楽しんでこそ人生!ー「たった一度の人生 ほんとうに生かさなかったら人間生まれてきた甲斐がないじゃないか」山本有三

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天翁院(旧日光街道・奥州街道を歩く 51)

2016年06月30日 05時01分37秒 | ひとり歩き旅
旧日光街道上に「天翁院」の看板はあるが参道先にお寺が見えない。

(「祇園山 天翁院」の参道)


参道を進むと、国道四号線の向こう側に「曹洞宗 天翁院」の門柱が見える。
門柱の反対側に禅宗らしく「不許葷酒入山門」(葷酒山門に入るを許さず)の石柱がある。
「不浄なものや心をみだす者は寺門内に入ることを許さない(広辞苑)」という意味。

(国道四号線上の曹洞宗天翁院の門柱)

(不許葷酒入山門の石柱)


門を入ると、右手に古い本堂らしき建物があり、
中央の扁額があった部分の扁額が取り外されている。

その先に「天翁院のコウヤマキ」(天然記念物)についての説明板が建っている
小山市教育委員会の説明をかいつまんで記すと、
(コウヤマキは古来、防火樹として社寺に多く植えられてきた。
 天翁院の本堂も、文化五年(1808)野火により類焼し、
その後、現在地に建てられた。
このコウヤマキは類焼した本堂と現在の本堂の間にあり、
防火樹として植えられたものと考えられる。
樹齢400年以上と考えられる。)とある。

(樹齢400年のコウヤマキ)

(類焼後建てられた古い本堂?)

(奥へ続く参道にはみ出すコウヤマキ)


しかし、この本堂を右に見て、さらに奥の正面に真新しい本堂がみえる。
この新しさはいつ出来上がったのだろうか・・・・

(奥に見える真新しい本堂)

(本堂)

(本堂)

(文字が見えない本堂の扁額)


扁額の文字が消えていて見えない。古い本堂にかかっていたものらしい。

天翁院を出て、四号線を越え、県道265号線の旧日光街道に戻り、
旧日光街道をおよそ2km進む。
この先の喜沢の追分に建っていたと言われる、古い道標を兼ねた地蔵尊。
天翁院寮跡地蔵尊がこのあたりの左手にある筈なのが、見当たらない。
キョロキョロしていると、
路地から年頃60歳くらいのオジサンが出てきたので、
資料をお見せしながらお訊ねする。

「このあたりに天翁院の道標を兼ねたお地蔵さんをご存じありませんか?」
しばらく地図を見ていて、
「この先にお墓がありましたでしょう、多分其処です。」と、
言いながら歩き出した。
「この先です、ほらあそこにお堂が見えるでしょ、あれです。」
そう言ったかと思うと、資料を返してくれて、さっさと引き返していった。
「ありがとうございます、お出かけ先とは反対のほうまで案内いただきまして」
とお礼を述べて、内心は、資料ではお堂の中にあるように書かれていないので、
違っていそうと思いながら、それでも念のため、
道路より奥まったところにあるお堂のあるほうに向かった。
資料が出来た後に、お堂が建立され中に安置されると云うこともあろうかと・・・

(奥まったところにあるお堂)


中を覗いたがそれらしいお地蔵さんは居ない。
資料の中の写真では、畑の真っただ中に建っている様に見える立像である。

資料の説明によると、
(かって喜沢の追分にあったと言われる享保3年(1718)の地蔵尊(道標)です。
「右へ奥州海道、左へ日光海道」とあり、
正徳6年(1716)「海道」の文字使用を禁止した幕府の触れが、
徹底していないことが解る貴重なもの)とある。

正徳6年(1716)4月のお触書とは、
東海道は海の端を歩くから東海道で、中山道は山の中を
歩くから中山道とし、中仙道としない。

同じ御触書に、奥州・日光・甲州道中ついて、
「これは海端を通り不申候間 海道とは申し間敷候」とあり、
(これは海の端を通り申さず候あいだ、海道とは申しまじく候)と読み、
(これは海の端を通らないから、海道とは申しません)の意。

とあり、奥州・日光・甲州海道でなく、奥州・日光・甲州道中
と呼ぶのが正しいことがわかります。

脱線したが、この堂の周りを改めて眺めてみると、
資料に出ているお地蔵さんに似たお地蔵さんが、
沢山の石造群の中にあるではないか。

近づいて製作年を調べると、確かに(享保3年)と見え、
正面の文字を見ると(中央に念仏供養、左右に、右へ奥州海道、左へ日光海道)と刻んである。
やっと見つけたので胸をなで下ろし、
先ほどのオジサンを少しでも疑ったことが恥ずかしくなった。

(お地蔵様のいる石造群、右手が該当のお地蔵さま)

(お地蔵様の台石「享保三戊戊三月吉日」の文字が読める)

(正面の「右へ奥州海道、左へ日光海道」の文字)


古い道標を兼ねた地蔵尊を後にして、旧日光道中を進むと、
左に「村社 日枝神社」の石柱が見える。
天翁院と同じように、旧日光街道(親しみやすい街道の名で書くことにする)から、
国道四号線まで参道は続いている。
参道には古木のケヤキが植えられているが、樹齢400年はくだらないと、
小山市教育委員会が伝えている。

(村社 日枝神社の石柱)

(参道と古木のケヤキ)


およそ200mの参道の先に国道四号線があり、
その先に鳥居があり、神殿がある。

(日枝神社の鳥居と神殿)

(日枝神社の神殿)


(江戸時代には山王と言われ、参道には小山市指定文化財のケヤキがあり、
神社を中心とした付近は、中世の小山城(祇園城)の北の守りとしての
支城の役割を果たしていた。
社殿裏には土塁が築かれている。)(小山市教育委員会)

社殿横の土塁の上には明治45年(1912)まで追分にあった、
道標を兼ねた「男体山」碑がある。
道標として「男體山」の文字の下に(右奥州、左日光)が読める。

(土塁の上の男體山碑)

(道標としての男體山碑)


この道標について、「男体山碑由来」の興味深い説明板が、
地元の有志により建てられているので紹介したい。

(男体山碑由来の説明文)


原文のまま、
(男体山碑由来 天保六歳三月
東都角觗年寄柏戸宗五郎門人下野国
鹿沼傍玉田村産歌ヶ浜斧吉力士
二荒山神大願成就 日光壬生喜沢有志補助
喜沢分岐点碑建立したる
ここより日光行を恐れた人達によって
倒されては建て倒されこと七十年
村人深く憂いて明治44年当神社境内移転したるなり)とある。

(男体山由来碑 天保六年三月
東京の相撲の年寄り柏戸宗五郎の門人で、
下野の国鹿沼近くの玉田村出身力士 歌ヶ浜斧吉は、
二荒山神社に願を掛け、大願成就したので、
日光壬生喜沢の有志の補助を得て、
喜沢分岐点に道標となる「男體山」碑を建立した。
これにより日光行を恐れた人達によって倒されては建て、
倒されては建てして、
倒されること70年村人はこれを深く憂いて、
明治44年当神社境内に移転したものである。)
筆者の勝手な解釈です。

ここで理解しにくいのは、
壬生方面からの日光行きを誘導する碑は不適切と、
土地の人たちは考えていた、だからこの方面からの日光行を恐れた、
と言うことになるのだが・・・・
よく解らない、詳しい方教えてください。

元の旧日光街道に戻り、進むと喜沢の追分交差点に出る。
左は鹿沼、直進は宇都宮と案内看板が見える。

(喜沢追分の交差点)



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10 コメント

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hide-san さん へ (iina)
2016-06-30 09:14:14
天翁院を「てんおういん」と読むと思ったら「てんのういん」でした。

道標「男體山」の扱いにいきさつがあったように、hide-sanさんがお探しのお地蔵さまも変転した歴史があったのですね。

「猫の手下」の猫牛の写真は、偶然か必然化判断できませんが貴重なワンショットでした。^^

返信する
こんばんは (ytakei4)
2016-06-30 20:48:39
酒とニラ、ニンニクなどの匂いのするものは
山門に入るなという意味では?
返信する
iinaさんコメントありがとうございます (hide-san)
2016-07-01 10:30:30
一字づつ区切れば「てんおういん」で、
続けて発音すると「てんのういん」になります。

語学上の問題でしょうね。
返信する
ytakei4さん コメントありがとうございます (hide-san)
2016-07-01 10:32:53
ありがとうございました、早速訂正しました。

転じて、「不浄なものや心をみだす者は寺門内に入ることを許さない」と言う意味のようです。
返信する
今晩は~♪ (鉄ちゃん爺や)
2016-07-01 19:37:52
関東には江戸時代や古いものでは鎌倉時代の
板碑などに古い年号が残ってますね。

関西では卒塔婆や墓石など古いはずなのに
風雨に曝されて読めないものが多いですかな。

大阪では文化文政時代より古い物はほとんど
読めない形になってしまってます。

関西では砂岩で作られた物が多いからかもしれませんね。

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鉄ちゃん爺やさん コメントありがとうございます。 (hide-san)
2016-07-01 20:44:41
急に暑くなりました。
暑さは30℃を越して、極端すぎますね。

とりあえず一週間ほど猛暑が続くと予報士はうそぶいています。

体力のない年寄りが命を落としやすくなります。
返信する
道標を兼ねた地蔵尊 (更家)
2016-07-02 22:28:13
道標を兼ねた地蔵尊は、親切なオジサンに聞かなければ、案内書だけでは分からずじまいでしたね。

奥まったお堂の周りの分かり難い石造群の中にあったということは、元の場所から移されたのでしょうね。
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海道 (Komoyo Mikomoti)
2016-07-07 22:17:30
道標1つ探すのも大変ですね。

昔の人は、漢字の使い方がおおらかですね。
中山道にしても、今でも中仙道という書き方は残っているし、結局はおふれは徹底しなかったのでしょうね。
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更家さん コメントありがとうございます (hide-san)
2016-07-09 11:49:04
昔あった場所から移動したため、解り難かったですね。
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Komoyo Mikomotiさん コメントありがとうございます。 (hide-san)
2016-07-09 11:55:21
文字の使い方を決めたのは、確か新井白石だったと思います。

こんなお触れはなかなか徹底しないでしょうね。
昔は、関東では名主、関東以外は庄屋を通じて通達が出たようですから。
それから高札に出して、読んでもらう、中には読めない人もいて、それには読み聞かせをしたようですが、
高札を見に来るまでは、知らずに済んでしましますから。
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