犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

今年も1年間ありがとうございました。

2009-12-31 23:56:42 | その他
朝日新聞12月17日夕刊 “テークオフ”
西山雄二さん(東京大学特任講師) 「問いを絞るのが哲学の使命」より

パリの研究教育機関「国際哲学コレージュ」に迫ったドキュメンタリー映画「哲学への権利」を監督した。仏の哲学者、故ジャック・デリダらが創設した半官半民の組織だ。耳慣れない作品タイトルは、故人の著作から。「深く考えることそのものが哲学。哲学への権利とは、とても遅い時間性を持つ、まわりくどい権利と言えます」。哲学とは本来、問いを正確に立てる作業であるという。「現代では問いがあまりに多く、かつ、それに答える要求に迫られています。その中で、問いを絞りこみ、問いが問いであると成立するように示すのが哲学の使命です」。

若手研究者を育成する「グローバルCOEプログラム」は、「事業仕分け」で3分の1の予算削減という評価を受けた。自身もその1つである東京大学「共生のための国際哲学教育研究センター」に所属しているが、同センターはもともと、国際哲学コレージュをモデルに構想されたものだった。「すべてを効率性の尺度で評価する新自由主義。それに代わる新しい価値観を示すことは難しい。だが、これだけはしてはいけない、というものが必ずある。哲学は、できる範囲で『何をしてはいけないか』という問いを立てるしかありません」。


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私のこの1年は、法律事務所の仕事が忙しく、いくつもの問題を抱えたまま年越しとなりました。例えば、「破産管財事件における申立人が市県民税の3期・4期分を破産開始前に未納しており、かつ納期限が未到来の場合、この税金は財団債権となるのか」、「破産管財事件における申立人が財団債権に該当する部分の国民年金保険料を滞納しており、社会保険庁の交付要求がない場合、交付要求するように連絡すべきか」といった難問がまだ解決しておりません。文献をひっくり返してもネットで検索しても答えが見つからず、調べれば調べるほど専門家の間にも色々な見解があって、実務の扱いも統一されておらず、時間だけが無為に過ぎ、大変な労力を消費してきました。

西山氏の「現代では問いがあまりに多く、かつ、それに答える要求に迫られている」という指摘は、多忙な毎日に振り回されている自分自身にとって非常に耳が痛く、かつ無力感に苛まれます。法律事務所を訪れる方々が抱えている問題は、表面的には法律的な解決を求めているとしても、その根底には多くの場合、大変な哲学的難問が横たわっています。新自由主義的な合理的志向においては、すべてのことに解決策があるという大前提が疑われませんが、現に人の人生とはままならないものであり、人生の問題は解決できることばかりではありません。ところが、現実に自分が行っていることは、実務的な問いの解答を探すのに四苦八苦しているばかりで、「問いが問いであると成立するように示す」ことなど遠い目標となっています。

1年間、私の拙い文章を読んでくださった方々に深く御礼を申し上げます。来年は、実務的な問いの解答を探すほうはできるだけ手を抜いて(社会人としては失格ですが)、問いを絞り込めずに苦しむ過程をブログに定期的に書けたらと思っています。そのことが、逆説的に、法律事務所を訪れる方々が根底に抱えている哲学的難問に正面から向き合うことになればとも考えております。

中島義道著 『生きにくい・・・ 私は哲学病。』

2009-12-27 23:59:42 | 読書感想文
p.103~ 「ミレニアム騒ぎの虚しさ」より

年末から世の中はミレニアムとか2000年とかで大騒ぎであるが、私には何のことだかわからない。というより、とてつもない違和感を覚える。とくに2つの点に関して。その1つは、これほど時間について語りながら、誰も「時間とは何か」を真剣に問おうとしないこと。そしてもう1つは、21世紀とか1000年後とか涼しい顔をして語っていること。あと1000年したらあなたは確実にいなくなるのだ。このすさまじい虚しさから懸命に眼を逸らして、人類の将来や21世紀の日本についてばかり語るあなたは欺瞞的である。

なぜ、誰も自分が完全に消滅している将来の虚しさについて真剣に語らないのか。何百億年もの宇宙的時間の中で、たった数十年の命を与えられているこの存在の虚しさを、じっくり考えようとしないのか。うすうす気づきながらも、ごまかしたいからなのだ。あまりにも恐ろしいので、ごまかし通して死にたいからなのだ。こうした薄汚い態度は、社会に適応して安全に生き、まずまずの幸福を得るための知恵である。そして、ここに時間に追われる人生という悲喜劇の幕が切って落とされる。

最近、身体の底まで哀しかったこと、それは2000年を迎えたミレニアムに歓声を上げる人間たちの姿であった。嬉々とした顔々、欣喜雀躍とした挙動、さらにそれを解説するテレビリポーターの興奮した声々。次のミレニアムには、今喜びに浸っている人々はひとり残らず地上から消滅してしまっているのだ。そのことをちらりとでも考えれば背筋が寒くなるはずであるのに、この空騒ぎはいったいどうしたことであろうか。ひとえにごまかしているからなのだ。みずからの存在の虚しさを見ようとしないからなのだ。しかも、そこに「希望」といううさんくさい言葉を掲げて、自己麻酔をかけているからなのだ。

ミレニアムとは、人生の儚さをまともに実感させられる時である。いかなる理屈をつけようと、あと数十年で自分はこの宇宙から跡形もなく消えてしまう。そして、その後(たぶん)永遠に生き返ることはない。やがて、人類は絶滅し、太陽系は砕け散り……その後宇宙はいつまでいつまでも存続しつづける。とすると、この自分が生きているということに、いったい何の意味があるのか。日ごろごまかし続けて生きている人々も、まさにこの年末に1000年という残酷な時間単位を見せつけられて、こうした疑念が一瞬心の底で閃くのを看取したはずであろう。だが、たちまち忘れてしまう。いや、忘れようと意志してしまう。


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これは、今からちょうど10年前に書かれた文章です。この時期にこのような文章を思い出す私は、中島氏が言うところの「哲学病患者」でしょうが、10年という期間を10年として普通に計算している限りは、その症状はごく軽い(甘い)と思います。それでも、世間的な常識が「10年後の日本」や「10年後の自分」を語りつつ、「10年前の『10年後の日本』」や「10年前の『10年後の自分』」を語ろうとしないことに対しては、やはり中島氏と同じような違和感を覚えます。また、10年前のミレニアム騒ぎを思い出すこともなしに、「明日のエコでは間に合わない」「未来の子供たちに美しい地球を残そう」などと語る姿勢には、どうしても欺瞞的な匂いを嗅ぎ取ってしまいます。

この10年間には、「100年に1度の不況」もありました。このフレーズは、一回使ってしまうと論理的に100年は使えないはずなのですが、恐らく不況が来るたびに繰り返し使われるでしょう。ちなみに、この10年の経過で、早くも次のミレニアム(3000年)までの1/100が過ぎたことになります。この10年があと99回繰り返されれば3000年です。10円玉が100枚で1000円札と等しくなることと比べてみれば、そんなに先のことでもないような気がします。その先の4000年、5000年も同じことでしょう。とりあえず私は、娑婆では時間をしっかりを守って怒られないようにし、逆に他人が時間に遅れた場合にも怒らないようにし、ストレスを溜めないで適当に生きています。

神谷美恵子著 『生きがいについて』 「3・生きがいを求める心 ―自由への欲求」より

2009-12-26 01:10:57 | 読書感想文
p.66~

ひとの自由をしばるものは、外側のものばかりではない。人間の心のなかにある執着、衝動、感情などが、外側のものよりも、なお一層つよく深刻にひとをしばりつける。対人関係も、恩や義理などの力でひとを精神的な奴隷にする。その他、時間や運命などまで考えに入れたら、人間が自由を発揮する余地はどこにあるかと問いたくもなる。

たしかに、自由を得るためには、さまざまの制約に積極的に抵抗を試みなくてはならない。それが大へんだから「自由から逃走」することにもなる。これこれの事情だから、これこれの人間だから、だから自分は不本意な生活もしかたがない、とぐちっぽくあきらめて暮らすひとは多い。その顔には生きがい感はみられない。

自由から尻ごみする心の根底にあるものは、あの、安定への欲求、というものであろう。これはまさに自由への欲求と反対の極にあるようなものである。そしてこれも自由への欲求におとらず、むしろそれ以上に根づよい、基本的な欲求であろう。というのは、精神身体医学的にいっても心身のあらゆるからくりは、一応この安定、すなわちバランスを保とうとする方向に働くようにできている。

人類の歴史のなかでも、個性や主体性や自由の観念が力づよく打ち出されたのはルネサンス以後、それもルソーあたりからであり、日本ではやっと明治になってからとのことである。してみれば、自由への欲求そいうものがまだひよわいのも道理で、いざとなると安定ということがひとの心に支配的な比重を占めがちなわけもうなずけてくる。つまり人間には自由への欲求もあると同時に不自由への欲求もあると思われる。

しかしほんとうにえらばないで済むのかというと、少なくとも人間の場合は、厳密な意味では、すまないのである。たとえ宿命的と形容されるような苦境にあっても、いっさいを放り出してしまおうか。放り出そうと思えば放り出すこともできるのだ。放り出して自殺やその他の逃げ道をえらぶこともできるのだ。そういう可能性を真剣に考えた上でその「宿命的」な状況をうけ入れることに決めたのならば、それはすでに単なる宿命でもなく、あきらめでもない。一つの選択なのである。


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憲法学において、居住・移転の自由および職業選択の自由(日本国憲法第22条1項)の法的性質について論争があります。これらの自由については、かつては経済的自由権と考えられていましたが、現在の学界では精神的自由権の側面が重視されているようです。すなわち、居住・移転の自由については「色々な場所に住むことによって様々な経験をし、経験と知識を増やすことができ、自己の人間形成に資する」というのがその理由です。また、職業選択の自由については「人はいかなる仕事に就くかを選ぶとき、自己の持つ個性を全うすべき場を探しているのであり、時には給料の高さよりもやりがいを求める」というのがその理由です。

さて、完全失業率が5パーセントを超え、完全失業者が300万人を超えた現在の格差社会においては、上記のような憲法学の論争は何の役にも立たないでしょう。派遣切りに遭って失業し、求職しても求職しても不採用の連続で精神的に追い込まれている人にとって、「職業選択の自由は精神的自由である」もクソもないと思います。また、家賃が払えずにアパートから追い出され、目の前の交通費もなく路上生活に追い込まれている人に対して、「居住・移転の自由は精神的自由である」と言っても的外れでしょう。そうかと言って、憲法学がこれらの権利の経済的自由の側面を見直すというのでは、単に経済状態を後追いしているだけの話で、そこには何の思想もないと思います。

神谷氏の自由に関する洞察は、上記のような憲法学の自由権に関する論争よりも、はるかに現代社会の問題を上手く説明しているように思います。すべての人間を幸せにするはずの自由主義を追い求めた結果として、なぜか格差社会の真っ只中で生きてしまっている人が切実に抱えている問題は、「人の自由は外側よりも内側から縛られる」ことであり、「人間には不自由への欲求もある」ことであり、「人間の自由は自殺の自由も含む」ことだからです。日本は自殺者が11年連続で3万人を超えたというニュースを聞いて、ふとそんなことを考えました。

飲酒運転を繰り返す被告人の国選弁護人に選ばれた新人弁護士の心理状態について  後半

2009-12-25 23:57:15 | 実存・心理・宗教
(前半はこちら)
http://blog.goo.ne.jp/higaishablog/d/20091217

被告人による「保釈されないと会社を休んで迷惑がかかる」という悲痛な訴えは、ツッコミを引っ込めるや否や、恐ろしいほどの説得力を持つことになります。警察の留置場に入っていれば会社に行けず、そうすると同僚が被告人の分まで仕事をしなければならない。被告人は1日も早く会社に出勤して溜まった仕事を片付けないと、会社の同僚は深夜まで残業となり、その家庭まで巻き込んで滅茶苦茶になる。この論理関係は確かに存在しており、動かしようがないからです。被告人が保釈されさえすれば、確かにこの問題はすべて解決します。また、「持病があるので掛かりつけの医者に行きたい」という懇願も同じです。持病を治療しなければならないことと、飲酒運転の裁判を受けることは全く別の話であり、論理的に両立するからです。さらには、「家族が私の帰りを心配して食事も喉を通らない」という点は、目の前に動かぬ証人が存在しており、疑いの余地がありません。しかも、現に100万円以上の保釈金を用意し、涙ながらに「お願いします。先生だけが頼りなんです」と頼み込んでいる状況においては、すべての責任は弁護士の肩に重くのしかかってきます。

ここまで来ると、弁護士の保釈請求は、もはや嫌々ではありません。この自分に重い仕事を任せてもらった人のために、親身になって働くことが、「社会人」に課せられた義務であり責任だからです。それと同時に、保釈が取れなければ腕が悪い弁護士であると評価され、あらぬ噂が広まってしまう恐れがあるため、容赦ないプレッシャーにも追い立てられます。こうなると、保釈請求書はスラスラと書けます。被告人が保釈されることが正義であり、その目的にとって障害となる検察官は最大の敵となります。被告人が会社を休んで迷惑をかけているというのに、検察官は会社の同僚の負担のことまで考えているのか? 被告人の病状がひどくなったら、検察官はいったいどう責任を取るのか? 被告人の家族は取り乱して非常事態にあるというのに、検察官は何をのんびりしているのだ? もはやツッコミは被告人の行為に向けられたものではなく、検察官に対するツッコミとなり、しかも結論先取りの反語の問いとなります。こうして、無事に保釈請求書は書き上がります。

最後の関門は、裁判官との保釈面接です。交渉事というものは、迷いなく、自信を持って言い切らなければなりません。周りが全く見えなくなる状態で、とにかく被告人の保釈の許可を得ることだけを目的として、駆け引きの技術なども駆使して、すべての言動を組み立てなければなりません。それが、弁護士として飯を食っている「社会人」の義務だからです。被告人の家族からは、保釈の進行状況について数時間おきに問い合わせの電話があり、そのイライラが電話口から事務所全体に伝わってきます。こうなると、保釈が取れるか取れないか、弁護士も神経を尖らせてその瞬間を待つことになり、緊張は頂点に達します。弁護士の周囲の空気はピリピリして容易には近付きがたい雰囲気となり、すべての事務員はイェスマンとなり、被告人の保釈を疑う者は誰一人いなくなります。事務員の誰もが、「被告人は心から反省しているのに保釈されないのはおかしいです」と語ります。「飲酒運転の車は走る凶器です」などと語る事務員は誰もいません。ゆえに、保釈を却下するような裁判官はバカであることが事務所内の全会一致の見解として確立します。

さて、問題は、保釈の結果(許可・却下)が出て一息ついた後のことです。「社会人」は、それがどんな嫌な仕事であっても、真剣に取り組んでいるうちに面白くなってしまうという状況から逃れられない限り、上記のような心理状態に陥ることはやむを得ないと思います。問題は、冷静になった時に、それを批判的に見られるかどうかです。そして、新人弁護士がどちらの方向に行ってしまうかは、周りの先輩弁護士の指導によって、実に紙一重であると思います。いかなる「社会人」であっても、ひとたび自己批判精神が欠如してしまえば、暴走が止まらなくなるのはよくある現象だからです。誰しも冷静な状態においては、飲酒運転をしながら自己の都合で保釈を要求する者に対しては、「だったら逮捕されるようなことするなよ」とのツッコミを入れることが可能でした。このツッコミを一旦引っ込めたことにより、いつの間にか自分がツッコミを受けるような行動に加担していたことに対し、自分自身にツッコミを入れることができるか。これが自己批判精神の内実であると思います。

自分が行った保釈請求が、被告人の反省を妨げ、図らずも社会における飲酒運転を助長しているのではないか。これでは過去の悲惨な飲酒運転の事故で亡くなった方々があまりに浮かばれないのではないか。そして、社会から飲酒運転が完全になくなってほしいと全人生を賭けて願っている事故の遺族の方々に対してあまりに無神経なのではないか。このような問題の所在は、自己批判精神を失った刑事弁護活動からは全く見えません。ちょうど、電車の中で携帯電話で話している人が、通話相手に対しては細心の注意を持って言葉を選び、失礼のないように全神経を集中させていることによって、周りの乗客のことは完全に眼中から排除されている状態と似ています。ここまでならば、誰もが陥る人間の当然の心理状態ですが、刑事弁護においては「人質司法の改善」「人身の自由の保障」といった絶対的なイデオロギーがあるため、永久にツッコミが戻らなくなることがあります。こうなると、「社会から飲酒運転が完全になくなってほしい」という言葉が、生きた言語として伝わる可能性は皆無となります。「弁護人が保釈請求を行うことが被害者や遺族に絶望をもたらしている」という事実を前にしても、「絶望するのは誤解だ」「絶望するのは法律を理解していないからだ」という感想しか出てきません。これは、飲酒運転や被害者保護を軽く考えているわけではなく、精一杯重く考えてもこの辺りが限界という事態であり、相互理解はまず不可能と思います。

小林美佳著 『性犯罪被害にあうということ』 その3

2009-12-22 00:39:01 | 読書感想文
この本の筆者である小林さんの事件については、まだ犯人が捕まっていない。しかし、実際に犯人が逮捕・起訴されたとしても、この種の犯罪では周知の通り、そこから先の裁判がまた大変である。従来の刑事法の制度設計では、演繹的に性犯罪被害者を眼中に入れることができないからである。強制わいせつ罪や強姦罪には、長らく6ヶ月間の告訴期間制限が設けられていた。これは、「犯人がいつまでも逮捕されるかわからない不安定な状況に置かれることは人権侵害である」との価値観が人権論に合致したからである。さらには、被害者が法廷の場に呼び出されて証言しなくてはならない苦痛は、典型的な二次的被害であり、特に事件を詳細に掘り返されて尋問される行為はセカンドレイプの典型である。平成12年の刑事訴訟法改正では、証言の際の証人への付添い、被告人と証人の遮蔽、ビデオリンク方式による別室からの証言を可能にする規定が新設されたが、そもそも近代刑法の大原則は、このような制度を上手く消化することができていない。

例えば、ビデオリンク方式の導入に対する反対論には、次のような強姦罪と強姦致傷罪の差異を強調するものがあった。「強姦罪は3年以上の懲役刑であるが、強姦致傷罪は無期懲役又は5年以上の懲役刑である。すなわち、被害者がレイプの際に怪我をしていたか否かによって、刑の重さが最低でも2年は異なることになり、しかも無期懲役の可能性すら出てくる。従って、被害者の傷がどの時点でどのように生じたのか、客観的な証拠及び多数の証言をもって明確に確定しなければならないことは言うまでもない。もちろん、我々は被害者の悲しみは十分に理解しなければならず、心のケアをしなければならない。しかし、そのことによって事実認定がおざなりになることは断じてあってはならない。ビデオリンク方式による別室からの証言は、裁判の大原則である直接主義が損なわれ、防御権・弁護権の中核である反対尋問権が侵害されており、日本国憲法第37条2項に違反するばかりか、フランス人権宣言によって確立された近代司法の大原則にも違反する。2年間の刑の重さの差、ましてや無期懲役の可能性は、人一人の人生を左右しかねないものであり、人の一生を決めるものであることを肝に銘じなければならない」。

このような考え方は、近代刑法の大原則が性犯罪被害者の二次的被害を助長していることは十分に認識しており、何とかしなければならないと思いつつも、もはや演繹的に身動きが取れないため、人権宣言や近代憲法といった権威を持ち出して、人間の微妙な心情を押し潰すしかなくなっている。ここにおいては、人間の理性から最も遠く離れた本能むきだしの獣の行為をした当事者が、なぜか人間の理性の象徴である人権宣言や近代憲法の担い手となる。これは、野獣が都合のよいときだけ人間界に帰っているような違和感を生じさせる。近代社会は人間の身体性よりも理性を上位に置いた。そのため、事件の現場を離れた大学の研究室で、刑法177条の「姦淫」の法解釈が、過去の判例の集積の上に観念的に繰り広げられている。ここにおいては、たった一人で誰の助けも得られず、ひたすら犯人の欲望が満たされることだけを待ち望んでいた事実や、そのような性犯罪被害者の人生の瞬間は彼女が生きている限りは消えない事実に対する絶望は欠落している。性犯罪被害者への裁判での二次的被害を防止しようとするならば、論理的には近代刑法の大原則を後退させ、反対尋問権を制限するしかない。ゆえに、この論理的な部分を直視しようとしなければ、「心のケア」と「癒し」で性犯罪被害者の口を封じるしか方法はなくなる。

野矢茂樹著 『はじめて考えるときのように』

2009-12-20 22:35:08 | 読書感想文
p.173~

たとえば内科医の常識と外科医の常識は違う。まして医者の常識と哲学者の常識はもっと違う。認知心理学の研究によれば、論理的推論でさえ、それぞれの領域に特徴的な推論の型をもっているんだそうだ。「世間の常識」というやつだって、文化や社会が異なればずいぶん違ったものになるだろう。

そうなると、たんに「常識」とだけ言ってすませるわけにはいかない。常識というのは、つねに、「どういうひとたちにとって」とか「どういう活動に関して」という限定がついたものになっている。そうそう、どうもそこんところがよくわかってないひとってのがいて、やたらわかりにくい取り扱い説明書があったり、窓口でやり方がわからないでマゴマゴしているとバッカじゃないのこいつみたいな顔をされたりとか、なんだか腹たつことがけっこうあって、それはぼくが非常識だからじゃなくて、つまり常識の範囲ってものが違うわけで、いやあ、住みにくい世の中だ。

と、いうわけで。「常識」というひとつのものがあるわけじゃない。むしろ「常識たち」といういくつものものがある。そしてぼくらは、それを場面に応じて、課題や問題に応じて使い分けている。だけど、深刻にむずかしいのは、世の中には常識どおりに話が進む類型的な問題じゃすまないものがいくらでもあるってことだ。


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法律学の常識においては、精神的苦痛は金銭的に算定することが可能です。法律実務家に求められる資質とは、目の前の事件の状況を把握し、過去の膨大な判例のサンプルを精査して、妥当な慰謝料の金額を導き出すことです。ゆえに、法律学の常識においては、より一層の基準の明確化のため、判例によるサンプルの集積が望まれています。また、慰謝料は単に高ければよいというものではなく、相場を超えた部分は贈与とみなされ、贈与税の対象となる点に気をつける必要もあります。

法律実務家が慰謝料の算定を行う場面において、精神的苦痛は本来金銭に換算できないことや、その人その人の苦しみは取り替えが効かないことを語ってしまえば、法律学の常識を理解していないと怒られて終わりでしょう。場合によっては、「バッカじゃないのこいつ」みたいな顔をされて切り捨てられるでしょう。しかしながら、深刻にむずかしいのは、世の中には常識どおりに話が進む類型的な問題では済まないものがあり、精神的苦痛の慰謝料の問題は、この問題の核心であるということです。そうでなければ、「お金など1円も要らないから死者を返してほしい」という願いは起きないはずだからです。

飲酒運転を繰り返す被告人の国選弁護人に選ばれた新人弁護士の心理状態について  前半

2009-12-17 00:06:03 | 実存・心理・宗教
「社会人」という言葉が改めて使われる時には、それが使われなければならない独特の状況に直面している時が多いように思われます。簡単に言ってしまえば、人間としての直観的な良心に照らして割り切れないにもかかわらず、目の前の生活のために妥協せざるを得ない場合、それを無意識に正当化しているような状況です。「社会人」とは、好きな仕事に囲まれて幸せな毎日を送っている人ではなく、やりたくない仕事であっても辞めてしまえば給料がもらえなくなるため、嫌々ながら仕事をしている人の別名ではないかとも思います。

国選弁護の仕事は順番に回ってきます。飲酒運転を繰り返して逮捕・勾留され、起訴された被告人から保釈の依頼があった場合、弁護士としては直観的に良心が咎めるのが普通だと思います。自らの行為の反省もそこそこに、保釈の要求ばかりするような被告人は、今後も飲酒運転をして人身事故を起こす危険があるからです。何よりも、これまで飲酒運転の犠牲になった人々が浮かばれません。しかしながら、被告人が現に保釈を請求し、被告人の親族が保釈金を用意しているにもかかわらず、弁護人が保釈請求をしなければ、弁護過誤であるとして懲戒請求を受ける恐れがあります。また、被告人が再度飲酒運転をして事故を起こしても、それだけで弁護士が懲戒処分を受けることはありません。ゆえに、ほぼ100パーセントの弁護士は、被告人の依頼に従って、裁判所に保釈請求をします。この正当化の論理において、潜在的に「社会人」は姿を表します。

そうは言っても、飲酒運転を繰り返しながら保釈を請求する被告人の言い分は、普通は説得力がありません。どの弁護士にとっても、第一印象は、「こいつは救いようがない」「弁護のしようがない」という状況が多いかと思います。人間の普通のバランス感覚からして、被告人の要求は虫がよすぎるからです。「保釈されないと会社を休んで迷惑がかかるんです」と叫んだところで、普通は「だったら逮捕されるようなことするなよ」とのツッコミが入るでしょう。また、「持病があるので掛かりつけの医者に行きたいんです」と叫んでみても、やはり「だったら逮捕されるようなことするなよ」とのツッコミが入るでしょう。はたまた、「家族が私の帰りを心配して食事も喉を通らないんです」と叫んだところで、やはり「だったら逮捕されるようなことするなよ」とのツッコミを受けて終わりです。

しかし、刑事弁護人としては、これでは保釈請求書が書けません。弁護士の仕事は、被告人を保釈してもらうことですから、嫌々ながらも裁判所によって決められた型通りの書類を仕上げなければなりません。仕事というものは、自分がやりたいことではなく、やらなければならないことをすることだからです。決められた目的に向かって、与えられた職務を全うしなければなりません。これが、お金をもらって働く「社会人」です。但し、仕事というものは、嫌々やってばかりでは身が持たなくなるというのも半面の真理です。そのため、嫌な仕事でも真面目に取り組んでいるうちにいつの間にか面白くなっていたという状況も、「社会人」の別の側面として生じてきます。ゆえに、刑事弁護人としても、「被告人は弁護のしようがない」では身が持たないため、「だったら逮捕されるようなことするなよ」とのツッコミを一旦引っ込めます。すると、不思議なことに、目の前の事態はガラッと変わります。

修復的司法の問題点 その7

2009-12-15 23:51:51 | 国家・政治・刑罰
高橋則夫著 『修復的司法の探求』 
p.1~ 「はしがき」より

学会報告後、数年経って、修復的司法というという言葉が、まさに世界を駆けめぐったのであるが、損害回復の問題がこの修復的司法の問題の一部であることを知って驚いたのは、何を隠そう自分自身であった。自分の研究が時代の潮流に押し流されているのを感じたのはこの時である。

もっとも、すでに、修復的司法の問題に関心を抱いている学者、実務家は、少なからずいたのである。そして、膨大な文献と世界各国の展開をフォローするためにも、若い研究者や実務家を集めて研究会をつくろうではないかという「共謀」が成立し、2000年にRJ研究会を発足させたのである。すでにいくつかの企画が予定されており、これが続々刊行されることによって、修復的司法の理論と実践が今後さらに展開していくことであろう。

修復的司法は、最近では、各雑誌の特集のテーマになったり、実務家の方々の実践も開始されたり、若い研究者も研究テーマにあげたり、流行のテーマとなっているようであるが、流行は急速に去りゆくものである。一時的な流行に終わらせないためにも、修復的司法の理論と実践を着実に進展させなければならない。

そのためには、様々な人々との共同作業が必要となり、一種の共同体の形成が必要となろう。リベラルな共同体論に立脚する修復的司法を研究するために、研究する側において一種の共同体を形成しなければならないというのは、何と興味深いことであろうか。


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中島義道著 『差別感情の哲学』 
p.172~ 「あらゆる『賞賛』に冷淡であること」より

私は地上のありとあらゆる「賞」を嫌悪するようになった。誰がいかなる偉業を成し遂げようともそれほど感心しないのである。いや、それを讃える人々、それに応える英雄たちの喜々とした顔に、善くないもの、真実でないもの、美しくないものを見てしまう。それが、いかに人類のためになろうと、いかに謙虚で地味な研究であろうと、人は自分の仕事に関して「誉められること」を承認してはならないと思うのだ。

数年前にニュースで知ったのだが、近所のスーパーに幼い子供を2人連れて車で買い物に来た主婦が、駐車場で子供をいったん降ろしバックして車を停めたところ、2人の子供はその車の下敷きになって死んでいた。その母親が自殺せずに後悔と自責に塗れて生き続ける尊厳に比べれば、いかなる受賞者のなした偉業もほとんど無であるように思う。

かなり昔の事件であるが、ある出版社に勤める中年の男が息子の家庭内暴力に疲れ果てて、息子の睡眠中その頭を金属バットで滅多打ちにして殺した。夫が息子を殺した衝撃から、夫の妻は首吊り自殺を図った。夫にとって、あるいは残された娘にとって、人生とはなんと過酷なものであろう。「なぜ自分たちにこの人生が与えられたのであろうか?」と天に向かって叫びたいことであろう。

こういう人は、まさに地獄のような人生を生き抜いたとしても、誰からも誉められず、むしろ中傷され、非難され、迫害され、耐えに耐えしのんで、そのまま死ぬのである。私は、誰がいかに偉大なことを成し遂げても、こうした人々の偉大さの足許にも及ばないと心の底から感じる。そして、カール・バルトの言葉がますます心に染み渡る。「人間を人間仲間のあいだにあって、すばらしく思わせるものはすべて仮面である」。


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別に高橋氏の文章と中島氏の文章を比べてどうなるわけでもありません。どうしても比べてみたくなっただけです。

中島氏の文章は、私の心に「ずしん」と来ました。高橋氏の文章は「ずしん」と来ませんでした。修復的司法の問題点とは、この違いのことだと思います。

朝日新聞「オーサー・ビジット」 姜尚中氏@聖和学院高

2009-12-13 23:17:48 | その他
「他人との関係を考える前に、まず自分自身とのかかわりについて考える必要があります」。話しながら黒板に「自己内対話」と書いた。「人間には、自分を見つめる、もうひとりの自分がいる。その内なる自分が『それでいいのか』と語りかけてくる。対話することで自己を省みるのです」。

姜さんによれば、自己内対話がないと、他者とつながるのは難しい。たとえば、携帯メール。反射的に返事を送るのが常識と思っている人も多い。しかし、着信と返信の間に自己内対話を差し挟む余地がないと、やりとりは手軽だけれど心に届かないものとなる。

逆に、他者とのかかわりがないと、自己内対話が続かない。秋葉原の無差別殺傷事件では「彼は誰とも本当の意味でかかわれず、社会とのきずなを実感できなかった。だから自己内対話も打ち切って、犯行に走ったのでしょう」。姜さんも、悩み多き思春期を過ごした。「自分の居場所がなくて苦しんだ時期は、本ばかり読んだ。読書で自己内対話を深めることができました」とまとめた。


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「人は孤独でも生きられる」という言い回しは、逆説的なニュアンスを含んでいるように思います。そうかと言って、「人は孤独では生きられない」と言ってしまえば、いかにも軽薄なニュアンスを含んでしまうようです。

自己内対話を繰り返した末に絞り出した言葉が、全く思ってもいないような方向で解釈されてしまうことは、単なるすれ違いを超えた激しいショックをもたらすものだと思います。特に、問いの共有を求めて発した言葉に対して、「そんなにご自分を責めないでください」という回答が返ってきてしまえば、アホらしくて返事もしたくなくなるのが普通でしょう。もうひとりの内なる自分が、自分を冷静に客観視して記述することは、自分で自分を責めることとは全く別だからです。

問いの共有を求めて発した言葉に対して、「もうあなたの中に答えは出ているのではありませんか」という答えが返ってくるのも、非常に脱力する瞬間だと思います。自問自答を経て、内なるもうひとりの自分が自分に言葉を語らせているのに、そのこと自体が伝わっていないからです。結局、言葉が心に届くか届かないかの違いは、自己内対話を経た者同士、すなわち自分の中のもうひとりの自分同士の対話による一瞬の判断ではないのかと思います。

朝日新聞「オーサー・ビジット」 養老孟司氏@愛知県立岡崎高校

2009-12-12 23:55:12 | その他
解剖学者の養老孟司さんは、黒板をフルに使っていた。〈同じ=オナジ〉と板書し、「ふたつは、同じ?」。くすっと笑い声が起きる。黒板を消し、今度は〈A〉と書く。「いまは、うっかりすると個性を伸ばすとか言うでしょう」。さらに隣に、ノッポに伸びた〈A〉の文字を並べると朗らかな笑い声が。

質問タイムになると次々と手が挙がった。「インターネットの世界がすべて過去だとすると、現在って何なんですか」。「ネットの記述は過ぎ去ったことばかり」「現在ほど、若者が過去にはまりこんでしまった時代はない」。養老さんの話に混乱した様子の生徒から出た質問だ。養老さんは、質問者の目をじっと見ていう。「ほら、こうして話している、この瞬間じゃないか」。「これ、この時間だよ」と養老さんが念押しすると、アハハと笑い声が起きた。

なかなか生徒が納得できずにいたのは「個性」について。養老さんは、比叡山の「千日回峰行」を例に挙げた。「誰も追跡するわけじゃないのに、なんで千日も山の中を歩きまわるのかわかる?」。生徒たちは無言だ。〈本人〉と書いた。修行は、他人に誇示するためにするのではない。ひとのやらないことをしたと「自分」で納得するのが修行。「個性」もまた、誰かにアピールするようなものではない、と説明する。


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「ネットの記述は過ぎ去ったことばかりである」という命題においては、日記形式のブログほど、この真実があてはまってしまうものはないでしょう。ブログを辞める理由のベスト4が、「ネタがない」「飽きた」「忙しい」「アクセスが少なくてやる気がなくなった」だと聞いたことがあります。確かに、1年前の記事を見ても2年前の記事を見ても「今年もヽ(゜Д゜;)ノ!!あとわずか! _| ̄|○」とか「もうすぐ♪クリスマスがやって来る ゜:♫;☆⌒v⌒v⌒ヾ」と書いてあるのを発見すれば、今後もブログを続けることに一抹の疑問を感じるはずだと思います。

「ネットの記述は過ぎ去ったことばかりである」という命題において、ブログの意義は、思考の深まりや試行錯誤の過程を示す点に求められると思います。しかしながら、私が見出したブログの最大の意義は、「いずれ時が悲しみを癒してくれる」という言葉への反証です。もちろん、「時は悲しみを癒さない」と断定するわけではありません。日々のブログの記述は、時の流れそのものの足跡であるところの日記において、色々試してみてはその苦しみや悲しみが到底人一人の力では抱えきれないことを改めて示しており、それが人が生きることそのものになっているような、「過ぎ去ったこと」を示しているのだと思います。