犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

光市母子殺害事件差戻審 45・ 「言葉のプロ」が言葉に負けた

2008-04-23 22:13:52 | 言語・論理・構造
法曹とは、法律という言葉を扱う職業である。そして、弁護士とは言葉のプロである。刑法199条の「人を殺した者」のたった6文字について、膨大な数の判例を読み、文献を読み、人生を賭けて解釈する。弁護団からすれば、言葉のアマチュアである遺族の言葉は論理ではなく感情で語られるものであり、取るに値しないはずであった。ところが、昨日の判決を受けた本村洋氏と安田好弘弁護士の会見を受けた多くの国民の反応は全く違った。本村氏は、妻子のみならず死刑によって加害者を含めた3人の命が失われてしまうことに言及し、この判決が社会を良くしていく契機となることを望んだ。これに対して安田弁護士は、判決は極めて不当であり、厳罰化を加速するものであるとして危機感を示した。どちらが論理的でどちらが感情的か、答えは一見して明らかである。

昨日の判決をめぐる多くのブログを見てみると、一般論としての死刑存置論と死刑廃止論とは別に、「司法の良識は生きていた」「裁判所は信頼に値する」といった安堵感と、本村氏の人格に対する賞賛の声が非常に多い。これは純粋に、思想の自由市場における言葉の力である。すなわち、「言葉のプロ」である弁護団が言葉に負けたことを意味する。本村氏は犯罪被害者の遺族として語ると同時に、1人の人間としての偽らざる言葉を語った。これは特殊な地位であるが故に、同時に万人において普遍である。これに対して弁護団は、あくまでも人権派弁護士の肩書きにおいて、部分的な正義の言葉を語った。人間の生死について、「人を殺した者」「死刑に処する」といった条文の中においてのみ語り、定義によって閉じられた世界で完結させようとした。このようなことになれば、当然大小関係によって、普遍が部分を包括することになる。プロが負けるのも当然である。

安田弁護士は、厳罰化によって死刑の適用が増えることを危惧している。しかしながら、これは記者が本村氏に対して「この判決で死刑に対するハードルが下がった事に対してどう思いますか?」との質問をしたのと同じく、視点があまりにも下品である。そもそも死刑とは、世界でたった1つしかない生命を意図的に奪う行為であって、ゆえに死刑論議は生命倫理を含む哲学的な問題でなければならない。死刑判決が増えたり減ったり、数字的な上下をもって政治的に争うことは、そもそも死刑の性質からして背理である。安田弁護士は長年死刑廃止運動に携わっていながら、その程度のこともわかっていないのかという印象である。これに対して本村氏は、上記の質問に対して、「何より過去の判例にとらわれず、個別の事案を審査しその案件に合った判決を出すという風土が司法に生まれる事を僕は切望します」と述べた。死刑廃止論の哲学としても、本村氏のほうが数段上であろう。

本村氏の9年間の苦悩は、すべては元少年の1つの犯罪から始まっている。元少年があのような行為を犯していなければ、すべては始まっていなかった。弁護団のように、閉じられた世界の中での部分的な言葉を語ると、この簡単なことが見落とされる。抽象論として厳罰化云々を論じるよりも、厳罰を受けるような犯罪をなくすことが論理的に先である。言葉のプロである弁護団は、自らその言語によって構築した体系を絶対化し、個々の人間を裁判における役割の中に当てはめ、その型の中に人間をねじ込んだ。そこでは、被害者遺族は感情的に厳罰を求める存在であり、大衆はその悲惨さに惑わされて死刑の拡大を望む存在である。このような状況において、昨日の判決に対する多くの国民の声は、この体系が部分的な正義に過ぎないことを明らかにした。本村氏と安田弁護士の記者会見は、論理の足場の強固さが格段に違った。本村氏は人間として語り、安田弁護士は肩書きにおいて語ったからである。


光市母子殺害、当時18歳の男に死刑判決…広島高裁(読売新聞) - goo ニュース

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