犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

光市母子殺害事件差戻審 29・ 人の心の痛みはわからない

2008-04-17 20:10:00 | 時間・生死・人生
「人を殺してみたかった」。「殺す相手は誰でもよかった」。凶悪犯罪が起きると、犯人のこのようなコメントがよく聞かれる。どうしてこのような他人の心の痛みがわからない人間が存在してしまったのか。他人の心の痛みをわからせるには、どうしたらよいのか。一般に、道徳的にはこのように問える。しかしながら、これを教えようとすると、なかなか難しい問題にぶつかってしまう。他人の心の痛みが想像できる人は、他人の心の痛みがわからない人間に震撼とさせられる。そして、「他人の心の痛みが想像できない」という人の心の構造が、どうしても想像できない。つまり、「想像できない」という人のことが想像できない。ところが、「想像しろ」と教育をすることができるのは想像できない人のみであり、想像できる人では教育にならない。この矛盾は必然的である。

我思う、ゆえに我あり。誰でも、自分自身が現に物事を考えていることは認めざるを得ない。これを一般には意識と呼ぶ。そして、「他者にもこのようなものがあるのだろうか」という問いが成立する。この問いは入れ子式になり、無限に累進して循環する。私には私の私があるように、他者には他者の私があり、その誰にとっても必然的に他者がいる以上、自分とはどの自分のことか、確定できなくなる。そして、他者に意識があるのか否かは、他者というものの定義上、わからない。この世の制度は、恐らく他者にも意識があるのだろうという約束事の下に作られており、「他者の心の痛みに共感する」という教育もその延長線上にある。しかしながら、その他者はあくまでも現実の他者ではなく、自分の中に登場している他者である。そして、その自分は、他者における他者であり、その限りで自分ではない。

このような哲学的な事実は、一見すれば、他者の心の痛みをわからせたいという道徳論からは警戒されるような内容を持っている。しかしながら、このような恐るべき事実に直面すれば、逆説的に、人の心の痛みがよくわかるようになるはずである。わからないならばわかるしかないという強制である。その他者はあくまでも現実の他者ではなく、自分の中に登場している他者であるならば、「人を殺してみたかった」という意志は起こらない。殺してどうなるものでもないからである。また、「殺す相手は誰でもよかった」という意志も起きようがない。他者には他者の私があり、自分とはどの自分のことか確定できない以上、他者もどの他者のことか確定できなくなり、誰でもいいという観念自体が生じないからである。無差別の理由なき殺人は、一見すれば不可解な心の闇を持っているように見えるが、そのようなものはない。考えが足りないだけである。

人権論によれば、単に死者には人権がないが被告人には人権があるという話で終わってしまうが、本来自分というものは、人間でも物質でもなく、その存在が許される唯一の存在そのものである。私だけが世界からはみ出し、それゆえに私だけがこの世界である。世界は私の世界であり、同時に私の世界は世界一般である。光市事件の元少年は、手紙において「選ばれし人間は人類のため社会道徳を踏み外し、悪さをする権利がある」と書いているが、これは実に当たっている。ただ、その殺人行為をする相手を間違えただけで、本人が自殺すれば済んだだけである。また元少年は、「裁判なんてちょろい」とも語っているが、これは文句なく大正解である。一流の俳優になればなるほど、自己とキャラクター(架空の人物・仮想の他者)との区別などなくなり、演技と本音の区別もなくなる。他者が現実の他者ではなく、自分の中に登場している他者であるならば、裁判官を騙すことなど簡単である。