犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

ひろさちや著 『昔話にはウラがある』

2011-02-28 00:08:18 | 読書感想文
p.143~ 「兎と亀」より

 イランの「兎と亀」は、まったく日本版と違っているのだ。「……この亀は頭のいい亀だ。それで、競走を始める前に、自分にそっくりな弟がいるので、その弟を呼んで来て、ゴールに立たせておいてから競走をした」。それじゃあ、兎がどんなに速く走っても亀に負けるはずだ。
 「そんなの、亀はズルイではないか?!」 わたしは抗議した。しかし、イラン人は、「いいや、亀は頭がいいのだ」と頑固に主張する。じつはイランではこの「兎と亀」の話を子どもたちに聞かせて、「おまえたちは競争はしてはいけないよ!」とと教えているそうだ。

 インドの「兎と亀」の話は、日本と同じであった。つまり、兎は昼寝をして亀に敗れたわけだ。「兎はノー・プロブレムだ。悪いのは亀だ!」 年寄りのインド人がそう答えた。なぜ亀が悪いのか、わたしにはわからない。それで問い尋ねると、インド人は軽蔑したような目つきでこう語った。
 「そんなの、亀が悪いことはわかるはずだ。亀は兎を追い越したんだろう。どうしてそのとき“もしもし兎さん、目を醒ましたらどうですか……”と、一声かけてやらなかったのだ?! その一声をかけてやるのが友情だろう。その亀に友情がないじゃないか」。なるほど、そうだ。わたしは感心した。

 アフリカのカメルーンに住むバフト人のあいだにも、「兎と亀」の話があるそうだ。朝日新聞「天声人語」が紹介しているので、孫引きさせてもらう。
 当日、早朝から亀は親類の亀たちを集めた。走る道筋に一定の間隔で隠れていてくれと頼む。そして出走。兎はのんびり走り始めた。しばらくして「亀くん、まだついて来るかい」と叫ぶ。驚いたことに「ええ、すぐ後ろにいますよ」と亀の声が聞こえる。あわてて速度を上げた兎は、途中で確かめるたびに「すぐ後ろですよ」と落ち着いた声で言われ、走りに走る。ついにゴールで倒れて死んだ。亀の勝ち。


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 昔話を知らない子どもが増えているとのニュースを聞きます。地域の民話の伝承も廃れがちだそうです。情報化社会となり、人間の処理能力を超える情報が溢れ、大人も子どもも昔話に付き合っている暇がなくなったのだと思いますが、昔話の虚構を虚構として受け止める思考の枠組みそのものが消滅つつあるような気もします。

 昔話はもともと良く解らない内容を含んでおり、毒にも薬にもならない点に面白さを感じるものだと思います。そして、解釈が分かれる余地を含んでいることが、自分でものを考えざるを得ない契機となっており、人間の思考の基礎を育成しているのだと感じます。昔話が「面白くも何ともないもの」として切り捨てられる情報の1つに分類されるならば、その損失は計り知れないものと思います。

笹澤豊著 『自分の頭で考える倫理』

2011-02-24 23:04:59 | 読書感想文
p.36~
 フランス革命は、自由・平等という初発の理念をかかげながらも、その後、この理念からはほど遠い惨憺たる状況におちいり、たちまち破綻をあらわにした。フィヒテが解釈したように、フランス革命がカント的道徳国家を樹立する企てだったとしたら、この革命の陰惨な成り行きは、カント的道徳国家がしょせんは生身の人間の住めない代物だということを、如実に実証したことになる。

p.76~
 人―間の敵対関係は、人の間にさまざまな悲惨をもたらす。カントは法を、人間がそういう悲惨から抜け出すために、(理性によって)案出した保安の装置だと考えた。法が衝動や欲望を抑制し、秩序維持の要として機能する社会は、この理性主義者にとっては、おおいに歓迎すべきものだった。法の支配は<理性の世界支配>という目標に社会が近づく跳躍台としての意味を持つ、とカントは考えていた。
 しかし、我々にとってはどうなのか。法という統御装置によって、たしかに我々の身の安全は保障される。それはそれで歓迎すべきことだろう。だが、問題は、この理性の装置によって抑圧された衝動や情念が、どこに向かうかである。

p.87~
 ヘーゲルは、親密な人々の結合によって成り立つような共同体を、共同の理想の姿と考え、そういう共同体の形成原理を探求することに思索をかたむけていた。ところが「権利」の思想は、そういう共同体の形成をおよそ不可能にするような、バラバラの状態へと人々をおちいらせてしまう。
 「権利」の思想は、人々をバラバラの分散状態におくとともに、このバラバラの個人を統合しようとする結果、必然的に、抑圧的な「強制のシステム」をつくりだす、というわけだが、思うに、そういう社会のあり方、つまりヘーゲルがユダヤ民族に仮託して抽出しようとした彼の時代の現実は、また、現代という我々の時代の姿でもあるのではないだろうか。
 法治国家の国民でもある我々は、国民の諸権利を保障する法の保護のもとで生活している。「法の保護のもとで」ということは、裏を返せば、「法の支配下で」ということだ。この法が我々の衝動や欲望を抑制し、情念を抑圧する面を持つことについてはすでに述べたが、我々を支配するこの法は、また、人と人との関係を切断して、個々人をバラバラの分散状態におき入れる装置でもある。

p.181~
 私は、ニーチェの洞察は、民主主義の出生の秘密を明るみに出した点で、大きな意味を持っていると考えている。<力への意志>をいだき、少数の強者を支配下におこうと考える多数派の人々は、結束することでその目的を達成する。そこで彼らは、彼らの共同体の結束を強固なものにしようとして、「権利の平等」という約定を、神聖なものとして祭りあげ、やがてそれを絶対視するようになるだろう、と私は述べた。
 問題は、この「権利の平等」の約定だが、そこには「力によって他人を支配しようとすることは、断じて許されない行為だ」という含意がこめられている。つまりこの約定は、<力への意志>そのものの否定を、暗黙の理念としてかかげているのである。その約定が、(多数者の)<力への意志>に出自を持つ、などということは、彼らからすれば、あってはならないことなのだ。


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 10年以上前の本です。カント、ヘーゲル、ニーチェについて語りながら、女子高生の援助交際について色々と論じています。その当時、援助交際はマスコミに大きく取り上げられて社会問題となっており、道徳・倫理のアカデミズムにおいても捨て置けない事態であったことがわかります。援助交際が悪いというならばなぜ悪いのか、「個人の自由である」「特に誰も迷惑をかけていない」「買う大人がいるから悪い」という理屈のどこがどう問題なのか、笹澤氏が自問自答して苦しんでいる過程が看て取れます。

 援助交際の何がどう悪いのかという結論が出ないまま、その当時の女子高生は現在30歳前後になっています。幼児虐待、DV、モンスターペアレントといった現代の病理現象と、当時の援助交際の問題がどうつながるのか、私にはよくわかりません。つなげて考えたところで、「あの時に手を打たなかったのが間違いだった」「もう手遅れだ」という結論に至るのがオチだと思います。ただ、アカデミズムの世界では、15年前の理論が通用するか否かを論じる際に、人間はその間に15歳年をとっていることを計算に入れず、論点相互間の動的な把握が難しいことは確かだと思います。

西村賢太著 『苦役列車』より

2011-02-20 22:21:52 | 読書感想文
p.144~

 堀木克三の、昭和41年時にすでに業績も存在も忘れ去られた状況の中で、自らあのようなものを刊行した或る意味不屈の姿勢には、本来敬意を表するべきであろう。
 しかし、これには一方で何んとも云いようのない嫌悪感も、同時に湧き上がってきてしまう。その種の妄念に、耐え難い惨めさを感じてならないのだ。

 と、彼は忽然、これに自らのそう遠からぬ将来の姿を見た思いにとらわれてくる。
 彼もまた、このままおめおめと生き永らえたならば、老いて収入も乏しい独り身を安アパートの一室で持て余し、その果てに最早彼には一切の需要がなくなって久しい一つ覚えの私小説なぞ、最後の意地で自刊しかねぬところがある。無論その内容たるやは、永いブランクの影響もあり、今に輪をかけて読むに耐えぬ、いかにも中卒の作文レベルのものである。そして根がどこまでもスタイリストにできてる分、経歴欄もかの堀木以上にそっけなく、過去の仕事については一切触れぬ上で、“まだ見ぬ読者へ”と云った痛いあとがきを自身の“絶筆”と称し、付してしまいかねないところがある。


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 天下国家を論じる者にとっては、私小説など無益で取るに足らない存在だと思います。「老いて収入も乏しい独り身を安アパートの一室で持て余し」という状態は、国民全体で取り組むべき無縁社会の問題でなければならず、国民一人一人が自分の問題として議論して解決策を探らなければならないのであって、その前に本人に自虐的に語られてしまっては腰砕けだからです。プロレタリア文学が個人主義的文学を凌駕した歴史もあります。

 「明るい、暗い」という世間的な二項対立で捉えれば、この小説は、完全に「暗い」のほうに分類されるはずです。他方で、現代社会の人々が老後の孤独死への漠然とした恐れに煽り立てられ、かつ目先の出来事に一喜一憂している矛盾によって明るさを保ち、かつ暗さから逃れられないでいるとすれば、この小説は「明るい」のほうに分類されるべきものと思います。経済問題の多くは、西村氏が正確に指摘するような嫌悪感、妄念、耐え難い惨めさを含んでいるからです。

杉原美津子著 『ふたたび、生きて、愛して、考えたこと』

2011-02-18 00:07:45 | 読書感想文
p.19~
 私は年月が経過していくにつれて、身体は「病人」の身から日常の生活ができるまでに少しずつ回復していったものの、心は身体の回復に追いついていくことができなかった。人といても街のにぎわいの中に身を置いていても、人々の姿も街の風景もあの日の噴き上がった炎の記憶に隔てられ、私には幻のようにしか感じられない。夢の中で、あの夜と同じオレンジ色の炎が、いつまで経っても私を追いかけてくる。
 その熱傷の傷跡の醜さに、私はいつまでもこだわった。そのことが哀しく歯がゆく恥ずかしく悔しかった。
 「もう、いい加減、卒業してもいいだろう」。ある日返ってきた、荘六(夫)の、ものともしない言葉に肩透かしを食らい、私はバランスを失った。もう、いい加減、卒業してもいいだろう……。それは、焼けた皮膚が人目につくことをびくびくと気にしている私に、そんなもの払いのけてしまえと言ってくれた、力強いエールだったのだろう。だがそのエールが私には、荘六からも見放されたような、残酷な言葉に響いた。

p.97~
 「自分の言葉」というものは、体験が血肉となって熟成し、こころの中から醸成されて生まれてくる。その確かな「自分の言葉」が迸り出てきた時、「いかに生きるべきか」という問いに、「こうありたい」という明確な自分の答えを出すことができる。そのためには、五感を研ぎ澄ませ、自分の感性でさまざまな体験を貪欲に咀嚼していかなければならない。
 振り返れば私は幾度となく、過酷な場面に立たされてきたかもしれないが、その体験を通して五感を磨き、選ぶべきものを選ぶことを、試され教えられてきたように思う。その牽引役をしたのが、良くも悪くも荘六だったかもしれない。

p.148~
 いかに生きるべきか。その自問自答が、人間に与えられた一生の仕事だと思う。人間に平等に必要不可欠に授けられたものは、「生きること」と「愛すること」と「死ぬこと」だと思う。この3つが繋がって、「いかに生きるべきか」の問いに答えてくれる。

p.151~
 死という、そのデッドラインまでのラストスパートの距離がわからない。だがその最期の時まで、習作を重ねてきた原稿を推敲するようにして生き、いらない言葉を削ぎ落とすようにして死んでいきたい。


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 法律の理論に携わる者にとっても、法律の実務に携わる者にとっても、犯罪被害者のその後の人生を追うことは、その職務の範囲ではありません。事件の名前だけが講学上必要な範囲で引用されるのみです。刑事政策学においても、例えば「三菱重工ビル爆破事件」は犯罪被害者等給付金支給法の制定の契機として、「新宿西口バス放火事件」は保安処分の導入の是非が激しく争われた契機として、文献に名が残っています。

 刑事裁判は被害者の感情を噴出させる場ではないとの専門家の論理は、他方で人間的な動機も伴っています。それは、法律の理論に携わる者においては、判例の射程に関する学問的な興味となって現れます。地裁の判例が過去の最高裁判例の射程を超えれば、当事者の裁判の負担など関係なく、専門家は控訴・上告を望みます。他方、法律の実務に携わる者は、画期的な判決を獲得することへの欲望から逃れることはできません。将来的に同じ事件が起きたときに救済がなされれば、それは自身の功績であるということです。

 これらの犯罪被害に関する法律の客観的な論理は、実際に犯罪被害に遭った杉原氏の主観的な言葉の前では、その深さにおいて勝負にならないと感じます。人間に平等に必要不可欠に授けられたものの1つに「死ぬこと」があり、その最期の時を前にしていらない言葉を削ぎ落とすならば、人は自身の死後の判例変更を目にすることもできず、死後の画期的な判決を読むこともできないと気付くからです。

古処誠二著 『分岐点』

2011-02-15 00:02:39 | 読書感想文
p.306~

 考え、そして知る努力を放棄するなら、人は獣に落ちぶれる。与えられたものだけ吸収するなら家畜と同じだ。
 片桐さんは言っていたよ。何を考えても無駄、それが現地の兵隊だったと。自分で考えて行動する余地などなかった。下された命令を遂行しなければ生きていけなかったと。今となれば、それは僕にも分かる。内地も同じだったからね。納得の努力など無意味だったし、むしろ足枷となるばかりだった。

 片桐さんはこうも言っていた。あの伍長たちと自分に違いはないと。ただ何を知り何を知らずにいたかの違いでしかないと。
 だから僕は尋ねてみた。もし片桐さんがもう少し早く生まれていて、兵として大陸に送られていたら、あの伍長たちと同じ事をしていましたかと。匪賊討伐の名目で上官が蛮行を黙認する馬鹿だったなら同じ事をしていましたかと。片桐さんはうなずいたよ。自分はやらなかったと言う資格も自信もないと答えた。

 君はどう思う。もし片桐さんの言う通りなら、僕らはしょせんお釈迦様の手のひらで藻掻いているだけだということになる。今は、お釈迦様がアメリカに変わったというだけのことになる。事実、新聞も教師も手のひらを返したそうだね。アメリカは良い国だって連呼し始めたと聞いたよ。
 まるで命令に盲従する兵隊だね。戦争中とまったく同じだよ。お釈迦様に合わせて言動を変える連中は、ものを考える力がない家畜だと自分で証明してみせているだけだ。そんな連中の言うことなど聞いても意味がない。僕は家畜じゃない。宦官の弁に耳を傾けるつもりはない。自分でやったことの是非くらい自分で判断する。


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 現在の労働環境(低賃金・長時間労働・リストラ・過労死など)を軍隊になぞらえている文章を読み、深く納得したことがあります。「自分の頭で考えろ」と言うのは簡単です。そして、経済社会において価値のある考えは、利益を生み出すことのできるもののみであり、それ以外は無用の考えです。儲けに結びつかないならば何を考えても無駄であり、自分で考えて行動する余地はなく、下された命令を遂行しなければ生きていけない点において、人間社会の行われていることはどの時代も変わらないと思います。

 人が人である理由は、「自分の頭で考える」ことができる点にある以上、他人の頭で考えたことに従って行動することを強いられるならば、それは人が人であることの否定です。しかしながら、死なないで生きるためには生活の糧を得る必要があり、その場面においては「自分の頭で考える」ことが足枷となります。権力を持つ者の下で捨て駒にならざるを得ないということです。ここでは、人の「自分の頭で考える」能力が精神を病む原因となり、人を死へと追いやることとなります。この点においても、現代の労働環境と軍隊とは似ていると感じます。

 過労死や過労自殺の労働裁判においては、社員が「自分の頭で考える」ことができる立場にあったか否かが非常に大きいと感じます。自分で段取りをし、決定権を有し、裁量権を与えられているかという点が、人間の精神状態の根本の部分を左右しています。しかし、これは客観的な数値として表すことが難しく、しかも証拠で事実を立証するというシステムに合いません。そのため、労働時間の長短や賃金額の高低の問題に取って代わられます。労働問題に取り組む弁護士の多くは、戦争については憲法9条をスタートラインとしているので、問題の形が決まってしまっているようにも思います。

和解勧告 前半

2011-02-12 23:55:57 | 国家・政治・刑罰

 民事裁判に携わる裁判官は、判決を書きたがらず、原告と被告を和解させようとする。判決文を書くには労力がかかるからである。中には、原告と被告が和解を拒み、判決を望んでも、なお和解勧告を試みて期日を重ねる裁判官もいる。これは、書かなければならない判決が溜まっているときの引き延ばし策である。そして、それを上手く誘導するのは裁判所書記官の役目である。
 
 原告側の弁護士からは、悲鳴に近い電話が書記官室にかかってくる。弁護士の言葉は、書記官である彼の胸に容赦なく突き刺さる。
 原告本人は、すでに精神的に限界に来ているという。この期に至っては、勝ちなら勝ち、負けなら負けでよい。腹は括っている。宙ぶらりんの状態に置かれるのが一番つらい。そして、あまりに裁判が進まないと、弁護士が真剣に訴訟に取り組んでないように思われ、原告本人と弁護士の信頼関係が崩れてくる。弁護士の立場も少しは考えてくれないだろうか。彼は、弁護士の言葉に対し、わざと苦しそうな声色を作って「裁判官に伝えます」と繰り返すしかない。

 被告側の弁護士からも、不快感を露わにした電話が定期的にかかってくる。彼は何度も怒号の矢面に立たされているが、なかなか免疫力がつかない。
 弁護士によれば、被告本人は裁判所の遅延のせいで今後の生活の見通しが立たず、国家賠償を検討せんばかりの剣幕だそうである。彼は立場上、やはり「裁判官に伝えます」と繰り返すしかないが、弁護士は「人のせいにするんじゃないよ」と憤慨する。彼は苦し紛れに「裁判所も大量の事件で忙しいんです」と理解を求めるが、弁護士は「忙しいのはどこも同じだ。理由になるか」と激怒して火に油となる。

 裁判所への審理の催促には、大きく分けて、「不快感」と「悲鳴」がある。前者は爆弾であり、後者は地雷である。人間の心理としては、爆弾のほうが遥かに単純である。
 裁判など一刻も早く終わらせて、事件そのものを忘れたい。勝ちでも負けでもいいから、とにかく過去のことにしたい。引きずりたくない。このような意志を有する側からは、強烈な不快感が爆弾となって投げつけられる。これは多くの場合、被告側である。
 他方、悲鳴が地雷となる側、すなわち原告側の多くは、勝ちでも負けでも救われることがない。裁判を起こした以上は、表面的には「無念を晴らす」「正義を示す」という大義名分が必要である。しかし、実際のところは、裁判を闘っていないと死んでしまうという恐怖感が、裁判を続けている根底の部分にある。裁判の過程でますます傷つき、二次的被害を受けようとも、事件以外のところで気を紛らわすことなどできるはずもない。


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フィクションです。後半に続きます。

夏目漱石著 『吾輩は猫である』より (2)

2011-02-09 23:47:03 | 読書感想文
p.445~

 見ず知らずの人のために眉をひそめたり、鼻をかんだり、嘆息をするのは、決して自然の傾向ではない。人間がそんなに情深い、思いやりのある動物であるとははなはだ受け取りにくい。ただ世の中に生れて来た賦税として、時々交際のために涙を流して見たり、気の毒な顔を作って見せたりするばかりである。云わばごまかし性表情で、実を云うと大分骨が折れる芸術である。
 このごまかしをうまくやるものを芸術的良心の強い人と云って、これは世間から大変珍重される。だから人から珍重される人間ほど怪しいものはない。試して見ればすぐ分る。この点において主人はむしろ拙な部類に属すると云ってよろしい。拙だから珍重されない。珍重されないから、内部の冷淡を存外隠すところもなく発表している。
 冷淡は人間の本来の性質であって、その性質をかくそうと力めないのは正直な人である。もし諸君がかかる際に冷淡以上を望んだら、それこそ人間を買い被ったと云わなければならない。

 いやしくも人間に生れる以上は踏んだり、蹴たり、どやされたりして、しかも人が振りむきもせぬ時、平気でいる覚悟が必用であるのみならず、唾を吐きかけられ、糞をたれかけられた上に、大きな声で笑われるのを快よく思わなくてはならない。それでなくてはかように利口な女と名のつくものと交際は出来ない。
 武右衛門先生もちょっとしたはずみから、とんだ間違をして大に恐れ入ってはいるようなものの、かように恐れ入ってるものを蔭で笑うのは失敬だとくらいは思うかも知れないが、それは年が行かない稚気というもので、人が失礼をした時に怒るのを気が小さいと先方では名づけるそうだから、そう云われるのがいやならおとなしくするがよろしい。

 武右衛門君はただに我儘なるのみならず、他人は己れに向って必ず親切でなくてはならんと云う、人間を買い被った仮定から出立している。笑われるなどとは思も寄らなかったろう。武右衛門君は監督の家へ来て、きっと人間について、一の真理を発明したに相違ない。
 彼はこの真理のために将来ますます本当の人間になるだろう。人の心配には冷淡になるだろう、人の困る時には大きな声で笑うだろう。かくのごとくにして天下は未来の武右衛門君をもって充たされるであろう。金田君及び金田令夫人をもって充たされるであろう。吾輩は切に武右衛門君のために瞬時も早く自覚して真人間になられん事を希望するのである。
 しからずんばいかに心配するとも、いかに後悔するとも、いかに善に移るの心が切実なりとも、とうてい金田君のごとき成功は得られんのである。いな社会は遠からずして君を人間の居住地以外に放逐するであろう。文明中学の退校どころではない。


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 以前、『あらすじで読む日本の名著』を読んだ際、それが原著を読む契機となれば悪くないと考えていましたが、そのような契機は訪れませんでした。入口が違ったのだと思います。「読書して考えないのは、食事をして消化しないのと同じである」というエドマンド・バーク(イギリスの哲学者)の言葉を思い出しました。

夏目漱石著 『吾輩は猫である』より (1)

2011-02-07 23:45:00 | 読書感想文
p.355~

 すべて人間の研究と云うものは自己を研究するのである。天地と云い山川と云い日月と云い星辰と云うも皆自己の異名に過ぎぬ。自己を措いて他に研究すべき事項は誰人にも見出し得ぬ訳だ。
 もし人間が自己以外に飛び出す事が出来たら、飛び出す途端に自己はなくなってしまう。しかも自己の研究は自己以外に誰もしてくれる者はない。いくら仕てやりたくても、貰いたくても、出来ない相談である。
 それだから古来の豪傑はみんな自力で豪傑になった。人のお蔭で自己が分るくらいなら、自分の代理に牛肉を喰わして、堅いか柔かいか判断の出来る訳だ。朝に法を聴き、夕に道を聴き、梧前灯下に書巻を手にするのは皆この自証を挑撥するの方便の具に過ぎぬ。
 人の説く法のうち、他の弁ずる道のうち、乃至は五車にあまる蠧紙堆裏に自己が存在する所以がない。あれば自己の幽霊である。もっともある場合において幽霊は無霊より優るかも知れない。影を追えば本体に逢着する時がないとも限らぬ。多くの影は大抵本体を離れぬものだ。


p.410~

 しかし今の世の働きのあると云う人を拝見すると、嘘をついて人を釣る事と、先へ廻って馬の眼玉を抜く事と、虚勢を張って人をおどかす事と、鎌をかけて人を陥れる事よりほかに何も知らないようだ。
 中学などの少年輩までが見様見真似に、こうしなくては幅が利かないと心得違いをして、本来なら赤面してしかるべきのを得々と履行して未来の紳士だと思っている。これは働き手と云うのではない。ごろつき手と云うのである。
 吾輩も日本の猫だから多少の愛国心はある。こんな働き手を見るたびに撲ってやりたくなる。こんなものが一人でも殖えれば国家はそれだけ衰える訳である。こんな生徒のいる学校は、学校の恥辱であって、こんな人民のいる国家は国家の恥辱である。恥辱であるにも関らず、ごろごろ世間にごろついているのは心得がたいと思う。
 日本の人間は猫ほどの気概もないと見える。情ない事だ。こんなごろつき手に比べると主人などは遥かに上等な人間と云わなくてはならん。意気地のないところが上等なのである。無能なところが上等なのである。猪口才でないところが上等なのである。


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 これまで、『あらすじで読む日本の名著』を読んで、『吾輩は猫である』を読んだ気になっていました。教養人のふりをしたい、知ったかぶりをしたいという欲望の無意味さを思い知らされました。

市橋達也著 『逮捕されるまで 空白の2年7カ月の記録』

2011-02-05 00:15:18 | 読書感想文
 中身は読んでいない(読みたくもない)ので、Amazonのカスタマーレビューからの想像による感想です。

 市橋被告の波乱万丈の逃走劇は、追い詰められた人間の生の姿をそのまま示しており、見る者にある種の興奮を生じさせるものだと思います。人は平凡な日常生活を離れ、全国に指名手配された状況下で逃亡を続けることにより、その瞬間瞬間において、自らの生の実感を最も強く感じることができるのだとも思います。しかしながら、その生の実感は、「自分が奪った命の重さに押し潰される」という慙愧の念とは正反対に位置するものです。劇的な逃走の興奮のそもそもの原因に死が存在する限り、最後の部分は虚脱感に覆い尽くされなければならないはずです。
 市橋被告は、「自首できない弱さから逃走せざるを得なかった」と書いているようですが、これは結果論による自己欺瞞だと感じます。反省と謝罪の念に苛まれ、内心の葛藤に苦しんでいるならば、自首したほうが比較にならないほど楽なはずだからです。

 人間とは、ここまで苦しい思いをしても、しかるべき罰を受けたくない生き物なのか。人間という生き物は、このような厳しい生活に耐えてまでも、自らが犯したことに対する償いをしたくないものなのか。市橋被告が示した執念深さやしぶとさは、人間のある種の真実の姿を非常にわかりやすく示していると感じます。
 実際のところ、人として生まれた者が他の人を殺すという究極の経験ができたのであれば、他のどんなことも簡単にできるはずです。市橋被告がこの種の手記を発表するのであれば、それは「罰を受けたくない」「償いなどしたくない」という逃走の正当性を世に問う形でしか存在し得ないと思います。本来、人間の表現活動は、それを表現せざるを得ないという結論が先に立っているはずだからです。

 事件の日から逮捕までの2年7ヶ月間の空白は、市橋被告にとってのそれと、殺された側のそれとは意味が全く異なります。市橋被告の言うところの空白は、警察に追われた自分自身が不在の状況を鳥瞰した図式であり、巨大なスペクタクルです。他方、殺された側の空白は、生きて存在しているはずの人間の不在であり、その存在の空白に応じて、他者において場所を占めていた部分に生じる空白のことです。
 殺された側の空白は、死者が戻らない限り埋まるものではありませんが、それを埋めようとする人間の極限の心理は、「一刻も早く自首してほしい」という希望に至らざるを得ないものと思います。また、逃亡中の犯人の心情は、内心の葛藤の連続であってもらわなければ救われないと思います。そうでなければ、殺された者の命があまりに惨めだからです。しかしながら、このような極限的な心理は容易に共感できるものではなく、結局はドラマチックな逃走劇の面白さへの興味が場を占めるのも通常のことのようです。

 市橋被告は本の中で、印税を得てもそれを受け取る気持ちはなく、リンゼイさんの家族に受け取ってもらいたいと述べているようです。もし、このような申し出が正当に成立するのであれば、それは「奪った命の重さに押し潰される」という内心の苦悩の過程を丹念に追い求めたものでなければならならず、それ以外であれば、印税を稼いでも遺族には1円も渡さないという態度をとるのが筋のはずです。このような偽善性の上に金銭の授受がなされれば、悪貨が良貨を駆逐するという事態が生じざるを得ないと思います。
 市橋被告の裁判はこれから始まるところですが、公訴事実を認めている以上、法廷では謝罪の言葉を述べ、反省と謝罪の念を示すことになると予想されます。しかしながら、長期間の逃走において見せた執念に照らしてみれば、このような姿勢は筋を曲げていることになります。すなわち、多くの刑事裁判においてそうであるように、反省の弁を述べる者の心の奥底に反省の念はなく、保身に向けられた反省の弁が述べられることになるものと思います。