故郷へ恩返し

故郷を離れて早40年。私は、故郷に何かの恩返しをしたい。

台中に故郷の原風景

2014-07-18 05:25:04 | 思い出話

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10年前になるだろうか、台中に行ったことがある。
沖縄の泡盛酒造場の社長たちと10人のツアーであった。
那覇から30分で台北空港へ到着、さっそく台北のホテルのレストランへ
入って飲みだした。昼間から酒豪伝説の始まりであった。
バスで華中へ移動を始めた。
高速道路のサービスエリアで、「幸福の鳥」のためにいくらかの金を出して、囚われの鳥を逃がしてやった。なんのことはない、逃がした鳥は近くの枝に止まり飼い主の次の指示を待っていた。
その日は、明日の工場視察のために夜は勉強になった。
想定される質問の英語訳、返ってくるであろう答えの和文訳を繰り返し想定し、単語、特に科学用語を調べた。

翌早朝、湿気を感じる街中に散歩に出た。犬は自由に歩き回り、公園では老若男女が太極拳のような体操をしていた。雰囲気が記憶にある故郷の広島に似ていた。懐かしさのあまり、少し長く散歩をした。
酒豪たちは何でもなかったように、朝の食卓で屈託なく台湾を評していた。

世界に一つのプラント「超臨界CO2抽出設備」を見学した。玄米中に含まれた農薬と重金属を取り除く(90%除去)設備である。抽出用のベッセルに使われている鉄板は30mmであった。この設備の多くは、香水の抽出に使われるのである。説明をしてくれた設備の長は立派な博士であった。
苦労の連続の通訳が始まった。通訳は私一人。酒豪達は、魔法のようなプラントに興味津々であった。得意になって説明する博士は俄然のってきた。聞きなれない科学用語の連発。素朴な質問の連発に経済的な関心も混ざるのであった。そこまで聞くか、そんなに丁寧に難しく答えなくてもと思いながら大汗をかいた。私の狙いは、このプラントを泡盛協会に導入することであった。泡盛の原料はタイ米であり、破格の値段(国際価格)で輸入されていた。工業化が進むタイで作られる米の安全は、脅かされてきていた。一方、泡盛は国際ブランドで売られようとしていた。想定される泡盛輸入国の「食品原料の安全基準」が、日本より厳しいところが私の注目点であった。酒豪達は、大いに満足してプラントを後にした。

昼食は、農業地域である食材の宝庫の華中のレストランであった。出てくるものすべて珍しい料理ばかり。当然酒盛りは大いに盛り上がった。
窓越しの景色に、私の故郷の原風景があった。
夜には、食事のあと宮古名物「おとおり」がウイスキーで始まった。
注がれた酒を飲み干し、口上を述べるのであった。少なめの6人で始めたおとおりは、すでに5廻り目、3本目のウイスキーの瓶も底であった。

酔っぱらったように見えなかった泡盛協会の会長に部屋まで来いと言われ、付いていった。25億円のプラントを半分にしろ買ってやると言われた。飲みっぷりも良ければ、交渉も大胆であった。断ると、もう帰れとひどく怒らせてしまった。私は、若い馬鹿者であったのだ。翌朝は忘れておられた。
 

それから、10年この酒豪の皆さんと付き合わせていただいた。時には、新泡盛蒸留工場の設計段階で、アドバイスをした。機械も買っていただいた。後にも先にも一回きりのおとおりを経験した。 

2014年7月18日

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つれづれと

2014-07-17 01:05:01 | よもやま話

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なすこともなく、ひたすらに想いを巡らせる時間は楽しい。
何も急ぐことがない状態が好きなのである。
時間に追われる生活が続くこの頃である故に、貴重なひと時である。
40年来の友人から定年を迎えて契約社員になったと電話をもらった。
彼は、少し嬉しそうで悔しそうであった。

本当なら、故郷に帰って愛妻と仲睦まじく暮らしたいのである。
趣味のジャズを流しながら、酒を飲み友と語りたいのである。
もう少し、働くとのこと。子供が大学4年生なのである。
本当なら、どうでもよい(自分がやらなくても良い)仕事はしたくないのであろう。
できたら、故郷で働きたいであろう。彼の準備不足でもあるかもしれないし、本当にやりたいことは家族や友人の反対にあったのかもしれない。
私はすれば良いのにと言った。
長くはないのである。一秒たりとも惜しんで、自分のやりたいことをしたほうが良いのにと思う。そのうち、きっとやるだろう。その方へ向いているのだから。一人で飲んだ帰り道に私に電話してくれたのである。私が言わんとすることを知っているからかけて来たのだろう。

そよそよと風が流れていく。妻は満足したのか布団をかぶって寝ているようである。
明日も、自分なりにスケジュールが詰まっている。次のプレゼンテーションは何が良いのか考えてもいる。社員に伝える週一回のメッセージである。メッセージを伝え続けて4月が過ぎた。練りに練った独創的なメッセージの15分間が楽しい。私に与えられた「技術伝承」の貴重な時間なのである。定年後に転職した会社は、私のキャリアの中で4社目である。会社になじみ自分なりの力が発揮できるのは、3年くらいたってからである。隠すことは何もない。力一杯のプレゼンテーションを続けるのが少し苦しくて、大いに楽しい時間なのである。明日もきっと良いことがあるような気がする。

2014年7月16日

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Know-howは果てなし

2014-07-16 03:25:48 | プロジェクトエンジニアー

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Know-howを隠すことをやめて20年が経ちます。
大事なKnow-howです。会社のアイデンティティーを保つ手段です。
プロジェクトをやるたびに、考える密度と実施する精度は向上しました。
しかし落胆も大きくなる一方でした。常に知恵が足りないと思い続けてきました。
Know-howを積極的に外部に発信するように心がけるようになったのは、
隠す必要はないと思うようになったからです。PJが終了した途端、陳腐になるからです。
 

常に、新手法をPJに取り入れ続けるようになりました。
「あとから出てくるクレームの先取り」は出来ないものかと考えました。
あるPJでは、顧客の責任者が、社員全員(その当時は、30人)に10個/人ずつ 強制的にクレームを書かせて、PMである私にぶつけてきました。PJが終わった瞬間300個のクレームが来ました。
1月で50個まで減らしました。すると、同じ手法で300個上乗せされました。ひどい話だと思いました。
350個のクレームをあと10個くらいにするのに、前の1月と併せて6ケ月かかりました。私は、現場を離れることは できませんでした。このようなPJのクレーム処理は悲惨でした。24時間のうち、対処に可能な時間は 3Hr+3Hr+2Hr=8Hr/日でした。職人は、24Hr営業のサウナに宿泊していました。 私達は、2人で監督をまわしました。始めたら、仕舞うの繰り返しでした。製品が流れ続ける中での対処です。
 

どうして、顧客はこんな理不尽な仕打ちをするのか半年後に分かりました。
私達エンジニアリング会社を初めて使うその責任者は、猜疑心の塊でした。
私は、その時、「このお礼は倍返しにしてやる。」と心に誓ったものです。 同時に、どうしてクレームを予見できなかったのか悩みました。
また、紙(設計)の段階でクレームを予見できないものか工夫をすることを、心に誓いました。
 

基本構想時に、スコープ(顧客、ゼネコン、エンジニアリング会社の役割と責任)、建築、建築付帯設備と機械の共通基本設計事項の設定、スケジュール(設計、購買、建設)も密に練り上げました。そのための補助的な計算書、基本設計(ゾーニング、機器リスト、レイアウト、設備及び機器仕様書)に顧客のサインをもらいました。承認図にサインをもらうのも当然な成り行きです。
工夫を凝らした仕掛けの数々を埋め込みました。同意しやすい基本概念から始めて、ゼネコンをしばり 顧客をがんじがらめにしました。それでも、この顧客はクレームを出してくるだろうと予想しました。
FS時に、PJ予算をぎりぎりまでふかしました。顧客には、値切るしか能がありませんでした。
PJ内に隠し予算を作り、会社の上司にも明かしませんでした。気の利いたPMなら、ここまでは普通にやります。
 

私は、クレームのあぶり出しに医薬のバリデーションチームを使いました。
まず初めに、社員を集め次はどんな工場を作りたいかアンケートを取りました。 アンケートに真面目に分かりやすく答えました。
私は、現状のアイデア(知識)では今以上の考えが社員に生まれてこないと判断しました。
医薬までは行かないまでも、食品工場のさらに一歩進んだ衛生概念、省エネの理想的な工場を社員に描いてもらいました。
バリデーションチームのトップに、あるべき食品工場の構想をより医薬に近づけてプレゼンテーションをしてもらいました。
そして2回目のアンケートを取りました。驚くべき結果でした。理想的な食品工場を社員の方々が描いてくれました。
私は、感謝しながらそれにも真剣に答えました。
 

PJには、変更はつきものです。契約後も、顧客の望みは高くなるばかりです。金額に合わなくても、すべて受けました。
承認図の段階でも、顧客は勉強したものをぶつけてきました。すべて取り入れました。
機械業者に発注する直前にも、顧客に最後の望みを発言する機会を作りました。ホテルに全業者を呼び出し、顧客の最後の望みを飲んでもらいました。金額が出るものは、業者に支払の約束をしました。どう調整してもその時点で、数千万円(十数億円のPJ)は、予算オーバーでした。工事中も、望みを聞き続けました。その累積は、さらに跳ね上がっていました。併せて最初の金額の約2倍になっていました。
すべての望み(エンジニアリング業務連絡書)には、見積金額付きの顧客のサインがありました。闘う道具と仕掛けがそろってきました。着々と仕返しの機会を、私はうかがっていました。エンジニリングフィー10%(1億数千万円)の1/5を取り戻すチャンスです。追加金額は、当然払っていただきますよ。お客を脅し続けてきました。PJ終盤になると、そのプレッシャーは高まりました。
 

千載一遇のチャンスがめぐってきました。1月前倒しができると、商売上(売り出し時期が)都合がよいと、顧客は言われました。
私にはその準備もできていました。ゼネコンにどのように1月短縮させるかシナリオを告げ、シナリオ通りに発言してもらいました。
絞りに絞った契約金額の割り戻しを業者に発表しました。工期短縮による利益は徴収しないと告げました。顧客には、検査期間(のんびりと2月取っていました)短縮の
協力を要請しました。
条件は、1月短縮で追加金額はいただかないということでした。
すべての関係者のベクトルが合致しました。少々のことは、業者は飲みました。協力すれば、業者の懐に入る金は大きかったのです。
最後の最後まで顧客は望みを言い続けました。
私は、何度もチャンスをあげ、その上まだ言うかと言いながら最後の望みを受けました。その金額もいただきませんでした。
不思議なことが起こりました。顧客の責任者が、社員から上がってくるクレームを潰していました。「こんな恥ずかしいことは言えない。」とエンジニアリンング会社は、ずーっと前からそのクレームに対しすでに対処していて、対処はこうだと社員を説得していました。私は、悠遊と契約1月前に、現場をたたみました。1月分の現場経費とクレーム対処に組んでいた予算とMHも全額残りました。損失金額を大きくオーバーしていました。私はすでにエンジニアリング会社を退社していましたが、そのPJは会社から表彰されました。私は、次の会社からの契約社員として、PMをやっていました。200万円くらいの報奨金は、PJにはまったく関係のない私の上司と私と一緒に苦労した人たちが受け取りました。おまけに、件の顧客責任者と社長は、親会社の社長に私を推薦していました。私は、親会社の社長に手紙を書きました。「後からでてくるクレームの先取り」を訴えました。そのフレーズは、えらく受けたようでした。
 

今回のPJでは、まったく違う試みを実施しています。ボトルネック探しと称しています。設備ができても、使いこなせなければ何にもなりません。その設備を生かすための工夫(人員配置、作業員の教育、作るKnow-howの改善、ソフト(FA)の改善等)を社員と一緒に考えています。私がシミュレーションしたボトルネック例とヒントを出し続けています。設備を使いながら、リスクを最小にするための工夫を社員に作らせ続けているのです。何故、その作業が必要なのか説明するだけでなく、さらに高い意識で会社員生活を送るプレゼンテーションも加味しながら、知恵を絞っています。
私には、使う側と作る側の境はありません。どちらにも知恵を使う、研鑚する機会を提供し続けています。現会社に入る時に、描いた生きざまのほんの一部ができているような気がします。終わりも境もありませんね。
 

Nさんの疑問(作る側と使う側の立場の違い)に、自分が持てるKnow-howと工夫で答え、伝えることができました。
機会を与えてくださったNさんに感謝します。
 

2014年7月16日

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奥さんに興味

2014-07-07 10:05:18 | よもやま話

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先日、代々木で先輩といっぱいやった。
先輩曰く、「今、興味があるのは奥さん。」と言われた。
ぬけぬけと良く言われるものだと一瞬思ったが、
二人が話していたことは、老後の趣味とか設計についてだったので、あれっと思ったが、新鮮であった。予期した答えではなかったから。どうやら、惚れ直したとか色のあるものではなく、単純に良く話されるのだそうである。

ぬかみそ臭い古女房、ねじが一本ぬけたような旦那の話は良く聞く。どちらも骨董品である。件の先輩は、「どうして奥さんはそう思うのか」ということに興味があるらしい。

多くの女房は、「私の話を聞いていない。」という。疲れた体に酒がまわり、それどころではない多くの旦那の姿が目に浮かぶのである。子どもが育ち、仕事でも役を解かれてから、改めて奥さんに興味を持つことは、なかなかできることではない。
きっと、普段からコミュニケーションが取れて来たからそうなのである。

コミュニケーションの根本は、相手の気持ちになって、その人の価値基準を知ることにある。どうしてこの人はそう思うのか。そんな単純なことに、なぜ気づかなかったのだろう。良い営業マンは、相手の話をよく聞く人であるという。今からでも遅くはない。先輩に良い話を聞かせてもらったと、ふらつく足で家路についた。
 

2014年7月7日

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子どもは物知り

2014-07-04 01:00:30 | 思い出話

 

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S 様 

お仕事順調に運ばれている由、なお一層のご発展を期待しております。お忙しい中でも、いつも優しいおことばをかけていただきましてありが とうございます。 

文明の恩恵を受けるのは、後になってからであったが、子供たちは みんな外で暗くなるまで遊んでいました。夕方になると、あちこちで、 子供を呼ぶ声を聞いたように思う。私はこの時代は、好きです。
皆生き生きと遊んでいた。 

遊ぶだけでなく、今より大人たちと近かったような気がします。
大人のことをよく知っていた。家族で話す機会も圧倒的に今の時代 より、多かった。温めることも出来ないので、皆一緒に食べました。その時間も割と早かった。大人たちが話している内容を今より 理解できた。だから、子供たちは決して無理は言わなかったように思います。娯楽は、近所で凝縮されてあったように思います。どこかで死んだ、または結婚した場合、部落総出で手伝い、一緒に 悲しみ喜んだ。子供たちは、常に回りで飛び回っていたように 思います。あの時代の子供たちは栄養不足だったが、すごく丈夫でタフだった。子供の中には、しっかりと立ち位置が確保されており、居心地が良かった。いじめは、なかった。しっかりとしたガキ大将が いたから。子供たちは、お医者さんごっこをすることで、異性の 身体の構造は早くから、自主的に学んでいた。そしておおらかに裸になっていた。隠す必要もなかったし、隠せなかった。皆が裸でくらしているような感さえあった。生き生きとした子供たちの目は、くりくりしてよく動いた。興味津々であった。遊ぶことで成長できた。遊ぶことで、
子供社会を作り落ちこぼれなど出なかった。
あの時代に幼少年
 時代を過ごせて私は幸せでした。 

何もないほうが、天才を育むのかもしれません。 

無いことは、けっして悪いことではないのです。 

足りないぐらいが、ちょうど良いのかもしれません。
 

2014年7月4日

 

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