S 様
いつもお世話になっております。
ご多忙中にも関わらず、アクセスくださいましてありがとうございます。私たちは、実に豊かな幼年時代少年時代を過ごさせていただきました。関係者の皆さまに、熱くお礼申しあげます。保育所より、以前の記憶は誠に乏しいのです。保育所は2年間でした。後に小学校も共に過ごす仲間たちと一緒でした。
実に生き生きとした保育所の頃を過ごしました。
私の家は上のクラスの時に 全焼いたしました。
竹子(爺さん同志が兄弟)先生は、血相を変えて帰られました。燃えたのは、一軒下の我が家でした。私の家に帰ったら、仏壇が前の畑に出されたのみで他には何にも残っていませんでした。鍋釜までも。鶴市爺さんが、仏壇の前で呆然としていました。
私が悲しかったのは、集めためんこが焼けたことでした。私は、大人の機微が既にわかる子供でした。子供らしく「めんこ」というのがかわいいからと計算していました。牛5頭、馬1頭、鶏20羽、赤犬も2匹全て焼けていました。牛と馬は、近所の人たちにより、 山裾の竹が少し生えている赤松林の中に埋められました。その動物たちの死骸は、その夜のうちに心無い大人たちによって掘り返され持ち去られました。
私は、焼ける前の家を覚えています。縁側に座っていると、縁側の下で飼われていた鶏に足を突っつかれました。庭には、鮮やかな色の、赤い色、黄色のかんながたくさん自生していました。松類はありませんでした。杉とザクロの樹は焼け残りました。今でも生えています。牛たちは、納屋(大きかった)に飼われていました。当時、親父はバクロウもしておりました。着物の袖の中で、指を握り合って値段交渉をしたそうです。親父は小金持ちだったと思います。その頃です。お袋が、肥えたごを担いで女の家に乗り込んだのは。
焼けた原因は麦の脱穀機の原動機(エンジン)から出た火の粉が、麦わらに引火したからです。大きなはずみ車がついた手で回して始動させると、「けっちん(重みで逆転)」のくるヤンマー製のあれです。家の周りに積まれた麦藁の山に次から次に燃え移ったと思います。麦の収穫も最後のほうでした。手の施しようが無かったと思います。まったく何にも残っていませんでした。消火の後の黒くただれた、まだくすぶる柱の色は忘れられません。
兄(10歳、8歳上)、姉(6歳上)達は、良い時代を知っていました。兄が、馬に乗って得意な顔をしている写真を見たことがあります。裕福な農家だったのです。
だから、お袋は、島内では名門のK家から嫁いできたのです。
すべてが、灰になりました。両親は、爺さん、婆さんは、片づけながら何と思ったでしょう。悔しかったでしょう。情け無かったでしょう。
私たちは出家(でえ)の納屋で暮らし始めました。納屋と言っても一軒家です。 何にもない部屋で寝泊まりを始めました。瀬戸で洗い物をしていたのも覚えています。台所はありませんでした。小学校2年生までそこで暮らしました。すぐ上のため池で、大きな鯉が田んぼに撒いた農薬(エンドリン)で死んだことがありました。煮て食べたと覚えています。かわいそうとは思いませんでした。人生ですから。
小さい頃は、遊びの名人でした。何も否定することはありませんでした。自我がめざめ、自分を律するようになってから面白くなくなったように思います。大人への入口に入ってからです。苦悩が始まりました。幼年から少年、そして青年へと向かう度に、苦悩は深くなっていきました。自分に向き合った長い期間を経て、解放されたように思います。
S様、お付き合いくださりありがとうございました。
今後とも、ご指導のほどよろしくお願いいたします。
2014年7月3日