犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

犯罪被害者週間全国大会2007 (全電通ホール) その4

2007-11-30 14:59:27 | その他
被害者の体験談とメッセージ
本田英子さん・「全国交通事故遺族の会」会員

本田さんの息子さんは、平成5年11月、時速85キロ以上の猛スピードで運転してきた加害者の車にはねられ、わずか17歳で亡くなった。加害者は最高裁まで徹底して争ったが、遺族への謝罪は未だにない。この事故は、本田さんの息子さんが横断歩道を横断中に起きたものであり、被害者側には何の落ち度もなかった。しかし、例によって加害者は被害者側の過失を主張し、被害者は「死人に口なし」でどうすることもできず、最初の実況見分では衝突地点は10数メートルもずらされていた。裁判の中において、本田さんの申し立てた民間の鑑定により、ようやく衝突地点が横断歩道であると確定し、被害者側には何の落ち度もなかったことが証明されることになる。

全国交通事故遺族の会は、遺族同士が会って話し合い、癒し励まし合おうとする思いで設立された自助団体である。現在では、電話相談をはじめ、裁判傍聴、署名活動、事故防止活動なども行っている。ここでは、単に悲しみを語るだけではなく、被害者ならではのきめ細やかな支援も必要であり、そのためには経済的基盤が不可欠であることも当然である。ところが現在のところ、同会は会員からの会費だけで運営されており、より充実した支援をすることが難しい状況にある。

近代法治国家においては、加害者の罪を裁くのは刑事裁判しかなく、加害者の責任を問うのは民事裁判しかない。ところが、遺族がこれを自分だけで傍聴に行くと、多くの場合は目を覆うほどの光景を見せつけられ、二次的被害を拡大させてしまう。現に本田さんの裁判では、加害者は「自転車のほうが飛び出して来た」といった虚偽の証言をしたが、本田さんはそれを傍聴席で黙って聞いていなければならなかった。傍聴席で声を上げれば退廷になるからである。そうかといって、遺族が裁判を傍聴しなければ、やはりその逃避による後悔の念で二次的被害を拡大させてしまう。従って、遺族同士が自助団体を形成し、一緒に傍聴するのが最善策であるということになる。

犯罪被害者は、刑事裁判では蚊帳の外に置かれて苦しめられるが、民事裁判では対等な当事者の地位に置かれて苦しめられる。私的自治の原則の訴訟法的反映としての処分権主義・弁論主義などといった数々のテーゼ、請求原因から抗弁・再抗弁と展開する要件事実論、これらの法技術がすべて遺族には暴力的に作用する。対等な当事者としての攻撃と防御、これは不動産や借金や悪徳商法の裁判には使い勝手がよい法技術であるが、交通事故の遺族をこのレベルに立たせるのは、どう足掻いても場違いである。

現に、被告側の答弁書や準備書面は目を覆うほどの残酷さである。「原告の日記は知識のない遺族が主観的な感情をあらわにして記載したものであり客観性がない」、「遺族の陳述書は抽象論を繰り返すばかりで具体的な精神的苦痛についての資料が何ら提出されていない」、「原告の裁判所に宛てた手紙は事実関係を誇張・歪曲して記載しており議論に値しない」、「被害者には婚姻を前提として交際していた女性はおらず生活費控除率の計算は不当である」、「被害者が死亡したから過失があると主張するのは本末転倒の論理であり意味をなさない」、「被害者の葬儀は社会通念に比して過大であってその全額を被告が負担すべき義務はない」、「被害者の成績からすれば大学に合格しなかった可能性が高く生涯賃金は平均よりも低く算定すべきである」、等々。法治国家では、このような攻撃的な記載が標準的なものとして確立している。これに裁判官も慣れ、相手方の弁護士も慣れ、それどころか自分達の弁護士も慣れているとなれば、もはや遺族の二次的被害の発生は必然的である。

被告が徹底的に最高裁まで争う権利があること、遺族が悲しもうが泣こうが自らの権利のために攻撃ができること、謝罪などする義務がないこと、これらは近代法治国家によって加害者に与えられたお墨付きである。日本国憲法32条の「裁判を受ける権利」もその表れである。近代法治国家がここまで筋を通したいというならば、それによって生じる波及効果の事後処理まで責任を持ってしなければ、筋を通したことにはならない。すなわち、国や地方公共団体は、被害者団体に経済支援をするのが筋である。

犯罪被害者週間全国大会2007 (全電通ホール) その3

2007-11-28 11:36:45 | その他
被害者の体験談とメッセージ
田代祐子さん・「青森被害者語りの会」代表

田代さんの息子の尚己君は、2001年6月、横断歩道を歩行中に車に轢かれて命を奪われた。当時小学校2年生であった尚己君は、軽いダウン症の障害を負っていた。被告側からは例によって、「被害者はダウン症で働くことができないので逸失利益はなく、その分の損害金は支払えない」との抗弁が主張されることになる。田代さんにとっては、逸失利益がゼロだということは、尚己君に人間としての価値がないと言われていることと同じであった。そして、これまで一番大切にしていた宝物を土足で踏みつけにされ、心臓をえぐり取られているような気持ちに陥った。

田代さんは現在、障害児の逸失利益を認めてもらうための活動をしている。ここでも例によって、客観的で実証的な法理論の壁が立ちはだかる。「現に障害児に逸失利益を認めてしまったら、生きていればもらえないはずのお金がもらえることになる。これは死んだことによる不当な利益である。このような『死に得』を認めることは、著しく正義に反する」。近代合理主義のパラダイムによってこのような問題設定がなされてしまえ、もはや答えは出ない。簡単なことをわざわざ難しくする理屈の典型である。死に得が著しく正義に反するというならば、それは最初からその程度の正義だったのであろう。もしもその正義が本物であれば、田代さんが心臓をえぐり取られているような気持ちに陥ることもないはずである。そのような気持ちを正義の力によって抑え込むこともできないならば、その正義は最初から正義に値しない。

近代合理主義のパラダイムは、逸失利益の計算方法を詳細に発展させ、客観的な法秩序を確立した。その法秩序は、田代さんの「人間としての価値がないと言われていることと同じであった」という言葉は単なる主観であり、感情的な誇張や歪曲であることを小賢しく証明する。しかしながら、田代さんがそのように感じたという事実それ自体は、何らの虚偽も含んでいない。その言葉は、人間の存在そのものを経由して真実である。近代合理主義のパラダイムがその真実を軽視するということは、実は自らの手に余ることを恐れていることと同義である。そして、自らはそれに気付いていない。客観的で実証的な法理論の確立は、人間の生死に対する鋭敏な感覚を鈍らせた。この感覚の点については、現代人は古代人よりも確実に退化している。死亡した障害児に逸失利益が認められないことによる苦しみは、現代人が無条件に人類の進歩を信じ、古代人に対して優越感を持っていることの歪みの表れでもある。

人間の生死の問題は形而上的であり、死亡した人間の逸失利益の計算は形而下的である。形而上の話は抽象的で役に立たず、形而下の話は具体的で役に立つ、近代人はこの信仰の下に詳細な理論を組み立ててきた。しかしながら、人間が生まれて生きて死ぬものである限り、形而上の問題を限りなく隠すことはできても、完全に消すことはできない。それが、障害児には逸失利益が認められないといった場面で一気に噴出することになる。尚己君の命を奪った被告は、なぜ「被害者はダウン症で働くことができないので逸失利益はない」との抗弁を主張したのか。弁護士が専門家の常識としてそのような主張をしようとしているのを、なぜ体を張って止めなかったのか。それは、突き詰めれば高い賠償金を払いたくないという点に尽きる。どんなに「死に得を認めることは著しく正義に反する」との理屈を積み上げたところで、その実態は値切り交渉に他ならない。これを否定したいのであれば、まずは田代さんのえぐり取られた心臓を元に戻すのが先であろう。

犯罪被害者週間全国大会2007 (全電通ホール) その2

2007-11-27 21:27:09 | その他
被害者の体験談とメッセージ
「私は警察にずっと騙されていた」 二宮通さん・「南の風」代表

二宮さんの妻は、精神分裂症であった彼女の弟に殺害された。弟は施設を抜け出して器物損壊事件を起こしたが、二宮さんの妻は実の姉というだけで引き取りを求められ、その上に謝罪と弁償の責任まで負わされた。翌日、警察に謝罪と弁償のために出かけようとしていた妻は、弟から包丁で何十か所も刺されて殺害された。警察署では器物損壊事件の直後に「保護カード」を作成しており、そこには弟の状態に関して「精神錯乱者で事情聴取したが、意味不明の言動をしたので、保護を必要と認めた」と書かれていた。これは明らかに警察署の責任を問われる証拠となるものである。ところが、二宮さんがその書類の記載を知ったのは2年以上経ってからであった。二宮さんが見せられていた別の「捜査報告書」には、弟の状態に関して「既に精神錯乱ではなく、かつ応急の救護を要する状態ではなかった」と書かれていた。この捜査報告書は、警察署には責任がないことの証拠となるものであるが、事件から2ヶ月以上経ってから作られたものである。

真実の究明よりも自分達の保身、生命の尊重よりも組織の論理、問題点は明らかである。これは犯罪を扱う警察署では如実に表れるが、すべての組織においても同様であり、最後は人間個人の問題に帰着する。さて、日本のどこかで再び同じような事件が起きた。警察署では、事件から2ヶ月後に捜査報告書を作成することになった。ここで、「精神錯乱者で保護を必要と認めた」と記載できる人間がこの世にどれだけ存在するか。組織の論理からすれば、警察署の責任を認める記載をするような人間は、空気が読めない(KY)といって軽蔑される。もしくは、組織の正当な論理によって処分される。このような空気の中で積極的に自らの倫理に従い、自らの判断だけで警察署の責任を認めるような記載をした人間は、組織の中ではまず生き残れない。この構造は強固である。職務に対する誇りは、組織を破壊するような行動を何よりの悪と位置づける。

保護カードに「保護を必要と認めた」と書いた警察官も、捜査報告書に「応急の救護を要する状態ではなかった」と書いた警察官も、それを書くように指示した警察官も、決済の印鑑を押した警察官も、おそらく今日も警察官として真面目に働いている。不正を許さない強い正義感を持って、責任感と職務に対する誇りを持って、公務員倫理に従って、日々真剣に職務を全うしている。そして、自らの働きによって、人々が安心して生活できる平和な社会が維持されていると自負している。さて、このような警察官に対して、二宮さんの声は届くのか。恐らく届いてしまった人から、警察官が務まらなくなり、仕事を辞めなければならなくなるだろう。近代的自我の確立とは、自分が自分であることを大前提とし、それが動かぬ存在であることを出発点とする。そうだとすれば、赤の他人が死のうが苦しもうが、自分の保身が最優先の事項となるのも当然の帰結である。

人間が生きて死ぬしかないこの世において人間の生死を遠ざける、これは現代社会の病理である。精神錯乱者を保護せずに引き渡してしまった、その結果として殺人事件が発生してしまった。この恐るべき事実に一人の人間として向き合うならば、恐らく誰しも身が持たない。それ故に、生死の問題からは目が逸らされ、責任の所在の問題が取って代わる。しかしながら、人間の生死という本質に直面していることがわかっているのに、責任の所在という現象で何を語れるというのか。殺されたのは赤の他人である、自分は殺されていない、この事実ほど近代的自我において都合のよいものはない。何を好き好んで、自分から責任を負いに行く必要があるのかという話である。裁判において犯罪被害者遺族の意見陳述権が認められるようになり、なおかつ裁判員制度も導入され、今後は二宮さんの講演のような陳述が法廷の裁判員の前で聞かれるようになる。裁判員の涙が止まらなくなり、とても公平中立な裁判などできなくなってしまえば、裁判員制度は大成功であろう。

犯罪被害者週間全国大会2007 (全電通ホール) その1

2007-11-26 16:41:31 | その他
11月25日から12月1日までの一週間は犯罪被害者週間であるが、この知名度は今のところ高いとは言えない。近年は11月中旬からクリスマスのイルミネーションで盛り上がり、しかも今年は『ミシュランガイド東京2008』が11月22日に発売されるや否や大ベストセラーとなっており、タイミングが非常に悪かった。やはりこのような問題について世論を盛り上げるのは非常に難しいことを痛感させられる。

金儲け一色に染まってしまった21世紀の日本においては、経済効果がない問題にはなかなかスポンサーが付かない。また、お金に関係のない問題には関心が集まりにくい。年金問題があれだけ盛り上がったのは、自分が将来もらえるお金に関する問題だからである。政治家の汚職事件や公務員の不祥事に関心が集まるのは、彼らが不正に金銭的な利益を得ていたからである。格差社会が問題になるのは年収の問題だからであり、派遣、日雇い、偽装請負、ワーキングプアなどが問題になるのも同様である。お金のことで頭が一杯になっている人間には、犯罪被害者週間など目に入らない。

もちろん、我が国では連日のように犯罪が起きており、犯罪の問題は身近になっている。そして、確かにワイドショー的な関心を集めることも多い。香川県坂出市で祖母と孫の3人が行方不明になっている事件は、関係のない人も巻き込んで様々な憶測を呼んでいる。昨日のテレビ朝日開局50周年記念ドラマスペシャル『松本清張・点と線』も高視聴率であった。しかしながら、同じ犯罪であっても、犯罪被害者の視点で物事を捉えることは想像以上に難しい。これが、犯罪被害者をめぐる問題の難しさそのものでもある。

危険運転致死傷罪の新設、自動車運転過失致死傷罪の新設、刑事裁判における意見陳述制度の新設や附帯私訴制度の復活など、世論は犯罪被害者の側に確実に向いている。しかし、最も盛り上がった出来事が橋下徹弁護士と光市母子殺害事件の弁護団との場外乱闘だというのでは、あまりに空しすぎる。現代社会が最も避けており、最も弱いのが、人間の死に関する問題である。そして、犯罪被害の問題の根本は、同じく人間の死である。その意味で、金儲けには何の関係もなく経済効果も全くない犯罪被害者の問題につき、世論がどこまで真剣に取り組めるかは、国民の成熟度を測る重要な指標である。

大屋雄裕著 『自由とは何か』

2007-11-25 19:53:00 | 読書感想文
優れた思想家は、従来の単語では物足りず、「それ」を表現するために独自の用語を生み出すものである。大屋氏にとっては、「近代法の逆説」がそれであるが(p.95)、これはかなりの傑作である。近代法の逆説に気が付くか否かで、私的なルサンチマンを高貴な思想と勘違いする過ちを防ぐことができるだろう。人権に対する危険が政府の存在に先行していなければ、そもそも人間は社会契約など結ぶ必要もない。国家とは、個人の自由を侵害すると同時に、個人の自由の守り手でもある。従って、国家権力に抵抗するという単純な人権論だけでは、他の暴力的な市民からの侵害を排除できないことになる。自由を確保するには、過剰と過小という二重の危険の間の隘路を探すしかない(p.96)。

人権論のパラダイムにおいては、事前規制と事後規制の二項対立の図式が主流である。そして、事前規制は表現の自由に対する萎縮効果を及ぼすものだとして、できる限り事後規制の方法を用いるべきだとされてきた。この図式は非常にわかりやすいものの、いかにも単純で政治的にすぎるきらいがあった。大屋氏は、事前規制と事後規制を二項対立的には考えない(p.143)。このような脱構築を経て初めて、思想はオピニオン合戦を離れて次の段階に進めることになる(p.133)。できる限り事後規制の方法を用いるべきとの理論は、必然的に発生する最初の被害者の存在には鈍感である(p.144)。監視カメラはプライバシー権を侵害するとしても、現に犯罪の発生を防ぎ、被害者の発生を防いでいるからである。

事前規制によって防ぐことのできた事件、すなわち現実に起こらなかった事件は、この世に存在しない。もしくは、無限に存在する。従って、現にここに生きている人は、すべて殺人事件によって殺されないで済んでいる人である。言語哲学に造詣が深い大屋氏が(p.8)、ウィトゲンシュタインの独我論の緊張を込めていることは想像に難くない。事後規制の方法では最初の被害者の発生を防げないが、独我論が反転してすべての人間に独我論が妥当するならば、これを「やむを得ない」の一言で済ませられるわけがない。できる限り事前規制を廃止し、事後規制の方法を用いるとすれば、それはハズレくじを引かせる人間を必然的に増やすことになる。メーガン法の問題も(p.129)、二項対立の図式を脱構築してみれば、単なる賛成反対論以上の視角が取れる。無いことは無い、もしくは無限に在る。これは哲学が2000年以上も哲学が考えてきた存在論の問題であって、法律を作れば完璧に解決するといった種類の問題ではない。

法律学における「擬制」とは、それが法的な現実を作り出すことであって(p.194)、法が客観的実在の上に構築されるというのは思い違いである。法理論は擬制的なものとして示されるとき一層客観的であり、擬制なしにやっていけると主張するとき一層虚偽的である(p.195)。法人が存在するときに法人の行為が生まれるというのは、手段と目的の関係ではなく、行為を見ることにおいて主体の存在を想定するという生成的な関係である(p.196)。同じように、自由な個人だから結果の責任を負わねばならないのではなく、責任を負うことによって人間は自由な個人となる(p.199)。これは法律学において一般に考えられている自由と責任との因果関係を逆転させるものであるが、ウィトゲンシュタインの言語ゲーム論に造詣が深い大屋氏からすればごく当たり前のことであろう。

大屋氏にとって法哲学とは、哲学の道具立てを使って法・政治の仕組みを分析する学問である(p.10)。このように本物の法哲学者にはっきりと述べて頂くと、偽物の法哲学研究生(私)もかなり救われる。現代の自由論は、従来のように国家権力を悪者にしているだけでは済まない側面がある。例えば、携帯電話を持たないことをポリシーとしている人が、会社組織の中で「携帯電話を持たない自由」を行使したとして、現実にやって行けるのか。この問題は、国家権力とは何の関係もないものの、現代の「自由」という概念について多くの示唆を含んでいる。個人の権利意識が伸張し、多様な価値観が共存する社会になってきたというのは単なる幻想ではないのか。このような問題については、憲法13条の幸福追求権の人格的利益説と一般的自由説で争っている憲法学者は頼りにならない。大屋氏の今後の脱構築に大いに期待するところである。

無限大の宇宙 - 埴谷雄高『死霊』展 (県立神奈川近代文学館)

2007-11-24 18:48:32 | その他
存在の謎に直面すれば、存在することしかできない人間は、「ない」ものを「作り出す」逆説から逃れられない。我々が考えるということは、事物の根源と究極に向かうものであり、考えはすべて思考実験となるはずである。埴谷雄高の用語に従えば、「自同律の不快」とは全存在の存在原理である。存在は存在自体に対して「自同律の不快」を味わっており、宇宙の絶えざる変幻の内的動因であり、内的原理である。現代の科学主義の下では、なぜ「無限大の宇宙」と「死霊」とが同義なのか、当然ながら理解されにくい。死霊といえば、現在では多くの場合には死者の霊魂、死者の怨霊のことであり、慰霊祭をしてナンボの話である。

『死霊』の内容については、私の知能ではほとんど歯が立たず、「ぷふい」の実物を見て月並みに感動しているといったレベルである。ただ、激しい訂正や挿入の後が残る自筆原稿の束には、冗談ではなく、本当に吸い込まれる感じがあった。もちろん、歴史的な史料として書き上がったものを後世から見物する方法、すなわち平成19年から見る方法によるのではない。原稿用紙が半分まで埋まっており、半分は余白で残っているその瞬間に時間を止めて見る方法による。同じく、一度書いた原稿につき、挿入句を加え、表現を改め、大胆に一節を削除している瞬間、その万年筆のインクが乾かない瞬間に時間を止めて見る方法による。冗談ではなく、現在が平成19年であることを忘れる。

自分が書いた原稿用紙を何十回も何百回も読み返して、その都度訂正を加えていれば、訂正前と訂正後の過程がそのままわかる。なぜ自分は最初はそのように書いたのか、なぜその後に訂正したのか、訂正した時の自分の意志までがよみがえって来る。1回目はこのように書いた、2回目はこのように訂正した、そして3回目に読み返してみる。すると、最初の執筆時の自分の意志、および2回目の訂正時の自分の意志とが重層的に浮かび上がってくる。自分の筆の運びがそのままわかり、そこでまた新たな言葉が生まれる。何十回、何百回と繰り返せば、この重層は無限大の宇宙となる。埴谷雄高の字はお世辞にも上手くないが、考えがそのまま乗り移っている、もしくは考えのほうが先に行ってしまって後から追いついているといったような字であった。筆順などどうでもいい、本人にだけ読めればいいといった原稿もあり、編集者は相当苦労したと思われる。

パソコンで執筆する現代の作家においては、今後はこのような展覧会は不可能である。誰が打っても同じパソコンの字では味気がないという以上に、自筆の文字でなければ考えが乗り移らず、生まれるべき言葉が生まれていないということである。ここには、計算できないほどの損失がありそうである。言葉が生まれ、また消えてゆく速度は、光速や音速よりも速い。ペンで原稿用紙に向かうときの誤字脱字と、パソコンのキーボードでのタイプミスとでは、言葉の逃げ方が違う。言葉を書き留める瞬間とは、ほんの一瞬の真剣勝負であり、逃がした言葉は永遠に戻らない。なかなか目的の漢字に変換されないイライラは致命的である。「死霊」を出そうと思うと「司令」になり、「懐疑」を出そうと思うと「会議」になる。「捨象」は「車掌」になり、「照射」は「商社」になる。これを戻って直している間に、言葉はどんどん逃げてしまうだろう。

違和感を手放さない

2007-11-23 18:11:25 | 言語・論理・構造
次のような文をよく目にする。「犯罪被害者はこれまで長い間にわたって社会から孤立し、極めて深刻な状況におかれてきた。これまで我が国の刑事司法手続の中では、犯罪被害者は1つの証拠方法としてしか位置づけられていなかった。しかし、犯罪被害者が刑事訴訟手続に参加できる制度の確立を強く求める声が挙げられるようになり、政府もこれを受けて包括的な犯罪被害者支援策の検討をする方針を明らかにした。今後は、全国に犯罪被害者のための相談窓口が設置されるよう最大限の努力をするとともに、より充実したきめの細かい犯罪被害者支援をしなければならない。また、社会全体において、犯罪被害者への理解を深めなければならない。但し、被害者遺族が法廷で遺影を掲げることは認められない」。

現在の「犯罪被害者をめぐる問題」の問題点を大げさに指摘するならば、さしずめ上記のようになる。多くの人にとって逆らえない、しかもそれ自体としては非の打ちどころのない美辞麗句が並ぶが、どこか何となく物足りない。何となく違和感がある。そして、ある瞬間に、その違和感が決定的となる。この決定的な違和感、直観的に襲ってくる割り切れない気持ち、これを言語化して閉じ込めておくことが何よりのポイントである。「何が問題なのか」という問題、その「問題の問題」の手がかりがここに隠されているからである。ここを見落とせば、何だか誤魔化されたようなもどかしさを抱えつつ、その周辺をいつまでも回り続けることになる。

犯罪被害者は保護される客体ではなく、支援される客体でもなく、それ自体独立した主体である。これが、犯罪被害者が刑事訴訟手続に参加できないことのそもそもの違和感の原因である。この違和感の言語化は、従来の刑事訴訟手続の構造と衝突し、構造と構造の主導権争いとなる。構造主義的なカテゴリーとは、言語は恣意的な差異の体系であるとの枠組みであり、言語の差異の体系によって世界の事物が分節され共通の世界観が作られるとする範疇である。ソシュールの解明した言語構造が構造主義の起点となったのは当然のことである。構造は言語によって作られる。そして、言語は違和感によって作られる。

「犯罪被害者は肉体的・精神的・経済的な苦痛を負っており、社会全体で最大限の支援をしなければならない。但し、被害者遺族が法廷で遺影を掲げることは認められない」。ここで違和感を言語化しなければ、犯罪被害者を主体とする構造はあっという間に消え去り、犯罪被害者を客体として支援し、救済する構造が支配的となる。ここで構造なるものを実体化して、言語の使用から離れては台無しである。被害者遺族が法廷で遺影を掲げたいと思うこと、これは直観であって、その直観が起こる瞬間には理由などない。「遺影を掲げることが真の被害者保護になるのでしょうか」、「遺影を掲げればかえって肉体的・精神的・経済的な苦痛を増幅させるだけではないのでしょうか」、このような文法に捕まってしまい、被害者遺族がそれに応じて反論してしまえば、構造は完全に被害者の側から去ってゆく。

小林秀雄著 『考えるヒント』・「良心」の章より

2007-11-22 10:52:37 | 読書感想文
11月20日の朝日新聞の投稿欄である「声」の欄に、個人情報保護法の壁についての投書が載っている。


「再会遠ざけた情報保護の壁」 55歳
仕事の縁で出会って20年。今年も都合を伺うため、初夏に老人ホームに電話をしたところ、Kさんはもういないという答え。すぐに老人ホームに行って尋ねたが、担当者はどこへ移ったかKさんの個人情報は教えられないという。(中略) 8月中旬、次に見舞った時、彼女はすでに亡くなっていた。お墓はどこかと職員に聞くと、個人情報は教えられないと、ここでも同じ対応だった。(中略) 個人情報の保護ばかりが一人歩きしているが、個々の人格を思いやった情報の取り扱いが出来ないものだろうか。


最近、このような投書を初め、住所録も緊急連絡網も作れなくて不便だとの声が非常に多い。しかし、改善の兆しは全く見られない。「杓子定規にならず、法の趣旨を正しく理解すべきである」といった掛け声も聞かれるが、問題はそんなに簡単ではなさそうである。現に上の投書において、老人ホームの担当者が自らの判断で個々の人格を思いやり、Kさんの個人情報を教えたとなればどうなるか。おそらく、その結果如何にかかわらず担当者は不祥事として上司から叱責され、上司も監督責任を問われるだろう。自らの良心に従ってしたことが減点法によって職務倫理を問われ、組織全体の責任問題となるならば、誰も怖くて柔軟な法解釈などできなくなる。杓子定規の恐ろしいところは、一旦その定規を見てしまうと、もはやそれを無視できなくなるということである。


p.66~ 変形して抜粋

個人情報保護法を推進する人は、その条文の改正を重ねることによって、世の中のトラブルをすべて解決する完璧な条文に近づくことを願ってやまないだろう。だが、このことは、条文が完璧に近づけば、人間は馬鹿でも済む以上、人間の馬鹿を願って止まないことになりはしないか。「とんでもない、私は正しい個人情報保護法制を実現したい。だから、正しい法の趣旨を国民に説明しているのだ」。もっともな返答だ。でも、なぜ君は「最後に一目でも会いたい」「せめてお墓参りをしたい」という人間の良心の問題に関して、わざわざ正しい法の趣旨を経由するのか。

考えるとは、合理的に考えることだ。現代の個人情報保護法制の流れに乗じて、「個人情報なので教えられません」と答えて憚らない人々の様子を観察していると、どうやら決められた法律を遵守することが合理的に考えることだと思い違いをしているように思われる。当人は考えているつもりだが、実は考える手間を省いている。そんな光景が至るところに見える。

人生を簡単に考えてみても、人生は簡単にはならない。個人情報保護法制を考えるに際し、良心の問題を除外し得ても、良心とは問題ではなく事実なのであるから、彼が意識するとしないとを問わず、良心は彼の心のうちに止まるだろう。「個人情報なので教えられません」と言われると、言われたほうはなぜそれを「壁」だと感じるのか。職務倫理規定に従って「個人情報なので教えられません」と繰り返す職員の側も、心の片隅では「本当はこんな言い方はしたくないのに」と考えているのはなぜか。

死者には人権がない

2007-11-21 16:03:56 | 言語・論理・構造
人権思想を背景とする近代法は、人間の理性を最大限に信頼し、自然科学の手法を取り入れた精緻な理論を展開してきた。そこでは、好むと好まざると「死人に口なし」との理論が正面からまかり通ることになる。死者には理性がなく、人権もないからである。どんな殺人犯に対しても死刑を科すべきではないとされるのは、すでに殺された人間には人権がなく、他方で生きている者には人権があるからである。直観的に変だという疑問は、理性に基づく理由づけがなされない限りはまともに取り上げてもらえない。

交通事故の死者にとって一番浮かばれないのは、加害者に過失割合の文法の主張が許されていることである。ここでは、被害者の敵は加害者よりも保険会社であることが多い。いくら加害者が反省して自らの過失を認めていても、保険会社は被害者側の過失を主張して値切ることが仕事である。本来このような数学的な割合の算定は、理性があり人権がある人間同士において成立するものである。従って、被害者が怪我をしているにとどまる場合には、意識不明の重症を除いては、このパラダイムはとりあえず上手く回る。これに対して、被害者が死亡した場合には、この部分的言語ゲームのルールは加害者の一方的な語りを許す。あとは目撃者頼みであるが、これは単なる偶然であって、ゲームのルールに変更はない。

近代法下の人間は、判例の集積によって、過失割合に関する多くの基準を作り出した。例えば、交差点における自動車とバイクの衝突においては、自動車のほうに「止まれ」の規制がある場合には、自動車が85%、バイクが15%の過失と定められている。しかし、バイクの運転者が死亡した場合には、自動車の運転手の一方的な弁解が通る。「自分は減速したがバイクは減速しなかった」と言えば、自動車が75%、バイクが25%の過失とされる。さらに「自分は一旦停止したがバイクはスピード違反で脇見運転をしていた」と言えば、自動車が45%、バイクが55%の過失となる。このような部分的言語ゲームの勝負に持ち込まれると、死者は圧倒的に不利である。目撃者を探し、残されたバイクの破片を集め、道路のスリップ痕を細かく鑑定するのも、すべてはこの部分的言語ゲームのルールを上手く回らせるための苦心の策であるが、その根本は変わらない。

さらに、近代法に基づく部分的言語ゲームのルールは、死者を積極的に歓迎する場面がある。それが消極損害の算定の場面であり、裁判官においても弁護士においても、裏では「死んでくれたほうが計算が簡単だ」と言われている部分である。死者の場合には、休業損害に関する細かい計算が一切不要となる。また、後遺障害による逸失利益も考える必要がなく、労働能力喪失率の細かい認定からも解放される。遺族の言葉が法律家に伝わらないのも、言語ゲームの階層性によるところが大きい。近代法における複雑な部分的言語ゲームを遂行するためには、「死んでくれたほうが計算が簡単だ」というレベルにまで至らないと、とても専門家としてやって行けない。現に世の中はそのように回っているからである。

中嶋博行著 『この国が忘れていた正義』 第1章

2007-11-20 13:57:22 | 読書感想文
第1章 国家プロジェクト「快楽殺人者の更生計画」

近代法の刑事司法の原点は、被害者の復讐感情を代行する「応報刑」ではなく、責任原理と犯罪者の改善更生・社会復帰を目的とする「教育刑」にある。そして、それは人類が歴史の苦い経験の中から試行錯誤を経て獲得した真理である。これは、人権尊重国家に生きる者にとっては疑い得ない常識であり、すべての大前提であるとされている。それでは、この疑い得ない常識を疑うことはできないのか。なぜ地球上の人類は、20世紀までが苦い経験を積み重ねる試行錯誤の時期であり、よりによって20世紀に永久の真理を発見し、そこから後は人類の滅亡に至るまで20世紀の人間の考えたことに従わなければならないのか。哲学的思考が揚げ足を取りたくなるのは、何よりも形而下的な現在の絶対性である。

神戸市児童連続殺傷事件の少年Aこと酒鬼薔薇聖斗は、少年法によって堅く守られ、その更生に全力が注がれた。しかしながら、現行法の建前はどうであれ、哲学的思考としては、「なぜ彼を更生させなければならないのか」という問いを突き詰めることができる。更生しようがしまいが、死者は戻らないではないか。殺人者であれば、少年であるかにかかわらず、命をもって償うほかないのではないか。更生が償いにならないのであれば、単なる現行法上の仮の選択肢として採用しているのみであり、次善の策ではないのか。このような疑問を封殺し、更生先にありきの結論を絶対視するイデオロギーは、生死を扱いつつ、生死を正面から見据えていない。

殺人事件とは、生死に関する問題が最も純粋な形で現れたものである。それは、在るものは在り、無いものは無いという存在論と切り離すことができず、生死に対する感受性は、存在に関する感受性そのものである。生は生であり、死は死である。ここに少年法における改善更生・社会復帰という理屈が混入すると、単純な存在論的な問いは一気に面倒臭くなる。1人の人間としての素朴な疑問を法律家がわざわざややこしく説明して、それで収集がつかなくなるというお決まりの構図である。さらには心理学者や教育学者がテクニカルタームの洪水の中で評論を繰り返し、ますます物事を難しくする。そこで完全に忘れ去られるのが、「自分が死ぬ」という当たり前の事実である。生死に関する問題を論じる以上、このごく当たり前の事実を見失えば、その議論はどこか物足りない。

仮に少年Aこと酒鬼薔薇聖斗が再犯し、その事実が公になったような場合には、世論はまた大騒ぎになる。厳罰派は、「だから更生など無理だったのだ」と鬼の首でも取ったように怒りながら喜び、その隠しきれない喜びが遺族を傷つける。人権派は、「そもそも最初に顔写真を掲載した雑誌が彼の更生を妨げたことに原因がある」、「本人は社会復帰をしようとしたが周囲の無理解に原因がある」といった無理な理屈を持ち出す。政治的なイデオロギーでは、およそこのあたりが限界である。哲学的には、次のように問われねばならない。少年Aこと酒鬼薔薇聖斗は、更生しようがしまいが、いずれ病気か何かで死ぬ。さて、彼が更生せずに死んだとき、あるいは更生して死んだとき、彼に殺された2人の人間の人生にはどのような意味があったのか。