犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

光市母子殺害事件差戻審 30・ BPOの意見書は非の打ちどころがない

2008-04-18 20:52:36 | 実存・心理・宗教
光市母子殺害事件差戻審をめぐる報道について、BPO(放送倫理・番組向上機構)が意見書を出した。すなわち、「素人の感想と同レベルである」「掘り下げができず、表面しか取り上げない」「単純な対立構造を作り、どちらかを完全悪にして徹底的に感情を煽り立てている」などといったものである。これは完全に当たっている。但し、光市事件の報道のみに該当するのではなく、すべての報道について該当する。報道とは、このようなものだからである。これは、報道する側の編集の問題であると同時に、受け取る側の問題である。すなわち、「掘り下げができていない」と感じる人にとっては、その報道は確かに掘り下げができていない。これに対して、「掘り下げができている」と感じる人にとっては、その報道は確かに掘り下げができている。それでは客観的な掘り下げの基準は何か、それを明らかにしようとして、また論争を始めるのがいつものパターンである。

人は事実を自己の意思によって解釈し、その世界を表象する。すなわち、事実などは存在しない、ただ解釈だけが存在する。この身も蓋もない事実を直視してみるならば、死刑論議や犯罪被害者支援をめぐる論争のすれ違いも、ごく当然のこととして捉えられる。すなわち、問題が解決しないのが通常であり、問題が解決する方がおかしい。「立場の違いを超えて理解し合いましょう」という楽観論はいつまでも実現せず、徹底的に反対論を潰すための論争だけが続く。これまで何十年も変わらなかったものが、これからは話し合いによって一気に解決するはずだと思っているならば、「解釈」の持つ恐ろしさに気づいていない。「単純な対立構造を作り、どちらかを完全悪にして徹底的に感情を煽り立てている」と言ってしまえば、これが必ず正解になってしまうこと、このことが最も恐ろしいはずである。人々の努力によって放送倫理が向上するはずであるならば、努力しているのにちっとも向上していないのは一体どうしたことか。

多くの人間にとっては、光市母子殺害事件の被害者の本村洋氏の鬼気迫るコメントに心を打たれた後では、被告の元少年の弁護団のコメントは全く心に響かなかった。それゆえに、今回のBPOの意見書も、何だかピント外れである。ここで政治的に、マスコミは表面しか取り上げていないのか否か、単純な対立構造を作っているのか否か、徹底的に感情を煽り立てているのか否かを探るという方向で考えてしまうと、例によって平行線となる。政治とは、理解できないからこそ熱くなって自分の意見を主張し、反対の意見を論駁するものであって、熱くならなければ政治ではない。しかしながら、他者に対して熱くなっている限り、それは政治的な権力争いであって、真理を探る営みではない。この平行線から逃れるためには、他者との論争や話し合いではなく、愚直に自問自答を繰り返すしかない。すなわち、「なぜ自分は本村氏のコメントには心を打たれるのに、元少年の弁護団のコメントは心に響かないのか」を掘り下げるしか方法はない。掘り下げるべきはここである。

被告の元少年の弁護団は、刑事弁護人の役割そのままに、光市母子殺害事件を「解釈」している。これは、公平な裁判所の下で、被告人と検察官が対立する当事者主義的訴訟構造(刑事訴訟法256条、298条、312条)においては、職務上正しいとされる行為である。ゆえに、それは主観的な解釈であって、客観的な事実ではない。もちろん弁護団は、本村氏を積極的に侮辱したり、悲しませたりすることが目的ではない。あくまでも自らの正義感に基づく価値序列として、被害者の生命を序列として下位に置いた結果としての副作用である。そこにおけるより上位の価値は何かというと、言うまでもなく、死刑判決を絶対的に防止することである。すなわち、死刑の悲惨さについては素人の感情に訴え、遺族の苦しみについては表面しか取り上げず、死刑賛成派を完全悪にして存置論と廃止論の単純な対立構造を作ることである。21人の大弁護団は、その一点だけのために全国から終結したはずであり、世論を敵に回すことは覚悟の上のはずである。BPOの意見書などに喜んでいては、弁護団の名がすたるというものである。