故郷へ恩返し

故郷を離れて早40年。私は、故郷に何かの恩返しをしたい。

遊びの天才

2014-07-04 00:22:16 | 思い出話

 

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S 様

 いつもお世話になっております。

皆さまに好かれてなおいっそうご活躍のお姿を拝見するにつけ、お見事の賛辞を送る次第です。

子供たちは、皆遊びの天才でした。

春夏秋冬、年齢に応じ、晴れか雨かによって、遊びのアレンジをさまざまに変えて遊んでいました。共通して言えることは、親から用事を言いつけられない程度に距離をとって遊ぶこと。ここにいるよと知らせながら遊ぶことでした。

だから、遊んでいる子たちを上から見ると、見えたり隠れたり、声がしたり、しなかったりでした。

まず、春。野山に当然出かけます。鳥や昆虫が巣作りを始める頃です。遊んでいる 途中で小便をしたくなります。男の子は便利なものでホースを取り出せば何処でも可能です。男の子は、あし長蜂の巣にめがけて発射しました。終わりの頃、チクッと痛みが走りました。蜂の反撃があったのです。みるみるうちに、男の子のホースは肥大化し、コーラ瓶のごとく腫れあがりました。もう歩くことも、おしっこをすることも出来なくなりました。
当然、涙が大勢流れて来ます。親にも言えず、ヨモギの汁でも直せないつらい1週間でした。

夏は海、野山と何処でも遊びの山です。遊び呆けたつけは、夏休みの終わりにいつ もやって来ました。来年こそは、早めにやろうと反省するのでした。その翌年も同じ反省を繰り返すのです。夏休みになると、朝から晩まで、遊びのスケジュールで男の子の頭はいっぱいに なりました。
海も干潮と満潮では、遊びが変わります。
満潮が朝からだと、ガキどもは、堤防から飛び込みをします。小さい子は、海までの階段の途中から飛び込みます。歓声と達成感は同じくらい大きいのです。干潮。持ってきた塩をマテ貝の穴に落とします。潮が満ちてきたと間違えたマテ貝 がにょきにょきと出て来ます。男の子は待ち切れず掴んでしまいます。ああマテ貝の力が勝り逃げました。次の穴で挑戦。男の子の息使いは、激しくなります。今度は充分出きりました。手ごたえ充分で引き抜きます。
あわてて引き抜いたため、「ちんぼ」が逃げてしまい
ました。
そうして男の子は三度目にしてやっとまともなマテ貝を捕まえるのでした。
泳ぎを覚えたての男の子は、渕の存在を知らなかったのです。大きい子について行きました。突然海底が消えました。あがけども誰も笑ってとりあってくれません。
たんと海水を飲んだ頃やっと大きな子が渡してくれた竹につかまって命拾いするのでした。泳ぎを少し覚えた男の子は、いつものように渕で遊んで
いました。いつも
と様子が違います。岸側に近寄れないのです。誰も回りにいません。引き潮だったのです。 どんどん岸から離れて行きます。必死で足をばたつかせました。さらに離れて行きました。悪戦苦闘の末、男の子は岸に向かって斜めに泳ぐことを始めました。500m離れた場所で岸に 戻れました。
ひとつ賢くなりました。命がけの習得でした。

はい蝉をとり、蚊帳の中に放し、夜中まで眠い目をこすりながら、待ちました。やっと出て きた青白い羽がきれいでした。男の子はつい触ってしまいました。朝には、羽の縮れた蝉が いました。
 
煙草蔵が煙をはき始めました。煙草の葉の乾燥が始まりました。芋を置き火の中に入れ、待ちました。昼間遊んで疲れがでたのか、男の子は、おとうさんの膝の中に子犬のように寝てしまいました。夜中に目を覚ました男の子は、どす黒い顔をした赤鬼の夢を見ました。お父さんの顔が近くにありました。

秋。男の子は、大きな子にくっついて遊んでいました。のどが渇いてきました。近くに絶好の甘柿の木があります。子供たちは、手と足を使って昇り始めました。男の子も昇りました。柿の枝はもろいのでした。知らなった男の子は、手を放した瞬間、枝が折れました。お尻から7m落ちました。息ができませんでした。

うして、いろんなことを男の子は、覚えていくのでした

冬、大きな子が、素敵な弓矢を作りました。両方に分かれて戦争が始まりました。実際に打ちあっていました。男の子も逃げ回っていました。それは興奮しました。あれーえ、男の子に矢が命中しました。矢は先がとがっていました。頭に突き刺さりました。血が出て来ました。大きな男の子は、ヨモギをとって来て 揉み始めました。ヨモギの絞り汁を男の子の傷口に塗り始めました。万能薬のヨモギです。男の子の痛みはとまりません。我慢しても涙がつぎから次と出て来ます。大きな声は 出せません。大きな子が、「泣き止まなかったら、もう遊んでやらんぞ。」と言いました。男の子の涙は止まりました。
歯を食いしばっていました。
 

 こうして、男の子は成長して行きました。どんなことがあっても対処できる悪がきになって行ったのです。子どもの頃は無尽蔵にエネルギーが湧いて来たように覚えています。

 寝てしまえば、痛かったことも叱られたこともすべて忘れて、夢中になってまた悪さをするのでした。懲りない面々とは、子供達のことをさすのではないでしょうか。時には、一人で空想の世界に浸り、ある時は大勢で悪乗りしてとんでもないことをやらかすのでした。そしていつもきっちりとげんこつを食らうのでした。痛みは寝ればいつも回復しました。心の痛みさえも。
 
そんな幼少年時代が誰にもありました。遠い昔のことでしょうか。

 2014年7月4日

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自我のめざめ

2014-07-03 07:01:28 | 思い出話

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S 様 

いつもお世話になっております。 

ご多忙中にも関わらず、アクセスくださいましてありがとうございます。私たちは、実に豊かな幼年時代少年時代を過ごさせていただきました。関係者の皆さまに、熱くお礼申しあげます。保育所より、以前の記憶は誠に乏しいのです。保育所は2年間でした。後に小学校も共に過ごす仲間たちと一緒でした。 

実に生き生きとした保育所の頃を過ごしました。

私の家は上のクラスの時に
 全焼いたしました。 

竹子(爺さん同志が兄弟)先生は、血相を変えて帰られました。燃えたのは、一軒下の我が家でした。私の家に帰ったら、仏壇が前の畑に出されたのみで他には何にも残っていませんでした。鍋釜までも。鶴市爺さんが、仏壇の前で呆然としていました。

私が悲しかったのは、集めためんこが焼けたことでした。私は、大人の機微が既にわかる子供でした。子供らしく「めんこ」というのがかわいいからと計算していました。5頭、馬1頭、鶏20羽、赤犬も2匹全て焼けていました。牛と馬は、近所の人たちにより、 山裾の竹が少し生えている赤松林の中に埋められました。その動物たちの死骸は、その夜のうちに心無い大人たちによって掘り返され持ち去られました。

私は、焼ける前の家を覚えています。縁側に座っていると、縁側の下で飼われていた鶏に足を突っつかれました。庭には、鮮やかな色の、赤い色、黄色のかんながたくさん自生していました。松類はありませんでした。
杉とザクロの樹は焼け残りました。今でも生えています。牛たちは、納屋(大きかった)に飼われていました。当時、親父はバクロウもしておりました。着物の袖の中で、指を握り合って値段交渉をしたそうです。親父は小金持ちだったと思います。その頃です。お袋が、肥えたごを担いで女の家に乗り込んだのは。

焼けた原因は麦の脱穀機の原動機(エンジン)から出た火の粉が、麦わらに引火したからです。大きなはずみ車がついた手で回して始動させると、「けっちん(重みで逆転)」のくるヤンマー製のあれです。家の周りに積まれた麦藁の山に次から次に燃え移ったと思います。麦の収穫も最後のほうでした。手の施しようが無かったと思います。まったく何にも残っていませんでした。消火の後の黒くただれた、まだくすぶる柱の色は忘れられません。 

兄(10歳、8歳上)、姉(6歳上)達は、良い時代を知っていました。兄が、馬に乗って得意な顔をしている写真を見たことがあります。裕福な農家だったのです。
 
だから、お袋は、島内では名門のK家から嫁いできたのです。 

すべてが、灰になりました。両親は、爺さん、婆さんは、片づけながら何と思ったでしょう。悔しかったでしょう。情け無かったでしょう。
 

私たちは出家(でえ)の納屋で暮らし始めました。納屋と言っても一軒家です。 何にもない部屋で寝泊まりを始めました。瀬戸で洗い物をしていたのも覚えています。台所はありませんでした。小学校2年生までそこで暮らしました。すぐ上のため池で、大きな鯉が田んぼに撒いた農薬(エンドリン)で死んだことがありました。煮て食べたと覚えています。かわいそうとは思いませんでした。人生ですから。
 

小さい頃は、遊びの名人でした。何も否定することはありませんでした。自我がめざめ、自分を律するようになってから面白くなくなったように思います。大人への入口に入ってからです。苦悩が始まりました。幼年から少年、そして青年へと向かう度に、苦悩は深くなっていきました。自分に向き合った長い期間を経て、解放されたように思います。
 

S様、お付き合いくださりありがとうございました。 

今後とも、ご指導のほどよろしくお願いいたします。
 

2014年7月3日 

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ドイツ、ブランシュワイク

2014-07-02 20:41:33 | 思い出話

 

   

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S 様 

おしごとが順調に進んでいること、お慶び申し上げます。 

さて今回は、Braunschweig in Germany について手記を
 
お届けいたします。 

Hanover airport から約一時間ハイウェイを東ドイツ方面に走る 

とその街はあります。1、000年昔よりある教会が街中にあります。中心街を抜ける河はやがてエルベ河(あるいはラインか)に合流します。古都、京都のような風情です。街中を走るのは、広島でも走っている電車であり、トラムと呼ばれる架電式バスも良く見ます。約300,000人が住む都市です。フオルクスワーゲンの工場が近くにあります。Hanover から西に行くと風車ばかり並んでいます。ドイツの人は風車を指してUglyと表現されます。
 
いつも泊まるホテルはMovenpickでした。屋根裏部屋みたいな部屋が好き 

でした。太陽光も入り夜には星も見えます。ここには、プール付きのサウナがあります。 皆さん裸ではいられます。中で男と女がこんにちはとなります。最初はびっくりしましたが、なれれば何でもありません。自然ですから。駅裏にビール工場があります。このビール工場は、世界的なビール会社インベブに一度買収されました。再度買い戻されました。 Braunschweigの人たちは、こよなくこのビールを愛されます。私も大好きなビールです。 

夜は、友人たちとディナーに行きます。1プレート(皿の上に全ての料理が乗っている)なので皆さん大いに悩まれます。日本のように、シェアーする習慣は無いので真剣です。ジャガイモはいろんな場面で出て来ます。2,000種類あるそうです。私は、ジャガイモと小麦粉を併せてニョッキ(パスタ)みたいにゆで上げたのが好きです。ザワークラウト(キャベツの発酵品に豚肉など混ぜて煮たもの)も家庭料理として有名ですね。この地方の人は、北の大きな人と南の小さい人(日本人くらい)の混ざり合った地域です。ホテルは、いろいろなタイプがあり、買い物をして自分で料理をするスタイルもあります。大きな部屋に2つベッドがあり、キッチンもあります。
8,000円/部屋(複数人Ok)くらいです。少し郊外に出ると、冬には、兎、山鳥、猪の料理が食べられます。臭いを消すために濃いめの味付けです。ビールに良く合います。
よく話、良く歌い、実に良く飲まれます。仕事の話より、愉快な話をされることが 多いようです。
夏には仕事が終わったあと、皆さん自宅庭で仲間を集めてバーベキューです。
 

9時頃まで明るいのです。ランニングしたり、テニスをしたりして楽しんでいます。
 
ドイツの娘さんは早熟です。お父さんは12歳頃から夜な夜なあそびに出る娘にはらはらしています。バーベキューでも良く歌います。もちろんアカペラで。カラオケもありますが、日本語のカラオケはありませんでした。 

会社は、Brauschweig の西の端にありました。昔は、タンク(戦 

車)を作っていたそうです。第二次大戦では相当爆撃されたそうです。 

昔から使われていた赤いれんが壁が残されています。そんな場所に10回は訪ねました。 皆さん、私の顔と名前を良くしっておられます。良くしてくれました。 

 

ドイツは、ほとんどの都市が30万人くらいの人口です。企業誘致も盛んです。なにしろ、通勤時間がどの都市でも車で30分前後です。1500時間/年の労働協定を
Unionが頑なに後押しをし、すべての人が享受されています。
私の見る範囲では、子供達は早く自立します。パラサイトのような若者は少ないように思いました。大人になるのが早く、独立心の高い国民性のように見えました。物静かで、ユーモアがあり、仕事より家庭を第一に考えるような人たちなのです。いつか訪ねる機会を作りたい国です。
 

今宵もありがとうございました。まだ、宵の口です。楽しんでいってください。
 

2014年7月2日

 

 

 

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世紀の開発

2014-07-02 06:27:57 | プロジェクトエンジニアー

 

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S 様

 本日は梅雨の一休み、晴日となりました。

約30年前のことになりますか。
東広島にいたころの話です。


私は、その頃ある機械の開発をしておりました。

S様は、もみ殻(稲籾の外側の殻です。)をご存じですか。

もみ殻は、ケイ素を多く含み、害虫から稲を守る大事な物質です。

その籾殻は硬く、腐りにくく全国で牛舎の敷き藁か燃やして、田畑の肥料にするくらいしか使い道はありませんでした。

日本国中で、約200万トンの籾殻が発生します。


その当時勤めておりました会社は、住金物産のプラスチック事業部と組み、籾殻の工業原料化を目指しておりました。

私は、一人だけのチームでその籾殻圧縮擂潰機(らいかいき)を開発しておりました。

1億円の予算がつきました。機械の開発を担当しておりました。

実験プラントの製造、機械の設計及び試作、実験担当、海外での試運転指導を担当しておりました。


主たる売り先は、ホンダ自動車、日産自動車及び日本の主な樹脂製造企業でした。

籾殻は13%のケイ素(ガラスの主成分)を含んでおります。外皮はセルロースで構成されており、強力にリグニンで守られています。

セルロースを取り出すためには、リグニンを破壊しなければなりません。リグニンを外すには200に熱しなければなりません。エクストルーダー(押出し機)で粉砕圧縮します。

10トン車で籾殻を運ぶと、籾殻は見かけ比重が0.1トン/m3と低いため、1トンしか運べません。粉砕圧縮すると約6トン運べます。

日本の高名な特殊鋼メーカー(日立金属、大同特殊鋼、住友金属、日本碍子等々)に依頼し、開発製造した耐摩耗特殊鋼を使い機械の心臓部のスクリュー(100万円/本)を製造しました。

しかし、どの特殊鋼を使って実験を重ねても、200時間で摩耗してしまいました。数々のトライアルを重ねた結果、ロストワックス法で製造される精密鋳造品の耐摩耗スクリュー(3,000/本)を使う方法を発見しました。

限定される摩耗部にその部品を使うことにしました。マツダの車に使われている(エンジンの気化器に使用される弁)耐摩耗ピース(日本碍子製)を応用して、スクリューを製造したこともあります。

耐熱、耐摩耗には優れていましたが靭性がなく実験で使ったスクリュー(30万円/本)はわずか17秒でクラッシュしました。靭性が弱いという弱点を設計力でカバーできなかったのです。


籾殻を圧縮擂潰機で粉砕したのち取れる100メッシュアンダー(小麦粉くらいの
大きさ)の工業原料で、プラスチック(40%籾殻紛含有)を作ることに成功しました。ホンダ、日産では籾殻と同色のダッシュボードに使いました。

残りの30メッシュオーバー(粉砕した鰹節位の大きさ)は、座席中に使われている従来のヤシがらに代わって使われるようになりました。コストは、従来品に比較し1/3です。

開発に2年を費やしました。滋賀県高月、秋田県大曲、韓国釜山の近くに機械を導入し、粉砕を始めました。全て私が立ち上げました。後にはフィリピンやマレーシアにも導入されました。


この機械は、エクストルーダーの周りに16KWのヒーターを入れて、もみ殻のリグニンを破壊するため熱を加えます。その余熱で機械内に残ったもみ殻残渣が燃焼(線香が燃えるがごとく)し、約600度(鉄の変態点)近くまで高温になるため、残った籾殻は燃え始めます。運転後機械内は良く掃除をしたから燃えたことは一度もありませんでした。取り出した籾殻残渣に水をかけて保管しました。その籾殻残渣を入れた容器が何度か火災を起こしました。線香の残り火が再燃焼したのでした

火災を起こしたことにより、私は3度減俸になりました。大曲では20台の消防車が来ました。


苦労の結果、やっとものになりました。33歳でした。私は誇らしかったのでした。

ある夜、かみさんに自慢の機械を見せるため、皆が退社した夜10時頃、かみさんを実験プラントに招待しました。

まだ小さい子供をおぶって大きい子の手を引いて、かみさんはやって来ました。

機械を運転しました。順調に動いています。ポコポコとドーナツ状の粉砕物をだしているではありませんか。


かみさんは、「ふん。私帰るね。」5秒もいませんでした。


確かに眠いかもしれないけど、私が苦労してやっと開発した機械です。

もっと感動するとか、せめて良くわからないけどすごいね、くらいは言って欲しかった。
絶対、2度とみせてやらないと強く誓ったのでした。

S様、説明を長々とした割には、つまらない落ちでした。良くここまでついてきていただけました。

ありがとうございました。


やはり、「ふん。」でしょうか。


今後とも、ご指導のほどよろしくおねがいいたします。
本日はこれで失礼します。お忙しいのにつまんないネタで失礼しました。

省エネ等リサイクルの話題にはことかかないこの頃です。
約30年前に挑戦した、農業から膨大に出る産業副産物の工業原料化は、面白い取組でした。当時の会社が1億円投入した意気込みが理解できます。まさに「無から有」の具現化でした。


「着眼は大きく、改良作業は小さいことから」の貴重な一例でした。

2014年7月2日

 

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