゆえに聞く者よりも語る者が騙されるように思います。
 「未来ある多くの子供達の命が奪われた」という言い回しは嘘です。子供達に未来があり、無限の可能性があるならば、その未来や可能性がないことはあり得ず、子供が大人にならずに子供のまま死ぬことはないからです。それならば、「多くの子供達の未来が奪われた」と表現すれば嘘にならないかというと、これも嘘です。何かが奪われるならば、それは奪われる前に一度は存在しなければならず、一度も存在しないものが奪われることはありません。

 「小学校時代は生涯にわたる人間形成の基礎を培う時期である」「人は小学生の頃にその先の人生を生き抜く力を獲得する」「この国の未来を担う小学生」などの言い回しも真っ赤な嘘です。「生涯」や「その先の人生」が存在しないならば、それが存在するかのような語りは虚偽だからです。少なくとも、命を落とした子供達においては、これらの存在しない将来を目的として獲得された価値(自立性・社会性・豊かな感性・創造性など)は無駄となっています。
 また、「この教訓を生かして未来の子供達には同じ思いをさせないようにする」という結論の出し方は、生き残った者の特権に甘えた大嘘だと思います。「この教訓」というものが、未来を担うはずの子供達は必ずしも未来を担うわけではないとの事実を再認識させられたことにあるならば、その不確実な将来の一点に未だ存在しない人間を誕生させて片を付けることは、虚構に虚構を重ねるものです。

 大川小学校に関しては、様々なメディアで取り上げられており、私自身の感覚も動いています。壊滅した小学校の跡地で我が子の痕跡を探す両親の姿を見ると、絶句するしかなく、私の時間も3月11日で止まります。これに対し、津波が来るまでの24分間でなぜ逃げられなかったのか、他に採るべき方法があったのではないかという検証の報道を見ると、私の時間は動きます。言葉はいくらでも嘘をつくことができ、それによって時間は止まったり動いたりするものであると感じます。
 大川小学校で起きた出来事を語るとき、時間が止まっていることを共有しなければ、その言葉は不正確さを免れないと思います。時間が動いている限り、形而下的な問題意識は「責任の所在」を問い、行き場のなくなった議論は「死んだ者は永遠に帰らない」との形而上の観念に飛び、さらに「過去を振り返らず未来を見る」との結論が幅を利かせることとなります。この文脈で語られるのは嘘ばかりだと感じます。