豆の絵である。
スランプなんてありはしない。
只々、下手なだけである。
健康でご飯が食べられる。
雨露をしのげる温かいねぐらがある。
おまけに仕事がある。
こんな良いことはない。
今日のタイトルは、「思えば贅沢」です。
カフェでお任せ料理を出している。
考えてみれば、お客様も勇気がある。
何を食べさせられるのか分らぬのに料金を決められている。
素人が始めたカフェである。
私は、料理の経験がない。
自宅でも冷蔵庫にあるものを片っ端から使って、ままよと味付けをして出している。
まずいと評判であった。
今は、妻に手ほどきを受けて料理を作っている。
一からの指導を受けている。
カフェの中で自らできることは、洗い物と掃除くらいである。
これまでの生活を考えると、妻の指導は厳しいと言える。
これまでとは、過去の仕事のことである。
多くの職人を使って仕事をするプロジェクトマネージャーであった。
勤めていた会社が大きくて、任されただけのことである。
本業の石油プラントでは使えぬから、やらされただけのことである。
一人では、手に職もなく生きてはいけなかった。
人の褌で生きてきたのである。
ここに来てからは、汗を流しているから身体は丈夫になるばかりである。
知らないことばかりで、頭を使うから呆けずにいられる。
「もらいなれ」した根性が、身体に染みついている。
慣れないことに疲れてしまい、苦労するごとに不満をいう。
こんな私でも相手にしてくれる方がいる。
ちょっとだけ線路(役割)を外れたら、もう生きていけない。
仕事縁だけで生きてきた。いわゆる仕事馬鹿でした。
地縁血縁が、この歳になってクローズアップされてきた。
独力で生きてきたと勘違いしていた。
永年のつけ(世間知らず)が回ってきただけである。
贅肉はそぎ落とされた。
反省もなしに、またついてきた。
気づかされるだけ幸せである。
馬鹿でなかったから改善できている。
一歩前進、二歩後退のような毎日である。
これでは遅れるばかりと、頑張っている。
そんな姿を笑顔で応援してくれる人がいる。
バッカじゃないと思うけど、捨て置けぬと思ってくれてるのである。
ありがたいです。
水ぬるみ 我も我もと 雑草も
2019年3月18日