故郷へ恩返し

故郷を離れて早40年。私は、故郷に何かの恩返しをしたい。

これからの人へ

2021-11-02 05:07:07 | よもやま話

絵のタイトルは、「新横浜夕暮れ」です。
闇夜に光を探す毎日でした。
それしかなかった。


今日のタイトルは、「これからの人へ」です。
漠然として、簡単なテーマではありません。
これからの人と言うと、40代より下の方々を想像しがちです。
私の転機となった40歳の話をします。

40歳にして迷わず。
何がやりたい。
得意はなにか。
私の場合は、「これしかない」でした。
「これしかない」はプロジェクトエンジニアーの仕事でした。
ニッチ(隙間産業の仕事)を追い続けたというしかない。

運よく、常にマイナー(その会社の本流ではない)の仕事に関わることが出来ました。
会社内では解決策が見つからず、常に外部の知恵を借らざるを得ない分野でした。
仕事が先、技術(解決策)はあとからついてくると言った具合です。
英語が話せなくてもよい。熱意が伝われば外国の方は協力してくれました。
得意なんて必要ない。何がなんでも解決策を見出すことが仕事でした。
だから、やれる仕事に就けばよい。お金なんて、後からついてくる。

転職組に、その会社の不得意がまわってくる。
なんとかすれば、次に本流の仕事に着ける。
管理職に着く前に、リストラされ転職しました。
会社内では部下なしの一匹オオカミでしたし、生涯現役を続けることが出来ました。

あなたは何がやりたいですか。
社内でも社外でも、地域でも家庭内でも見つかったとしたら、それはあなたにしかできないことです。
動機もプロセスもすべてオリジナルだからです。
あなたにしかできないことをやり続けてください。
続ければ、いつしか得意になっています。
人間国宝のおっちゃん達も、最初は使い走りです。

2021年11月2日

<<簡単なプロフィール>>
興味があれば、読んでください。
米に関する会社が最初の会社です。
第二次構造改善事業を国が決めて、ライスセンターとカントリーエレベーターが各地にできました。
プラント建設の受注はひっきりなしで、新入社員の私にプロジェクトマネージャーを任されました。
その後、技術部に移り大型の籾乾燥機の仕事につき、籾殻圧縮擂潰機開発のマネージャーをしました。
大手の鉄鋼会社と組み、籾殻を工業原料(自動車会社にプラスチック用粉原料、その他)として売りました。
籾殻はケイ素を多く含みやっかいな素材でした。
エクストルーダーのスクリューは摩耗が激しく、日本の名だたる素材メーカーと共同開発しました。

34歳で外資系の製粉機械メーカーのサービスエンジニアーとして転職しました。
バブルがはじける数年前で、空前の投資ブームでした。
入社1年後には、総額18億円の製粉機械の据え付けコーディネーターを任されました。
据え付け担当会社は、製粉工場(ミックス工場)は初めてでした。
預けられた500万円を有効に使い、工事期間中に正しく据え付ける指導をする。
設計ミスも現場でカバーする。
ソフトを作成したイギリスの会社と連絡を取り、日本製ハードでシステムを構築する。
英語が話せなくても、食らいつくように解決するしかなかった。
サービスワークを逸脱したプロジェクトエンジニアーの仕事でした。

1年かけて、転職の準備をしました。
飼料工場のエンジニアーを探していたエンジニアリング会社に39歳で入れました。
飼料工場をいくつか造りました。
大手のコンビニエンスストアーの麺専用工場とパン専用工場建設に関わりました。
大手飲料会社のユーティリティー監視システムを作り、飲料会社が抱える困りごとを解決しました。
日本で初めての空気搬送を使った大型精米工場のプロジェクトマネージャーをしました。
エンジニアリング会社は石油系で、食品分野はマイナーな仕事でした。
社内に食品分野の専門家はいなくて、外部から入った私に、新規のプロジェクトが任されました。

49歳で、エンジニアリング会社をリストラされて、外資系会社に出戻りました。
まさかのリストラで驚きました。
精米工場のプロジェクトは、エンジニアリング会社に在籍しながら出向で受注しました。
精米工場建設(設計・据え付け・試運転)は、外資系会社のスタッフで実施されました。
戻ったらクレーム処理担当でした。10人いた精米担当はすべて解雇され、辞職しました。
2年間で6億円を使い、協力会社とクレームを納めました。
本社(スイス)と交渉するため、3語英語が得意になりました。
その後、精米・ビール・製粉の営業を任されました。
営業の時から、完成後(営業運転、利益算出)のイメージを持って売り込みました。
現在動いている機械(自社・他社)の点検を無償でやりました。
客先の無駄な投資を防ぐためです。
プロジェクトエンジニアーは営業に向かない。
それを逆手にとった営業展開でした。
ただ、技術者は話6分聞く4分(営業は聞くが主で、客先の情報入手)で困りものでした。

パン専用工場を受注のためエンジニアリング会社に出戻るも、2年でまたリストラされました。
リストラするなら、来いと言うなよと思いました。4度目の転職でした。
リストラ後に、自分がプロジェクトマネージャ―を担当したパン専用工場で働きました。
5度目の転職でした。
エンジニアリング会社ぬきで、担当会社の技術者と工場の改善工事のプロジェクトをしました。
そこもやめ、6度目の転職で地域おこし協力隊に応募し、隊員期間中にカフェを開店しました。
7度目の転職で続けたカフェを、5年やりましたが今年6月に閉店し、故郷に移住します。
もう、仕事はしないつもりです。

読んでくださって、ありがとうございました。
(筆者)
コメント
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